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現実:食-兵糧-レーション-「軍用カルピス」「薬用ビタカルピス」

 軍用地、軍用車両、軍用犬、軍用チョコレート。

軍用と名前が付けばなんでも強そうに聴こえる。


 なお、カルピス自体は本来国家の認定した

“平和物資”です。 *理由は下記



▼カルピス社とは:


 企業としてのカルピスの創業者は、

僧侶出身の三島海雲である。


 彼は〝心とからだの健康〟を願い、

酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、

製品開発に取り組んだのだと言われている。


 なお、月光仮面の極めて東洋的な正義観

「憎むな、殺すな、ゆるしましょう」という理念も、

原作者の川内康範の実家が日蓮宗の寺だったことが影響していると言う。

(しかし、「おふくろさん騒動」以降に小説版の再版が行われた際は

「憎むな、殺すな、真贋まことただすべし」と改めている。)




▼第2次世界大戦中のカルピス社:


 日本は、1938年(昭和13年)年4月の

国家総動員法の公布から戦時統制に入り、

産業界は政府の統制下におかれました。


 「カルピス」のように食品のなかで

嗜好性の強い飲料は“平和物資”とみなされ、

厳しい統制を受けました。


 1941年(昭和16年)に

太平洋戦争が勃発すると、

全ての原料・資材が軍の統制下におかれ、

生産を中止せざるを得なくなりました。


 ですが事態が深刻さを増していくなかで、

「カルピス」は改良されることで、

軍需物資として認定され軍の命令により、

ようやく原料・資材の特配を受けることができ、


 軍用「カルピス」、


 軍用「ビタカルピス」

 (「カルピス」にビタミンを加えたもの)


を製造し、軍部に納入することになり

その命脈をつなぐ事ができました。


 なぜなら偶然発見された「カルピス菌」は

大正時代から原液を注ぎ足して作り続けているので、

一度失われればもはや取り戻せない、

そう「カルピス」は二度と作れなくなるからです。


 よって1945年(昭和20年)に入り、

空襲が頻繁になると、

カルピス社は重要資材を疎開輸送させました。


 同年5月21日深夜から

22日早朝にかけての

人道に対する罪、国際法違反である

民間人に対する無差別殺戮の

東京大空襲・空爆(東京大虐殺)により、

各拠点が被災し、

本社のある渋谷・恵比寿の一体は

焼け野原と化しました。


 従業員の人命には

影響がなかったものの

製造設備だけでなく、

長年の研究記録、統計等の書類なども

一夜にして焼失しました。


 こうして8月に終戦を迎え、

ゼロからの出発を余儀なくされました。


 謂わばカルピスのグランド・ゼロである。


 1946年(昭和21年)に

東京工場の再建を完了させ、

牛乳の代用品である

厚生乳の生産を中心として、

復興へと歩き始めました。


 1948年(昭和23年)には

人工甘味料を使用していたものの、

ついに待望の「カルピス」の

生産を開始しました。


 なお、砂糖の統制が解除され、

全糖の「カルピス」

(戦前と同じ「カルピス」)の生産が

再開されるのは、1953年(昭和28年)のことでした。


 この間、1946年(昭和21年)に

戦時補償打ち切り令が発布され、

終戦直後に交付された戦時保険金の

即刻返済が求められたことで、

カルピス社は倒産寸前の危機に陥りました。


 1948年(昭和23年)に企業再建整備法の施行規則を

決めた大蔵省令の改正で返済問題は解決しましたが、

その改正内容に基づき、

第1会社であるカルピス製造株式会社を解散させ、

新たに第2会社としてカルピス食品工業株式会社を設立し、

新しい一歩を歩み始めました。



▼ビタカルピスの発売:ビタカルピスは軍靴の足音?


 1949年(昭和24年)9月からは、

「ビタカルピス」の生産も開始された。


 ビタカルピスは、戦時中、

陸軍糧秣廠の依頼で生産された

軍用のビタカルピスの再現である。


 終戦後数年経ち、

終戦直後からくらべると食糧事情は多少よくはなっていたが、

まだまだ十分とはいえず、

ビタミン摂取の必要性が説かれている時期でもあった。


 ビタミン剤服用も流行し始めていたので、

こうしてビタミン入りカルピスを

一般市販用として売り出すことに踏み切ったのだった。


 カルピス社がビタカルピスを発売した直後から、

食品にビタミンを添加することが流行し始め、

ビタミン入りの育児用粉乳や、

ビタミン添加の強化米などがつぎつぎに市場に

出回るようになった。


 他にはビタミン入りのビタミン剤とか?


 その意味でカルピス社のビタカルピスは、

ビタミン添加食品の先駆ともなった製品といえる。


 このビタカルピスは、

オレンジ色地に白水玉模様の包装紙を用いて、

従来のカルピスと区別した。


 ビタカルピスの甘味料も、

当初はやむなく人工甘味料を使用したが、

1950年(昭和25年)2月から水飴に替え、

「特製ビタカルピス」として発売した。

包装紙は、人甘ビタカルピスと同じ

オレンジ色地に白水玉のものをそのまま用いた。


 このビタカルピス発売に先立って、1949年(昭和24年)4月30日、

厚生大臣あてに公定書外医薬品製造認可申請を行ない、

同年6月10日に許可されている。


 ビタカルピスの成分には、

日本薬局方の純ビタミンB1や国民医薬品集のビタミンB2のほかに、

レモンエッセンスや乳酸石灰が含まれていたので、

公定書外医薬品に該当したのである。


 その効能としては、結核性疾患、熱性消耗性疾患、

腺病質、脚気、胃病疾患等によいとされているが、

このことを訴求する場合は、医薬品として、

薬局ルートでの販売しか許されない。


 そこで1949年(昭和24年)9月にビタカルピスを発売するにあたって、

薬事的効能はうたえないけれども、

広く一般食料品店で取り扱ってもらえるほうが有利と判断し、

まずカルピス同様、食品ルートで売り出したのである。


 したがって、ビタカルピスのキャッチフレーズには、

「妊産婦・病人・発育期のお子様・スポーツの後に」というような、

間接的に医薬的効果を表わす表現が用いられた。


 それでも、このような訴求は、

当時、大量に出始めた類似の乳酸菌飲料との差別化を図るには、

おおいに役立ち、その後、1949年(昭和24年)12月28日付で厚生大臣あてに

公定書外医薬品製造の変更許可申請を行なった。


 ビタカルピスの内容成分をより強化して、

「薬用ビタカルピス」の製品名のもとに茶色地に白水玉の包装紙で、

薬品卸店を通じ薬局で販売することを目的としたものである。


 この薬用ビタカルピスの製造許可は

1950年(昭和25)年3月20日付で交付され、

そこで

 食品卸店を通じて特製ビタカルピスを

 薬品卸店を通じて薬用ビタカルピスを

と、それぞれに販売するという二枚看板による販路拡大策を、

1950年(昭和25年)3月から開始した。


 しかし、この薬用ビタカルピスは当初期待した販売量にいたらなかったため、

同年9月には、再び特製ビタカルピス1本に絞って販売することとなった。



 ですが、後にスーパーの特定保健食品の売り場やドラッグストアで

販売される謂わばビタカルピスの後継商品があった。

1997年に発売されたロングセラーの製品「アミールS」です。


 「カルピス酸乳/アミールS」は、

「カルピス」を起源とする長年の乳酸菌科学から見出された

「カルピス酸乳」由来の関与成分「LTP」を含む、

すっきり爽やかな味わいの乳性飲料で、

毎日の習慣として手軽においしく続けることができる

カルピスの製造過程で生まれる酸乳の

血圧抑制効果に着目した健康飲料で

血圧が高めの方に適した消費者庁許可の特定保健用食品の乳性飲料です。


 「カルピス酸乳/アミールS」を毎日継続的に飲用した結果、

飲用前に比べ有意な血圧低下が認められました。


 「LTPラクトトリペプチド」は独自の乳酸菌が発酵の過程で

生み出す牛乳由来の成分で血圧を調節する働きがあり、

「カルピス酸乳/アミールS」はこの「LTP」を含んでいるので、

血圧が高めの方に適しています。


 「ラクトトリペプチド」はカルピス社の研究により、


●血管機能改善作用

●血管内皮機能の改善

●動脈硬化の予防作用

●血管年齢を若返らせる作用


などが血管の健康に関する作用が確認されています。



 当初はグリーンの瓶入りで発売されていたが、

現在はペットボトル入りである。




▼カルピスとは:


 乳酸菌飲料のカルピスは、

原液は非常に高濃度でそのままでの飲用は推奨されていない。

と、いうかまず一気飲みなどできない、軽く死ぬ。

寄って通常、水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とする。

かき氷のシロップとして、またカルピスハイなどの材料にも使われる。


 ……って、またこれが薄いだか濃いだかで一悶着あるのだが、

この際は割愛する。


 原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、

戦前から一般家庭の常備品や軍隊の補給品として、

戦後は贈答用としても広く使われている。

また、来客用に出す場合は概ね濃くしてだす傾向がある。

薄いとけち臭いのである。


 そもそもの飲料のカルピスは

1919年(大正8年)7月7日に販売が開始された。


 この時のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れのビンで、

ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装だった。

(ミロのヴィーナスに特に意味はない。)


 1922年(大正11年)に水玉模様の包装紙を巻いたものになる。


 カルピスのパッケージの水玉模様は、

発売日の七夕に因んで天の川(英語: Milky Wayミルキーウェイ

をイメージしたもの。


 最初は青色地に白い無地玉で、

1953年(昭和28年)に色を逆にし、白地に青い水玉とした。

その後若者達が白地に青い水玉が好きになったかどうかは杳として知れない。


1927年(昭和2年)には森永乳業よりコーラスが発売され、

1980年代まで人気を二分した。

だが、その後の明暗が……いったい何処で差がついたのか?


1941年軍用カルピス、

1943年軍用ビタカルピスが製造され

 陸軍の原料資材提供を受け兵士の健康飲料とされた。

ビタカルピスはオレンジ色の水玉模様の包装紙で包まれていた。


1969年 オレンジカルピス・グレープカルピスも登場。

 その後は希釈済みの製品として、


1973年(昭和48年)に炭酸水で希釈したカルピスソーダを発売。

 炭酸水希釈のソーダ飲料としたのは、

当時の技術では普通の水による希釈では長期の品質維持に

門題があったためである。


1980年代も終盤に差し掛かると生活様式の変化により、

飲用時に希釈が必要な従来の原液カルピスは、

一般家庭では徐々に疎遠な存在となっていった。


1991年(平成3年)には希釈の手間を省いた

カルピスウォーターが発売され、大ヒット商品となった。

まるで味が違うのである。


原液のカルピスは瓶詰めの商品で、

瓶が重いことなどから1995年(平成7年)に

紙パック入りが登場した。

これが近年の販売の主体となっている。

これにより、商品のコンパクト化が実現された。


2012年(平成24年)4月9日より、

新たに開発した4層構造のプラスチックボトル「ピースボトル」を採用。

レギュラー・ダイエット・ぶどうが全面リニューアルし、

新規発売のオレンジとマンゴーも同じ「ピースボトル」を採用。


主原料の砂糖・生乳の価格高騰が続いていることから、

希望小売価格は据え置きながら、

内容量は従来の紙容器から30mL少なくなり、470mLとなった。


 これ「470」の「47」は15番目の素数であるため、

割り切れないので希薄する関係上計量に問題がでるんですけど〜〜


(47はオカルト(神秘学)では非常に重視される数字。

 4と7は聖数。四つの生き物。四元素。春夏秋冬の四季。

 東南西北の四方。神の七つの御霊。

 一週間は7日。金星(=明けの明星=金星神=救世主)の

 最大離角は約46度~47度。

 そのため、オカルトの知識を知っている者=

 オカルト組織マニアの関係者は、

 (組織や物の)名や数やイベントの発生日などに、

 しばしば中二病を発し「47」を用いる。)


 このピースボトルのモチーフは昔の水玉包装のカルピスで、

懐かしさや親しみを与えようとデザインされた。

風味維持のために光、空気を遮断する、

プラスチック4層構造。

PETよりも耐熱性に弱い素材であり、

カルピス製造時の熱殺菌、充填、冷却に伴う容器の変形を防ぐための

様々なノウハウが必要だという。

紙パックに比べ持ちやすいカーブをもたせ、

また液切れのよいキャップを採用した、

単に薄めて飲む以外にもかき氷に掛けるなどの使い方に配慮している。

廃棄の際もキャップとボトルとラベルは同じ素材で分別不要である。




▼カルピス、誕生! :


 海雲氏は、カルピスの本質を


●おいしいこと

●滋養になること

●安心感のあること

●経済的なこと


としています。


 そして仏教哲学に精通し、

その思想を根底に生きる氏は、

「国利民福(国家の利益となり、人々の幸福につながる)」

の精神に則り事業を進めていくのでした。


 それが最も顕著に現れたエピソードが、

1923年(大正13年)の関東大震災での「一杯のカルピス」です。


 これは一杯のカルピスを三人で……ではなく、

震災の火事により焼け野原となった東京でも、

幸い山手の恵比寿にある本社は水が出ました。


 そこで当時金庫にあったため

無事残されていた全財産の二千円を投じ、

工場にある原液を使って、

氷で冷やした「カルピス」をつくり、

飲み水を求める人々に無償で配っていきました。



 後に海雲は当時を振り返り

『その時私がいた山手方面は水が出たので、

飲み水に困っている人々に水を配ってあげようと考えた。

そのとき、せっかく飲み水を配るのであれば、

それに「カルピス」を入れ、

氷を入れておいしく配ってあげようと考えた。

いまこそ、日頃の愛顧にこたえるときだと思ったからである。

幸いなことに、工場には「カルピス」の原液がビヤ樽で十数本あった。

これを水で6倍に薄め、それに氷を入れて冷やして配ることにした。

金庫のあり金2千円を全部出して、この費用にあてた。

さて、配る方法である。

そのころ、トラックは1日1台80円でチャーターできた。

しかし震災のあとだけに、車は逼迫していたが、

何とか4台のトラックをかき集めてきた。

そして、翌日の9月2日から東京市内を配って回った。

私たちの「カルピス」キャラバン隊は、いたるところで大歓迎を受けた。

上野公園に避難していた人々などが、黒山を築いて私たちを迎えてくれた。』

 と、語った。


 こうしてトラック4台をチャーターして行ったカルピスキャラバン隊は、

多くの被災者を勇気づけると共に、世間に大反響を起こしました。


 また、ひな祭りには全国の幼稚園、保育園の園児に

カルピスとミニ絵本をプレゼントする取り組みを行っています。


 海雲氏が講演会で語った言葉をご紹介したいと思います。

「私欲を離れよ、そして大志を持て」


 こうやって「*1.初恋の味」は「国民飲料」となっていったのです。

モンゴルの草原で助けられた「いのち」は、

大乗仏教の精神をもって、ここ日本で大輪の花を咲かせました。

なんともロマン溢れる物語ではありませんか。



 *1.「カルピス」のキャッチフレーズ「初恋の味」は、

1920(大正9)年、

三島海雲の文学寮時代の後輩である驪城こまき卓爾が

『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。

これで売り出しなさい』と提案したことがきっかけでした。

大正9年当時といえば、

”初恋”という言葉さえはばかるような時代だったため、

(そのくせ、遊郭や芸者はもてはやされていた)

海雲は、一度は『とんでもない』と断りました。

 しかし、また驪城は海雲を訪ね、

『「カルピス」はやはり初恋の味だ。

この微妙・優雅で純粋な味は初恋にぴったりだ』とすすめました。

海雲は、『それはわかった。だが「カルピス」は子どもも飲む。

もし子どもに初恋の味ってなんだと聞かれたらどうする』と言うと、

驪城は『「カルピス」の味だと答えればいい。

初恋とは、清純で美しいものだ。

それに、初恋ということばには、

人々の夢と希望とあこがれがある』

という言葉に海雲も納得し、

1922(大正11)年4月の新聞広告に

キャッチフレーズとして使用したのが始まりです。




 こうして常に「国利民福」を目指してきた海雲は、

1962年(昭和37年)年12月、

全財産を投じて「三島海雲記念財団」を設立しました。


 財団設立に際して海雲は、

『私が今日あるのは、それは私の先輩、友人、知己、

さらには国民大衆の方々の「カルピス」に対する

惜しみないご声援によるところのものであると思った。

したがって私の得られた財物は、

ひとり三島海雲の私するものではない。

あげて社会にお返しすべきものである。

そして、お返しする方法として、

財団を設立することが望ましいとした』

とあります。


 そこで、自然科学のみでなく、

それを支える良識すなわち人文科学の分野の研究を含めて助成し、

これらの研究成果を応用して人類の福祉に寄与することを

設立の趣旨としました。


 そして海雲は、自らを「一粒の麦」にたとえました。

「私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及にあり、

広野にまかれた一粒の麦になりたい」


   -それが、海雲の財団設立に託す思いでした。




 さて、カルピス誕生のエピソードなのですが、

1915年(大正4年)

当初の目的であった緬羊事業に失敗し

辛亥革命を機に中国からチャイナ・リスクを避けるため

日本に帰国していた三島海雲は

たまたま大阪でヨーグルトを試食した。


 が、本場の味を知る身としては

これがまたあまりおいしくない。

ならばと自ら乳酸菌を活用した食品を

つくり出すことを考えた。


 一方明治ブルガリアヨーグルトは、

その約半世紀後の1970年に開催された

大阪万博のブルガリア館で

本場ブルガリアのヨーグルトが展示されたのを

明治乳業幹部が試食し

感銘を受けたのをきっかけに開発が始まったという。


 なお、菌を現地以外で培養すると性質が変わってしまうため

明治ブルガリアヨーグルトでは、

定期的にブルガリアから輸入された菌を使用している

まさにブルガリアなのである。


 もっとも、発売当初は消費者からも

「腐敗している」、「酸っぱい」とのクレーム多数あり、

まったく売れなかったそうだが。



 さて、カルピスの方だが1902年(明治35年)、

当時25歳の三島は内モンゴル

(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ、

そこで口にした酸乳ジョッヘという飲み物を参考にして、

1919年(大正8年)にカルピスを開発・発売し、

この飲料と同名の企業の創業者となったと伝えられている。


 実に100年近い歴史があることになる。


 だがただの酸乳ジョッヘと違い、

脱脂乳を乳酸菌で発酵(酸乳)しこれに加糖、

さらに酵母(馬乳酒中の酵母と近似)による発酵が

カルピス独特の風味に不可欠であることは、

長く企業秘密とされていたが、1990年代半ばに公開された。



 創業初期は 酒類・食品の卸売会社・専門商社、

国分グループだった。


 名付け親は山田耕筰と、

当時芝学園校長だった渡辺海旭。



社名は、「カルシウム」とサンスクリットの「サルピス」

(漢訳:熟酥=じゅくそ)を合わせたものである。


 サンスクリット「サルピル・マンダ」

(sarpir-maṇḍa, 漢訳:醍醐)を使用し、

「サルピス」・「カルピル」とする案もあったが

同社では重要なことを決める際には、

その道の第一人者を訪ねる「日本一主義」があり、

音楽の第一人者の山田に社名について相談したところ、

「カルピス」が最も響きが良いということで

現行社名・商品名になったという。



 「カルピス」の名前の由来は「醍醐味」です。

物事の本当のおもしろさや、深い味わいをさす言葉の語源は、

仏教用語の「五味」で「最後にして最高の味」とされています。


 五味とは、牛や羊の乳を精製する過程における、

「乳・酪・生酥・熟酥サルピス醍醐サルピルマンダ」の

五段階の味のことです。


 海雲氏はカルピス前身の最初の製品である発酵クリームに

「醍醐味」と名づけ発売しましたが、

大量生産が困難だったことから失敗。


 その後も何度かの失敗と試行錯誤を経て、ついに世界に先駆けた、

日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の大量生産に成功し、

七夕の日に発売を開始します。


 当時命名する際に、日本人に不足しがちだった「カルシウム」と

「醍醐味」のサンスクリット語の「サルピルマンダ」を合わせて

「カルピル」にしたかったのですが、どうも語感がよくない。


 それなら次位の「熟酥」の「サルピス」とくっつけて

「カルピス」ならどうだろうと、

作曲家で音声学の権威である山田耕筰氏に相談し、

お墨付きをもらったことで、

後年多くの人々に愛され続ける商品の名前となったのです。


 もっとも米国ではCALPICOカルピコという名称で販売される。

Calpisが牛の尿の意味の英語: cow piss「カウ ピス」と

聞こえることからである。


 なお、製造情報の欄には輸出会社として「CALPIS CO.,LTD.」

と書かれている。




 創業初期より、

後に日本初の乳酸菌飲料となる「カルピス」を生産していが、

これと共に、脱脂乳の生産の際に副産品として

製造を開始したとされるカルピスバターが主力商品である。


 味の素との提携後は、

カルピスを製造時に水で希釈調合しすぐに飲めるようにした

清涼飲料水「カルピスウォーター」の生産、

ミネラルウォーターの「エビアン」やワインの輸入、

カクテル「カルピスサワー」などのアルコール飲料にも進出している。



 元々は、パナマ帽を被った黒人男性がストローで

グラス入りのカルピスを飲んでいる図案化イラストが商標だった。


 これは第一次世界大戦終戦後のドイツで苦しむ画家を救うために

当時の社長の三島が開催した「国際懸賞ポスター展」で、

3位を受賞したドイツ人デザイナーの

オットー・デュンケルスビューラーによる作品を使用したものである。


 これは「黒人マーク」と呼ばれるようになり、

1989年(平成元年)に黒人差別をなくす会から、

(1988年(昭和63年)に(当時小学校4年生)の発案により発足した、

 日本の私設言論武装過激組織。

 大阪府堺市を拠点(察し)に活動しており、

 子供向け絵本 『ちびくろサンボ』を絶版に追い込んだことなどで知られる。)

“差別思想につながる”、いや「典型的差別」だ。などと

難癖を受けて現行マークに変更された。

また、カルピスは「黒人マーク」を白黒反転させたマークも商標登録している。




▼略歴:カルピス株式会社とその創業者で日本の実業家、-三島 海雲


1878年(明治11年)

 大阪府下萱野村(現・箕面市)の

浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息

として生まれる。13歳で得度。

 本願寺文学寮(現在の龍谷大学)を

卒業後英語教師として山口の開導教校に赴任するも、

その職を辞し、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入。


1905年(明治38年)

 25歳の時に中国大陸、北京に渡った。

雑貨貿易商「日華洋行」を設立。

馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売。


1908年(明治41年)

 日本軍部から軍馬調達の指名を受け、

内蒙古(現内モンゴル自治区)に入り、

ケシクテン(克什克騰)でジンギスカンの末裔、

鮑ホウ一族の元に滞在中、運命的にそれと出会う。

現地で体調を崩し、瀕死の状態にあったが、

すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ

回復を果たしたという。

 このとき海雲が口にした酸っぱい乳こそ、

馬や牛の乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」であり、

野菜を余りとらないモンゴル民族の日常食でもあった。

 海雲はのちに、

「異郷の地で不老長寿の霊薬に出遭った思い」

だったと記している。

カルピス教の誕生である。


1915年(大正4年)

 当初の目的であった緬羊事業に失敗、

辛亥革命を機に日本に帰国。

 〝心とからだの健康〟を願い、

酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、

製品開発に取り組む。


1916年(大正5年)4月 -

  前身となる醍醐味合資会社を設立。


1917年(大正6年) -

 カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立。

発酵クリーム「醍醐味」、

脱脂乳に乳酸菌を加えた「醍醐素」、

生きた乳酸菌が入った「ラクトーキャラメル」などを開発、

販売するがことごとく失敗する。

 だが海雲は人望が厚かったようで、

この間にも多くの財界人などから援助を得た。


1919年(大正8年)

 試行錯誤の末、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功。

7月7日にカルピスとして発売する。


1923年(大正12年) -

ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号変更。


 (第2次世界大戦中)


1948年(昭和23年) -

 カルピス食品工業株式会社に商号変更。


1949年(昭和24年)-

 カルピス社、東京証券取引所に株式上場。


1951年(昭和26年) -

 乳等省令によりカルピスが日本で初めての乳酸菌飲料となる。


1956年(昭和31年)

 ピルマン製造株式会社(現・パンピー食品株式会社)を

海雲個人とカルピス、明治乳業の出資により設立。

 その他に海雲自身が関わったものとしては、

蜂蜜・ローヤルゼリーを製造販売する三島食品工業株式会社がある。

もしも異世界へ行ったならば、一杯のカルピスを飲むためには牛の品種改良からはじめないといけませんよね?

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