表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/167

- 図書館の興亡 「知恵の館」「ムスタンスィリーヤ学院」(イスラムの図書館) -

★古代の図書館─紙の時代


7 イスラムの図書館


「知恵の館」:


 830年頃、アッバース朝のバグダードに作られた

ギリシア語をアラビア語に翻訳する機関。


 イスラム世界において、

最高度の学問の授与を目的とした最初の有名な施設で、

当時のイスラーム世界の高等教育機関でもあった。


 ギリシア語文献のアラビア語への翻訳を大規模に行った研究所で、

イスラームの「外来の学問」の研究の中心となった機関である。


 この施設は、翻訳事務所となったばかりでなく、

学林および公共図書館としての機能も果たし、

附属の天文台ももっていた。


 この時期に続出した天文台は、

天文学を教える学校でもあったのだ。


 それはこの当時にはじめて現れた病院が

医学の研究所でもあったことと、

同様であることを忘れてはならない。 



▼時代背景:


 アッバース朝は駅伝制バリード

によって帝国各地を結んでいたが、

バグダッドはその重要な結節点であり、

中近東における代表的な商業都市であるというばかりではなく、

中国、東南アジア、インドからサハラ以南のアフリカや

欧州までを含む国際交易網の中心として、

また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、

「世界の十字路」と称されるほどの繁栄を極めました。


 後にヨーロッパは影響を受け、

ルネサンスへとつながっていきました。

また、「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」の舞台もこの時代です。


 円形都市バグダッドは、

イスラーム世界の学問の中心地として

各地から多くの学者が集まった。



 なぜなら製紙法は、アッバース朝の軍が

751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、

その際捕らえられた唐軍の捕虜の工兵の中に

専属の紙漉き工がいたことから

唐で国外不出とされた紙の製法が

アッバース朝に伝わり、イスラーム世界にもたらさたためです。


 757年にはサマルカンドに製紙工場が建設され、

こうした紙の普及によって

行政通達の円滑化や翻訳事業も進み

第5代カリフ ハールーン・アッ=ラシードは、

バグダードにも紙工場をつくり、

のちにはダマスクスにも設けたといわれている。


 その他中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。

インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、

インド数字をもとにアラビア数字がつくられた。


 ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、

詩人アブー・ヌワース、

歌手イブラーヒーム・アルマウスィリーと

イスハーク・アルマウスィリーの親子など

数多くの文化人が伺候した。


 また、数多くのギリシア語文献が収集されて

アラビア語に翻訳された。


 なぜなら、古典古代のギリシアの学問は、

ヘレニズム時代を経てイスラーム世界に伝えられ、

8~9世紀にアッバース朝の都バグダードの「知恵の館」で

組織的にギリシア語からアラビア語への翻訳が行われたが、

その間、ヨーロッパ中世社会では

ギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていたのだ。



▼由来:


 アッバース朝の第7代カリフ・マームーンは

ギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。


 8世紀後半のアッバース朝全盛期のカリフ、

ハールーン・アッ=ラシードは、

エジプトのアレキサンドリアのムセイオンの

大図書館に伝えられていた

ギリシア語文献を中心とする資料をバグダッドに移し、

「知恵の宝庫」と名づけた図書館を建設した。


 その息子マームーンはそれを拡充し、

この「知恵の宝庫(ヒザーナ・アル=ヒクマ)をもとに、

9世紀前半830年、バグダッドに設立した図書館

「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」と改め、

ギリシア語文献の組織的な翻訳を開始した。


 なお、「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は

「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。


 この「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」こそ、

サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、

プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究され

諸文明の翻訳の場となっていた。


 また、ギリシアの学術に興味をもったマームーンは、

知恵の館に天文台も併設させていたと言われている。


 こうしてバグダッドに

「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる

総合的研究施設を設けられ、

ネストリウス派キリスト教徒に命じて

ギリシア語文献のアラビア語への翻訳を

組織的かつ大規模に行わせたのだった。


 主任翻訳官はフナイン=ブン=イスハークは、

ギリシア語、シリア語、アラビア語に堪能な

ネストリウス派キリスト教徒で、

彼は同派の学者を招き、

エウクレイデスの数学書、

ヒポクラテスやガレノスの医学書、

プラトンやアリストテレスの哲学書、

さらにギリシア語の旧約聖書などを次々と翻訳した。


 そう、「知恵の館」の主業務は写本を超えた、

ギリシア語の学術文献のアラビア語への翻訳であった。

時にはシリア語を介しての翻訳になった。


 なぜ、翻訳などしたのかといえば、

母国語で先端技術の書籍が読める国は先進国だけであるからです。

後進国は何か学問を志すとか、何か専門書を読もうとしても

自国にはその様な書物が無い為に先進国の書物で

勉強するしか方法は無かったという。


 現代でも英語の文献を各母国語に翻訳しようとしても

該当する言葉が無くて翻訳が出来ない事が問題であり

理解が浅い状態で英語で専門書を読んでも効率は落ちる。


 日本の基礎科学がどうして強いのか、

それは日本語で学問ができるという点であるのだ。

(もっとも論文の提出は英語で発表せねばならないのだが)


 日本並みに母語で高等教育を完結できる言語は

世界でも数えるほどしかなく、日本の大きな強みである。


 高等教育を自国語でやるか、

英語でやるかこれは重要な問題である。


日本語の出版物は専門書や教養書も合め非常に多量である。

だが、これが英語で書かれていればどうなっていただろうか?


 たしかに非英語圏における英語教育は各国で進んで来てはいる。

だが、いくらビジネス英語を学んだところで、母国語でない以上

一体どこまでその概念やニュアンスまで理解できるのであろうか?

特に専門的な知識や技能を持たない人間は、

英語をいくら学んでみたところで、

どのみち日本語で読めるようなレベルの本や雑誌しか読めない。

だが、これが自国語で書かれていればどうであろうか?


 専門学問が日本語ではなく西洋語に限定されていたら、

日本の文明開化と殖産興業という近代化は失敗していただろう。


 日本の書店では日本語で書かれた専門書があり日本語で学べる。

勉強もコミュニケーションも母国語だけで可能。

これはアジアではきわめて珍しいことなのです。


 明治維新後、日本政府は西洋の文明を取り入れるために

外国語を日本語にする翻訳をおこなった。

しかし、そこでも外国語には日本語に存在しない語彙が無数にあった。

そこで言葉を作り、場合によっては造語によってひとつひとつ対応させた。


 明治生まれの日本語

「人民」「共和」「自由」「社会」「主義」「楽園」「支配」

「改革」「解放」「国家」「民族」「人道」「人格」「民主」

「革命」「思想」「運動」「計画」「討論」「抑圧」「経済」

「世紀」「義務」「会話」「理想」「常識」「物質」「意識」

「絶対」「競争」「郵便」「宗教」「代表」「文明」「演説」

「代価」「国際」「基準」「場合」「伝統」「継承」「基地」

「元素」「要素」「学校」「学生」「警察」「写真」「法人」

「常識」「保険」「強制」「同化」「出版」「版権」「原則」

「理想」「作用」「新聞」「記者」「健康」「野蛮」「鉄道」

「金融」「交通」「現実」「自然」「科学」「哲学」「美術」

「反対」「演説」「広場」「意識」「工業」「論文」「進歩」

「分析」「統計学」「図書館」その他色々・・・


 某国も、自前の中国王朝が宇宙の中心であるという

「中華思想」、以外「人民」も「共和」も日本由来なのです。

これらを文明開化後の明治政府に留学した大陸人が持ち帰ったため

今では日本の存在なくして自国の国名すら成り立たないのです。


 なお、朝鮮で唱えられた「小中華思想」とは

中華思想の奇形種であり中華文明圏の中にあって、

自らを「中国王朝(大中華)と並び立つ

もしくは次する文明国で、

自前の王朝が宇宙の起源であると見なそうとする

なんの根拠もない、文化的優越主義妄想である。


 - 閑話休題 -


 こうして日本以外の国では英語の出来る人以外は

高等教育を受けることが出来ないのだが

日本語が出来れば、

日本では全ての人が平等に高等教育を学べるのだ。

例えば英語が話せなくても

高度な物理学を学ぶことは不可能ではない。

大学レベルの知識まで自分の国の言葉で学べる国は

世界にそれほど多くはありません。

ある種、日本人に英語は必要ないのです。




 故にアッバース朝は国家事業として、

医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関する

ヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、

哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、

膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。

また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。


 また、この「知恵の館」から、

イブン=シーナー、フワーリズミーなどが輩出した。


 こうした翻訳のおかげで、

イスラム世界のさまざまな人々が、

アラビア語で学問を論じ始め、

アラビア語は知的言語・共通言語としての力を

高めることともなった。

古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、

イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。


 ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフや

マイモニデスは言うまでもなく、

哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。


 それまでユダヤ教徒の間ではアラム語や

ギリシア語が共通語・日常語であったが、

アラビア語に取って代わられるようになった

(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作

といったものなどに関する場面以外は、

アラビア語で話し、書くようになっていった)。


 翻訳されたギリシア諸学問のうち、

アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、

神学に大きな影響を与えた。


 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で

「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、

学問研究と教育の場として機能した。


 バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての

機能を果たしたのである。


 これ以後、バグダッドは、

東方におけるギリシア学術研究の中心地となった。


 こうしてアッバース朝下のバグダードでは

ギリシャ・ペルシャ・インドにおける

哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して

高度なイスラーム文化が発達し、

これはのちにラテン語にも翻訳されて

ヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。


 イスラーム世界と接するイベリア半島や南イタリアで、

イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激された

ヨーロッパのキリスト教徒は、

12~13世紀にトレドの翻訳学校などで

盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、

ラテン語訳することが行われるようになった。



 一例として、

狂える詩人アブドル・アルハズラットにより、

730年にダマスカスにおいてアラビア語で書かれた

「アル・アジフ(Al Azif)」がある。


 この「アル・アジフ」とは

有名な「ネクロノミコン」の原典のことである。


 その表題はギリシャ語への翻訳の際に与えられたものとされ、

ギリシャ語のΝεκρός(Nekros 死体)

- νόμος(nomos 掟)

- εικών(eikon 表象) の合成語であり、

「死者の掟の表象あるいは絵」の意とされる。




 このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、

イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。



 マームーンの死後、

帝国はイスラム原理主義の台頭による反科学的な復古主義や、

地方政策をめぐる混乱により次第に衰退していく。



▼衰退:


 10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)は

マアムーン時代から続くムウタズィラ派擁護政策を放棄した。


 これはムウタズィラ派の

極端な合理主義・思弁主義的思想に反発する形で

擡頭して来た伝統主義者、

いわゆる「ハディースの徒」に配慮したものであった。


 「ハディースの徒」と呼ばれた伝統主義の人々の立場は、

おもにイスラーム法の法源は第1にはクルアーンであり、

預言者ムハンマドにまつわるハディースはこれに次ぐものとしていた。


 アッバース朝初期の神学論争では

クルアーンやハディースで語られている

「唯一なる神アッラーの絶対性」を巡る議論が交わされていたが、

「ハディースの徒」をはじめとする伝統主義の考えでは、

「クルアーン創造論」を巡る論争のように

ムウタズィラ派にみられるような

ギリシア・ローマ哲学流の「合理主義」的な経典解釈では

クルアーンやハディースで語られている

「アッラーの絶対性」を損ねるものと受け止められ、

一般的なムスリム信徒たちの宗教的な心情とも

遊離しつつあった。


 また、ムウタズィラ派系の人々が使用していた

アラビア語の術語は、

従来のアラビア語では見られないような

ギリシア語的な翻訳語を多用する場合が多く、

ハディース学・伝承学の分野で必須の伝統的な

アラビア語文法学を修めた伝統主義的な学識者にとって、

ムウタズィラ派の人々の論説で使われている言い回しは

「アラビア語らしからぬ新奇な表現」と映った。


 ムタワッキルの時代はサーマッラーに遷都したままであり、

カリフからの庇護を失った「知恵の館」も

翻訳活動アラビア語を優先するそのクルアーンや

ハディースの解釈には伝統的なアラビア語学の知識と

以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。


 その後、12世紀を最後に、

イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、

ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり

(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、

ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。



ムスタンスィリーヤ学院:


 1234年にバグダードの市内に創建され、

煉瓦造のマドラサで、中庭には泉水をともない、

複数のイーワーンが外部と中庭をつないでいる。


 単一の法学派のための施設だった

それまでのマドラサと異なり、

はじめてスンナ派4大法学派すべての講義が行われた。


 しばしば「世界最古の大学」と称され、

名称は敬虔なカリフとして知られ、

数多くのモスク、マドラサを建設したことで知られる

創設者、第36代カリフ ムスタンスィルに由来する。


 その設立は祖父ナースィルが目指した

全ムスリムに対するカリフの強力なリーダーシップの復興という

理念を受継ぐ彼の志向を反映したものだろうと言われている。


 1226年、父の死後に即位した彼の治世は平穏であり、

隊商の宿泊施設をも多く建設して

交易を促進したことで物資が領内に行き渡っていた。


 だが、この頃になると

おりしもモンゴル帝国の進出が中央アジア・イラン侵攻、

という難関の時期であり、

イラクにまで広がるようになり、

ムスタンスィルは対モンゴル戦を聖戦として戦おうとしたが、

1242年、その用意を整えている大事なときになって急死した。


 1234年に設立後、この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、

1258年のモンゴル帝国による

バグダードの戦いによりアッバース朝の滅亡、

バグダードが陥落した時に、

知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。


 フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、

そのため川はインクで黒く染まったといわれている。


 かくしてバグダード市内は略奪され、

「知恵の館」なども失われて、

この後バグダードがかつての栄光を取り戻すことはなかった。




 建物は現在、博物館として利用されており、

イラク中央銀行の発行するイラク・ディナール紙幣の図柄にもなっている。




▼歴史:


 イスラム科学とは、

8世紀から15世紀のイスラム世界において発達し、

アラビア語によって叙述されていた科学の総称をさす。


 イスラム帝国が形成されアラビア語が

学問の言語として広い地域で使われるようになる以前の、

エジプト、メソポタミアといった古代オリエントの文化や

古典古代のギリシャ、ペルシア、インド、中国などで

発展していた科学をもとに発展した。


 法学・神学・語学・文学などのアラブ人伝来の

「固有の学問」があったが、これに対し、

上記のようにしてイスラム世界にもたらされた学問には

哲学、論理学、幾何学、天文学、医学、錬金術などがあり、

博物学、地誌学などとともに「外来の学問」と呼ばれた。


 ただし、外来の学問であっても正確な知識を求めることは

ハディースに照らしても神の意思を知るための

イスラムに相応しい行為とされ、

「固有の学問」を修める学者が

「外来の学問」を兼修することはまったく珍しいことではなかった。


 ムスリムの治める地域において、

ムスリムを中心とする人々が科学の研究へと進み始めたのは、

8世紀に成立したアッバース朝のもとであった。


 「イスラム科学」と呼ばれるが、

ムスリム(イスラム教徒)だけが

築き上げたのではなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒など、

様々な宗教に属する人々によって発達させられてきた。


 また「アラビア科学」とも呼ばれることがあるが、

アラビア半島を中心とする地名としての

アラビアでのみで発達したわけではなく、

東は中央アジアから西はイベリア半島までいたる

地域的な広がりをもっていた。


 また、「アラブ科学」とも呼ばれることがあるが、

ペルシア人、トルコ人など様々な出自の学者たちが活躍した。



 アッバース朝ではカリフや

宮廷のワズィールたちの保護と

学術振興の意思に基づいて

主にギリシャ語の翻訳が始まり、

特に第7代カリフマアムーンが創設した

研究施設バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)には

多くの科学者が集まり、

ギリシャ科学のアラビア語への翻訳が進められた。


 スタッフの多くは、

シリアのネストリウス派や単性論派のキリスト教徒、

ハッラーン出身のサービア教徒であった。


 ローマ帝国主要部のキリスト教は、

4世紀から6世紀にかけて、

「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、

ギリシア哲学を異端としてしまった。


 そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。


 マームーンに仕えた科学者のひとり、

フワーリズミーは、インドの天文学や数学を取り入れて、

代数学や数理天文学に関する著作を残した。


 9世紀にはこの成果が

アッバース朝の隅々にまで行き渡った。


 アラビア語による学問のネットワークに乗せられて

知識人たちに広く受け入れられ、

イスラム哲学の祖として知られるキンディーのように、

同時に数学、天文学、医学、論理学、哲学など様々な学問に

通じた学者が多くあらわれた。


 10世紀から11世紀には、

アッバース朝の政治的な衰退とは裏腹に、

アラビア科学は空前の発展を遂げ、

プトレマイオスの天文学を改良したバッターニー、

数学・天文学に通じ光学に関する重要な著書を残した

イブン・アル・ハイサム、

哲学と医学の分野でヨーロッパに大きな影響を与え

その主著『医学典範』は西洋医学にもっとも大きく影響し

欧米諸国をはじめとする全世界の大学で、

200年近くにわたって医学百科事典として使われてきた

イスラーム文明を代表する医学者

イブン・スィーナーらが活躍したが、

中世以降のヨーロッパにおいて科学が劇的に発展し、

14世紀から15世紀にかけて、ついにアラビア科学は廃れ、

今では……。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ