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現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市:エジプト植民地「ヌビア(現スーダン)」

現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市:上エジプト「スウェネト/シエネ(現アスワン)」

より

☆『ヌビア』


  エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称。

 古代エジプト語のヌブ(金)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。

 アラビア語ではヌーバ。


  もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった。

 ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれ、

 エジプトにとって重要な役割を担ってきた。(優遇されているとは言っていない)


  現在では本来の文化や風貌など、

 古代以降にギリシャ人・ローマ人の移民が流入し続けた

 エジプトとは異なる独自性を残している。


  もっとも、中世以降アラブ・イスラム帝国の隆盛により

 現代ヌビア人はかなりにおいて「アラブ系」に同化しているのだが。

 現在は北部の一部がエジプト領、残りはスーダン共和国領である。


  地理概念としての「スーダン」は

 「サハラの向こう側に広がるスーダン人の住む隊商交易で繁栄した豊かな地域」

 とイメージされてきた地域のことであって、

 アフリカのギニア湾より南側は地理概念としての「スーダン」には

 漠然と含まれていないと考えられる。




▼ヌビアの歴史:


  古代エジプトの王達は古代王国時代の終焉以降

 ヌビア支配を基本政策とした。

 これは単なる政治的威信のためと言うだけではなく、


  軍事要員としての人材としてのヌビア人、


  建築材としての貴重な石材、


  および財源としての金


 と言う、数多の材と財がそこで入手できたからである。

 つまり、彼らにとっての埋蔵金なのだ。



  さて、最初の発達した社会がヌビアに現れたのは

 エジプトに最初の発達した社会が現れたのと同時代、

 エジプト第1王朝(前3100年頃〜前2890年頃)の時代。


  次いで最初の国はケルマ王国(前2600年頃〜前1520年頃)で、

 ヌビアの全てとエジプトの一部を支配した。


  このエジプト古王国時代(前2700年頃~前2263年頃)には

 最初はエジプトとヌビアとの関係は平和的であったが、

 紀元前2500年頃になると、段々とエジプトが南の上流に移動し始めていた。


  こうして南にひろがるヌビアにおいても、

 エジプト文明に対抗……いや、影響を受ける形で本格的な王国が形成され、

 エジプトに遅れること紀元前2200年頃には遂にクシュ王国が建国された。



  中王国時代(前2160年頃~前1750年頃)

 になるとエジプトの拡大は再び始まり、

 エジプトは第二急流までを武力で制圧してきた。



  新王国時代(前1580年頃~前1080年頃)には

 その支配地は第四急流にまで及んだ。


  エジプトは優勢でこの地域はトトメス1世の支配下で「植民地化」され、

 エジプトに「金や奴隷をはじめとする様々な資源」を供給した。


  これが真の植民地化と言うものである。

 某国では併合後、富を求めて奴らが下手に本国に流入しないように

 東北地方のインフラ整備に遅れを生じさせてまで

 某半島の開発に力を入れると言う程、

 彼の地のインフラ整備に重点をおいたという

 慈悲深い行為があったというが。


  植民地化と併合は違うのだよ、併合とは。

 だいたい、併合とは違って植民地に参政権などないのだから。



  結局クシュは

 エジプト新王国のトトメス1世によって一旦は滅ぼされるものの、


 紀元前900年ごろ、

 ナイル第4急流のそば、ナイル川の屈曲部沿いにあるにある

 ナパタ(前1000年頃~前300年頃)において再興し、


 紀元前747年には

 逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設し、

 ナパタがクシュのエジプト第25王朝の首都となった。


  もっとも50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れ

 第25王朝はエジプト支配を失うも、

 ナパタの王朝はそのまま存続し、

 紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都した。


 その後もこの地、メロエを都とする王国 (前300年頃~350年頃)が

 成立しメロエの地は長く栄えた。


  クシュ王国が遷都先にメロエを選んだ理由として、


 農耕や牧畜を行える広い土地があり、

 製鉄を行うのに必要な燃料を確保できる森林があったこと、


 紅海とエチオピア高原、

 はるか西方のチャド湖をつなぐ交易の要衝であったこと、


 エジプトから政治的文化的に独立し、

 影響力を断ち切るのに都合がよいこと


 などの要素があったと考えられている。

 実際メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、さかんに製鉄が行われていた。



  やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配されるも、

 今度はアレクサンドロス帝国に一時支配され、

 次にギリシア系のプトレマイオス朝のもとで一応の独立を回復したが、

 紀元前30年、クレオパトラ7世の時代にアクティウムの海戦によって

 ローマ帝国に支配され独立を失い皇帝直轄地アエギュプトゥスとなった。


  しかしヌビアの地の独立は、この時代も保たれていた。



  メロエの王国が滅ぼされたのは350年頃ごろ、

 エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされている。


  紅海の貿易を支配するアクスム王国はインドとローマ

 (後に東ローマ帝国はアクスムに多大な影響を与えた)

 アラビアとの交易で栄え、

 アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国となった。


  象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、

 絹・香辛料・手工業製品を輸入した。


  2世紀にアクスムは紅海を越えてアラビア半島に属国となるよう迫り、

 また北エチオピアを征服した。


  アクスムは7世紀にイスラム教が起こるまで、

 強大な国で強い交易力を持っていたのだが、

 段々と新興のイスラム帝国に圧迫されていった。


  とは言っても、アクスムはムハンマドの最初の信者達を匿ったため、

 イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、

 アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、

 いきなりアクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。


  それでも中世以降、サハラ越えの隊商貿易(サハラ交易)の中継地として栄えた。


  これらスーダンの王国の繁栄ぶりは、

 北アフリカのアラブ商人やイスラム王朝の羨望の的であり、

 場合によっては嫉妬を引き起こしたとも考えられる。


 結果、アラブ・イスラム帝国の隆盛により現代ヌビア人はかなりにおいて「アラブ系」に同化している。

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