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現実:食-牛乳配達の歴史(日本牛乳伝)または「カルグルト」

☆牛乳とは:


 牛から絞ったままの乳を加熱殺菌したもの。

生乳100%で、水や他の原料を加えたり、成分を減らすことは一切できない。

乳脂肪分3.0%以上、無脂乳固形分8.0%以上が条件である。


・特別牛乳とは?


 牛乳より濃厚で、「特別牛乳さく取処理業」の許可を得た施設で製造したもの。

乳脂肪分3.3%以上、無脂乳固形分8.5%以上が条件


・低脂肪牛乳とは?


 生乳から乳脂肪分の一部を減らし、低脂肪にしたもの。

水や他の成分は一切加えておらず、乳脂肪分以外は生乳とほとんど同じ。


・無脂肪牛乳とは?


 乳脂肪分を0.5%未満にしたもの。乳脂肪分以外は生乳とほとんど同じ。


・成分調整牛乳とは?


 乳脂肪分、無脂乳固形分、水分などの成分の一部を除去したもの。

無脂肪固形分は、牛乳と同じく8.5%以上ある。


・加工乳とは?


 生乳にバターや脱脂粉乳など他の乳製品を添加して、

成分を調整したもの。

加えても良いものは、水と乳製品に限定されている。


・乳飲料とは?


 加工乳の原料が生乳や乳製品と水に限定されているのに対し、

それ以外の原料も加えて良いのが乳飲料。

カルシウムをさらに強化したり、ビタミンや鉄分を加えた栄養強化、

コーヒーや果汁を加えた嗜好飲料など。




▼宅配牛乳とは:


 宅配牛乳を契約すれば毎日の健康をお届けする牛乳の宅配システム。

牛乳、乳製品、ヨーグルト、野菜ジュース、

特定保健用食品トクホ、豆腐などの宅配商品を

毎朝、最寄の販売店からお届けします。



 宅配牛乳のメリットは、

牛乳の消費量が多い家庭では買い物に行く手間が省け、

高齢者や病気で重たいものをもって帰ることが困難な方には大変助かります。


 せっかく健康のためにカラダにいいことをしようとしても、

買い忘れたり、雨の日や雪の日など買いに行くのが手間だったり、

買い物でもついつい余計な物を買う心配がない

といったことが挙げられます。


 特に育児や仕事の忙しい方、

体の不自由な年配の方はそういった状況に置かれやすくなります。

宅配牛乳は定期的に牛乳が配達されるので、上記の方にもオススメです。


 栄養の宝庫と言われる牛乳や乳製品ですが、

もちろん継続してこそ意味があります。


 宅配牛乳は継続的にご自宅に牛乳が配達されるので、

牛乳を飲むということを習慣化することができます。

継続したいけどつい飲み忘れてしまうという方にオススメです。


 宅配の牛乳では1本100~180mlですのでちょうど飲みきれるサイズです。

また飲み終わり、回収したびんは殺菌された上で再利用されます。


 また宅配は、大半が工場を出荷して1〜2日以内に届けられるため、

鮮度が高い状態で飲むことができるのです。


 宅配牛乳では、スーパーやコンビニ等では取り扱っていない

宅配専用の商品を取り扱っています。


 栄養価が高く、カルシウムや鉄分はもちろん

コラーゲンやグルコサミンなどを強化したものなど特許商品・特保商品もあり、

しかも、これらは宅配でしか手に入らない『専用』商品です。限定プレミアなのです。


 これら万全な衛生管理下で生産された新鮮な商品を多く取り扱っているのが特徴です。


 近年、高齢者の一人暮らしが増え、誰とも連絡を取らずに孤立してしまい、

何かあったときに異常に気が付かないということがありますが、

宅配牛乳は担当者が定期的に商品を配達していますので

「配達していた牛乳が受取り箱にそのままになっている」、

「回収するびんがいつもは出されているのに出されていない」

といった事態があれば、異常を疑うことができます。

そのため、見まわりという点でも宅配牛乳は効果が期待できます。



 では、宅配牛乳はなぜビンなの?

わざわざ重たいビンに入っていることにはきちんとした理由があったのです!

明治の研究によると、マグカップとビンで比較した結果、

「香りと冷たさ」に違いがあることが分かったそうです。


 ビンの方は香りが3倍強く、そして口に当たる面積が1.4倍広いので、

心地よいひんやり感を生み出すのだそうです。

飲み心地にこだわった結果「ビン」を採用しているということがわかりますね。




★天皇家と牛乳は縁が深い。


 歴史の陰に女あり

  牛乳普及の陰に天皇家あり。



▼飛鳥~平安時代、貴族階級の間で乳製品が広まった:


 牛乳が庶民的なものとなったのは近代になってからですが、

古代には牛乳をもとに各種の珍味が作られていました。


 そう、実は牛乳を飲むという習慣は、

日本では、既に飛鳥時代には

支配者階級に広まっていたようです。


 中でも有名なのが「」と呼ばれる、

牛乳を長時間煮詰めて作った食品です。


 聖徳太子が食べたとする正確な資料はありませんが、

昔は、聖徳太子の食卓に

この古代のチーズ「そ」があったと言われていました。


 漢字で書くと蘇我氏の『』である。


 もっとも今では初めて牛乳を口にした日本人は、

飛鳥時代の孝徳天皇(596~654)

だったと言われています。


 百済(くだら:現在の韓国南西部)の善那ぜんな

という人物が天皇に献上したものです。


 一般には欽明天皇23年(562)年、

呉国主照淵しょうえんの孫、

智聡ちそうらの一族が百済から来日した際、

医学書や経典とともに、

牛乳の薬効や牛の飼育法を記した書物を持ち込んだとされます。


これにより、日本人は搾乳や牛乳について知るようになったようです。


 大化の改新(645年)のころ、

この智聡の子、善那ぜんなが孝徳天皇に牛乳を献上したところ、

天皇は「牛乳は人の体をよくする薬である」とたいそう喜ばれ、

善那に「和薬使主やまとくすしのおみ」のかばねと、

乳長上ちちのちょうじょう」という

医者として牛乳を管理する者という、

乳製品技官のような職を授けたのが、牛乳飲用の始まりと伝わる。


 当時、肉や牛乳は薬と考えられていた。

確かに、牛乳に含まれるカルシウムやアミノ酸のトリプトファンには、

神経を鎮め、精神を安定させる働きがある。


 このように善那が天皇に牛乳を献上したことで、

飛鳥時代に牛乳が飲用されていたことが記録に残ったのです。


これがわが国の牛乳飲用のはじまりとされています。


 これは仏教伝来により、

釈迦が悟る直前に乳がゆを供養し命を救ったという伝説から

仏教と乳との結びつきも指摘できます。



 しかし、牛乳などの乳製品は薬用として

特定の貴族階級の口にしか入らず、

生乳を煮詰めて作る「蘇」と呼ばれるものは、

高貴な人々しか口にできない、高価なもので

庶民とは関係のないものであったと考えられます。


 この頃の文献などにも度々その名が記されています。

シルクロードを通り、飛鳥の都に伝わったといいます。


「たったひとつの美味しさ見抜く、

 見た目はチーズ、においはキャラメル、その名は

 煮詰めていっても味は薄い牛乳、手抜きなしの珍味、美味しさはいつもひとつ!」


 こうして生乳を煮詰めて作る「蘇」は、

高貴な人々しか口にできない高価なものでした。



 さて、この蘇ですが現代に再現して作る方法があります。

牛乳を弱火でかき混ぜながら練って、

どんどん煮詰め塩を加えて形を整え、冷蔵庫に入れて冷やせば完成。


 簡単そうにみえますが、

長い時間混ぜ続けなければならないのでけっこう疲れます。

また、現在でも蘇を再現したものを販売しているお店もあります。



▼乳製品は税だった:


 薬用として貴重だった牛乳は、

京都や奈良を中心にできた「乳戸にゅうこ」と呼ばれた酪農家から、

毎日2,300mlも天皇一家に納められるようになりました。


日本最古の牛乳配達です。


 文武天皇4(700)年のころ、

朝廷は諸国に命じて牧場をひらき、牛を放牧させる。


 雌牛が子牛を生んで乳が分泌されると、

朝廷は牛乳をしぼり、「蘇」に加工して都に献納することを命じた。

蘇は牛乳を長時間煮詰めた加工食品、

チーズの元祖で、淡泊な味わいだ。


 こうして奈良時代から平安時代にかけて各地で製造され、都に納められた。

さらに濃縮、熟成したのが「醍醐だいご」で、

醍醐味だいごみ」の語源だが、製法は伝えられていない。


 やがて関東から九州まで、酪農が広まって搾乳量が増えると、

牛乳を10分の1に煮詰めた「」を税として納める

貢蘇こうそ」の制度が927年にできました。


 平安貴族の藤原家にも蘇の利用は広まり、

天皇一家だけではなく、

貴族の健康維持や病気の回復に薬として重宝されました。


 世界一長い小説「源氏物語」を書いた紫式部のパワーも、

牛乳や蘇のおかげかもしれません。


 しかし平安末期になると武士の台頭とともに朝廷の力も弱くなり、

牛より軍馬の生産に力が注がれるようになったために、

貢蘇の制度もすたれていったのです。



▼牛乳で煮た鍋物のことを、なぜ『飛鳥鍋』というのだろう:


 さて、鍋物と言えば、定番は寄せ鍋や水炊きだが、

奈良の伝統的な鍋は牛乳ベースの飛鳥鍋だ。


 薄口醤油しょうゆで味付けし、

出汁だしに鶏肉などの具材を入れ、

最後に牛乳を注いで、うまかっちゃん。

牛乳を加えてからは、強く煮立てないのがコツだ。


 さてなぜ牛乳ベースの鍋物を「飛鳥鍋」と呼ぶのだろうか。

これにはわが国における牛乳の伝来、普及の歴史と密接な関係があった。

 

 「日本書紀」の神武東遷の記述に出てくる

牛酒ししさけ」が牛乳との説があり、

古くから飲まれていた可能性がある。


 しかし、古代日本の乳牛は、

ホルスタイン種のように品種改良したものではなく、

現在の和牛よりさらに小さかった。


 よってしぼれる量も少なく、子牛の飼育に必要な分を除くと、

ごくわずかしか残らなかったようだ。

こうした貴重な牛乳で鶏肉を煮たのが飛鳥鍋のルーツとされる。

まさに飛鳥時代に考案された鍋物だった。


 それが後々まで、飛鳥地方の郷土料理として伝えられた。

今では県の「奈良のうまいもの」にも選定され、

県内のホテルや旅館、飲食店でも提供されている。



▼武士は牛乳が嫌いな駄目な子?:


 天皇・貴族・宗教勢力が強い勢力を誇った奈良時代~平安時代中期は、

薬物・献上品・供物品として、牛乳(酥)が珍重され、

関西~関東地方の官営牧場にて乳牛が大いに飼育されました。


 しかし、やがて時代の担い手として勃興し、

東日本に独立政権(鎌倉幕府)を創る武士団には、

乳牛や牛乳は重宝されませんでした。


 最大の理由としては、

武士達が『乗用馬の飼育』に重点が挙げられます。


 戦に必要な『軍馬生産』です。

武家が嗜む武道の双璧を「弓馬の道」と、

鎌倉~室町期まで呼ばれました。


 つまり弓道と乗馬術です。武士達には馬は必須であったのです。

現在でも神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で、

疾走する馬上で弓を射る流鏑馬が有名ですが、

これが「弓馬の道」を体現した競技の1つです。


 牛は、牛車や農耕用としては活躍する機会がありますが、

乗馬の様に人が牛の背中に跨り、自由自在に操るというのは難しいです。


 恐らく古代の人々の中には『乗牛』を試みたと思いますが、

調教(訓練)が進まず、上手く操れなかったと思います。


 「乗れない牛より馬を飼育するべきだ!」と武士団達は思い、

彼らの本拠地・関東甲信を中心に、乳牛は姿が消え、

代わって乗用馬が飼育されるようになりました。


 軍馬生産には地理的環境にも恵まれていました。

武士の本拠地は「公家政権時代から官営牧場が多数立ち並ぶ甲信」、

そして「見渡す限りの関東平野」であり、

馬飼育には最適な場所であった事も大きな理由となっています。



 こうして武士が天皇・貴族に代わり日本の政権主導を握った鎌倉時代以降、

京都に拠点を置く天皇・公家の中でも、牛乳・乳製品の製造や献上が廃れてゆき、

一時期、鎌倉幕府を滅ぼし、

公家主導政権(建武の新政)を取り返した後醍醐天皇により、

乳牛飼育・乳製品製造が再開されましたが、

僅か3年で政権が挫折し、

当時の武家の最実力者・足利尊氏によって室町幕府が開かれ、

再度武家主導政権が復活したので、

乳牛や乳製品は歴史の狭間に露の如く消え去りました。


 そしていつの間にか世間では、

『牛の血(牛乳)を飲むは不浄である』という気運が高まり、

果てに『牛乳を飲むと牛になる』という、

我々現代人から見れば実に滑稽な迷信が広まり、

牛乳は完全に嫌われる存在になりました。


 ジアン・クラッセ(1618-1692)という

フランス人宣教師が著書「日本西教史」の中でも、

『(日本人は)牛乳を飲むことは、生血を吸うようだと言って用いない。

(中略)また牛酪(乳製品)をつくる術を知らないのか、

作ろうとしないのか、牛酪チーズもない』


 他の宣教師も1584年に本国宛てにも、

『(日本人の)食物(中略)は、

 牛乳とチーズは有毒なるものとして嫌い、

 塩のみで味付けする。』という報告を書いています。



 当時の日本人は牛乳を嫌っていたのですが、

逆に牛乳を気に入り、飲んでいた逸話を持つ人物がいます。

有名な織田信長(1534~1582)です。

 

 織田信長は徹底的の合理主義に基づき、

革新的な政策・軍事制度によって小大名から天下人になった

日本史上人気ナンバー1の偉人です。


その信長も牛乳を飲んだという逸話が残っています。


 日本を代表する歴史作家の司馬遼太郎氏の名作

『国盗り物語』(新潮社)の中で、

まだ少年である信長が牛乳を飲んでおり、

それをみた彼の父信秀が、

「(牛乳など飲めば)牛になるぞ」と信長少年を嗜めましたが、

当の信長は『乳を飲んで、牛に本当になるかどうかを試しているのだ』

とにべもなく答えている描写があります。

とんち小僧の一休さんか?


 牛乳忌避は、寿司・天ぷら・蕎麦など日本独自の食文化が発展した

江戸時代なっても変わりませんでしたが、例外もあり、

江戸中期の幕府内で、5代将軍・綱吉の側近・牧野成貞という人物が

薬としてチーズをオランダ人から購入したという記録が残っていたり、

少し時代が下って11代将軍・家斉も滋養強壮剤としてチーズ(白牛酪)

を愛用していたという公式記録が残っているので、

官民の間で完全に牛乳拒否をしている訳ではないようです。


 時代劇で有名になった江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)は、

「暴れん坊」と称される通り、武術大好き将軍であり、

中でも鷹狩・乗馬を非常に好み、

特に乗馬に至ってはオランダ人から西洋馬(アラブ系)を買い入れ、

安房嶺岡(現:千葉県南房総市大井地区)にあった幕府官営牧場(嶺岡牧)で

飼育を開始しました。


 またオランダ人獣医から馬の治療用に牛乳やバターがよいことを勧められ、

同地に、インド産の乳牛雄雌3頭ずつ(後に70頭まで増加)

購入・飼育を開始し、牛乳・バター製造を開始しました。


 この牛乳から作った蘇を「白牛酪はくぎゅうらく」といい、

将軍や大名の食膳に供せられ、滋養強壮剤として珍重されました。

しかし、吉宗が死去した後は、徐々に乳牛飼育も衰退していったそうです。


 こうして千葉の嶺岡牧場で飼育させたのが近代酪農のはじまりとされ、

安房嶺岡は、近世に初めて乳牛が本格的に飼育・乳製品生産が開始され、

明治時代には種畜場が設立、近代酪農の指導し当たったので、

『日本酪農発祥之地』とされています。


 因みに現在は、千葉県下の嶺岡乳牛研究所となっており、県内の酪農を支えています。



熱烈な牛乳愛好家・徳川斉昭

 江戸幕末期になると、徳川御三家の一つである水戸藩

(これも時代劇でお馴染の水戸黄門の出身地)の当主・徳川斉昭(1800~1860)

・江戸幕府15代将軍・慶喜の実父にあたる人物ですが、熱心な牛乳愛好家であり、

1853年藩校・弘道館医学館の隣地に薬園と乳牛牧場を開設し、

毎日の朝食に必ず牛乳を飲み、酒のミルク割りも好きであったようで、

毎日約900mlの牛乳を飲んでいたそうです。


 また仲の良かった阿部正弘という人物が病気になったと聞くと、

バターをプレゼントするばかりではなく、

「もし良かったら自分の牛乳の飲み分をあげるますよ」といった手紙を送っています。


 更に、伊達政宗以来名門の仙台藩に嫁いだ病弱の愛娘・八代姫を心配して、

わざわざ乳牛1頭と酪農家1人を付けて仙台藩に送ってあげて、

「毎日牛乳を飲みなさい」という親心溢れた手紙を書いています。ただ困ったのが仙台藩です。


 伊達ご家中の皆様は、斉昭のように牛乳好きではないばかりか、

世間と同じ様に牛乳忌避者が多かったようで、

毎日八代姫に牛乳を献上する前に行われる毒見役を家臣・女中一同、

嫌がって大変であったそうです。


 結局、藩お抱え医師(侍医)の竹庵という人物が牛乳毒見役を無理矢理にやらされたそうです。


 余談ですが、2代水戸藩主・光圀(黄門)は、

日本人初のラーメン・餃子を食べた人物と言うわれ、

斉昭は牛乳に加えて牛肉も大好物であり、

息子の慶喜は、当時非常に珍しい豚肉を愛食し、

これが後々、江戸での豚肉ブームの火付け役となりました。


 慶喜はあまりにも豚肉が好きなので、

江戸庶民の間で「豚一様(豚肉を好む一橋(慶喜)公)」と呼ばれていたそうです。


 水戸藩は儒教(朱子学)ばかり勉強してお堅いイメージがあるのですが、

上記の3人を見ると、存外ハイカラでグルメ好きであったのかと思ってしまいます。

 


▼『日本近代酪農(牛乳)の土台は、前田留吉が築き、明治天皇が牛乳の広告塔をお努めになった』:


 牛乳が一般的な飲み物になっていくのは、

明治維新の頃からです。


 文明開化と共に開港した横浜の港には、

多くの外国人が住むようになりました。


 元々牛乳を飲む習慣があった外国人は、

日本に牛乳を飲む習慣がないのに困ってしまいます。


 明治維新前に伊豆・下田に設置されたアメリカ総領事館に

領事として赴任したタウンゼント・ハリスも、

牛乳を飲みたいと下田奉行所に要求し、

当時牛乳をのむ習慣のなかったため乳を出す牛もおらず、

<香港から乳牛を取り寄せられないか>というやりとりがあったなどと、

だいぶ騒動があったようです。


 斉昭・慶喜といった伝統ある幕末セレブ(将軍家ご一門)

なら乳牛の飼育・牛乳を飲むといったことは、

それほど困難ではなかったようですが、

初代駐日米国公使・ハリス(1804~1878)は、

外交官という特別な存在とはいえ

牛乳入手に苦労した話題が残っているのです。


 有名な米国のペリー提督が黒船で来日(1853年)して以来、

日本は長年の鎖国体制を撤廃し、

1854年には函館と下田を外国船のために開港しました。


 その下田・玉泉寺にハリスが滞在していたのですが、

その地に到着した翌日早々、

『ここには山羊がいないのが残念であり、チーズもない』

と愚痴を日記に書き、

後日幕府からの通訳・森山栄之助(多吉郎)に対して

『牛乳がないのか? 

 ないのなら山羊を乳入手のために香港から輸入し飼育したい』

と談判するなど紆余曲折を得てようやく1858年に、

幕府の命令で近隣の村々で飼育されている使役牛の牛乳が、

ハリスに献上されるようになりました。


 ですが飽くまでも使役牛の牛乳ですから、

今日の様な美味しい牛乳ではなかったと思います。

ハリス公使も「日本の牛乳は不味い」と思っていたかもしれません。


 後々ハリスの牛乳入手の苦労話を教訓とした

各国の駐在公使および外交官は、

わざわざ滞在先の寺院内で、酪農家を雇って、

牛を1頭ずつ飼育し、毎日牛乳を搾らせて飲んでいたそうです。

何とも手間がかかるお話であります。


 またこの暫く後、

横浜外国人居留地でオランダ商人・ジョンandエドワルド・スネル兄弟が

(長らくオランダ出身とされていたが、プロイセン出身で

 オランダの植民地であったインドネシア育ちである)

牛乳販売店と搾乳所を開設し、駐日外国人相手に

牛乳販売のビジネスを展開しました。


 この兄弟、元は兄・ジョンがプロシアの書記官、

弟・エドワルドはスイス総領事書記官であったが、後に

兄・ヘンリーは会津にとどまらず米沢藩の軍事顧問を兼ね、

奥羽越列藩同盟に知恵を。

弟・エドワルドはエドワルド・スネル商会を設立し

奥羽越列藩同盟に武器販売を、と

それぞれ貢献したという。



 1866年頃には、いよいよ市民向けの牛乳販売店が誕生します。

これが日本人の日本人よる日本人の為の日本初の牛乳販売店となり、

設立した人物がスネル兄弟に師事を受けた前田留吉という人物です。


 1868年江戸幕府は明治政府(朝廷・薩長)によって瓦解しました。

これで、古代の朝廷が飼育していた乳牛を淘汰し、

馬飼育に力をいれた鎌倉時代から続いた武士政権が崩壊しました。


 明治政府は、

産業革命によって急発展を遂げた英国などの西洋諸国に倣い、

建築・商工業・軍事・政治体制など万物が西洋化されていきました。


 つまり文明開化です。農業、特に酪農や牧畜業は、

日本では江戸中期に徳川吉宗によって千葉県嶺岡に

インド産乳牛を一時期飼育したぐらいで、

ほぼ未開拓分野でしたので、酪農産業力を高めるには、

外国酪農技術に頼るしかありませんでした。


 現在も乳牛として活躍しているホルスタイン種

・ジャージ種などが米国を通して輸入され、

「少年よ大志を抱け。この老人の様に」という名言で有名な

米国お雇い教師として農業博士・W・クラークなどが、

日本新政府の要請によって来日したのは全てこの時期です。

殆ど未開拓分野であった日本酪農産業も文明開化を迎えたのでした。



 これと同時にこれに目を付けたのが1人の日本人、

しかも民間人の千葉から職を求めてやってきた人が全く別の手法で、

日本近代酪農と牛乳販売産業の開拓に挑んだのです。

それが『前田留吉(1840~没年不詳)』という人物です。


 前田は、往来を歩く外国人たちの体格がいいことに驚き、

「彼らが大きいのは牛乳を飲んでいるからだ」と解釈し、

これからは日本人も牛乳を飲むようになるに違いないと直感したのです。


 なお、一般の日本人は牛乳を飲むと牛になるなどいう迷信を触れ回り

件の如しである。


 郵便制度の開設者・前島密を「日本郵便の父」

・山本権兵衛を「日本海軍の父」

・本多静六を「日本林業の父」

など様々な分野で活躍・近代化した偉人を「~の父」と尊称されますが、

酪農分野で大々的に成功した前田留吉も『日本近代酪農の父』

と言っても過言ではない。


 前田留吉という人物は1840年上総国長生郡関村

(現:千葉県長生郡白子町)の農夫の生まれで、

後に江戸や横浜方面に職探し目的で出て来た折に、

体格優れた外国人を見て、

彼らが普段が食している西洋料理(特に牛乳)に商売の道を着目したようで、

先述の横浜で牛乳販売店経営を行っていたスネル兄弟に弟子入りして、

牛の飼育方法全般・搾乳方法を学びました。


 そして、1866年に独立、横浜太田町(現:横浜市中区山下町 加賀町警察署付近)

で和牛6頭を買い集め、搾乳と牛乳販売を開始しました。


これが、日本で初めての牛乳搾取所だと言われています。



 当初の牛乳は日常的に飲む飲料とは言えず、

滋養の高い「薬」のようなものでした。


 店頭での量り売りのほか、

明治時代から牛乳の宅配は行われていたようでが、

しかし、専用の容器に入れて配達したのではありません。


 牛乳 が入った巨大なブリキの輸送缶に、

ジョウゴと柄の長い杓子しゃくしをかけて訪問し、

お客が出す鍋やどんぶりなどの容器に、5勺(約90ml)単位で量 り売りしていました。


 やがて誕生した最初の宅配牛乳専用の容器は、小さなブリキ缶でした。

初めは口を紙で包んでいましたが、

後に口を木やコルクの栓でふたをするようになりました。

一部では陶器製のびんもあったようです。


 こうしたブリキや陶器の後に、

ガラス製のびんが全国に普及していくことになります。

明治22年、東京の津田牛乳店が初めてガラスびんを採用したのが皮切りだそうです。


 ですがそれまでには色々と相当な苦労があったようで、

当時は未だ、幕末動乱時期であり、攘夷(西洋人嫌悪)派から誹謗中傷の標的になり、

商売が上手く行かなかったり、搾乳の際に和牛が暴れるので、

両後肢を木に縛り付けて行っていたそうです。


 しかし様々な苦難を乗り越え、1868年(明治元年)になると、

留吉の牛乳販売事業は軌道に乗り始めていました。


その留吉の活躍に注目した機関がありました。明治政府です。


 折しも政府も文明開化の下、

積極的に西洋技術・文化を導入していた時期であり、

外国人が普段飲む牛乳にも着目し、

今更ながらに日本国民に牛乳を飲む事を奨励していました。


 皇居(旧江戸城)外側の雉子橋に

牛舎が江戸時代の1792年から開設されていましたが、

明治新政府もこれを利用し、

勧農役邸と改名して乳牛6頭を飼育していました。


 その乳牛飼育責任者に留吉が抜擢されました。


 1869年4月、留吉に更なる転機が訪れます。

皇居吹上御殿にて、明治天皇(1852~1912)が天覧の下、

留吉は自分が飼育している先述の乳牛を使い、

搾乳技術を披露し、破格な栄誉を賜りました。


 千葉県の一農夫出身者が、官営牧場長となり、

天覧を供するという名誉を頂戴したのです。


 留吉本人も正に昇天しそうな心地であった事でしょう。


 明治天皇という方は、儒学や日本刀観賞など

日本芸術を好まれた保守的な人物であったと伝えられています。


 しかし、明治期を迎えると新政府のスローガン(文明開化)

を国民に周知させるため、まるで人が変わったように

別人のごとく容貌まで変わり

自ら率先して、自分の髷を切り、洋服を着用され、

西洋文化に親しまれる様に努力されましたが、それは食生活にも及びました。


 留吉の乳牛搾乳を天覧された後の1871年には、

勧農役邸で飼育されいる乳牛の牛乳を毎日2度飲み始められ、

翌1872年には牛肉も食されるようになりました。


 天皇御自ら進んで、

国民が飲食したら『牛になる』と言って忌避していた

牛乳・牛肉を食することによって、牛乳を飲む事をアピールされたのです。


 この効果は絶大で、

「明治帝が牛乳を毎日2回お飲みになられ、牛肉も食される」

というニュースが「新聞雑誌」に掲載されると、

日本国民の牛乳に対しての拒否感情は一気に薄れて行き、

日本国内の牛乳消費ひいては、

近代日本酪農の発展の一助になった事は確実です。


 天皇家の食事の基本は、

食材を余すところなくすべて使い切る「一物全体食」と、

「身土不二」であるという。元々は中国の仏教用語なのですが、

「身体(身)と環境(土)とは不可分(不二)である」という意味で、

「身体と大地は一体であり、暮らす土地において季節の物(旬の物)を

常に食する事で身体は環境に調和し、健康で生活できる」という意味です。

御料牧場では皇室で食べられる野菜や乳製品がつくられています


 現在、御料牧場で生産される食料品は、

本来全て皇室(皇族の食事、晩餐会や園遊会などの宮内庁行事)

で利用され乳脂肪分は年間通して4%を切らないように努力しているようで、

実際に飲んでみると、かなり濃厚でかつ甘みがあり、

それでいてさらっとした飲み口だ。


 一般の人がまずお目にかかることがないこの牛乳は、

消費期限が7日間と短い伝統的な低温殺菌処理が施されており、

「細菌数が少なく、一般の市場では、

 特別牛乳としても通用する高品質のものだ」

と石原哲雄・場長は胸を張って説明してくれた。


 1回に平均して300本製造するそうだが、

多めに作っているようで一般に出回ることはまずないが、

御料牧場で生産している牛乳については生産量に余裕がある場合、

宮内庁職員の福利厚生のために使われる。


 市販されていないものの、

御料牧場の牛乳は宮内庁内の食堂の自動販売機で、

200mlのビン入りのものが1本60円で買えるそうだ。

瓶のフタには御料牧場と記されている。


 天皇陛下が召し上がる料理に使われる新鮮な肉や野菜、乳製品、

中でも牛は乳牛のみ飼育していて、

ホルスタイン種が搾乳牛7頭を含む15頭、

ジャージー種が搾乳牛3頭を含む11頭います。


 ほかに飼われているのは、

約90頭の豚、約450頭の羊、約1400羽の鶏や雉で、

いずれもストレスを与えない飼育管理を行なっているという。

また20種類ほどの蔬菜の生産を行っている。


「牛は常に清潔に保つため1日2回シャワーを浴びている。

豚も暑い日はシャワーを浴び、ストレスなく育つので、

ここで作られたハムやソーセージは絶品。

鶏も平飼いで飼育され、十分な運動ができる環境になっている」


 その乳から、牛乳、バター、生クリーム、チーズ、

ヨーグルト(ドリンクタイプ・加糖、無糖両タイプのハード系)

そしてカルグルトを生産しています



 ★皇室専用の牧場で作られている皇室専用乳酸菌をつかった乳酸飲料

現代の””?

Imperial Milk(皇帝のミルク)『カルグルト』


 皇室だけで飲まれているカルグルトという乳酸飲料。

そこに使われている菌は皇室専用の菌だといわれている。

昭和天皇も大好きで毎日飲まれていたカルグルトとは


Q:カルグルトは本当にあるのか? 

A:昭和天皇実録にも記載されているそうです。


 カルグルトとは、

昭和天皇がことのほかお気に入りだった乳酸飲料のこと。

カルピスに似たはっ酵乳で、殺菌しないで濃縮して作られる。

2倍に薄めて飲むもので、昭和天皇がことのほかお気に入りだったそうだ。


 ホルスタイン種とジャージー種の牛乳を混入した

牛乳から乳脂肪を除いた乳酸飲料。

脱脂乳を濃縮したものを殺菌し、乳酸菌を加えて発酵させ、

その後、香料と砂糖シロップを加えて攪拌して製造している。


 たんぱく質やカルシウムが吸収されやすくなる他、

乳酸菌が腸に届くと、

有用菌が増えて腸内環境がよくなり食べ物の消化吸収の促進を促します。


 昭和天皇はこれを水で2倍に薄めて飲まれたという。

たんぱく質とカルシウムが豊富で、サワーの味がして

カルシウムなどを摂るのにいいというが、

食べたことがある人によるとカルグルトは


「ドリンクヨーグルトより薄めでカルピス風味の飲み物

と一部では書かれているが、

私の記憶では飲み物ではなくて、瓶からスプーンですくって食べていた。

ヨーグルトのようにさらりとしたテクスチャーではなくとろんとした粘りがあって、

プチダノンよりさらに張力がある感じだった。」


と実はちょっと違うらしい


 カルグルトは濃縮された液体状で水割りにして飲む。

とは、一体何だったのか?


 昭和30年代に農水省の畜産試験場から

御料牧場に持ち込まれたらしい。

以来、皇室専用に、

伝統的に受け継がれてきたヨーグルトの菌によって生産されている。

昭和天皇はこのカルグルトがとてもお好きだったという。



 因みに留吉は、

その後、政府管轄の築地にあった牛馬会社に勤務を経て、

芝西久保で再び牧場・牛乳販売を開始し、

1875年の牛疫病で乳牛が死ぬと、

外国の最新酪農技術・乳牛を導入するために渡米。


 後に115頭の乳牛を輸入して、芝銭座町12番地

(現:浜松町1丁目・福澤諭吉で有名な慶応義塾の発祥地でも有名)

で牛乳販売業を始めました。


 その後、留吉の甥に当たる前田喜代松と共に事業を拡大し、

留吉は乳牛(牛乳販売)界の名実共に大御所となり、

『新銭座の大親分』と呼ばれるようになったそうです。



 しかしなにしろ、牛乳を飲むと、外国人のように、

髪が赤く、目が青くなると言われた時代のこと。

牛乳が広く一般の人々の口に入るまでには、

もうしばらく時を待たなければなりませんでした。


 お値段のこともありますし。

「これは凄いですね、でもお高いんでしょう?」




 このようにまだ牛乳が敬遠されていた時期に、

公衆衛生、予防医学の観点から牛乳の飲用を広く奨励し、

その手段として牛乳搾取業の後押しをしたことで知られる人として、

蘭学医で初代陸軍軍医総監となった、佐藤良順(のちに松本良順)という人物がいます。


松本良順の父、佐藤泰然は、

現在のお茶の水にある「順天堂医院」を開いた人です。


 お茶の水は、

平成24年5月まで全国牛乳流通改善協会の事務局

があった場所でもあります。


 松本良順は、初め東京の早稲田に西洋式医院を開設し、

そこで病人に治療のため、

また一般の人にも大いに牛乳を勧めたといいます。


 明治維新後、旗本や武士の中には牛乳搾取業に転じた人がおります。


 松本良順は、遠縁にあたる旧旗本の阪川當晴に搾乳所を開くよう薦め、

阪川は東京で初めて、赤坂に和牛一頭で搾乳所を開きます。のちに麹町の

現在のイギリス大使館のあたりに移りました。

いずれも、武家のお屋敷跡でした。



▼明治時代の牛乳は文明開化の先端:


 明治4年に天皇陛下が牛乳を毎日2回ずつ飲んでいることが新聞に載ると、

国民の間にも牛乳飲用が次第に広まりました。


 世の中は文明開化一色となり、何事にも欧米を真似するようになりました。


 ところで、明治維新となり徳川政府がつぶれると、

当時の旗本や武士たちは職を失ってしまいました。


 そこで政府は失業対策のひとつとして、畜産政策を掲げます。

これにより、旧エリートたちは牛乳搾取事業に次々と転業。


 当時の東京には大名や旗本の屋敷跡がたくさんあったので、

土地の広さの点では、牛を飼うには困りませんでした。


 榎本武揚、大久保利通や西郷隆盛といった名士たちも

畜産に大いに理解を示し、その普及に熱心だったと言います。


 東京では、大名・旗本の屋敷跡で牛を飼い、牛乳を販売することは、

収入を失った武士たちの転換事業となったようです。

 

 公爵や子爵が牛乳屋を経営し、

配達員が大きな缶で一軒一軒計り売りをするというのがその頃の状況でした。


 やがて、容器も180ml のブリキ製の缶から瀬戸物のびん、

ガラスびんへと変わってきました。


 こうして、酪農の発展と製造技術の進歩で広く普及した牛乳は、

いまや私たちの生活に欠かせない食品となって

明治初頭から東京には続々と牛乳搾取所が開店します。


 この頃から既に、店頭での量り売りのほか、

戸別配達を行っていたと思われます。


『牛乳と日本人』(吉田豊著、2000年、新宿書房刊)には、

次のようなくだりが紹介されています。


 これは、千里軒といった運送業兼牛乳屋の話。

玄関に袴をつけた番人をおいていた。

牛乳を注文にきたお客は

「遠路お気の毒ですが、どうか毎朝一合ずつお届けなすってください」

といって、番人にお願いをしたというから、いかにも、もと武家である。

『牛乳と日本人』(吉田豊著、2000年、新宿書房刊)


 もっとも初期の牛乳宅配は、

大きなブリキ缶に牛乳を入れ、

それにジョウゴと柄の長い杓子をかけて一軒一軒訪問し、

お客に出してもらった容器に量り売りしていたと言います。


 東京では、明治10(1878)年代まで

量り売りのスタイルで宅配され、

その後、宅配用の缶やビンが登場することになります。


しかし、 地方では輸送缶で運ぶ牛乳宅配がまだしばらく続いたようで

明治30 (1898)年前後の宅配牛乳の様子が書籍に伝えられています。


『私の覚えているその時分の牛乳屋はびんに入れて配達するのではなく、

珈琲沸かしのような形をした高さが二尺位もある大きな缶に牛乳を入れて携げて来た。

その缶の蓋を取ると、内側に柄のついた小さな柄杓ひしゃくさき

一寸曲げて缶の縁 にかけるようになったのがぶらさがっている。

私は初めから牛乳がきらいではなかったけれど、しかしそうやって牛乳屋が蓋を取ると、

缶の中に何升も入れてある生の牛乳のにおいがぷんぷんにおって来るので臭いと思った。

年寄りなどはけがらわしい物のように思っていたらしいが、

子供の滋養になるというので私に飲 ませたのであろう。

牛乳屋が来ると家の者が牛乳を沸かす土鍋を出してそれに注いでもらうのである。

牛乳屋は柄のついた小さな柄杓を土鍋の上にかざし、少し缶を傾けると、

コーヒー沸かしの注ぎ口ようなところから白い汁が音を立てずにするすると出て来る。

それを柄杓に受けて土鍋に移す。柄杓に一ぱい五勺(編注:約90ml)とか一合

(編注:約180ml)とかいうのであったろうと思う。最後の一ぱいは必ずなみなみと溢

(あふ)れさせておまけをする。私などはそういう事をするのを、

初めから仕舞まで傍について見ていた。

その当時の生活に牛乳という物はよっぽど珍しかったに違いない。

私の外に犬も牛乳屋が来ると傍にくっついて離れなかった。

だから牛乳屋は最後に缶の長い口から地べたに二三滴牛乳を垂らし、犬にもお愛想をして帰る。

犬はいつ迄もそこの土を舐めて止めないからいくら犬の舌でも痛くならないかと思った。』

『菊の雨』所収(1939年、新潮社刊)



 ところで、

この当時の牛乳の値段はいくらくらいだったのでしょうか?


 明治6(1973)年東京に開業した和田牛乳の、

明治12(1879)年の牛乳の値段は1合で3銭2厘。


当時の日本酒1升(1,800ml)に相当する値段で、

かなり高額だったことがわかります。


和田牛乳の明治12年の収支決算は、純利益が374円。

白米10kgが55銭という時代なので、

非常に大きな収益と言えますが、

これは当時は牛乳が薬用であったことを物語っています。


事実、お屋敷町に牛乳を売りに行くとき、

配達夫は周囲をうかがい、裏口からこっそりと入ったと言います。


これは、牛乳を買う家には病人がいるという、変な噂が立たないようにとの配慮からでした。



 こうして、ブリキでできた輸送缶の時代を経て、

明治20(1887)年頃からは、

ビン詰めでの宅配に変化してきました。


 初期のガラスびんは青や緑色をした有色びんが多く、首が細長いものでした。

陶器や金属製のふたを針金で押さえたり、木や紙、綿などで栓をしたり、

または金属のねじぶたで口を閉じていたようです。


 大正時代に、現在のびんビールで使用しているような王冠栓が登場してからは、

王冠栓が一般的になります。


 この頃まで、牛乳と言えば、しぼったままの、いわゆる生乳でした。


 明治30(1897)年代に王冠や陶器製の栓が登場すると、

ビンごと熱湯につけて殺菌するようになります。


 ただし当時の処理技術では賞味期限も短く、

朝と夕、1日に2度配達するようなケースも多かったようです。


 昭和にはいると、それまで細長かったびんの口が、

現在見なれている、おなじみの広口の無色透明ビンに変わります。

昭和2(1927)年に、初めて牛乳の殺菌処理が義務づけられ、

同時に牛乳ビンの統一が図られたのでした。


 また昭和3年10月、警視庁により施行された 「牛乳営業取締規則施行細則」で、

小売り配布用の牛乳は「無色透明硝子罎ガラスびんを用い、王冠栓を密栓」

することが義務づけられました。


 ところが、当時は無色透明ガラスびんに王冠栓で密栓することが難しく、

業者は頭を抱えてしまいます。


 そこで外国の牛乳びんのカタログを取り寄せたところ、

紙栓をしてフード(掛け紙)をしているタイプのものがあり、

警視庁はこれを認めたと言います。

初期のフードはパラフィン紙を輪ゴムで留めたものでした。


 ですが一時は統一が図られた牛乳びんでしたが、

昭和10年代になると戦前・戦時中で戦況下の物資不足に伴って、

物資不足のため再び有色びんが使用されるようになります。

青いびんのほか、「雑びん」と呼ばれる再生ガラスの黒いびんも現れます。


 もっとも戦後になってまた透明の牛乳ビンに戻ります。


 また、戦前は人力車や自転車による配達だったのが、

戦後はトラックが登場。


 昭和30(1955)年代以降は日本の経済成長に呼応して、

牛乳の消費量も飛躍的に増えたため、


 トラックによる大量輸送がメインとなっていきます。

当初はトラックの荷台に牛乳箱を積み、

氷塊といっしょに輸送していたそうです。


 現在の宅配では保冷車が使用されることが多く、

家庭用に専用の保冷箱も普及し、

より牛乳の鮮度が保たれるようになりました。


 また、人々の暮らしの変化に合わせ、毎朝の宅配だけでなく、

夕方や、週に1日だけでも配達してくれたり、

インターネットで注文ができる牛乳販売店も多くなっています。


 さらに、全改協の加盟店は、

地域イベントに積極的に参加したり、

一人暮らしの老人の安否を気遣ったりと、

宅配牛乳も時代の変化に即して、

より便利で安心なものへと進化を続けています。

乳をゆっくりことこと煮詰めると 酪になります

酪を更に煮詰めると生蘇、次に 熟蘇になります

蘇を更に更に煮詰めると 醍醐になるのです


砂糖を入れてから煮詰めると

コンデンスミルクになるのです

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