現実:歴史-図書館戦争(アレキサンドリア v.s ペルガモン) - 図書館の興亡(メソポタミア、ギリシア、ヘレニズム、ローマの図書館) -
★概要:
中世ヨーロッパなどでは修道院等宗教施設に
図書館・図書室が併設されていることが多かったが、
写本 1冊で家が買えるほど貴重なものであったため、
本は鎖で本棚につながれていた。
歴史的には、学術研究用に資料を集めた場として、
学者や貴族以外の者は利用できなかったり、
利用が有資格、有料であったりした時代が長い。
グーテンベルクの印刷術により
本が大量生産できるようになって初めて
「誰でも利用できる」の原則が広まり、
民衆の間に会員制の組合図書館、都市図書館が有料、無料で開設された。
また、長い歴史の中で図書館の本は度々焼失の憂き目を見てきた。
古代アレクサンドリア図書館は火事により多量の書物を失った
(そしてこの図書館は後世において理想化される)。
- 諸君らは勉学に向かい合う。ある本は二度と戻らない。
だが肝に銘じておけ。そもそも本は焼ける。
消失するために本は存在する!
だが知識は永遠である。つまり書の内容も永遠である!
故に図書館は貴様らに永遠の知への奮戦を期待する! -
秦の始皇帝は焚書坑儒政策を行ったことで有名だが、
多くの為政者、宗教者が、
それまでの書物の中で自らの政策にそぐわないものを焼き払った。
初期キリスト教は、ギリシア・ローマ文化に冷淡であり、
古典文化の書物を排除した。
ルネッサンス時代には
イスラム文化がヨーロッパ世界へと流れ込んでいったが、
ヨーロッパの図書館ではキリスト教により、
やはりイスラム系の書物が焼き払われた。
レコンキスタにより
キリスト教化した当時のスペインやポルトガルは
イスラム文化に不寛容だったのである。
だがルネッサンス以降、
図書館は公のためのものとして発展してきた。
古代アレクサンドリアの図書館に憧れる古代派と
新たなる実用性の高い図書館をつくりだそうとする近代派の戦いは、
ジョナサン・スウィフト『書物合戦』で
描かれているような争いを引き起こすが
やがて近代派がゆるやかな勝利を収める。
図書館の歴史において特に重要な存在と言えるのが
メルヴィル・デューイである。
彼は図書館の10進法を考案し、
図書館を役に立つ知識の宝庫として整備しようと試みた。
現代の図書館はメルヴィル・デューイの圧倒的な影響下にあるが、
彼は同時に「漠然とした知識の宝庫」であった図書館を
プラグマティスティックな実用性を主眼とした施設へと変えてしまったとも言える。
★古代(ローマ時代)三大図書館
○ アレクサンドリア図書館-エジプト沿岸
(世界に冠する我らが大図書館!
だが、ローマとの戦火により全ての蔵書が失われてしまう。
その後復興するもキリスト・イスラム教徒の放火、焚書によりやはり全焼)
○ ペルガモン図書館 - トルコのミシュア地方
( 国がローマに吸収された後、アントニウスがクレオパトラ7世に
失火の補填としてこの蔵書全20万冊が寄贈されてしまい消失)
○ ケルスス図書館 - トルコのフェス遺跡
(エフェソスのセルシウス図書館とも
エフェソス遺跡<110年代から建設が始まり、135年に完成>
図書館はその建物の中に177年に開設され
262年の地震とそれに伴う火災で建物と蔵書の大半が崩壊消失。
世界の七不思議のひとつ、アルテミス神殿で有名。
世界最古の鋳造貨幣エレクトロン貨が生まれた地でもある。)
★古代の図書館─粘土板の時代
1 メソポタミアの図書館
図書館の歴史は、文字の歴史と重なります。
文字が発明されたのは、古代メソポタミアにおいてでした。
粘土板に刻まれた楔形文字です。
ちなみに、ラテン語の“liber”(本)は、
もともとは「樹木の内皮」を表す言葉だったといいます。
樹木の皮の内側も、粘土板や石、
木板などと並んで文字を書きやすい素材だったのでしょう。
さて、メソポタミア一帯では、
発掘調査により多くの粘土板が発見されていますが、
それらは一つのところにかたまっている場合が多いようです。
それは 、図書館の原型ともいえる建物、
すなわち書類や手紙を保存するための書庫があったことを推測させます。
エブラ王宮の遺跡から1万数千枚の、
ニネヴェ遺跡の王宮跡からは2万5千枚を超える、
そしてニップール(バビロニアの首都)の神殿跡からは約2千枚の
粘土版が発掘されています。
これらは文字が刻まれた文書群であり、
一定の空間に収められ「保存」と「利用」という
現代にも通ずる図書館の基本的な機能が
すでに見られるものであったといいますが、
図書館というよりはどちらかといえば
文書館といったほうがよいでしょうか。
人類最古の図書館といわれているのが、
19世紀末に発見されたメソポタミアのニップール
(現在のヌファール)の神殿内に設けられていた図書館です。
ただし、いつごろ誰が建てたものであるかははっきりしていません。
世界史上早期の図書館として有名なものに、
建造者がわかっている図書館で最古のものがある。
アッシリアの都ニネヴェに紀元前7世紀に建てられた
アッシリア王アッシュールバニパルの宮廷図書館
(アッシュルバニパル王の図書館)である。
アッシリア滅亡時に地下に埋もれたまま
保存されたこの図書館の粘土板文書群の出土によって、
古代メソポタミアの文献史学的研究が大きく前進した。
その蔵書は、戦争についての記録、英雄たちの伝説、
農業や建築の記録、政治に関する記録等、実に多岐にわたり、
その数は2万点にものぼります。
その中には、旧約聖書に出てくる大洪水(ノアの箱船)
によく似た物語もありました(『ギルガメシュ叙事詩』)。
現在、これらの図書館の蔵書は大英博物館に保存されています。
これも、粘土板という火事にも水害にも強い材質のおかげでしょう。
▼円筒印章:
さて、古代メソポタミアであるが、これは印鑑文化であった。
印鑑は、今から5000年以上前のメソポタミア地方に、
その起源があるとされています。
当時使われていた印鑑は、
円筒形の外周部分に絵や文字を刻み、
これを湿った粘土板の上で回転させて
押印するというものでした。
プリントの語源はプレスに相当するラテン語であり
押し付けた跡と言う意味。
情報を複製する意味ではこの方法も印刷の起源とも言える。
この円筒印章は古代メソポタミアで
所有者などを示すために使用された印章で、
図や文章が書かれており、
様々な情報がそこから得られる。
円筒形の石,貝殻,ガラスに模様を陰刻し,
柔らかい粘土の上にころがして浮彫のような図柄をつくる。
時代,民族によって形,構図などに相違があるが,
ウルク期(ウルク文化)末期ころから
魚,動物,人間が描かれるようになり,
のち神話を主題にした構図や,
神・王などを中心にした宗教行事などが描かれ,
所有者の名前も彫られるようになった。
原始的な印章は中東の遺跡(紀元前7000年 - 6000年頃)
から発掘されていて、
紀元前5000年頃に古代メソポタミアで使われるようになったとされる。
最も初期の円筒印章は紀元前3600年頃の層から発見された
印影(印章そのものではない)であり、
この時代以降、
手紙や契約文書の主体を示すために急激にメソポタミア各地へ広まった。
初期においては書簡や容器を封じるための紐を粘土で覆い、
その粘土(封泥)に円筒印章を押し付けて転がすという方法で用いられた。
ウル第3王朝時代になると粘土板文書にも
円筒印章が使用されるようになり、
王や王妃、官僚、商人などの印影や印章が多数発見されている。
楔形文字の普及範囲と円筒印章の普及範囲は大体一致し、
ヒッタイトやエラムなどでも用いられた。
紀元前3000年頃の古代エジプトでは、
ヒエログリフが刻印された宗教性をもったスカラベ型印章が用いられていた。
インダス文明(紀元前2600年から紀元前1800年)では
インダス式印章が普及し、今日大量に発掘されている。
これがシルクロードを通って古代中国に伝わったのは、
かなり遅れて戦国時代初期(紀元前4、5世紀)であった。
紀元前1000年紀半ば頃から
次第に記録媒体が粘土板から羊皮紙やパピルスに移るようになると
楔形文字が用いられなくなり、
粘土板に押し付ける用途を持った円筒印章も使用されなくなっていった。
ミノア文明を継承したミケーネ文明では
指輪型の印章が用いられるようになったが、
ミケーネ文明が滅びると共に印章を用いる習慣も途絶えた。
古代ギリシアでは、古代エジプトからスカラベ型印章が伝播する形で、
家屋の扉や貴重品および手紙などの封印として
再び指輪型の印章が用いられ始め、
紀元前500年前後の古典期に入って独自の変化を遂げた。
その後アレクサンドロス大王の東方遠征を境に、
金や銀の指輪に宝石をはめ込んだ豪華な装飾の指輪型印章も
用いられるようになった。
古代ローマの時代には肖像画を刻んだ指輪型印章が用いられ、
財産や食料品に印章を用いて封印をする習慣が盛んになり、
文章の確認のために印章が用いられ始めたことを
伺わせる痕跡も散見されるようになる。
こうして古代メソポタミアで生まれた印鑑は、
世界各地に広まり、東は中国経て、日本へ
西はエジプト、ギリシア、ローマを経て欧州各地に影響を与えました。
しかし西ローマ帝国の滅亡に伴い、
欧州において印章を用いる習慣は再び途絶えました。
8世紀以降の欧州では、支配階級の識字率の低さを背景として、
署名の代わりとして印章が用いられるようになり、
欧州における印章の普及が全盛期を迎えるのは
14世紀から15世紀の頃です。
ですが15世紀以降、
ヨーロッパ文化圏では
かつて印章が広く使用された時代もあったが、
識字率の向上や人文主義の高まりを背景として
サインが併用され始めるようになり、
19世紀になると欧州における印章は廃れて使われなくなり、
印章ではなくほとんどサインに取って代わられた。
その後、第一次世界大戦を経て貴族階級が没落していくと
家の紋章を記した印章を手紙の封蝋に用いる習慣も使われなくなった。
現在欧州各国では、
印鑑を押すという制度も習慣もほとんど残されていません。
故に活字、活版印刷の歴史が遅れたのではなかろうか?
結局、製紙技術と共に木版だが印刷技術も中国で確立された。
木版印刷および活字印刷が史上初めて行われたのは中国である。
金属での印刷技術はグーテンベルクの活版印刷を待たなければならない。
★古代の図書館─パピルス本の時代
2 エジプトの図書館
一方、エジプトではパピルスという葦の一種を
原料とするパピルス紙に文字が記録されました
(paperは、papyrusに由来します。
ちなみにギリシア語で「本」を表す“biblion”は、
パピルスを意味する“biblos”から来ています。
また、現在欧米諸語で使われている「聖書“bible”」 、
「図書館“bibliotheka”」などは皆これに由来しています)。
パピルス紙は、ギリシア・ローマを通じてヨーロッパにも伝わり、
10世紀頃まで図書の材料として使われていました。
パピルスは手触りもごわごわしてかさばって折り畳みにくいし、
しかも片面にしか文字を書くことができません。
したがってこの頃の本はパピルスを何枚もつなげて
棒に巻いた巻物の形で作られていました。
長いものでは10メートルに達するものもあったようです。
そして何よりも、パピルス紙の弱点は湿気に弱いことでした。
古代エジプトには 、パピルス本を収蔵した図書館が
たくさんあったといわれていますが、
ピラミッド内部に保管されていたもの以外
ほとんど残っていないのはそのためです。
古代エジプトの図書館は神殿に附属するものと、
宮廷内に設けられた王宮図書館とがありました。
神殿内の図書館は、宗教上の祭事や行事の記録、
神々の伝説や伝記といった宗教に関わる記録が中心で、
書写室では、
書記によって写本や造本などの仕事が行われていました。
また、王宮図書館には、政治、裁判、軍事に関わる公文書のほか、
数学、科学、医学といった学術文献類も多数収蔵されていました。
紀元前ラムセス2世の時代にも王宮に図書館のあったことが文献に見え、
確実視されていますが、発掘資料はまだありません。
3 古代ギリシアの図書館
ギリシア人は、フェニキア人が使っていた文字に
改良を加えてギリシア文字を作り出し、
これを用いてさまざまな学問体系や文学を記録しました。
アテネ哲学を発展させたソクラテスやプラトンは、
「読書」よりも「対話」による教育を重視しましたが、
プラトンはその学園内に図書館を設けていたといわれています。
もっともレスリングが得意でBLなプラトンは「プラトン的な」
「肉体」よる「対話」による教育を重視したかったのかも。
「プラトニック!!」
- 閑話休題 -
かくして、このような私文庫(個人図書館)を持つ者も現れ
学校ができればそれに附属する図書室や図書館もできました。
また古代オリンピック発祥の地として名高い
オリンピアをはじめとする
ギリシア各地にはギムナシオンと呼ばれる体育館、
体育訓練場が作られました。
そこは身体を鍛えるだけでなく図書室が付設されていたといいます。
「読書による学問」を推奨し、確立したのは、
アリストテレスでした。
彼は図書館を設け、たくさんの書物を収集し、
保管していましたが、
その多くは、のちにローマのスラによって略奪されます。
また、ギリシア人は演劇を好んだことでも知られています。
アテネを初めとする各ポリスには、
アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの
三大悲劇作家の作品を中心とした公共図書館がありました。
一般市民がいつでも利用できる図書館としては
たぶんこれが史上初ではないでしょうか。
4 アレクサンドリア大図書館
プトレマイオス朝およびローマ帝国時代に、
エジプトのアレクサンドリア市にあった
古典古代における有数の図書館。
マケドニアのアレクサンドロス大王は
アケメネス朝ペルシアを侵略してアナトリアとシリアを奪ったのち
エジプトをも奪い、紀元前332年そのエジプト支配の中枢都市として
アレクサンドリアの建設を命じた。
アレクサンドロス自身は短い滞在ののち
さらに東方への侵略を続け、アレクサンドリアに戻ることはなかった。
紀元前3世紀初頭,
アレクサンドロス大王の帝国が滅んだ後、
エジプトにはプトレマイオス朝が成立します。
紀元前323年のその死の後、後継将軍の一人
プトレマイオス1世がファラオを名乗ってエジプト支配を引き継ぎ、
プトレマイオス朝を建て、
その首都としてのアレクサンドリアの街造りを押し進めたのです。
首都アレクサンドリアに作られた
古代世界最大の規模を誇った図書館は、
エジプトのアレクサンドリアを学府ムセイオンと共に
ヘレニズム時代最大の学問中心地たらしめた。
また、古代世界の学問の中心として栄えた図書館をはじめとして、
学術研究所ムセイオンは、共に王宮内にあったとも、
ブルケイオン区にあったとも伝えられている。
プトレマイオス1世ソテル (在位前 323~285) が学問・文化を奨励し、
首都アレクサンドリアを学術文化の中心とすべく、
王立研究所「学園 (ムセイオン) 」を作り、
地中海世界の著名な学者や詩人、
多くのギリシア人学者を招くとともに、
付属の研究施設として大図書館を併設する計画を立てましたが
図書館の創建者はプトレマイオス2世フィラデルフォスです。
のちに「世界の七不思議」にも選ばれるファロス島の大灯台も建造され、
他のヘレニズム都市を圧する威容を誇るようになった。
このアレクサンドリア図書館は、
世界中の文献をただただ収集することのみを目的として建設され、
古代最大にして最高の図書館とも、
最古の学術の殿堂とも言われている。
図書館は多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵した。
綴じ本が一般的でなかった当時、
所蔵文献はパピルスの巻物であり、
蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったとされる。
アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から
優秀な学者が集まった一大学術機関でもある。
また、薬草園が併設されていた。
その当時既に古代と化していた古い伝承が
今日まで残っているのはここで一旦収集された情報が
写本として各地に伝わり広まった為とも言われる。
▼収集:人の本を蒐集する螺旋建築。
このプトレマイオス2世、その財力に物言わせ、
蔵書の充実に力を入れました。
ギリシアの文献すべてを集めることさえ構想していました。
ときには強引な方法をとることもありました。
書物の収集のためにさまざまな悪辣な手段をとり、
そのためには万金が費やされていたビブリオマニアの巣窟なのであった。
(読書家はあくまで本の内容あるいは本を読むという行為が好きな者である。
一方、愛書家は“書籍”という物体を偏愛する者である。
書籍を愛好する性癖および書籍を収集する習慣は
ビブリオフィリズム(bibliophilism、書籍愛好)と呼ばれる。
愛書家はビブリオマニア(bibliomania、猟書家)と混同されてはいけない。
ビブリオマニアは強迫神経症の一種で、
社会生活もしくは当人の健康に悪影響を及ぼすもので、
書物に対する姿勢が「集め、愛でる対象」というよりも
「収集する(狩り集める)対象」であるとする違いがある。
正義のハッカーと悪のクラッカーの関係か? )
さて、書物収集の方法の一つを伝える逸話の一つとして、
「船舶版」についての逸話が知られている。
ガレノスによれば、
プトレマイオス朝当時のアレクサンドリアに入港すると、
港に停泊中の船を臨検し、書籍を積んでいればただちに
積荷に含まれる書物をすべて一旦没収された上で図書館に運ばせ、
所蔵する価値があるかどうか精査されたという。
所蔵が決定された場合には、持ち主には原本ではなく
作成した写本を原本の代わりに持ち主に返却し、
同時に補償金が支払われたとされる。
このやり方で集められた書物が船舶版と呼ばれている。
図書館は写字生を多数抱えており、組織的に写本を作っていた。
同様にして他の図書館の蔵書を強引に入手したという逸話もある。
アテナイの国立図書館は三大悲劇詩人
アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの貴重な戯曲台本を
門外不出のものとして所蔵していた。
プトレマイオス3世は担保金をかけてそれを借り出すことを
認めさせた後、
それを返還する代わりに銀15タレントという膨大な違約金とともに
写本のみを返したという。
こうした強引な収集により莫大な量の書籍を入手したため、
後にやや離れたセラピス神殿に分館が設けられた。
蔵書数は10万巻,50万巻,70万巻,90万巻と諸説あって定かでない。
こうして古代ギリシャの文献を核に一大コレクションを形成、
姉妹機関ムセイオンとともに,ヘレニズム文化の成果を集大成し、
言語学,医学などの諸学の発展に寄与した。
館長にはゼノドトス、エラトステネス、ビザンチウムのアリストファネス、
アリスタルコスのような言語学・文献学の大家が就任した。
これだけの図書ともなると、その分類だけでも大変です。
アレクサンドリア図書館には、
解題書誌『ピナケス』と呼ばれる図書の分類目録がありました。
作ったのはカリマコス(Callimachus 前305-前240)
という詩人・文献学者です。
蔵書は著者名などに基づく分類により管理されていたとされ、
彼の目録法は、図書を詩人、法律家、哲学者、歴史家、雄弁家、
その他に分類し、これをさらに細分化するとともに、
それぞれの著作は著者のアルファベット順に並べるというものでした。
彼の作成した目録は120巻から成っていましたが、
現在は残念ながら失われています。
印刷技術がなかった時代、本はすべて写本によって作られていました。
当時の「本」は、「読むもの」というよりも「書き写すもの」だったのです。
アレクサンドリア図書館には、写本づくりや造本、
販売を担当する多くの職員が雇われていました。
彼らは、図書館に併設されていた学校で書写生の訓練を受け、
図書館職員として働いていたのです。
強大な権力によって集められたアレクサンドリア図書館の膨大な蔵書は、
もっぱら学術研究用として用いられ、
一般市民に開放されることはありませんでした。
なお、当時の写本は、近代的な製紙技術と印刷技術がなかったため、
ナイル川のデルタで栽培されていたパピルスを原料とした
パピルス紙を利用していた。
▼その他「アレクサンドリア図書館」に関わる偉人:
このようにアレクサンドリア図書館は
世界中から文学、地理学、数学、天文学、医学など
あらゆる分野の書物を集め、
ヘレニズム文化における学術研究にも大きな役割を果たした他、
アレクサンドリア図書館で研究され発表された知識は、
その後の西洋科学の誕生に大きく貢献した。
幾何学のエウクレイデス、
地球の直径を計測したエラトステネス、
天動説の大家プトレマイオスなど、
ヘレニズムにおける学芸の巨人の多くは、
この図書館で研究した。
また、古代最高の科学者の一人アルキメデスは
主にシチリアのシラクサで活動したが、
かれも一時的にはアレクサンドリアに滞在したものと推定されている。
こうして大図書館および併設のムセイオンなどの学術施設は
当初からプトレマイオス朝の手厚い保護を受け、
同王朝の滅亡後はローマ帝国による同様に手厚い保護のもとにあった……のだが、
▼「アレクサンドリア図書館」の喪失
今日において虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどは、
併設されていた薬草園共々灰燼に帰し、
古代の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われた。
アレクサンドリア図書館が火災に遭った各種原因については諸説がある。
プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時
紀元前 48~47年のアレクサンドリア戦争(ナイルの戦い)のとき
カエサル(Gaius Julius Caesar 前100-前44)により
港の艦隊の攻撃による火災が延焼して焼失したと考えられるが、
図書館主要部が焼かれた後,
のちにローマの政治家 M.アントニウスが
ペルガモンの蔵書 20万巻をクレオパトラに贈り復旧した。
270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。
こうして3世紀後半頃から次第に破壊され、
最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による
継続的な攻撃である。
アレクサンドリア図書館の分館も被害にあった。
ラコティス地区のセラピス神の神殿には、
本館をしのぐ規模の分館が存在していたが、
ローマ皇帝テオドシウス1世治下の 391年には
これが異教徒の集会所と見なされ
神殿もろとも破壊されている。
歴史家オロシウスは
同じクリスチャンの手で行われた蛮行を嘆いている。
5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとに
ヒュパティアの虐殺(415年)などを繰り返し、
大図書館やムセイオンをも破壊した。
アラビア人が 641年にこの地を占領したときにはすでになく,
現在ではかつてあった正確な位置も不明である。
★古代の図書館─羊皮紙本の時代
5 ペルガモン図書館
アレクサンドリア図書館と並び称されたのが、
小アジアのペルガモン図書館です。
創設したのは、ペルガモン王国(前241~前133)
アッタロス朝第2代国王エウメネス2世及び
第3代アッタロス2世です。
彼らは、アレクサンドリア図書館に
劣らない蔵書を集めようと画策し、
最盛期には蔵書20万巻を所蔵していました。
ペルガモン図書館の特徴は、パピルス紙による図書から、
次第に羊皮紙図書が増えていったことにあります。
一説によると、プトレマイオスとエウメネスの両王が
文献の収集を競い合った結果、
エジプトからパピルス紙の輸出を禁じられたため、
代わって羊皮紙が使われるようになったといいます。
つまりアレキサンドリアによるパピルス紙の禁輸措置により
必要は発明の母的に羊皮紙の大量生産が始まったのでした。
6 ローマの図書館
アレクサンドリア、ペルガモンという
古代地中海世界における2大図書館は、
前2世紀から前1世紀にかけて
いずれもローマの支配下に入ります。
古代ローマの図書館の起源は、
共和制時代にローマが盛んに行った対外遠征にあります。
つまり、遠征において戦利品として獲得した書籍を、
パウルス、スラ、ルークルスといった将軍たちが
私設文庫の形で集めたものです。
その蔵書のほとんどはギリシア文学から成っていました。
スラの文庫は市民にも公開されていましたが、
このような初期の私設文庫は蔵書の規模も小さく、
図書館と呼ぶにはあまりも貧弱なものでした。
カエサルはアレクサンドリア図書館や
ペルガモン図書館のような
大図書館を作る構想を持っていた
といわれていますが、
実現を見ないうちに暗殺されてしまいます。
伝承ではユリウス・カエサルの侵攻時
(ナイルの戦い (紀元前47年))、
港の艦隊の火災が延焼して焼失したと考えられるが、
その後ローマ帝国の下で復興した。
カエサルの遺志を継いだのは部下のポリオ将軍でした。
彼は前39年に「自由神殿」
と呼ばれる図書館を設立しました。
これが公開図書館としてはもっとも古いものといえるでしょう。
この図書館にはかつてスラがギリシアから持ち帰った
アリストテレス文庫の蔵書が加えられていました。
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、
ローマに多くの文化施設を建設しますが、
オクタヴィア図書館もその一つです。
この図書館にもギリシア語・ラテン語の図書が
多数集められ、
一般市民への公開も行われていました。
その後のローマ歴代皇帝も
多くの図書館を建設していますが、
なかでも五賢帝のひとりトラヤヌス帝が
2世紀の初めに建設した
ウルピア図書館は、当時最大級の図書館でした。
ローマ帝国の最盛期には、
市内に28の図書館があったといわれます。
ローマの公共図書館は、そのすべてが市民に公開され、
文字を読める人であれば誰でも利用できました。
その意味で、古代オリエントの時代の図書館から
一歩進んだものといえるでしょう。
また、図書館の建築・整備が進むとともに
図書館員の地位もしだいに高くなっていきました。
図書館長や司書には専門職としての
高い地位が与えられました。
図書館には司書のほかに、
書写を行う書写生や外国語の文献を翻訳する
翻訳員などが置かれていました。
古代の図書館は総じて、神殿に併設されていました。
それらの神殿に祀られていた神々はむろん、
キリスト教徒にしてみれば「異教」の神でした。
紀元前後、当時のローマ帝国領内で
産声をあげたキリスト教は、
長い弾圧の時代を経て
やがてヨーロッパを席巻していきます。
そしてそれとともに
これら古代の図書館も姿を消すことになります。
後はわかるな……
- 図書館の興亡 「知恵の館」「ムスタンスィリーヤ学院」(イスラムの図書館) - に続く