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現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市:下エジプト「メンフィス(現カイロ近郊)」

★『メンフィス』


  ナイル川西岸、現在のカイロの南約23kmのナイル川の氾濫原に位置し

 現在では東西約 1.5km、南北約 4kmの規模の遺跡となっている。

 (なお、この現在の遺跡の範囲は、プトレマイオス朝時代の都市規模の

  約10%にも及ばないと考えられている。)


  ナイルの下流地域、下エジプトであるここに首都があったのは、

 ピラミッドが多数建設されていた「古王国時代」。


  伝説ではメンフィスは

 最初に上下エジプトを統一したファラオである第 1 王朝の伝説の王メネスによって

 ナイル川を堤防で迂回させ、ナイル川沿いの地に建設したとされる。


  それ以降、古王国時代からプトレマイオス朝時代の終焉までにかけて

 首都あるいは行政の中心地として

 古代の地中海の歴史を通じて重要な都市であり続け、

 第 1 王朝(紀元前 3000 年頃)から

 約 3000 年間にわたって発展し繁栄した。


  この都市は上エジプトと下エジプトの境界に位置し

 ナイル川河口付近のデルタ地帯の扇状地の扇頂に相当する位置という

 戦略的要衝、ナイル川下流河畔の交通の要衝に形成された都市であり、

 各種の社会生活の拠点として栄えていた。


  つまりメンフィスの地にはその利便性から

 長らくに渡ってその近辺に首都が作られ続けてきたのだ。


  もっとも、メンフィス自体は中王国時代を経て新王国時代が始まると、

 テーベ市の勃興と共に政治的中枢としての機能を一部失っていったのだが。


  ただ、その黄金時代の間のメンフィスは

 商業、貿易、宗教の地域的中心地として繁栄し、

 メンフィスの主たる港であるペル・ネフェルには

 数多くの工房、工場、倉庫が存在し、

 王国全体に食料や商品を流通させていた。


  メンフィスは職人の守護神プタハの加護の下にあると信じられ、

 神殿の名称をアイギュプトス(Aί γυ πτoς (Ai-gy-ptos))と

 ギリシア語訳しており、

 アエギュプトゥス(ラテン語: Aegyptus)は、

 古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名でもあり、

 これが現代の英語の地名であるEgyptエジプトの語源

 であると考えられている。


  また河の対岸、ナイル川東岸にある「ヘリオポリス」は

 太陽神ラーを祀り、太陽の都として雅やかな文化を発展させた場所で

 ヘリオポリスはヘルモポリスと並んで、

 古代エジプトの創世神話の中心地として有名である。




都市きみの名は?


  また、メンフィスはその四千年に及ぶ歴史の中で

 複数の名前で呼ばれた。


  メンフィスは巨大な都市であったため、

 都市の周辺地域や地区が繁栄すると

 その名称が同時代のメンフィスを指す呼称として知られるようになった。


  例えば、第 1 王朝に首都が造られた際には

 王宮の姿にちなんで

 『イネブ・ヘジュ(白い壁)』と呼ばれていた。


  だが、第1中間期の文書には

 テティ王のピラミッドの名前からとって

 『ジェド・スト(不朽の地)』と呼ばれている。


  あるいは、 中王国時代にはこれ以外に

 『アンク・タウィ( 二つの地の生命)』と呼ばれていた。


  これは上エジプトと下エジプトの結節点にあるという

 その戦略的位置を強調する名前である。


  この名前は中王国時代(紀元前2055年頃-紀元前1640年頃)に登場し、

 古代エジプトの文書では頻繁に使用されている。


  新王国時代(紀元前1550年頃)が始まるとこの都市は、

 南サッカラにある古王国時代第 6 王朝のペピ 1 世のピラミッドの名前、

 『メン・ネフェル(確固とした-永遠の 美)』に由来し

 この名前はコプト語では略されたのか『メンフェ』と変化する。


  メンネフェル・ペピ(「ペピの美は不朽なり」の意)の名で知られており、

 その後メンネフェルという略称で呼ばれるようになり、

 やがて地名として用いられるようになったのだ。


  現在メンフィスとして知られている都市の名は

 コプト語の読み『メンフェ』が、

 ギリシア語で『メンフィス』と呼ばれたものである。


  つまり『メン・ネフェル』が、

 ペピ 1 世のピラミッド都市を指すようになり、

 それが新王国時代第 18 王朝頃から、

 首都の名前を指すようになったのだ。


 なお、旧約聖書ではメンフィスはモフまたはノフと呼ばれている。




☆メンフィスの興亡:


  中王国時代が始まると、

 ファラオの宮廷と首都はメンフィスから南方のテーベへと遷り、

 メンフィスは首都ではなくなった。


  ただし玉座は遷ってしまい政治的には衰退したが、

 まだメンフィスは手工芸品の生産地区など重要な商業と芸術の中心であり続けた。



  新王国時代が始まると、

 テーベ市の勃興と共に政治的中枢としての機能を一部失ったものの、

 やはり、古都として依然影響力を与えていた。

 新王国時代、メンフィスは王子や貴族の子弟の教育拠点となったのだ。


  だが、メンフィスは第3中間期の間に

 侵略者による支配と反乱による解放を繰り返し経験した。


  数度の包囲戦はこの国の歴史の中でも最も凄惨な場面となった。

 ギリシア人の同盟者の支援を受けてアケメネス朝の支配に対抗した

 にも拘らずエジプトは征服者の手に落ち、

 以後メンフィスが国家の首都となることはなかった。


  こうしたなか紀元前332年、とあるギリシア人集団が到来すると

 彼らはペルシア人からこの国の支配権を奪い取った。

 後の世に言う征服王イスカンダル、もしくはアレクサンダー大王、

 マケドニアのアレクサンドロス3世その人である。


  アレキサンダー大王の死後、部下であったプトレマイオス

 (マケドニア出身のマケドニア人)が創始したプトレマイオス朝は、

 古代エジプトのヘレニズム国家の一つとして栄えた。

 なお、首都はアレクサンドリアに置かれた。


  こうして古代エジプト末期、ローマ人の到来とともに、

 メンフィスはもう1つの古都テーベのようにその重要性を失った。


  メンフィスよりもローマ帝国内の交通の要衝として有利な位置にあった

 アレクサンドリアが建設され、エジプト第2の都市に転落し

 最終的にアレクサンドリアの発展によって、住民も移動し

 その経済的重要性を喪失したために大都市としては

 事実上滅亡したと考えられている。


  つまりは、上下エジプトのエジプト1国である内は中央に位置したため

 メンフィスは交通の要衝として有利な位置にあり栄えて要られたが、

 大帝国の属国、属州に成り果ててしまうと

 それら本国との交通の要衝として有利な位置に取って代わられたのだ。


  また、その宗教的重要性も、

 古代の信仰が放棄されるにつれて失われていった。


  アレクサンドリアに、

 エジプトの新たな支配者達のメンタリティーに適合した

 習合神セラピス信仰の隆盛と、キリスト教が

 出現しエジプトに深く根付くようになったことで、

 メンフィスの古代からの宗教は完全に衰亡したのだ。


  こうして、メンフィスの衰退と反対に

 アレクサンドリアはローマ帝国の統治下のもと、

 最も重要なエジプトの都市であり続けた。



  このように都市部は徐々に放棄され、

 ビザンティンとコプト

 (メンフィスの別称「ヘト・カ・プタハ」(プタハの精霊の館)に由来)

 の時代には住人は存在しなくなった。



  しかし今度は7世紀、イスラーム時代になると、

 メンフィスにほど近いローマ軍の駐屯都市バビロン要塞の近くに

 エジプトを征服したアラブによるエジプト支配の拠点として

 軍営都市アル=フスタートが築かれた。

 

  こうしてには要塞都市が建設され、

 アラブ人の統治下となったエジプトにおいて、初めて首都となった。


  対して遺跡と化したメンフィスは、

 新たな首都フスタートのような居住地を周囲に作るための採石場となっていた。



  10世紀、ファーティマ朝がエジプトを征服。

 フスタートの北部、

 北3km郊外に「勝利の町」を意味する

 「ミスル・アル゠カーヒラ(カイロ)」を建設。

 政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、

 経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれた。


  その後、12世紀に焦土戦術で焼き払われ廃墟とかしてしまった

 フスタートがこんどは遺跡どころかゴミ捨て場となっていたが、

 やがてそれも商業都市として発展を始めたカイロに取り込まれた。

 現在ではこの取り込まれたフスタートをオールド・カイロと呼称する。


  それに引き続いてアル=カーヒラ(現在のカイロ)の発展とともに、

 メンフィスの都市機能は完全に消滅していった。


  なぜならメンフィスはフスタートが紀元後641年に建設される頃には

 市街の大部分が放棄されており、石材は周囲の集落で再利用され、

 それでも12世紀頃までは堂々たる遺構が残されていたが、

 間もなくそれも、広大な敷地に建物の残骸と

 散乱した石が広がるだけの土地となったからだ。

 


  なお、第1 王朝に建設された本来の首都メンフィスの位置は、

 現在のメンフィスの遺跡とされているミート・ラヒーナ村よりも

 砂漠の縁辺部に近い現在のアブ・シール村のあたりであったと指摘されている。


  この初期メンフィスの位置から、

 ナイル川の流路の移動にしたがい、

 次第に東に移動していったものと考えられている。


 時代が進むと、メンフィスから

 南にある河の上流テーベに首都が移ります。

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