現実:歴史、文化 「六十干支」又は「十干十二支」或いは単に「干支(えと)」(殷の王位継承)
★十干十二支:
起源は商(殷)代の中国に遡る。日・月・年のそれぞれに充てられ、
60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。
干は幹・肝と、支は枝・肢と同源。
中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、
年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられ、
陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。
古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。
『史記』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子」とも呼称した。
「十干」は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、
「十二支」は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、
これらを合わせて干支と呼ぶ。
また春秋戦国時代に、
自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、
干支も五行と結びつけられるようになった。
幹(干)と枝(支)に喩えて「干支」と呼ばれるようになったのは後漢代からである。
故に月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。
ただ、十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、
陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。
年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、
戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。
……その時代ではそれら事件や即位はキリがないからであろうか?
この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、
次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。
十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、
文献における初出は後漢代からである。
また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」とされたのも漢代であり、
これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。
方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。
また生命消長の循環過程とする説もあるが、
これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、
同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。
鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。
▼『十干』五陰五陽 又は 天干:
木火土金水の五行を陰陽に配して、
「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」とし、
十日一旬のような十進法の計数に用いました。
十干の「干」は木の幹が語源で、
甲、乙、丙、
丁、戊、己、
庚、辛、壬、癸
の漢字であらわします。
この十干を五行[木]、[火]、[土]、[金]、[水]にあてはめ、
それに陽をあらわす兄と陰をあらわす弟を順に組み合わせ次のようによびました。
甲(木の兄=きのえ)
乙(木の弟=きのと)
丙(火の兄=ひのえ)
丁(火の弟=ひのと)
戊(土の兄=つちのえ)
己(土の弟=つちのと)
庚(金の兄=かのえ)
辛(金の弟=かのと)
壬(水の兄=みずのえ)
癸(水の弟=みずのと)
▼『十二支』六陰六陽 又は 地支:
「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「酉」「戌」「亥」
の十二字でもって、一年十二ヶ月の順を示しました。
後これに鼠牛虎兎竜蛇馬羊猿鶏犬猪の十二種の動物をあてたものです。
十二支の「支」は幹の枝をあらわしています。
また、古代中国では天空の方角を12に分け、
それぞれの方角の記号として動物の名をつけたという説があります。
子(ね、し)、丑(うし、ちゅう)、寅(とら、いん)、
卯(う、ぼう)、辰(たつ、しん)、巳(み、し)、
午(うま、ご)、未(ひつじ、び)、申(さる、しん)、
酉(とり、ゆう)、戌(いぬ、じゅつ)、亥(ゐ、がい)
をいいます。
この十二支も
五行[木]、[火]、[土]、[金]、[水]にあてはめます。
十二支 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
五 行 水土木木土火火土金金土水
▼『干支』六十干支 又は 十干十二支:
この「十干」と「十二支」を組み合わせていくと60種の組み合わせができます。
これを「六十干支」または「十干十二支」または単に「干支」といいます。
甲子→乙丑と順に進み、
壬戌→癸亥で一巡して
最初の甲子にもどります。
一巡には日にあてはめると60日、年にあてはめると60年かかることになります。
10と12の最小公倍数は60なので、故に干支は60回で一周する。
干支には、すべての組合せのうちの半数しかない。
例えば、一覧01~60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。
これは、10と12に共通の約数2があるので、
干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。
さて、60歳を迎えた人を祝う習わしに「還暦」がありますが、
これは「十干十二支」がもとになっています。
60年たつと生まれた年の干支にもどるということからです。
赤いチャンチャンコを贈るのは、
もう一度生まれ変わって出直すという意味があります。
赤色は赤子の意味だともいわれています。
ただ日本では「干支」を「えと」と呼んで、
ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指すことが多いが、
「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、
「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」
「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、
厳密には二重に誤りである。
★十干:10個の太陽、殷王朝の10氏族
中国の王朝は「夏」王朝から始まりますが、
文字で裏付けがなされた最初の王朝は「殷(商)」です。
司馬遷は殷の帝位継承が親子・兄弟で行われたと解釈し、これを系図にしている。
しかし、亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、
必ずしも実子相続が行われていたわけではないことが判明した。
帝名や継承順序は伝承通りであったが、
親子・兄弟関係はまったく違っていたのである。
殷は氏族共同体の連合体であり、
殷帝室は二つ以上の氏族からなっていたと考えられている。
干支はすでに商(殷)代に現れており、
殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。
甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、
祖王の名を「祖甲」「父丁」など、
その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、
十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える。
●10個の太陽の神話:
天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、
その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。
この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。
ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。
地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。
このことに困惑した帝堯に対して、
天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。
羿は、帝堯を助け、
初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。
そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。
これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。
上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、
山海経の伝える10個の太陽の神話は、
殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、
羿により9個の太陽が射落されるのは、
一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
●殷王朝の失われた10氏族:
そもそも殷(商)は、太陽崇拝にも熱心で、
10個の太陽(甲、乙、丙、丁、と10の名前が与えられ、これは、王の諡にもなりました。
そして10個の太陽=10日を旬と呼んでいたのです)が地中から順に顔を出すと考えていました。
1か月を月の公転、1年を地球の公転とする太陰太陽暦が用いられていましたが、
農作業に欠かせない暦の策定(正朔を定めること)は、
権力者の特権であり、権威の象徴であったと考えられています。
殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、
不規則ではあるが、原則として
「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、
定期的に王を交替していたとする。
それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、
臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。
これが、十干の起源であろう。
なお、「丙」は早い時期に消滅した。
★十二支:殷の甲骨文で日付を記録
干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。
十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。
戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。
戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、
天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、
この名称には十二支が当てられた。
西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出した
(ただし7という数字は天体から)が、
古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、
十干という順序符号をつけた。
甲骨文には「卜旬」があり、
これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。
10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、
十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、
干支による紀日は古代から連綿と続いており、
古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
▼九星方位学:三伝(大歳、月建、日辰)
大歳・月建・日辰というのは十二支と方位が深く関わっています。
・太歳とは、その年のエネルギーの集まる方位、つまり年の十二支の方位である。
・月建とは、その月のエネルギーの集まる方位、つまり月の十二支の方位である。
・日辰とは、その日のエネルギーの集まる方位、つまり日の十二支の方位である。
●太歳:木星の鏡像となる仮想の惑星。古代中国の天文暦学において設けられた。
実は、木星は天球上を西から東に約12年で1周する。
そのため木星は、天球を赤道沿いに12等分した十二次を約1年に1次進むことになり、
木星の十二次の位置で年を記述することが可能であった。
十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、
しかし、十二次は西から東に天球を分割したもので、
地上の方位(十二支)と方向と合致した十二辰の方向と順序に対しては逆方向である。
このため紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく
天球上の円軌道に直径を引き、その直径を基準に木星と線対称の位置にあり、
木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る東から西へ移動する仮想の星を設定した。
これが「太歳」である。
こうして「太歳在子(太歳が子にある年)」というように、
太歳の十二辰上の位置で年を記述する太歳紀年法が用いられるようになった。
これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。
もっとも後にはこの太歳とは関係なく機械的に60年1周(十二支部分は12年1周)で
年を記述する干支紀年法へと発展することになるのだが。
なお太歳を決める直径の位置は暦法により異なっている。
これは木星の公転周期が正確には11.862年であるため、
木星の天球上の位置は約86年で1次(太歳は1辰)ずれ、
改暦の際にそれを調整したからである。
かくして漢の三統暦ではこれを調整する超辰法を暦法に盛り込んだのだ。
●月建:
また、12という数が1年の月数と同じであることから、
月を表すのにも用いられるようになった。
これを「月建」といい、建子の月は冬至を含む月、
すなわち夏暦の11月、周暦の正月である周正に置かれた。
さらに、時刻(十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。
正午(昼の12時)、正子(夜の12時)、子午線(南北を結ぶ線: 経線)、
卯酉線(東西を結ぶ線: 局所的に緯線と一致するが厳密には両者は別のもの)の称はこれに由来する。
●日辰:
西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出した
(ただし7という数字は天体から)が、
古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、
十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬」があり、
これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。
10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、
十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
▼十二の動物:
各十二支は十二の動物でもある。
元々十二支は順序を表す記号であって動物とは本来は関係なく、
後から割り振られたものという立場からはこの動物を十二生肖と呼ぶ。
十二支と十二獣がいつから結びつけられたのかは不明であるが、
1975年に湖北省雲夢睡虎地の秦代の墓から出土した竹簡には
既に現在のように動物が配当されている様子が伺われる。
日本では十二支という言葉自体で十二の動物を指すことが多い。
なぜ動物と組み合わせられたかについては、
人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)や、
バビロニア天文学の十二宮が後から伝播してきて十二支と結びついたという説がある。
もともと動物を表していたという説では、
バビロニアの十二宮が十二支そのものの起源だという説の他、諸説がある。
後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、
これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。
また十二支の各文字の原意は不明である。
一説に草木の成長における各相を象徴したものとされるがこれは漢代の字音による解釈説である
(『漢書』律暦志)。
ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、
干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。
日本の風習である年賀状などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、
下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる。