現実:歴史-中国な歴史 「拡大する固有の領土」「毎年増える数字」
★中国数千年な歴史:
中国は、古代文明発祥の地のひとつで、
古代の四大文明の一つに数えられる黄河文明には、
その黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。
あと遼河文明も。
この様に地域も時代も違うのにただ東ユーラシア大陸にあると言うだけで
中国固有のものだと共産党は主張する。
その理屈なら中国の本来の領土など都市国家連合レベルの地域に過ぎないはずだが。
また文字による古代の歴史記録も比較的多く残されているため、
その遡りうる歴史はとにかく古く、
そのせいで中国では「三千年の歴史」とか、「四千年の歴史」とか「五千年の歴史」とか
年々だんだん増えている。
だがまあそんなこと、現在中国大陸に住む人民とはまるで関係ないのですが。
だってそもそもあの人達その後他所の地域から来た第3国の子孫の人達だから。
▼拡大するのに固有の領土:
黄河流域で黄河文明を営んでいた本物の漢民族の前身となった都市国家の民の国際社会では、
「中国」という語は、孔子とその他思想家たちによる潤色を経ながら、
中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、
秦始皇帝のこの地域の諸民族の統一に発する中国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、
徐々に形成されていった漢民族意識のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。
「中原」とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、
しばしば「中国」と同義とされる。
中国文明は、中核地域である中原に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、
逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。
歴代王朝の一部、特に漢と唐は、拡張主義的であり、中央アジアへと勢力を伸ばしたが、
晋や宋のように華北平原を北東アジアや中央アジアの対抗する遊牧勢力に明け渡してしまうこともあった。
実は中国と言う言葉で誤魔化しているが、
中国大陸という領地は数え切れない程の少数民族が住んでおり
歴代の政権は全てそのどれかの有力な民族が武力で支配していたのが慣例であるのだ。
清代後半になると、
近代化を果たした欧米諸国の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、
中国は諸外国と対等な国際社会の一員として自己を再定義する必要に迫られた為
「中国」という用語の近代的な主権国家の概念が必要になった。
1842年阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、
漢文の「中国」が使われた事例が最初であると知られている。
そうして19世紀半ば以降、中国が世界的な主権国家体制に組み込まれてゆく過程で、
「中国」という用語は主権国家の自称として広く用いられるようになり、
次第にそれが固有名詞としての性格を濃くしていった為、
その地域、文明、民族を広く指すようになり、
紀元前からの文明の総体をも含めて用いられるようになっていると錯覚しているだけだからだ。
故に、歴史的経緯から中国人と呼ばれることに抵抗を持つ人も少なくない。
例えば中華民国が実効支配する台湾地域の住民には、
自分を中国人であると考えない人が増えつつある。
○「中国本土」:
歴史的な中国の領土を、
中国の他の地域と対比して指す表現として
「中国本土」があった。
清代末から中華民国の初期にかけて、
革命派や中国共産党の関係者に中国本土の概念が受容されて
「中國本部」という用語が使用されるようになり、
鄒容の『革命軍』(1903年)第四章「革命必剖清人種」、
孫文の『実業計画』(1921年)、
中国共産党第二次全国代表大会(1922年)の「大会宣言」などには
「中國本部」という表現が用いられていた。
台湾で出版される歴史の記述においては、
柏楊の『中国人史綱』(1979年)や、
許倬雲らの文章のように、
第二次世界大戦後においても「中國本部」という表現が用いられることがある。
しかし「中華民族」概念が広まると、置き換わりに「中國本部」は
中華民国や、その後の中華人民共和国において、
排除される表現となった。
食文化や言語、文化風俗・風習といったものが結局統一できないことから、
結果的に、中国本土という概念は、中国にとって好ましくない考え方となったのだ。
今日では、中国本土は、
中国においても議論を呼ぶ概念となっている。
現在の公式のパラダイムが、中国の核心地域と周縁地域の対比を認めていないからである。
なお、この歴史的に中国の内地・本土とは見なされない「外中国」地域には、
新疆(東トルキスタン)、チベット、満洲(中国東北部)、内モンゴルが含まれるが
それでも現在の中国は中国固有の領土だと主張している。
そう、ふざけたことに取り戻すなどと主張しているのです。
(じゃあ奪われたの恥ずかしくなの?)
なぜなら支配者として王朝を中国に立てれば
それが倒されたときにその国の本土も中華圏の版図に自動的に組み込まれるからです。
感染拡大するウイルスみたいですね。
一例として言えば、
満州人は清朝をもって中国全土を支配した。 M=S=C
ゆえに、満州も『歴代中華帝国の一つ』になるので、満州は中国本土と主張する。 M=C
さらに言えば、辛亥革命で中華民国が満州人の支配を打倒して次の「中国」となりましたから、
満州も「中国本土」の一部だと主張する。 M<C
基本的にはモンゴルに対してもそうです。
内モンゴルは本来、中国でなくてモンゴルですからね。
中国人は朝鮮人の支配を受けたことが無いため、当然の理として打倒したことがない。
もしも朝鮮人が支配者として王朝を中国に一度でも立てていたのなら、
それが倒されたときに朝鮮半島も中国の版図になっていたでしょう。
事実は只の流刑地、隔離地帯ですが。
そう考えると、秀吉の明征服が成功していなくてよかったかもしれません……。
例外は中国共産党の「解放」イデオロギーの結果のトルキスタンとチベットでしょうか。
また、支那が琉球を実行支配した歴史なんて無い。
(むしろ欧州列強に租界を支配されていたのだから……)
そもそも本来民族も文化も、気の遠くなるような年月の中で交雑するものであり、
さまざまな民族が中原に王朝を建てては、自らの文化と既存の中華文化とを融合させてきた
中華文化もまた、その意味において複合文化なのである。
アメリカの場合は、多民族それぞれが持っている文化の独立性を尊重し、
それらを維持しながら、なおかつアメリカが一体として成立しているという認識、
「複合文化主義」といわれるこの考え方を、
人種差別的考え方が一般社会で根強くとも、
政治の舞台で正面から否定することは不可能になってきている。
なおこの様に歴史的に併呑していた中華帝国ですが
唯一例外的に扱った地域があった……件の朝鮮半島である。
古代から現代に至るまで、朝鮮は中国の圧倒的に大きな影響を受け続けてきた。
政治的には、朝貢冊封関係を続け、元号も中国の元号を使っていた。
そもそも、朝鮮の歴史は、中国の植民地として始まった。
韓国人(朝鮮人)が主張する建国年の紀元前2333年から日清戦争の1895年までの4228年間、
中国に支配された。
例えば、スペインの有力紙『エル・ムンド』は、
「朝鮮は4228年間にわたって中国の植民地だった」
「朝鮮半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。
中国に1895年まで属していたが、
1910年の日韓併合までの15年間にわたって独立を味わったりもした」と報道したことがある。
こうして数千年間、朝鮮と中華王朝の関係は中国の属国でした、今もですが。
朝鮮は歴代王朝の常に冊封国となり、同時に前王朝の逃亡者や国内の罪人を追放する
中華王朝側の流刑地だったわけです。
朝鮮の事をよく知っていた中国の歴代王朝は
決してあの半島を併合しようとはしなかった。
ゴミ溜め汚物入れだった朝鮮を属国のままにしておき、金銀その他財物、
貢女まで毎年貢物として上納させたのです。
故に中華王朝には「朝鮮併合」なるものに興味からしてなかった。
それは、はるか西域のシルクロードのオアシス都市:楼蘭ですら併合されたというのに。
中国は絶対に朝鮮という時限爆弾を必要としないのである。
なお、「中国」や「中国人」の範囲をどのように設定するかについては
20世紀に入っても議論が続いた。
たとえば共和革命のイデオローグ章炳麟は「中華民国解」で
中国の範囲を「先漢の郡県が設置された領域」、
中国人を「黄帝の子孫」と定義。
朝鮮(漢代に楽浪郡・帯方郡が置かれた)やベトナムを
「中華民国が絶対回復すべき領域」、
ビルマを「ややこれに次ぐ領域」とする一方、
モンゴル(蒙古)やチベット(西蔵)、東トルキスタン(回部)は、
漢代に郡県は置かれず、「三荒服の地」であったことから、
中華民国に参加するのも自立するのも、彼ら自身に任せるべき、としている。
辛亥革命では、「支那共和国」と呼称されていたが、
共和勢力による政権獲得が現実のものとなっていくのに伴い、
支那の独立という理想論は影を潜め、
清朝が1912年の段階まで連合していた
「支那・満洲・モンゴル・チベット・東トルキスタン」の範囲を
そのまま枠組みとする「中国」で、
近代的な国民国家の形成が目指されることとなったが、
実際には漢民族との連携を重視し始めた清朝に対する反発と諸外国の影響を受けて
支那地域以外では自立の動きがみられ、
これらの地域の再統合は中華人民共和国の成立後に持ち越される事になる。
また、「中国」「中華」は中華民国および中華人民共和国において、
それぞれの国号となった。「中国」「中華」という用語が持っていた
「漢民族のアイデンティティ」という要素は、
「多民族の仲直りと統一」という要素として再構成され、
多民族の構成員が主体となって建設した「中国文化の優越性」だけが共通分母として
落ち着くようになった。
そしてその持ち主という意味の「華人」「華僑」という呼称も生まれた。
これらは宗族的概念による中国人:「華人」或るいは「華裔」
(中華民族の血筋を持つ人、その割合がいくらであろうと、
何世代か前に中国人が祖先)を指し、中国国籍を持たないものも含む。
このように漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく、
その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血である。
ゆえに、異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、
漢族とみなされる。
実際、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に五胡、契丹、満州、モンゴルなど、
多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。
▼中国起源説:現代までの中国の歴史
なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。
中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。
漢民族の歴史ではない。
○どれも、中国の主張です。(特に4000年~からは)
■中国2000年説:
「中国」という概念は、
「秦」の始皇帝(紀元前778~206年)が元です。
長らく諸侯のひとつだった「秦」も、
春秋・戦国時代に「周」ら周辺諸国を次々に征服、
始皇帝が紀元前221年に中国初の統一王朝を打ち立てます。
この紀元前221年から、
1911年に「清」のラストエンペラー・宣統帝溥儀が、
退位するまでの王朝交代ドラマはざっと二千年。
「統一国家の流れ」を重視するなら「中国2000年」となるんでしょう。
だが、1949年10月1日に中国共産党によって一応北京市にて建国されて、
現在に至るまで中国共産党率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を
未だ争っている「中華人民共和国」!
てめー2000だか4000年だかの歴史と言うが、建国からは六十有余年だろうが!
首相は始皇帝の印璽なり御旗なりを継承しているのか?
そもそも清代までの中国には「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、
「天下あって国家無し」と言える状態だったため、
王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていたのでは?
■中国3000年説:
世界四大文明(死語)のひとつである中華文明(黄河文明)の起源が、
青銅器と甲骨文字文化で知られる
「殷」(紀元前1600年ごろ~1046年)とされます。
とはいえ20世紀初頭までは長らく「殷」の存在自体が疑問視されていました。
1926年から河南省で殷の遺跡「殷墟」が発掘され、
学術的にも殷王朝は立証されるに及び、
この「殷」から数えて、ざっと「中国3000~3600年」説が生まれました。
「殷」以前の確たる王朝遺跡はまだ発見されていないので、
「伝説を混ぜなければ、中国3000年が妥当」と考える学者は多い。
日本の歴史教科書も、愚かにも「中国3000年」と記述していたようだが
日教組の支援母体がどこの国はよく分かる事例です。
どうにも彼らは敗戦の際、大陸に取り残された敗残兵が命乞いをした上洗脳されて
日本を滅亡させる為の破壊工作員として派遣されてきた連中らしいから。
■中国4000年説:
史書中の伝承が、はたして史実であったか否かについては、長らく不明であったが
「殷墟」により、黄河中流域を支配する部族国家:殷(商)の存在が立証されたことで、
「中国古代の三代(夏・殷・周の古代王朝)である殷以前の"夏"や、
"三皇五帝(神話上の8皇帝)"時代も存在したはず!」との意見が
1980年代に出始め、
「夏」(あったとすれば紀元前2070年~1046年ごろ)まで遡る
「中国4000年」が登場します。
「夏」については「殷」などの王朝同様、
『史記』などの歴史書にもその興亡が記されているものの、
まだ、決定的証拠は見つかっていません。
一応、二頭里遺跡、新砦遺跡(ともに河南省)など
「夏」年代に相当する遺跡の発見は相次いでおり、
「夏墟」が登場するのは時間の問題とも言われています。
もっともそれは現代の自称『漢民族』とは縁も所縁もない人々でしょうが。
よくも「中国4000年の歴史」といえる。
この4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、
もっと言えば大虐殺、民族浄化の歴史といってもよいくらいだ。
それを象徴する言葉が「易姓革命」である。
易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。
天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。
天や徳といった言葉が使われているが、
実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、
新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。
それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。
そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、
4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。
■中国5000年説:
最近の中国では「中国5000年の歴史」と枕詞のように言うが、
ならば「中国5000年の歴史」の根拠は何なのかどう答えるのか?
中国人に聞いてみるならば当然のことながら誰も答えられないだろう。
そもそも5000年前の歴史がどうとか文明が、と言うからには、
それなりの定義に基づいて言うべきだと思うが、どうにもはっきりしない。
そもそも青銅器時代(4000年頃)以降が歴史の領域で、
それ以前は"史前考古学"の領域
どうも4000年以前は既に"史前考古学"の領域らしい。
だが90年代中期以降、愛国主義の高揚とともに
「新石器時代の高度な文明も含めるべき」
との説が脚光を浴び、
新発見の原始稲作遺跡・良渚(浙江省)、青蓮崗(江蘇省)などは、
紀元前2700~3400年前のものということで、
21世紀は「5000年」はちょうどキリがいい数字ということもあって、
今の中国人の認識は「5000年」となったらしい。
『中国五千年』(陳舜臣著、講談社文庫)によると、
「人間が文化をもったときから歴史時代とかぞえるなら、
新石器時代が歴史のあけぼのといえるでしょう。
(中略)放射性炭素の測定値は、
良渚文化がほぼ4700年、
青蓮崗文化が5400年ほど前です。」
とはいえ新石器時代まで含めてしまったら、
どの国も軽く5000~6000年の歴史を有することになってしまいます。
何故、中国だけ臆面もなく主張できるのでしょうか?
そもそも遺伝子的に継っていないのに。
しかし一応歴史が古いということは事実ですから、
相手(中国側)の自説は自説として丁重に聴きつつ、
古くから文明の栄えた地域という認識で十分かと思います。
▼南京大虐殺:
現代中国共産党による未来からの歴史干渉により
毎年のように増えていく過去世界の被害者たち。
どうしてなんだろう、なぜなんだろう?
慰安婦みたいで不思議だね! さすがわ朝鮮のお兄さん! 大朝鮮!!
なお、黄河決潰事件、文化大革命、チベット大虐殺、東トルキスタン侵略、天安門事件。
悪意は自らを映す鏡。自分がやるから他人もやるだろう。
一体何百万人自国民を虐殺してきたのか。
▼国内総生産:GDP
だいたい社会主義国の「建前」として失業はない。
そもそも中国はニセモノ天国だ。だから中国の公式統計はウソで塗り固められている。
それ故、中国の李克強首相も信じていないといわれ、
国内総生産に代わるものとして彼が挙げた
「電力消費、貨物輸送量、銀行融資」の3指標は「李克強指数」ともいわれている。