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現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市:下エジプト「アレクサンドリア 」

▼現状:エジプトはアレクサンドリアに過ぎたるものが二つあり

 アレクサンドリアの大灯台にアレクサンドリアの大図書館


 エジプト北部、ナイル川デルタの北西端地中海に面し、

現在の首都であるカイロに次ぐエジプト第2の都市で、

アレクサンドリア県の県庁所在地である。

2010年の都市的地域の人口は429万人。設立: 紀元前332年


 エジプトの港湾は、

地中海側と紅海側の港湾の2つに分けられるが、

主に地中海側の港湾が大きな貨物量を捌いている。


 コンテナに関して言えば、4つの港湾

(アレキサンドリア港、ポートサイド港、ダミエッタ港、紅海港)で

大部分を取り扱っているのだ。


 「地中海の真珠」とも呼ばれる港町アレクサンドリアでは、

街中に英語の看板も多く、大きなサッカー場もある。

歴史的経緯から多くの文化的要素を合わせ持ち、

独特かつ開放的でコスモポリタン、

そこはかとなく欧米的な雰囲気が漂う国際観光・商業都市である。


 国際機関も置かれ、世界保健機関の東地中海方面本部がある。

世界的な企業や組織の支部、支社が置かれ、

現在は北アフリカ有数の世界都市にまで成長している。

近現代の世界では「アレクサンドリア」と言えば当地を指す場合が多い。



○1995年11月、エジプトの地中海岸、

アレクサンドリアでフランスの考古学者たちが、画期的な発掘に成功し

大きな感動を呼び起こした。


 感動の理由はいくつかある。


 まずは、この発掘が、それまでの常識である地下からの遺物のとりだしではなく、

地中海の海底を舞台としていたこと。


 そして、ふたつめには、出現した過去の遺物が、あまりにも有名な古代の名品だったことだ。

出現したのは、疑いもなく古代アレクサンドリアの灯台である。



○かつてアレクサンドリア図書館があったとされる場所のすぐ近くに

新アレクサンドリア図書館が2002年にオープンした。


 自然採光型の近代的な建築様式である。

中にはプラネタリウムやアレクサンドリア考古学博物館もあり、

様々な収蔵品を見ることができる。

また、外装には世界各国の言語が施されており、日本語版も見ることができる。



▼由来:


 そんなエジプトのアレクサンドリア(アレクサンドレイア)であるが、

その由来は紀元前332年、

(ギリシア)マケドニア国王アレクサンドロス3世

(アレクサンダー大王)によってナイル河口に建造されたもので、

その遠征行の途上でオリエントの各地に自らの名を冠して建設した

ギリシア風の都市の第一号であった。


 都市の創造は、文明の領土拡張が主な要因である。

都市建設の当初から周到に計画された都市であり、

未開発地域に建設される場合に典型的な形態をとる計画都市であった。


 建設当時のギリシア語ではアレクサンドレイア。

現代の現地語であるアラビア語においても

「アレクサンドロス(イスカンダル)の町」

を意味する名で呼ばれており、

文語のフスハーではアル=イスカンダリーヤ、

口語のエジプト方言ではエスケンデレイヤという。



 アレクサンドロスの死後、

エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世の統治下に置かれ、

ここに古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が開かれた。



 そもそもアレクサンドロス大王が

この場所に新しい都市建設を決定したのには実際的な理由があった。


 当時エジプトに北部地中海岸にあった港は、浅瀬が多く、

毎年繰り返されるナイル川の氾濫で運ばれてくる堆積土のために

水深が一定しませんでした。


 故にエジプトに入る前に船が停泊することが出来る唯一の港は、

ここファロス島の港だけでした。

そのために、アレクサンドロス大王以前の人々も、

船乗りや商人などアフリカ大陸の側に、長く仕える港を求めました。


 ファロス島とエジプト側の距離は1時間足らずで横断できる1マイル。

大陸側は地中海とマリュート湖にはさまれた細長い土地で、

この地は飲料水の確保も容易であり、

そこにいくつかの漁村があるだけで

ファロス島とこの村のあたりを堤防でつなぐと、

東側の港が海流から守られ、

ファロス島も北西の季節風から守られます。


このような有利な地形からアレクサンドロス大王は

この場所に新しい都市の建設を決定しました。



 こうしてアレクサンドリアには港も建設され、

沖合のファロス島まで1,260mの堤防を伸ばし、その両側を港とした。


 今ではこの堤防の両脇は砂が溜まり、

ファロス島が陸続きの半島になっているが、両側に設けられた港湾は、

現在に至るまでエジプトの中核港として機能し続けている。


 プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都として

その港もまた発展したが、

そもそもこの都市の周辺は三角州の為平坦な土地が広がっており、


沿岸航行や入港の際に港の陸標となるものが何もなかった。


 そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定した。

建造の指揮はクニドスのソストラトスに任せられ

紀元前305年から工事を開始した。


 建造地にはアレクサンドリア湾岸のファロス島が選ばれ、

島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれのだが、

結局完成したのはプトレマイオス2世の代だった。


 紀元前60年頃のアレクサンドリアの人口は

一時は人口100万人を超えたとも推測され、

そのため「世界の結び目」と呼ばれた。

(もっとも大王は「ゴルディアスの結び目」を

 一刀両断に断ち切ってしまったが)



 こうして古代エジプト史で最後の、

ギリシャ人による王朝の新たな都が建設され、

エジプトの都はナイル河畔のメンフィスから

地中海に面したアレクサンドリアに移されたのだ。



 アレクサンドリアはローマ帝国の衰亡とともに、

7世紀以降はイスラムの波にさらされた。


 ギリシャ・ローマの街並みは

目抜き通りとなる道路の道幅を狭くして

網の目のように路地を張り巡らせたイスラム都市に変貌していった。


 だが過去二千年間、アレクサンドリアの都市計画そのものはほとんど変わっていない。

街そのものは幾度となく破壊されても、そのたびに再建されてきた。



▼アレクサンドリアの大灯台: 古代の七不思議の一つ


 古代のアレクサンドリアは

世界の七不思議の一つに数えられる巨大なファロス島の大灯台

(現カーイト・ベイの要塞)や、

各地から詩人や学者たちが集まってきた学術研究所ムーセイオン、

文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、

70万冊の蔵書を誇りながらも歴史の闇に忽然と消えたアレクサンドリア図書館があり、

ヘレニズム時代の商業(地中海貿易)と文化の中心地として栄えた。


 さて、このアレクサンドリアの大灯台であるが、

古代の「世界の七不思議」の一つにも数えられており、

紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台。

(ただし、ビザンチウムのフィロンの選出した七不思議には含まれていない。)

ファロス島の大灯台、あるいはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれる。

着工: 紀元前280年 建設: 紀元前268年 崩落: 1480年


 ローマ時代の地理学者ストラボンや、

11世紀のアラブの地理学者イブン=シュバイルの旅行記などに記録があり、

それらによると高さ150mで50マイル遠くからその光を見ることが出来、

島の上には巨大なゼウス神像があって地中海の船乗りの目印になっていたという。


 この灯台は紀前285年頃、プトレマイオス朝のプトレマイオス1世が建造を初め、

2世の時に完成したらしい。

ムセイオンと並んでアレクサンドリアの繁栄を物語るものであった。


 なお、ファロス島はアレクサンドリア港の一方の端に

人工の埋め立てにより出来上がった半島の突端にあった元は小さな島である。


 14世紀の二度の地震によって全壊したが、

七不思議の中ではギザの大ピラミッドに次ぐ長命な建造物だった。



 構造:


 灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。

ギザの大ピラミッド(高147m)をのぞくと

建造当時は地球上で最も高い人工物の一つだった。


 建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。

形状の異なる三つのセクションで構成されており、

方形の基層部の中央に塔があり、

下層部は四角柱、

中層部はひとまわり細い八角柱、

上層部はさらに細い円柱形だった。


……それなんて安土城天主?


 円柱状の最上層に鏡が置かれ、

日中はこれに陽光を反射させ、

夜間は石油を燃やし、

炎の背後の反射鏡で光を集めて真央から投光し海上を照らしていた。

鏡には磨かれたブロンズが使われていた伝えられている。


 発せられた光は、50キロ離れた海上を航行する船からも、

灯台の光が確認できたと言われている。


 その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られた

ローマ時代のコインに見ることができる。


 灯台の四つ角には、角笛を吹く海神トリトンの彫像が置かれていた。

また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていた。


 内部には、螺旋状の通路が設けられ、

そこをロバを使い燃料を運んでいたと考えられている。



 伝説:


 伝説によれば、

戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射して、

船が海岸に到達する前に敵軍の船を焼き払い、

退散させたという逸話も残っている。


 それなんて「アルキメデスの鏡・熱光線」

(アルキメデス (紀元前287~212)ギリシャ時代後期の人。

イタリア半島の先の島シシリー島のシラクサ生まれ。

エジプトの「アレキサンドリアに長く留学」し、

のち故郷に帰ってそこで一生を過ごした。

 紀元前214年-紀元前212年のシラクサ包囲の際に

アルキメデスが巨大な鏡で太陽光を集め、

ローマ軍の軍艦を焼き払ったという伝説:

 あるいはアルキメデスが灯台の秘密を知っていたのか?)


 しかしながら、灯台が存在した当時の光学技術、

光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能である。


 一方、灯台の光は約56キロメートル(約35マイル)離れた海岸からも

見ることができたという伝説もあり、

こちらはおそらく可能だろうと考えられている。


 この大灯台のために、ファロス「灯台」を表す語の語源となった。

またその偉容は中国まで伝わった。



 顛末:


 796年の地震で大灯台は半壊し、

その後の1303年と1323年の地震で完全に崩壊した。


 14世紀の旅行家イブン・バットゥータは、

崩壊のために中に入ることもできないと記している。


 1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用して

地震によって倒壊した灯台の1階部分を改装して、

この要塞ができたのではないかと考えられている。

結果カーイト・ベイの要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。


 しかし、アレクサンドリアの大灯台は、

七不思議の中では

現在残るギザの大ピラミッドに次いで存続した建造物である。

1994年にダイバーによって遺構が発見され、

衛星調査によってさらに詳細の解明が進んだ。



 なお、カーイト・ベイの要塞は、

マムルーク朝のアシュラフ・カーイトバーイが15世紀に建造した要塞である。


 エジプトのアレクサンドリアの市街地から、

外洋に突き出した半島先端部に存在し

現在は、軍事博物館として一般に開放されており、

周囲も含めてよく整備され一般市民の憩いの場として、

世界の七不思議の一つに数えられたファロス島の大灯台があった所として

観光スポットになっている。



▼アレクサンドリアその歴史:


 エジプトのアレクサンドリアは

アレクサンドロス大王が当時の世界各地に建設した駐屯地であり補給基地である

『アレクサンドリア』の中で、最初にして最も繁栄した都市である。

紀元前332年に建設された。


 その後プトレマイオス朝エジプトの都となったアレクサンドリアは、

東地中海と紅海を通じてインド洋の南海貿易を行い、

巨額の富を得ていた。


 その富を都市建設に投じ、

ヘレニズム世界の中心として文化的にも大いに繁栄し、

「世界の結び目」と言われた。


 また「アレクサンドリアにないものは雪ばかり」という言葉もある。

ローマ時代からビザンツ帝国時代を通じて地中海貿易の中心地として繁栄を続けた。


 アレクサンドリアの港の入口のファロス島には古代の七不思議の一つとされている

大灯台が建設されていた。


 また初代プトレマイオス1世はアテネなどから学者を招いて

「ムセイオン」(博物館)を建設し、

さらに大図書館を設けてエジプト特産のパピルス紙に多くの文献を書写させた。


 そのため、アレクサンドリアはヘレニズム時代の多くの科学者を輩出し、

『幾何学原論』で知られる数学者のエウクレイデスや、

地球の大きさを正確に測った

アレクサンドリア図書館長エラトステネス、アルキメデス、

などが活躍した。



 プトレマイオス朝エジプトがローマに滅ぼされ、

エジプトがローマ領となると、

ローマはアレクサンドリアにエジプト総督をおいて支配した。


 ローマ時代にもアレクサンドリアは

「地中海の学術センター」としての位置を失っておらず、

天動説を体系づけたクラウディオス・プトレマイオス、

ヘロンの蒸気機関のヘロンや医学のガレノスらがいた。


 1世紀には世界最大のディアスポラ

(イスラエル・パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団)

を擁し、哲学者フィロンらが活躍した。


 こうして1世紀頃からはユダヤ教とキリスト教の教義研究と

ギリシア哲学(特にプラトン)の結びつきがアレクサンドリアで始まり、

3世紀のエジプト人プロティノスが「新プラトン主義」を産みだし、

ローマ帝政時代の思想に大きな影響を与えた。



 またキリスト教の初期から重要な拠点となり、

古代神学の中心地のひとつともなった。


 ローマ・コンスタンティノポリス・アンティオキア・エルサレムとともに

総主教座が置かれ、五大総主教座の一角を占めた。


 アレクサンドリア総主教庁は

ギリシャ正教とコプト正教会のものが現在も存続している。


 4世紀以降はアレクサンドリア学派と呼ばれる神学者たちが活躍した。


 ところが641年にはイスラーム勢力がエジプトに侵攻し、

アムル・イブン・アル=アースにより陥落され、

イスラーム世界に組み込まれた。


 こうしてアレクサンドリアは破壊されてしまったため一時衰えることとなった。

だが、イスラーム征服後に復興していき

イスラーム商人の地中海方面への商業基地として重要な地位を占め、

現在もエジプト第2の都市として繁栄している。


 アラブ時代当初は東ローマ帝国から切り離されたため、

経済的に沈滞したが、学芸の都として性格は残り続け、

古代ギリシア・ローマ文明にイスラーム文明がミックスした

アラビア科学揺籃の地のひとつとなった。



 12世紀頃に始まった土砂の堆積による地形的変化によって、

すっかり荒廃してしまう。



 14~15世紀には、アレクサンドリアに

紅海からカイロを経て東方からもたらされるインドの香辛料を求めて、

ヴェネツィアなどイタリア半島の諸都市から商人が訪れるようになると、

地中海交易の重要拠点として再び一時期な経済的繁栄を見せる。



 16世紀にヨーロッパ諸国がアフリカ回りの

インド洋航路を開拓するとイタリア諸都市とともに再び衰えを見せ始める。



 一時期100万人の人口があったといわれるアレクサンドリアは、

18世紀の終わり頃までに人口4千のもとの漁村の規模に戻ってしまった。



 19世紀にムハンマド・アリーの近代化改革の一環として輸出商品として

ナイル・デルタで綿花が大々的に栽培されるようになるとその積み出し港となり、

国際貿易都市として三たび繁栄を始める。


 現在ではエジプト・アラブ共和国の工業や経済の中心地、

そして化学産業などが進出し、エジプト屈指の工業都市として発展を続けている。

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