現実:歴史 『周』 建国前 <邰→戎狄→南山→豳→岐山> 「堯-舜」-「后稷」 「古公亶父」-「太伯」・「虞仲」・「季歴」 - 「周」と号すまで -
中国古代の王朝「周」(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
国姓は姫。殷を倒して王朝を開いた、殷に続く王朝。
伝説上の祖を中国の農業の神として信仰されている后稷 (こうしょく) という。
▼「堯 舜」:夏王朝以前の帝
さて、周王朝の話の前に時代を遥か遡って
殷(商)以前の夏王朝のさらに以前の帝の話をしなくてはならない。
当時はまだ世襲は行われておらず、禅譲
(中国古代に唱えだされた王朝交代の2つの型の内の1つ『禅譲』は,1王朝1代の事である。
そもそも中国の君主は,天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。
これは前の王が天命の下りた天下の最有徳者に平和的に王位を譲るという理想型で,
禅も「ゆずる」の意。
コレに対し『放伐』は,世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命。
王朝の姓も易 (か) わるので易性革命ともいう。
端的に言えば
天命を受けたとされる有徳者に平和的に政権を譲り渡すのが禅譲で,
武力に訴えて政権を奪取するのが放伐である。
なお漢以後の王朝革命では,形式的に禅譲に似せるものが少くなかった。)
により帝位は受け継がれていたとされる。
とは言え、実際には親子兄弟の間で継承されたとも言われますが。
帝「堯」は名君として名高く帝「堯」の時代は、
娘婿の帝「舜」と共に「堯舜時代」と呼ばれ、
「堯舜(堯&舜)」と言われ、並び称されています。
●帝「堯」は『史記』「五帝本紀」によれば、嚳の次子として生まれ、
嚳の後を継いだ兄の死後、帝となったとされる。
「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。
羲和、羲仲、羲叔、和仲に命じ、天文を観察して暦を作らせた。
一年を366日とし、3年に1度閏月をおいたとされる。
「堯」には「丹朱」と言う息子がいたが、皆が「虞舜(舜)」を跡継ぎに挙げた。
彼は性質がよくない父と継母、義弟に囲まれながら、
彼らが悪に陥らないよう導いていると皆が言ったのだ。
堯はこれに興味を示し、試しに二人の娘を嫁した。
それから民と官吏を3年間治めさせたところ、
功績が著しかったため舜に譲位することにした。
舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。
その際、舜の願いにより、「驩兜」、「共工」、「鯀」、「三苗」と言う一族を
中原の四方に追放した、とある。
彼らは後に四凶(こちらは帝のダメ息子たちが恐ろしい悪神に変わったもの)
と同様に古代中国で恐れられた悪神たち「四罪」として呼ばれるようになる。
それから20年後に完全に政治を引退し、さらに8年たって死んだ。
その際の伝承であるが、
「天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。
3年の喪があけてから、舜は堯の息子「丹朱」を天子に擁立しようとしたが、
諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が帝位に即位した」
とある。
●「舜」は顓頊の7代子孫とされる。
中国,古代神話・伝説上の天子で太陽神でもある。
彼は母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、
父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。
だが舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、
名声が高まり堯の元にもうわさが届いたのだ。
堯は舜の人格を見極めるために、
娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。
舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、
また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。
異世界チートハーレムの萌芽である。
そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、
舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。
舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。
それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、
その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。
舜は横穴を掘って脱出した。
この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。
そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。
それから20年後、堯は舜に禅譲した。
帝位についた舜は洪水を治めるために
後に古代中国最初の世襲王朝となる、夏王朝の創始者「禹」を採用し、
禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、
その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。
なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
こうして舜の後に、「禹」が帝位を継いだのだが、
彼以降禅譲は行われることはなく、此処から中国の王朝が始まったと言う。
(元々「禹」は姓は姒と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。)
なおその際の伝承であるが、
「舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。
3年の喪があけてから、禹は舜の息子「商均」を天子に擁立しようとしたが、
諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に、やむなく禹が即位した」
とある。
何処かで聞いた話である。
・この「堯」、「舜」、「禹」の3代は儒家によって、
禅譲による帝の交代がなされた理想的な世であったとされている。
なお、尭・舜・禹の交替は禅譲であり,
夏・殷・周の交替は放伐とされる。
さて、理想的な世である禅譲による帝の交代を止めたのは誰か?
禹は帝位に就いて十年、東方へ巡狩している最中に会稽の地で崩御します。
禹は天下を益に譲ろうとしますが、
三年の服喪後、益は禹の子である啓に帝位を譲り、箕山の北に移り住みます。
もしや堯や舜と同じ展開になるのではと思われたこの後、意外な展開を見せます。
啓は賢く、益が帝位を受けなかったこともあり、諸侯は「我々の主君は帝禹の子である」と宣言し、
益の元を立ち去って啓の元へ参じます。
益の政治経験が少なかったのも原因とされています。
このため啓は夏后、すなわち天子となり、
これによって一族で天子の地位が継承される夏王朝が始まり、禅譲は禹の時で最後となるのです。
・また、文字から紐解くと堯舜は固有の人物の名前というより
名詞・品詞といってもいいでしょう。
●堯=「土が三つ+兀(人の足)」
丘の様に高い人を表しています。
つまり孔子「論語」の堯を表す言葉として二度も「巍々乎」といっているのは
高い山のようだといっているのは、単に偉大なる偉人。
太古の偉大なる王を差している言葉と考えていいでしょう
●舜=「炎+舛(人の足裏の形)」
俊敏な人。「舜は重瞳子なり、項羽もまた重瞳子なり」といっていることから
俊敏で目ざとい人とも取れます。
▼始祖「后稷」:棄子説話
ようやく本題に入るが、『史記』周本紀によれば、
夏王朝以前の帝「嚳(舜)」の元妃(正妃)であった「姜原」が、
野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠し、1年して子を産んだとある。
母「姜 原」は有邰氏の娘で炎帝の後裔で「姜」姓なので、
姜原の姜は姓です。原は字といわれています。
「姜原」はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、
林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、
氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした為
「弃」と名づけられたとある。(弃は棄と同じ意味の字)
なお、弃は岐頤(頭の骨が隆起している様子)の異相だったといいます。
* 後の日本にも、厄年、病後、初生児の早死など「親」の悪い条件の感染を恐れて、
産まれた子を捨てる形で他人に拾ってもらい、
それを仮のオヤにたてて命名を依頼し、
さらにはその後も交際を持続して、
拾い上げた子ののちのちの生活の「後見」にも任じてもらう
「拾い親」なる習俗があるのは何か関係があるのだろうか?
「弃」は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて
少年時代に麻や大豆などをよく栽培し、成人した後には農民たちに農業技術を教えました。
時の帝「堯」はこれを聞きとりたてた。
(舜が堯に推挙したため、弃は農正(農業を担当する官)を統率することになったとも)故に、
次の帝「舜」にも仕えることとなった。
こうして尭のあとを継いだ舜帝は,先の記述のように義父にかわって「禹」に治水を命じた。
ところで、なぜこの「禹」に命じたかであるが、
そもそも帝堯の治世において黄河の氾濫が止まなかったため、
堯は誰かに治水をさせようと考えていた。
この時、皆が口をそろえて「鯀」にやらせるべきだと言った。
鯀の父は五帝の一人である帝顓頊である。
堯は鯀を用いるべきでないと言って渋ったが、
それでも臣下達が鯀より賢い者はいないと言ったので、
堯は後継者のひとりとして推薦された鯀に治水を任せた。
しかし、9年やっても氾濫は収まらなかったので、
堯は鯀に代えて舜を登用した。
帝位についた舜は洪水を治めるために
鯀のした治水の様子を視察していたところ、
治水に失敗したため舜によって羽山に幽閉されていたはずの
鯀が羽山で死んでいた。
人々は、舜が帝位を奪うため罠にかけ鯀を殺したのではないかと疑ったので、
舜は慌てて鯀の遺児である禹に鯀の事業を引き継がせた。
こうしてこの時「禹」は「益」や「后稷」といった
同僚たちとともに仕事に取組み、十三年もの間、家にも帰らず、
たまたま家の前を通るようなことがあっても、中には入らなかったといいます。
こうして天下を経めぐって水を導き農業などの産業を整備したのだ。
その後后稷は農師、また后稷の官(后は君、稷は五穀で、農事を司る長官:農官の長)の位もつとめ、
邰に封ぜられたことから「后稷」と号し、帝「嚳(舜)」の姓である「姫」氏を名乗ります。
なお、益は『漢書』などでは、動物たちの話す言葉が理解でき、
鳥や獣たちを素直に従わせることが出来たという描写があり、
帝舜と帝禹に仕え、伯益、柏益、伯翳、大費とも呼ばれた。
益は禹の治水をよく助け、
舜が禹に玄圭という赤黒い圭(四角錐のような玉)を賜ったとき、
「私でなくよく費が助けてくれたのです。」と言上した。
そこで舜はと皁游(黒い旗)を賜った。その後もよく舜を助けた。
舜は姚姓の女を与え妻とさせ、鳥獣を司らせた。
鳥獣は皆順服した。この時費(伯益)は嬴姓を授かった。
子供には大廉若木がおり、
いずれも鳥と縁のある一族であると伝えられている。
また、伯益の末裔にあたる子孫たちが趙や秦王朝の王族になった、とも伝説では語られている
『山海経』大荒西経によると、帝「嚳」
(王国維によれば帝「嚳」の説話は、帝「舜」の説話と類似している為、
帝「舜(夋)」は帝「嚳」の異名とみなす説が有力)の子とされる。
后稷の死後は、跡を継いだ子の「不窋」が立ちました。
この不窋の末年、夏后氏の政治が衰え、后稷の官が廃され農業が廃れます。
『史記・周本紀』はこれを帝「太康」の時代に当たるとしていますが、
不窋の代になるまでに何代か存在するはずなので、恐らくもっと後のことだと思われます。
官を失った「不窋」は戎狄の地に出奔しました。
堯や舜以降は「禹」により夏王朝が建国されたと言われています。
ただ、禹の業績は治水のみで、それ以外はほとんど語られていません。
*王朝とは君主制であり且つその君主の家系に連続性が見られるものと定義され、
堯 や舜など五帝の時代を「王朝」とする事は無い。
彼らは「世襲」ではなく「禅譲」によって君主となっている為であう。
斯くして時代は降る。
▼「古公亶父」:古公亶父より3代(計4代)「三つの運命が 歴史になる___」
同じ血筋を持つ各3人によって乗り継がれる100年3世代に渡るストーリー
時代は降り殷(商)の御代の事である。
もともとは周王朝の「姫」一族は陝西または山西の奥にいた部族とみられるが,
当時、商の武乙が暴虐だったため、犬戎等が辺境を侵すようになり、
周王朝初代「武王」の曾祖父「古公亶父 (ここうたんぽ) 」のとき、
異民族:犬戎 (けんじゅう) の圧迫による侵略から逃れるため、
彼の一族が治めていたとされる漆や沮という川のほとりにあった邑である豳の地から、
一族を連れて後の周王朝の都の付近である渭水盆地にのぞむ岐山の麓に逃れたとされる。
(周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。
あるいは太公とも呼ばれ、孫である文王が呂尚の事を
『(祖父である)太公が望んだ人だ』として「太公望」と呼んだ逸話で有名)
この地を周原といい、こうして新たな邑が作られます。
ようやくここから国号を「周」と号しました。
ここで子の「季歴」から孫の西伯「昌」 (→文王) 、
そして曾孫の「武王」の3代で体制を整備したのだ。
なお詩経の大雅の緜編には、古公亶父が姜族の妻と共に岐山の麓へやってきたこと、
住むべき洞窟すらない岐山の麓で古公が一から国を建国する様子、
その後の繁栄などがうたわれている。
その後、商王室と親交を結び、息子の季歴に王室から嫁をもらう
(列女伝では、摯の任氏の娘で王室の娘ではない)。
その嫁と季歴の息子が後の文王である。
古公には季歴の他に太伯と虞仲という長男と次男がいたが、
古公が「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば季歴の子、
我が孫『昌』(文王の諱)であろうか」と予言したので、
弟の季歴に位を継がせるために太伯と虞仲は出奔したため古公亶父の死後、季歴が跡を継いだ。
なお長男太伯は、呉(句呉)の祖とされる。
▼「太伯と虞仲」:『呉』と『虞』の二か国の祖
古公亶父には長子・「太伯」、次子・「虞仲」、末子・「季歴」がいた。
季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、
古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、
「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!」とは言わず
季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。
(昌(文王)が父より優れた子だとは思ったかもしれぬが。)
むしろラオウとトキなのか?
後になって周の者が二人を迎えに来たが、
二人は髪を切り全身に刺青を彫って、
(当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは
文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。)
自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
●呉の成立
こうして呉は、中国の周王朝の祖 古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、
次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国なのである。
その後後を継いだ虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。
紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。
なお国姓は周王朝と同じくの姫である。
斯くして太伯は句呉と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、
その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。
これにより「太伯」・「虞仲」は『呉』と『虞』の二か国の祖となった。
●呉の興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、
名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い滅亡寸前まで追いつめた。
しかし新興の越王允常に攻め込まれ楚から撤退した。
これを恨んだ闔閭は允常の子で後を継いだ勾践と戦うも闔閭は重傷を負い、
子の夫差に復讐を誓わせ没する。
夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。
勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、
中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。
紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。
勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、
宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。
ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。
今、天により越に呉が授けられようとしているのです。
何をつまらない情を起こしているのですか、つまらない男ですね」
と言われ、和議を蹴った。
それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、
夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
なお、夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れず、
勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、
部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。
この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。
また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
▼周王朝 建国:
こうして、周は初め渭水盆地にあって殷の支配を受けたが,
武王が前1050年ころ、殷を滅ぼして中原に進出、
鎬京(後の長安。現,西安市近郊)に都し,
殷の神権政治より脱して封建制度をしき,多くの諸侯国を分封することになるのだ。
「禹」 夏王朝の祖
「益」 秦王朝の祖
「后稷」 周王朝の祖