現実:歴史 『商』の語源 (殷)
▼商とは? :殷(商)の落人は、交易の商売人に転ずる。 - 商業の語源 -
商という言葉は、戦前までは商売に良く使われ、
現在では大阪の商人だけに使われる言葉になってしまいましたが、
元々は「商」の字には「あきない」の意味はありませんでした。
この字は乱暴に説明すれば
「高台の上にある家(山の手、山手とも)に住む人」であり、
転じて「高貴な人達。王家。」を示した字だとか。
なお、戦後、商の言葉はビジネスと取って代わった。
また一説に商の意味は、
古代中国で収穫した農作物を秋に織物などの交換を行なうことから
「秋なふ」となり、「商い」となったとも言うようです。
さて、かつて古代中国大陸に「殷」と呼ばれる王朝がありました。
日本では「史記」の巻名が「殷本記」であることから
通常これを「殷」と呼びますが、
其れに対し現代中国では「殷」の事を「商」と呼んでいます。
基本中国の王朝名は、
王朝の首都の地名か創始者の勢力の中心地や
最初に王に封じられた地名から
国号が取られる事が多いルールがあるのです。
故に始祖の契が封じられた地(殷の後半の都)が「商」であったため
この王朝は「商」を自称していました。
「高貴な人達。王家。」だったんですね。
現在確認されている最古の王朝「商」ですが殷(商)滅亡後は、
国を失った「商」の遺民は各地に離散しました。
商人という言葉は、この商(殷)人が国の滅亡した後
定住できる耕作地を得られなかった「商」の人々は
売買する事で生計を立てるために、
生業として各地を渡り歩き、物品の売買や交易に携わるようになり
物を売っていたことに由来するとされるのです。
つまり店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた
そんな彼らを人は「あれは商の人間だ」「商人だ」と呼んだことから
「商人」という言葉は生まれ、
そこから転じて、その商の人の業を
商業と呼ぶようになったとも言われています。
元々殷王朝は、農耕を奨励しただけでなく、
手工業や青銅器の生産をも奨励していたので、
農作物と手工業の品々の交換の場として市場を設け、
貝殻を貨幣にし、功績のあった者に代償として物品(手工業品や青銅器など)
を与えることを国の政策として行なっていました。
また中国の歴代の王朝が黄河のほとりに都を構えたが、
殷墟は黄河から北に離れたところにある。
これはそれはそもそも西アジアとの貿易のためと考えられているのです。
故に殷の人々は各地に散らばった後も各地で行商を行い、生計を立てていけたのでしょう。
ただし、日本の漢文学者・ 東洋学者、立命館大学名誉教授の白川静は
「商に商業・商賈の意があるのは、
亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、
商には賞の意があり、代償・償贖のために賞が行なわれるようになり、
のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」
と否定している。
つまり、「商」は商いを表すだけではなく、
物を買い求める行為や別のものを代償として手に入れる「賞」の意味も含まれている。
すなわち、現代の商取引の原始的な行為の「賞」だ、と言う事です。
この中国の伝説からの商の話ですが、
殷王朝を設立した民族は、
元来内モンゴル自冶区のオルドス地方にいた農耕と遊牧生活をしていた翟人、
即ち狄ではないかと言われています。
この翟人は遊牧をしていた関係上、行動範囲が広く、結果貿易を担ったため
メソポタミアから流れてきた青銅器を逸早く取り入れていたのではないでしょうか。
これにより馬の飼育、荷車-車輪/車軸(青銅器)、馬具(青銅器)の製造を可能とし
馬曳き戦車を得るにいたったのでは?
そして、農耕の増産とそれに伴い、手工業の発展、
さらには青銅器の生産と時代が流れていく中で、
農作物と手工業品との交換や青銅器の交換に伴う商いを生活の糧にするような人々が
増えていったのではないかと思われます。
こうして、中国の殷王朝の時代に原始的な農・工・商の経済形態が確立し、
富の裕福層が形成され、
先祖崇拝を基本にした階級制度を取り入れた周王朝が誕生してきたのではないでしょうか。
とは言え、そもそも『殷』とは何かご存知でない方もいらっしゃるのでは
ないでしょうか?
▼殷周易姓革命:
古代の夏・殷・周の王朝を中国では三代とも呼び、
これらは同グループ内での政権交代が行われたに過ぎないようです。
そもそも殷社会の基本単位は※邑と呼ばれる氏族ごとの集落で、
数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた為、
殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、
方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって
次第に専制的な性格を帯びていったと言う。
※邑:西周および春秋時代初期の城壁で囲まれた都市国家。また、諸侯の封土をさす。
中国の史書に記された最古の王朝:「夏」は
紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃の間、14世17代、471年間続いたが
王朝としては殷に滅ぼされた。
かくして前1550年、殷の湯王が、夏の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた
(このような武力による政権交代を、放伐という)。
都は河南省の二里崗遺跡の城郭がそれに当たると考えられている。
以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。
もっともこの殷も紀元前1000年頃、諸侯のひとつであった周に王朝を滅ぼされ、
王家は700年の歴史を閉じます。
このときの様子を史記「殷本記」はこう伝えています。
殷の第31代帝辛・紂王は天性すぐれた才能と体力の持ち主だったが、
女神女媧の怒りをかい、派遣された妲己を寵愛するようになると酒色に溺れ、
言われるままに悪行を重ねた。
「史記」殷本紀の「酒を以て池となし、肉を懸けて林となす」から
酒池肉林で有名なエピソードはこのときのものです。
(なお、よく誤解されているのですが、
上記中見て分かる通り女性に対しての関与などはないのである)
斯くして度重なる戦争、重税、浪費により国は乱れ、
政治は腐敗を極め、諸侯の不満が高まっていた。
コレに対し周の文王は天命を受けたとして殷との決戦に備え力を蓄え、
西方の諸侯や羌などの異民族を結集した。
なお、その具体的な動機とは「封神演義」によれば例の「ハンバーグ」のようだが。
だとすればメディア王国及びペルシア王国の将軍ハルパゴスと同じ動機である。
ただし、それに書かれている内容と、歴史書では違う部分がかなりありますが。
この文王亡き後、意志を受け継いだ子の武王は、
のちに牧野の戦いと呼ばれる決戦で多勢に優る殷軍を撃破、
敗北を悟った紂王は火の中に身を投じた。
この史実の殷周易姓革命を舞台に
元の歴史小説『武王伐紂平話』をもとにして
中国明代に成立したのが
上記の神怪小説(古典神怪小説)『封神演義』がある。
ただ元々後世の為政者は自国の成り立ちを正当化するために、
前王朝を貶めるのはどこにでも見られますし、
作家も話を面白おかしく話を盛るので
したがってこれらの記述も幾分割り引いて考える必要がありそうです。
例えば、殷では女性は巫女として政治に参加し、
戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、
飲酒は神事でありました。
すると妲己娘々が悪女の代名詞のように記述されるのもの
殷と周の価値観の相違から生まれた疑いもあります。
(生贄大好き殷の生贄癖は良くありませんが)
●殷の文化
殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。
後の周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、
殷代に比べればかなり低い評価となっている。
この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。
器には占卜の結果を鋳込んである。
これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。
殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。
殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、
祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。
これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、
諸侯には時に王室から下賜されることがあった。
時代は下り、春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも
青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。
建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。
投壺が始まったのも周代とされる。
奴隷制王朝の殷において、支配者たる王は絶対的な権力を有していたが、
その王が唯一恐れたものが「神」の存在であった。
当時の人々は天帝を中心に多くの神が存在すると考え、祖先も祖先神として敬われた。
当時の支配体制は祭政一致で、王は天帝によって任命されるものとされ、
人の運命、病気、天災、農耕、戦争など、
ものごとの可否はすべて天帝や祖先神の意思によって決まると信じられていた。
したがって、こうした神々を祀る祭祀は重要事であり、
さまざまな青銅器は祭祀の用具として作られ、
有力者が死亡するとその墓には大量の青銅器が副葬された。
漢字の起源である甲骨文字が現れたのもこの時代であるが、
それらの文字も、天帝の意思を知るための卜占に用いられたものであった。
王の権力はさらに強大化・絶対化し、王を中心とする秩序を守るため、
特に武丁以降、礼制が強化された。
礼とは現代で言う礼儀作法にとどまらず、
国家の秩序を守るための社会制度、生活規範等の総体を意味した。
王墓は巨大化し、多数の青銅器の副葬とともに、多くの殉死者を伴っていた。
殉死者の遺体は首と胴体が分離した形で大量に埋められていた。
こうした事実は、この時代が技術的進歩の一方で、
祭政一致の神権政治の時代であったことがあらためて首肯される。
●遼河文明
殷は紀元前6200年ごろから存在したと考えられている
中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ
遼河文明とも関係していると見られている。
*1.興隆窪文化の遺跡 からは中国最古の*2.龍 を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。
*1(中華人民共和国内モンゴル自治区東南部、
遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃に存在した紅山文化の墳墓)
*2.(「三停九似(竜に九似あり)」首~腕の付け根~腰~尾の各部分の長さが等しく、
角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼(幽霊)あるいは兎、身体は蛇、腹は蜃、
背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似る。とある。
トーテムや自然の生き物を様式化した描写を起源に、神話の動物へと進化した為
イノシシや馬、それに魚などを中心に、
森・草原・川の動物トーテムが複合したものこそが龍だと言える。
それは同化・統合を繰り返す、後の中華文明のシンボルとなっていく。)
このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、
後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、
現代でも大きく注目され盛んに研究されている。
例えば夏家店下層文化であるが、
これは同地域の紅山文化から続く文化であり、
紀元前2000年から紀元前1500年頃の現中国東北部
(中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する)にあった。
この地は歴史時代には後に匈奴、鮮卑、契丹の地となり、
11世紀には耶律阿保機が遼帝国を建国した。
この地には逸話がある。
武王の弟「周公旦」、太公望「呂尚」と並び立つ周建国の元勲で
燕の始祖である召公奭の子孫-昭王は燕の国に人材を集めることを願い、
どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。
郭隗は「死馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し
「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、
もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」
と答え、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。
これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。
○夏家店下層文化
さて夏家店下層文化であるが、
北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、
南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした文化で、
山東半島にあった大汶口文化から岳石文化にかけての文化を含むとする研究者もいる。
この内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の下層を標式遺跡として、小河沿文化に続く。
生活の中心は雑穀栽培で、他に牧畜、狩猟、漁労も行われた。
遺跡からは豚、犬、羊、牛、鹿などが見つかっている。
多数の大規模集落が発見されており、
北東アジアの乾燥、寒冷化が進行した紀元前二千年紀後半以降はもとより、
戦国時代や前後漢の時期よりも人口密度が高かったと推定されている。
石器、骨器、陶器が見出されており、
他に少数の金、鉛、漆器、翡翠、銅器、青銅器も見つかっている。
陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い。『骨を使った卜占』も行われた。
家は多くは円く、土と石で造られた。
集落は崖や急斜面のそばに造られて防御され、
あるいは石壁が集落の周囲に立てられていた。
土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ており、
殷文化に属する人々が北東へ移住した、
或は逆に遼河文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したと考えられている。
同地域はその後、乾燥化と寒冷化が進み生産様式の異なる牧畜を主とする夏家店上層文化が広まった。
2015年1月に発表された研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、
従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は
12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており深い湖沼群や森林が存在したが、
約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。
このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、
のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。
夏王朝(紀元前21世紀 - 17世紀)の頃のことである。
なお同年代のできごと-
・紀元前2100年頃
中国最古の王朝である夏を禹が建国した(紀元前2070年説もある)。
河南省偃師市二里頭遺跡を代表とする二里頭文化I期( - 紀元前1700年頃)が
夏の初期に相当するとされている。
・紀元前2000年頃
紀元前2004年頃
エラム王キンダットゥがウルを破壊、イビ・シン王が連行されウル第三王朝が滅亡する。
この事件により『ウル市滅亡哀歌』『第二ウル市滅亡哀歌』ほかの記録が書かれる。
ミノア文明では前宮殿時代(中期青銅器時代(土器編年MMIA))。
クノッソス、マリア、ファイストス、ザクロスで宮殿が形成される。
中央アジアのステップ地帯にアンドロノヴォ文化が展開。
アムダリア川(オクサス川)上流域にバクトリア・マルギアナ複合が展開。
アーリア人がイラン高原に定着する( - 紀元前1500年)。
この時期からアーリア人はイラン系アーリア人とインド系アーリア人に分化する。
エチオピアから農民と牧畜民がケニアに移住。
カメルーンとナイジェリアの国境付近からバントゥー系民族の拡大が始まる。
ブリテン島ではウェセックス文化第I期が始まる( - 紀元前1650年頃)。
竜山文化(中原竜山文化(河南・陝西)と山東竜山文化)が終末期(紀元前3000年頃 - )。
青森県の三内丸山遺跡が衰退する(紀元前3500年頃 - )。
メソ・アメリカ各地で定住農村村落の成立(先古典期( - 紀元後300年))。
ラルサから出土したアシュモリアン博物館所蔵「ハーバート・ウェルド・ブランデルコレクション」の
最古の「シュメール王名表」粘土板WB62が記録される。
・紀元前2000年以降 - ラピスラズリ交易で栄えていたイラン東部のシャフリ・ソフタ遺跡が衰退する。
紀元前1991年頃
エジプト第11王朝の終わり、第12王朝始まる。