現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市:上エジプト「ワセト:テーベ(現ルクソール)」
☆『テーベ』
▼概要:
テーベとは上エジプトの中部に栄えた古代エジプトの都市の名。
古代エジプト語ではワセト(Waset)と呼ばれた。
都市の遺跡は 現代のエジプトの都市ルクソールの中に広がっている。
ナイル川デルタ(地中海)から約800キロメートル上流の南、
ナイル川の大湾曲部に沿って広がっていたナイル渓谷に
建設された主要都市である。
ナイル川の沖積平野、上エジプト第4州(権杖のノモス)の川岸の東に位置し、
当時のナイル川の流路と並行するため、自然の成り行きとして、
テーベは北東から南西に向けて広がっていた。
中王国時代、新王国時代のエジプトの首都であった。
西岸のネクロポリスには墓地である王家の谷や王妃の谷、葬祭殿などがある。
▼交易ルートの拠点として:
テーベは93平方キロメートルの面積を持ち、
その中には西部のテーベ丘陵地帯の一部が含まれていた。
この丘陵地帯は標高420メートルの聖なるアル・クルンを最高峰とする。
テーベには貴重な鉱物資源と交易ルートがあった。
一つは遠く南方のヌビア産の黄金の交易で
ヌビアとは東部砂漠によって近接していた。
もう一方東側には、
数々の小さなワジ(涸れ川)が谷に流れ出ていた東部砂漠の山岳地帯があり、
このようなワジの中でもテーベ近郊のワジ・ハンママトが、
紅海沿岸へ向かう陸上交易路として使用され、特に重要視されていた。
実はナイル川の東はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって
紅海とさえぎられている。
紅海は、地球の裂け目・溝帯に海水が溜まった場所で、
アラビア半島がアフリカ大陸から分離してできた割れ目なのである。
そのため東西の両岸は急崖をなす所が多く、
平均深度は491メートル、最大深度は2300メートルに達する。
アフリカプレートとアラビアプレートは始新世に裂け始め、現在も拡大している。
また、紅海を挟んで東のアラビア半島の大部分は高原性の台地で、その台地は西に高く東に低い。
南西端と南東端で最も高くイエメンでは富士山頂とほぼ等しい。
なお地形学的には、西のアラビア楯状地と、それよりも新しい北東・東・南東の堆積地域から成る。
このアフリカ大地溝帯の周囲部には隆起で造山活動が起き、
高原とそこから突き出す高峰や山脈など起伏の激しい山が連なり
その標高は高山気候ですらある4600-4900mにもなるのだ。
故に、スエズ運河が誕生する以前の東西運河を除く
古代ナイル渓谷から東への希少な回廊であり
古代エジプトが紅海沿岸経由でメソポタミアやインドへアクセスするための
希少な交易ルートであった。
古代エジプト時代から海上交通路としての役割を果たしてきたが、
紀元前一千年紀には遠くインドとの交易路として利用されていた。
イスラム帝国時代も、紅海はインド、ペルシア、東アフリカへの航路として重要であったが、
大航海時代には、ヨーロッパ―アジア間の航海が喜望峰回りとなったため主要交易路から外れて活気を失った。
しかしスエズ湾から地中海へと通じるスエズ運河が1869年に開削されてのちは、
アジアやオーストラリアとヨーロッパを結ぶ重要な海上交通路としての役割を取り戻し、
とりわけ20世紀に入ってからはペルシア湾岸産の石油のヨーロッパ市場への輸送路として、
往来する船舶も著しく増えた。
この他、沖積層より抽出する砂金の金鉱脈が
ワディ・ハンママトの東の砂漠にある。
テーベはこうした主要な鉱業地域と貿易ルートの拠点であり
それらが富の源であった。
▼テーベ、その歴史:
テーベには紀元前3200年頃から人が住んでいた。
メンフィスがファラオの王宮の役割を務めていた時点では、
テーベはまだ小さな交易拠点であった。
この頃この都市には上エジプト第4州の名前ワセトと同じ名前が与えられ、
第4州の主都であった。
しかしエジプト古王国時代の終焉・崩壊以来の
第1中間期と呼ばれる分裂・戦乱の時代を制した、
エジプト第11王朝(2134年頃 - 紀元前1991年頃)
によって、エジプトが再び統一されることになった。
再統一されたエジプトによって、
この地、ワセト(テーベ)が首都として選ばれたのは、
ここが分裂したエジプトを再統一した王様の出身地
(勢力の本拠地)だったためであり、
統一されたエジプトの新たな時代を築くために、
テーベはその首都となったのだ。
もっとも一国の中心となる都市、首都とは
大抵文字通り地理的にもその国の中心に位置するもので、
古代王国時代エジプトの支配領域は本国:上下エジプトのみであった為
その中心たるメンフィスに首都が置かれたのだが、
テーベが首都になったのには中王国時代以降、
南方ヌビアが度々支配されていた事と無関係ではあるまい。
テーベには紀元前2000年当時に40,000人の住民がいた
(対して、当時世界最大の都市であったメンフィスは60,000人とする)。
紀元前1800年までに、メンフィスの人口は約30,000人に減少し、
テーベはエジプトにおける当時最大の都市となった。
紀元前1500年までに、テーベは世界最大の都市に成長し、
その人口は75,000人となったと推定。
また、テーベは紀元前900年頃に数ある都市の中でもニムルド
(古代アッシリアの都市。一時はアッシリア帝国の首都でもあった。
現代の都市モースルより南東30km)
に凌駕されるまでは、世界最大の都市であり続けたとも推定されている。
上エジプト(ナイル川上流)南部の都市テーベ(現在のルクソール)
の州侯が自立して建てた、
この第11王朝による統一以後の時代が中王国時代と呼ばれる。
だが、クーデターによって王位を簒奪した第12王朝の時代、
(紀元前1991年頃 - 紀元前1782年頃)
首謀者アメンエムハト1世は玉座を北のイチ・タウィへ遷した。
それでもテーベは、
その地方神アメンがエジプト全土で崇拝されるようになったため、
宗教的中心地として繁栄を続けていた。
その全盛期にはエジプトで最も富裕な都市であった。
だが第12王朝の後半に入ると、
カナン人の集団がナイルデルタ東部に居住し始め
第14王朝をアヴァリスで打ち立てた。
(前1805年頃、または前1710年頃)
こうして、アジア人達はデルタ地域の大部分に覇権を確立し、
同時期に第12王朝を引き継いだ第13王朝の影響下から
デルタ地域を切り離した。
もっとも今度は
エジプト内に移住したアジア人の第二の波、ヒクソスと呼ばれた者たちが
アヴァリスのカナン人の権力中枢を制覇して第15王朝が始まった。
ヒクソスがメンフィスを奪取した第13王朝の治世中(前1700年頃)、
第13王朝の支配者達はテーベへと引き、テーベを首都として再興した。
ヒクソスがデルタの南方からエジプト中部へと進むと、
テーベの(エジプト第13王朝の後継政権で
第15王朝に従属する諸侯を纏めた後の第16王朝となる)
テーベ公たちは平和的に共存する取り決めをすることで、
ヒクソスの更なる前進を防いだ。(マイルドな表現)
この取り決めの下、ヒクソスはヌビア人と交易するために、
テーベとナイル川急湍を越えて上流へと航海することができ、
テーベ人は敵に出会う事なく彼らの家畜をデルタへと運んだ。
だが第15王朝ヒクソスははやがて異民族の追放を掲げたテーベの政権
(第17、第18王朝)によってエジプトから放逐された。
新王国時代にテーベは都として多いに栄え、
大規模な建造物もバンバン建てられ人口が集中し、
地方や外国からやって来た人々もたくさん行き来していました。
ナイル川という古代において最強の交通手段もありましたし。
実のところ首都としてのテーベの遺跡の大部分は
国土の拡張が盛んに行われ、
エジプトが当時の一大帝国として君臨していた
第18王朝「新王国時代」のものであるのだった。
第19王朝では、政府はデルタ地帯に遷ったが、
テーベはセティ1世(前1290年-前1279年)と
ラムセス2世(前1279年-前1213年)の治世を通して、
その財力と威信を維持した……してしまった。
上エジプトから集めた税を集中させた巨大な穀倉群及び、
ヌビアと東部砂漠への金採掘の遠征によって建設資金を賄われた
広範な建築プロジェクトをテーベで実施し
テーベはかつての最盛期と同等かそれ以上の圧倒的な繁栄を迎え
その結果後の第3中間期の間、
地方の支配権はアメン大司祭の手の中にどんどん収まって
第21王朝、第22王朝の王達と等しい立ち位置となり、
アメン大司祭はエジプトの南部で絶対的な権力を及ぼしていくのだ。
第20王朝のラムセス3世もまた、
深刻な「海の民」の侵入などもあったが勝利し、
国外の脅威を振り払い
国内も比較的安定させることに成功し
この安定の下で獲られた富をテーベに投入した。
彼は自分と同じ名前の王ラムセス2世を手本とした統治を目指し、
安易に奴隷と広大な土地をアメン神殿に寄進してしまった。
こうしてラムセス王朝(第20王朝)の後半、テーベは衰退を始めた。
政府は重大な財政不安に陥ったのだ。
新王国の終焉頃から、
とうとうテーベはエジプト人からネウト・アメン(Niwt-Imn)
(アメンの街)と呼ばれるようになっていた。
現代ではルクソールと呼ばれるこの街は、エジプト新王国の時代、
太陽神アメン=ラーの都市だったのだ。
なお、ギリシア人はアメン神をゼウス(Zeus Ammon)であると解釈し
従って、ネウト・アメンと言う名前はギリシア語ではディオスポリス
(ゼウスの街)と翻訳され、後にこれが効いてくる事になる。
さてアメン大司祭職であるが、
アメン神官団の財力を背景に第20王朝を無視して
神託によってテーベの統治権を与えられたと主張して
上エジプトを領土とする事実上の国家を形成してしまった。
第20王朝は、もはやその統治権を行使しえなくなり
事実上の統治権を喪失していた。
こうしてテーベのアメン大司祭を中心としたアメンの神権国家は
テーベを中心に上エジプトを統治した。
下エジプトから上エジプト北部にかけては
新しく生まれた第21王朝が、
上エジプト中部から南部にかけてはアメン大司祭国家が
統治すると言う新しい時代が始まったのである。
やがてアメン大司祭国家は対立した第21王朝をも懐柔して取り込み
両者の間には比較的安定した協力関係が持たれることとなった。
だが第21王朝が倒れると変化を余儀なくされた。
第22王朝の制御下に置かれることになったのだ。
しかし自律的な組織を持つアメン神殿や
アメン神官団の勢力はその後も健在で、
第22王朝下においてもアメン大司祭職は
強い権限を保持する地位であり続け、
その権力はしばしば国内を二分する争いを引き起こしもしたのである。
宗教怖い!
その後、第22王朝の支配力は弱体化し
中央政府の求心力が衰えると各地で分離の動きが相次ぎ、
第22王朝の王子すら王位を継げないとなると新たな王位を主張して
第22王朝とは別のレオントポリスに拠点を置く第23王朝を開いた。
その他ヘラクレオポリス及びヘルモポリスに
それぞれ拠点を置く王朝が割拠しており、
第24王朝もこの時流に乗って自らの王朝を打ち立て
メンフィス周辺地域まで支配を拡大していた。
こうしたエジプトの分裂と混乱は外部勢力の侵入を招くことになる。
当時のエジプトの分裂とリビア人王朝の支配者達、即ち
タニスの第22王朝、
レオントポリスの第23王朝、
ヘラクレオポリスの王朝、
ヘルモポリスの王朝、
そしてサイスの第24王朝
による群雄割拠状態を聞き及び、エジプトへの遠征を決意した者がいたのだ。
南方で強固な王国を築き上げていたヌビア人
後の第25王朝の王:ピアンキその人である。
実は新王国の衰退に伴ってエジプトがヌビアから撤退した後、
ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設していた。
この都市はナイル川第4急湍よりやや下流、
かつて「清純の山」と呼ばれていたゲベル・バルカルという岩山の麓にあり、
ここに残存する遺物の数々から、ヌビア人が
(少なくとも支配階級は)高度にエジプト化されていたことが把握できる。
この様に当時ヌビアでは新王国時代のエジプト統治を経て、
エジプト文化が広く浸透しており、
その王はエジプト風にファラオの称号を持って呼ばれ、
国家神としてアメン神を信奉するようになっていた。
よって、ピアンキの主張では、
彼のエジプト遠征は
「旧宗主国の秩序を立て直し、アメン神の権威を回復する」
ものであったと言う。
当時すでに上エジプトには
ヌビアに忠実な地方支配者が幾人もおり、
より直接的にはこれらの地方支配者が
敵の攻撃を受けて救援依頼をしてきたのが遠征の理由であった。
かくして紀元前750年頃、クシュ人(ヌビア人)達は
テーベと上エジプトに対する影響力を増大させていた。
かつてのエジプトの植民地クシュは、帝国へと成長していたのだ。
ピアンキは軍勢を率いて北上し、
まずエジプトのアメン信仰の中心テーベを抵抗を受けることもなく占領し
アメン神に捧げる宗教儀式を行うとともに、
自分の妹を「アメンの聖妻」の養女にし、その後継者とした。
これによってテーベのアメン神官団対するコントロールを強めた
これに対しエジプト北部では第24王朝を中心に
第22王朝、第23王朝、ヘラクレオポリス、そしてヘルモポリスと
対ヌビアの同盟を結び、ヌビア人の侵攻に対応した。
しかし、ヘラクレオポリスは早い段階でヌビア側についた。
それ故第24王朝はヘラクレオポリスを包囲したが
攻撃を受けたヘラクレオポリスはクシュに救援依頼をしてきた。
こうして紀元前721年、救援依頼を受けたクシュ人の王は、
徒党は組めど連携を取らなかったヘルモポリス、
第22王朝、第23王朝、第24王朝の連合軍を
次々と各個撃破で一方的に打ち破り、
これにより久方ぶりに再びエジプトは統一された。
(それなんてアスターテ会戦)
彼の治世(クシュ朝と呼ばれることもある)では全エジプト、
特に彼が王国の首都としたテーベ市で相当な量の建築活動が見られた。
だが、ヌビア人のエジプト支配も1世紀近くを経てやがて終焉を迎えた。
紀元前7世紀前半には
既にオリエント世界最大の勢力となっていたアッシリアは、
遂に紀元前671年にエサルハドン王の下でエジプトに侵入したのだった。
テーベの街はアッシリアのアッシュールバニパル王の攻撃を受け廃墟となり、
その重要性も失われた。
しかし、テーベは滅びんよ、何度でも甦るさ。それが人々の夢だからだ!
テーベの偉大さは、今日でも、崇高な場所であり続けていた。
第25王朝は戦いに敗れテーベからも逃走して
根拠地であるヌビアへと追われナパタまで撤退した。
かくしてアッシリアのエジプト支配が始まった。
当時サイスを支配していたネコ1世と、その息子プサメティコス1世は
アッシリアによってエジプトの管理を任され、
それぞれ「サイスの王」、「アトリビスの王」という地位を承認され
紆余曲折を経てエジプト第26王朝(紀元前664年 - 紀元前525年)となった。
だが紀元前525年、この傀儡政権に対し
ペルシアのカンビュセス2世がエジプトに侵攻しファラオとなった。
第27王朝(紀元前525年 - 紀元前404年)は、
エジプトにおける最初のアケメネス朝の王朝で
これは事実上アケメネス朝の属州であり、
第1次ペルシア支配時代とも呼ばれる。
そう、エジプトはアケメネス朝のサトラペイア(州)として、
その従属王国となったのだ。
しかし、それには重大な問題をはらんでいた。
実は古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われていたため、
他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であった。
そもそもアケメネス朝ペルシアは、
全帝国で続発した反乱の鎮圧に多くの時間を費やしていた。
しかし反乱に対する彼らの鈍い対応は
エジプトの独立が確固たるものになることを許した。
その後の独立時代にはエジプト人による三つの現地人による王朝が統治した。
すなわち第28、第29、第30王朝による束の間の独立を謳歌していたのだ。
だがアケメネス朝ペルシアは紀元前343年に短期間エジプトを再征服した。
これはエジプト第31王朝と呼ばれている。
第31王朝は、ペルシア人の王がエジプトを統治する二度目の王朝であり、
それ故に「第2次ペルシア支配時代」と呼ばれている。
この後テーベはかつての政治的意義を取り戻すことはなかったが、
重要な宗教的中心としては残っていた。
しかしその宗教的意義が、その後に歴史的な意味を持つことになるのである。
なお、政治的な力を失いつつも宗教的な力で保たれていた
そのテーベと北部の中央権力の良好な関係は、
やがてエジプトがアレクサンドロス大王の征服によって
その支配権が現地人からギリシア人に置き換わった時に終わった。
なお、アレクサンドロス大王はオペト祭の最中にテーベを訪れたが、
この訪問自体は現地住民からは歓迎されたにも関わらず、
テーベは周囲から反対勢力が集まりその中心地となってしまった。
しかしエジプトは11年前の紀元前343年に
第31王朝のペルシア人によって征服されたばかりであり、
ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。
そもそも古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われていたため、
他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であったからだ。
故に紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられた
アレクサンドロスはファラオとして認められ、
「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、
アメン神殿にその像を祭られた。
なぜなら彼は少数の部隊を率いて
西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、
ここで自らをアメンの子とする神託を得たのだ。
そして、次期創世王候補にせんとする三神官から
体内にキングストーン「太陽の石」を埋め込まれ、
征服王イスカンダル=サンに生態改造された。
「余は太陽の子っ! 騎兵ライダーBLACKっ! RXっ!! 」
<待て!
しかしここに、問題があった。
自らの王が異教の神の子となってしまったマケドニア人だ。
だがギリシア(マケドニア)人はアメン神をゼウスであると見立ていたので、
三段論法により
大前提:アメンはギリシア神話のゼウスである。
(A, M-P:全てのMはPである)
小前提:アレクサンドロス大王はアメンの子である。
(A, S-M:全てのSはMである)
結論:ゆえにアレクサンドロス大王はゼウスの子である。
(A, S-P:全てのSはPである)
そう解釈した。
この理屈によってアメンはギリシア神話のゼウスと同一視されていることもあり、
この神託はアレクサンドロス大王はゼウスの子であるということに等しかった。
この理屈はエジプト人、マケドニア人双方にとって受け入れられるものなので
どちらにとってもWin-Winであった。
こうしてエジプトとギリシア双方の観点から権威付けした。
また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、
これが現在のアレキサンドリアの起源である。
こうしてエジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスは
ペルシア王国への遠征を再開するのだった。
だが、すぐに部下のプトレマイオス朝に取って代わられた。
世界征服の最中突如不審死を起こしたためである。
そんな中、部下のプトレマイオスがファラオになれたのはひとえに
帝国の首都バビロンからマケドニア本国へ移送中だった大王の遺体を奪取し、
首都メンフィスで大王の葬儀を行って埋葬し、
後に遺体をアレクサンドリアに移しミイラとして埋葬し直せたからである。
どの時代、どこの国でもその多くで
葬儀の喪主こそ実質的な後継者である事を意味するからである。
その為後継者としておさまれたのだ。
なお、アレクサンドロス大王は生前、
エジプト西方のシーワ・オアシスのアモン神殿に埋葬されることを望んでいた。
それでも紀元前185年、
上エジプトでプトレマイオス朝に対する反乱が起った。
だが反乱鎮圧後、プトレマイオス5世は反乱に加担した神官達を許した。
なぜなら未だテーベの神官達の支持を必要としていたからである。
かくしてその後もテーベでは度々反乱がおこり、
その反乱は調子に乗ったテーベの神官団によって支えられていた。
だが遂に紀元前91年に発生した反乱では
とうとうテーベの都市は瓦礫の山にされてしまったそうな。
なぜならプトレマイオス1世の治世下から既に
エジプト人の宗教と統治者らマケドニア人の宗教を
統合する努力、即ち信仰への侵攻が行われて
これによりテーベの神官達の力を削いでいったのだ。
プトレマイオス1世の方針は、エジプトの神官が
かつての外来の支配者の神を呪っていることを踏まえ
(すなわち、ヒクソスによって崇拝されたセト)、
両方から崇拝される神を見出すことだった。
アレクサンドロス3世はアメンを考えていたが、
アメンは上エジプトで信仰が篤い神で、
ギリシア人の支配力が強い下エジプトではそれほどでもなかった。
ギリシア人には動物の頭を持つ像はあまり人気がなかったため、
ギリシア風の人間の姿をした偶像が選ばれ、
アピスと同一であると宣言した。
それが「アセル=ハピ 」(すなわち、オシリス=アピス)と呼ばれ、
セラピス (Serapis) となった。
そして、この場合のオシリスはカー(霊魂)だけの存在ではなく完全体とされた。
悪魔合体である。
もっともその信仰も385年まで続いたが、
キリスト教徒がアレクサンドリアのセラペウムを破壊し、
テオドシウス1世がキリスト教を国教に定めたことで
セラピスの信仰は役目を終えたのか忘れ去れることになった。
さて、古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代、
はエジプトは「アエギュプトゥス」と呼ばれ
「エジプト(Egypt)」の語源となった。
初代ローマ皇帝アウグストゥスは、
アエギュプトゥスをローマ皇帝の私領とした。
だが最後の王朝であるプトレマイオス朝も含め、
古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われ、
人間による統治は受け入れられず
他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であった。
だが、不可能を可能にしたエネイブルな方法があった。
アウグストゥスの養父たるガイウス・ユリウス・カエサルは、
死後にローマ元老院の決定により神格化がなされており、
言わばアウグストゥスは神の子であり、
この地を統治する資格を有していた、としたのだ。
これはローマ元老院の決定によりガイウス・ユリウス・カエサルが
死後神格化されていたこともあって、これまた
三段論法により
大前提:ガイウス・ユリウス・カエサルの死後、彼は神である。
(A, M-P:全てのMはPである)
小前提:アウグストゥスはガイウス・ユリウス・カエサルの養子である。
(A, S-M:全てのSはMである)
結論:ゆえにアウグストゥスは神の子である。
(A, S-P:全てのSはPである)
そう解釈させた。
こうした詭弁によりローマ帝国屈指の穀倉地帯を私領とした事で、
ローマ皇帝に多大な収益をもたらしたのは事実である。
なお、肝心のテーベはと言うとローマのテバイス属州の一部となった後に
この属州はテーベ市を中心とするテバイス・スペリオルと、
プトレマイス・ヘルミオウ市を中心とするテバイス・インフェリオルに分割された。
分割統治は統治の要!
古代ローマ帝国は、支配下に治めた都市相互の連帯を禁じ、
都市毎に応じて処遇に格差をつけ力を弱める事によって、
征服した都市からの反乱を抑えることに成功したのだった。
テーベの街はBC672年の異民族の略奪を受けたことに始まり、
アレキサンダー大王遠征後のプトレマイオス軍により完全に破壊され、
ローマの支配下の時代には街はすでに瓦礫の山だったという。
ローマによる支配(前30年-349年)の間、
テーベに残存した住民達のコミュニティは
ルクソール神殿の周りに集まった。
そしてローマがヌビアへの軍事遠征をしている間、
ローマ軍団はルクソール神殿に本営を置いた。
テーベでの建設活動が突然終わることはなかったが、
その後のテーベは衰退を続けた。
西暦1世紀、ストラボンはテーベが単なる一村落に転落したと述べている。