現実:食-ヤクルト
生菌を利用して腸内改善を促す飲料として、最も知名度が高いと言っていいのがヤクルトです。小売店で販売されているのは勿論ですが、個人宅と契約を結び、営業がヤクルトを直接販売してもいます。ヤクルトの営業の方がバイクで地域を回っているが目に付くのもそれが原因です。まず、この販売力が比較部分として他の飲料よりも優れている部分でしょう。
軍用ヤクルトは存在しないが
宅配を戦時中から行っている
▼「ヤクルトの父 代田稔」:
代田 稔(しろた みのる、1899年4月23日 - 1982年3月10日)は
日本の医学博士、実業家。
ヤクルトの開発者で実質的な創業者。
長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)出身。
貧しい人でも健康を手に入れられるよう
「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を
経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。
世界の人々の健康を守りたいと言う「代田イズム」
◎「予防医学」:
病気にかかってから治療するのではなく、
病気にかからないための「予防医学」が重要
◎「健腸長寿」:
腸を丈夫にすることが、
健康で長生きすることにつながる。
◎「誰もが手に入れられる価格で」:
1人でも多くの人々に、手軽に飲んでもらいたい。
「予防医学」を研究して「子供たちを助けたい」という純粋な情熱は、
「健康な腸を保つことで長生き」ができる「ヤクルト」を生み、
「誰もが手に入れられる価格」で販売して世界中に広がりました。
文字にすると当たり前で簡単なように見えますが、
利潤を追求する「企業」にとってこれは非常に難しいミッションです。
まさに人道的な医学者の「情熱と覚悟」が、
世界中で愛される商品を生んだのだと思うと本当に頭が下がる思いです。
ああ 心に愛がなければ健康飲料じゃないのさ
★「ヤクルト」:
三島海雲氏が「カルピス」で
乳酸菌飲料というカテゴリーを創設した
調整者ならば、
代田稔博士は、
その乳酸菌を医科学的に研究し、
世界で初めて「人腸乳酸菌(ヤクルト菌)」の
強化培養を成功させ、
清涼飲料水から「健康飲料」へと進化させた
革新者といえるでしょう。
1921年(大正10年)に代田氏が京都帝国大学に入学して
医学を志したのは、故郷の原風景がきっかけとなったのでした。
明治32年長野県飯田市に、
代田稔は生まれた。
生まれ育った長野県飯田市伊那谷は、
日本アルプスの山々に囲まれた僻地の盆地で、
武田信玄公以来の険しく貧しい土地柄のため、
ほとんどの家庭が貧しい村のままでした。
そんな中でも代田家は紙問屋や養蚕を営んでおり
比較的裕福な家に生まれた稔少年ですが、
自然の厳しい伊那谷の村の生活はそれは苦しかった。
周りの貧しい家の子たちが、
本来なら栄養状態や衛生状態が良ければ治るはずの、
赤痢や疫痢などの感染病にかかり
虫のようにあっけなく亡くなってしまうという
非情な現実を目の当たりにします。
稔は成績も優秀で、父の勧めもあり医師を志した。
「伊那谷は貧しくて赤痢などで死ぬ子が多い…
医学を学び病気の予防を研究し、日本の子供を救おう」と。
疫病を治したい。その決心を胸に、
代田氏は大学で微生物研究に没頭します。
こうして大正10年京都帝国大学へ入った稔は、
本格的に研究を始めたのでした。
担当教授の清野教授に認められた稔は、
微生物学教室に残って研究を続けることになった。
1900年初頭、ロシアの生物学者メチニコフは
「人間の老化は腸内にすむ細菌が
有害物質を腐敗させるからだ。
ブルガリア地方に長寿の人が多いのは
ヨーグルトを常食しているからで
ヨーグルトに含まれる乳酸菌が
腸内の腐敗菌を退治するためである」
と述べている。
しかし、その後、稔の研究では、
その乳酸菌は胃液などで死滅し
腸内にはすめないということがわかってきた。
そして研究を進めるうちに人間の腸の中には、
栄養を吸収して体を強くする善玉菌と、
病原菌となる悪玉菌が存在することを見つけます。
そう細菌には、赤痢菌やチフス菌などの悪玉菌もいるが
これと戦うのが善玉菌だ。
人の体の中の人腸乳酸菌こそがその善玉菌だ。
栄養状態も悪く、
体力のない子供たちが疫病にかかってしまっては、
まず助からない。
それならば病気になる前に病原菌を退治する
善玉菌を増やすことで予防できないだろうか。
そこで稔は考えた。
「この人腸乳酸菌を胃液などで死なない丈夫な菌に
育てることはできないか?
人の腸内にすむ乳酸菌を取り出し
胃液や胆汁を加えた培地で鍛えてみよう」
この「予防医学」と「健腸長寿」の理念の下
研究を重ねた結果、
1930年(昭和5年)ついに生きたまま腸に届く
乳酸菌の強化培養に成功します。
乳酸菌を培養したのは世界初であり
これはシロタ株と呼ばれることになった。
これが後にヤクルト菌(L・カゼイシロタ株)となる
「ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株(ヤクルト菌)」
の発見の瞬間でした。
▼「ヤクルト」誕生:
1935年(昭和10年)、九州に資金援助してくれる人がおり、
福岡県福岡市に「代田保護菌研究所」を設立し、
いよいよ「ヤクルト」の製造・販売を開始します。
代田博士の理念に共感した人々が集まり
「代田保護菌普及会」が発足しました。
これがヤクルト販売組織の始まりです。
「ヤクルトは生きています。
鮮度が命ですから直接家庭まで届けてください。
なぜならば、乳酸菌というものには鮮度があります。
時間が経てば経つほどに、菌とは死んでいくものなのです。
真の意味での乳酸菌の効能とは、静的な状態ではなく変化の動態――
腸内で死菌から生菌へと切り替わる、その瞬間のことを言う。
如何でしたか? 瑞々しく新鮮な乳酸菌とヤクルトの味は。」
これは、乳酸菌が生きて繁殖し続けることで、
飲料としてのバランスを失ってしまうからと
されています。
この販売システムは後に「ヤクルトレディ」を生むことになる。
3年後の1938年(昭和13年)に「ヤクルト」を商標登録。
この「ヤクルト」という名は、
世界共通語となることを目指して作られた人工言語の
「エスペラント語」で「ヨーグルト」を意味する
「JAHURTO」を基に
いいやすく「ヤクルト」と名づけた。
わざわざ「エスペラント語」から選んだのは、
世界中の人々を健康にしたいという志の表れだったのでしょう。
しかしながら、戦争の色はますます濃くなり、
代田博士も軍の命令で徴兵のため、
中国のハルビン医科大学の教授として
中国に医師として渡ることになり日本を離れます。
1940年(昭和14年)戦火が激しくなると
平和主義者の博士は1年で退官し帰国。
ヤクルトの製造にすぐとりかかった。
「戦争で多くの人が苦しんでいる。
特に子供たちは栄養失調になる。
ヤクルトで生き延びて欲しい。
値段はうんと安く
ハガキ1枚
タバコ1本
の値段にして、
できるだけ多くの人に届けたい。」
そうした思いで西日本を中心にヤクルト販売に力を入れていき
誰でも手に入れられるように
販売専門の「代田保護菌普及会」が各地に誕生しました。
「普及会」という名の如く、
その販売方法はさながら普及活動のようでした。
その時のスローガンこそが、
「ハガキ一枚、煙草一本の値段で健康を」です。
これは代田博士が医学を志した動機である、
「子供たちを健康にしたい」という信念が込められています。
当時は戦争が泥沼化し、日本全体が貧しく、
食糧不足に陥っていたため、
誰もが手に入れられる安い値段で届けられるようにしたかったのです。
余談ですが、代田博士はあくまで事業者ではなく、
研究者としての立場を取り、
上記の価格で販売することを条件に、
賛同する販売者に対して種菌を提供して各地で製造・販売を委託していたため、
当時は各地域によって味もパッケージも異なっていたそうです。
博士が創業者ではなく、「ヤクルト創始者」と記載される所以です。
こうして稔は、必死で働いた。
そんなとき妻が急死。
そして、終戦。
「何もかも失った
最早私には研究しか残っていない
ならばとにかくヤクルト研究に打ち込もう」
戦争末期から敗戦で原料が手に入らず製造中止に追い込まれたものの、
ヤクルトは広く普及し、販売会社は全国に拡大していった。
1950年(昭和25年)そしてついに「ヤクルト」の製造・販売を再開します。
1955年(昭和30年)、全国の販売網をまとめ東京に本社を設立。
それまで地域でバラバラだった味や規格を統一して全国展開していきました。
1960年(昭和35年)、クロレラを入れた「クロレラヤクルト」が登場。
しかし、この製品は5年ほどしか売られなかった。
一方、配達の人が女の人だと安心して買ってくれる点を発見。
「各家庭でヤクルトを受け取るのは主婦が圧倒的だ、
販売員は男性より女性の方が親しみやすいし
お客様への健康アドバイスもやりやすいな」
1963年(昭和38年)から始まった独自の「ヤクルトレディー」販売システムの導入
「ヤクルト」販売で特筆すべき、ヤクルトレディが誕生。
当時はまだ「女は家にいるもの」という風潮が強く
ヤクルトレディは女性の社会進出の先がけになったといえる。
子どもは言う
「ヤクルトのおばちゃん」
ヤクルトレディがにこやかにパチキをかます
「おねえさんとお呼び
こうみえても、私たちは独立販売店なのよ」
「……イエス、レディ」
「ヤクルト」の主要顧客は「家庭を持つ女性」であり、
その「お母さん」が販売者として、
各家庭や企業へ自転車で宅配に回る姿は、まさに健康そのもの。
セールストークにも説得力があります。
まだ主婦が働くこと自体珍しかった当時からすでに、
個人事業主として委託契約し、
現在の「ダイバーシティ(多様性)経営」を取り入れていた
パイオニアであるといえるでしょう。
営業所も託児所を完備しているところがほとんどで、
小さいお子さんがいるお母さんにとってはありがたい職場だと思います。
もちろん宅配販売は歩合制できついですが、
創意工夫と努力で稼ぐこともできるので、
企業としてもモチベーションの高い人材が確保できる利点があります。
これも「良い商品」を売っているという
「やりがい」も必要不可欠だといえるでしょう。
この強固な販売システムは、日本だけでなく、
中国などのアジア地域、ブラジルなどでも展開されています。
こうしてヤクルトレディは全国約140の販売会社に属し
5万2000人それぞれが独立した販売店という
システムになっていった。
1968年(昭和43年)、
それまでガラス瓶からプラスチック容器に代わった。
ガラス瓶は重いし
回収と洗浄に手間が掛かったけど
これは楽になったと、大好評。
1974年(昭和49年)
スーパー等でも販売されて(5個パック売り)
一気に売り上げが伸びた。
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▼疑問:
①ヤクルトってなんでこんなに小さいのか?
65ml容器には
ヤクルト菌が150億個以上入っていて、
お腹を快調に保つには
これで十分だから、だそうだ。
②容器のクビレは何?
このクビレは
一度に飲み込まず
ゆっくり味わってもらうための
工夫、なんだそうだ。
▼まとめ:
「ヤクルト」
株式会社ヤクルト本社により製造・販売されている乳酸菌飲料である。
株式会社ヤクルト本社は、
日本の飲料・食品・化粧品・医薬品メーカーで
乳酸菌飲料メーカーとしては国内最大手。
「Yakult」(ヤクルト)はエスペラント語で
ヨーグルトを意味する「Jahurto」(ヤフルト)から作られた造語。
ヤクルトを代表とする「乳製品乳酸菌飲料」が、
その創始者である代田博士により
「日本国民の健康に広く寄与する」ために
国内に広められて以来、
「明治 がんばれ元気」(明治乳業(現・明治))、
「ローリーシリーズ」
(雪印ローリー→雪印ラビオ→カゴメラビオ→カゴメ)、
「クロレラライトシリーズ」(クロレラライト本社)等、
類似商品が多数製造・発売されている。
これらは「発酵乳」製造技術を持つ企業による製品であり、
多くの製品が「L.Casei」という種名の乳酸菌が利用されている。
近年では「L.Casei」の中でも株名(ヤクルトでは「シロタ株」)まで
こだわった商品も多く、特定の菌株ごとの健康効果をPRしている。
▼略歴:
1930年(昭和5年)
代田稔、乳酸菌「ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株」
(ヤクルト菌)を発見、強化、培養に成功。
1935年(昭和10年)
福岡県福岡市で代田保護菌研究所のもとに
製造・販売を開始。初代社長は代田に賛同した永松昇。
1938年(昭和13年)
「ヤクルト」の商標を登録
1939年(昭和14年)
山口県下関市に代田研究所設立。代田稔、研究所長就任。
1940年(昭和15年)
販売組織「代田保護菌普及会」が各地に置かれる。
1955年(昭和30年)
(旧)株式会社ヤクルト本社を設立。代田稔、代表取締役就任。
ヤクルトの製造販売を開始。
京都府京都市に代田研究所設立、代田稔、研究所長就任。
1963年(昭和38年)
主婦など女性を起用しての
「ヤクルトレディー(通称・ヤクルトおばさん)」による販売を開始。
1980年代までは非上場会社だった。国外売上比率は4割。
小売店で販売されているのは勿論ですが、
個人宅と契約を結び、営業がヤクルトを直接販売してもいます。
ヤクルトの営業の方がバイクで地域を回っているが目に付くのもそれが原因です。
この販売力が比較部分として他の飲料よりも優れている部分でしょう。
■世界最強! 知られざるヤクルトおばちゃんの世界
その昔、自衛隊の専門誌に
「神経がザイル縄より図太いヤクルトおばさんは
ソ連の情報部員ですら入れない部署にまで
堂々と入ってくる」と書いて注意勧告されていたそうです。
来るよ、来るよ、あなたの後ろにベターウーマン!!
ヤクルトさんは、世界で初めて?託児所を100%完備し子育て世代、
とくにシングルマザーを積極的に雇用した偉大な会社だと思っています。
そして同じ理由で、ヤクルトおばじゃんの根性(営業力)は半端ない。
見逃しがちですが実は世界に通じるグローバルカンパニーなのではないでしょうか?
あなたの職場にも現れるヤクルトおばちゃん(現・ヤクルトレディー)
の知られざる世界を紹介していきます。
「ヤクルト」というのはスゴイ会社です。
正確に言えば、「ヤクルト」という乳酸飲料がスゴイ、のではなく、
「ヤクルトレディ」というシステムがすごい会社です。
それはいち早く、「女性による個宅販売」という仕組みに着目し、
組織作りをすすめた戦略の賜物でした。
ヤクルトレディの販売方法は、他にも独特の仕組みがあります。
・固定給でなく歩合だ
・ヤクルトおばちゃんは、
朝、必要なヤクルトを販売店から購入し手売りをしていく (※売れ残りはおばちゃん負担)
・おばちゃんの愛想1つでおばちゃんは、儲かる(らしい)。
本社はもっと儲かる。
乳製品は、健康によく、毎日飲むことに意味がある、
というイメージもあるので、実はよく考えられたビジネスモデルです。
国内のヤクルトレディーは73年度の6万5700人をピークに減少傾向にあるといわれ。
優秀な販売員が生命保険会社に引き抜かれるケースも多いものの、
女性が働きやすい環境を整えたことが飛躍のきっかけをつくりました。
女性の社会進出が難しかった昭和40年代、
ヤクルトはいち早く女性おばちゃんの能力に着目し、
販売店に託児所を併設し、おばちゃんにとって働きやすい環境を実現。
いままで働きたくても働けなかった多くの女性の社会進出を実現させました。
この中には、シングルマザーのお母さん達も多く含まれます。
こうして採用されたヤクルトおばちゃん達の根性は半端なく、
また手売りというビジネスモデルを最大限に生かし、
あなたの職場、病院、学校、警察署、
はたまた機密に守られた自衛隊駐屯地にまでおばちゃん達が侵入してくる? こととなったのです。
「ヤクルト」は世界を制するビジネスモデルになり得た理由
レディのやる気に火を点け、それを高める「仕掛け」と「工夫」があるからです。
「やる気がある女性が稼げる」という環境を作った、ということではないでしょうか?
いま、ヤクルトレディは日本だけではなく全世界にいます。
世界31カ国・地域で事業を展開。
販売を担う「ヤクルトレディ」も海外では4万1600人と、日本の4万600人を上回りました。
日本のママさん達を助けたように、
ヤクルトは世界中の働く女性を助けるビックカンパニーです
一説には、ヤクルト本社が運営するプロ野球のヤクルトスワローズは、
一人ひとりが個人事業主であり、基本仲の悪いヤクルトおばちゃんの連帯を深めるため、
本社が用意した連帯意識を高める装置との指摘があり、
都市伝説レベルのお話しでは、ドラフトの指名の際には、
おばちゃんが喜ぶイケメン選手を優遇されるそうです
またヤクルトスワローズは、
数年前には、母親がヤクルトおばちゃんだった増渕選手をドラフト1位で指名しました。
増渕選手は、女手一つで、息子をプロ野球選手にまで育てあげたお母さんのため感謝し、
契約金で、弟の学費をねん出、さらに将来の夢として、プロ野球選手として成功し、
お母さんに家を買ってあげることを誓いました