現実:歴史-古代エジプト文明 -ナイル川流域-古代エジプトの都市
前々話
現実:地理-ナイル川流域-河口:ナイル川デルタ〜ナイル川源流:(ヴィクトリア湖)ヨーロッパ人の冒険
エピソード追加による改題。
★ナイル川流域:
ナイル川本流とは、それぞれの源流が
南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流するも、
上流は谷合でありナイル川のみだけが流れる。
ブルンジ・タンザニア近辺、
ウガンダ西部とルワンダ北部の高山地方に源を発し、
ビクトリア湖(標高1,134 m)・アルバート湖(標高615 m)を経て
北流する白ナイル川。
エチオピア高原の
標高1,800mに存在するタナ湖に源を発する
青ナイル川。
この2つの支流が、
スーダンのハルツームで合流しナイル本流となり、
さらに大支流アトバラ川と合流。
砂漠地帯でS字形を描き、
アスワン(エジプト本国)に達するのだ。
アスワンからカイロまでは洪水沖積地を流れ、
カイロ以北では(嘗ては河口だった)広大なデルタを形成し、
最終、地中海に注ぐこと全長6695キロ。
ナイル川が地中海に流れ込む前に合流する最後の支流アトバラ川
(6月から10月までの雨季以外はほとんど水は流れていないが)は
青ナイル川と同じくエチオピア側から流下する河川である。
このアトバラ川合流点からデルタ地帯までは、
沿岸部はほとんど雨が降らない為、
また白ナイル川上流の大湿地帯(スッド盆地)の地域一帯で
蒸発散により水量が失われているため、
雨季・乾季の明瞭なエチオピア高原に発する
青ナイル川とアトバラ川こそが、
洪水期には肥沃な泥土を下流に運び、
古代エジプト文明を育てたと言える。
(そもそもナイル川は、白亜紀以降、
アフリカの大地溝帯の活動によってアラビアプレートが分裂し、
それに伴いエチオピア高原が隆起して形成されたものであり、
中新世の頃の侵食系である古ナイルが青ナイル川のもとであり、
僅か12500年前の最終氷期終了の影響で
それまで閉鎖湖だったヴィクトリア湖の水位が急激に上昇し、
現在の北のナイル川水系へとあふれ出し、
白ナイル川として接続されたものなで
青ナイル川こそ本流といえるのではないだろうか? )
ナイル川、特に白ナイル川は全般的に勾配は緩やかであるが、
何ヶ所か急流や滝が存在するため、
河川全域を通じての通航はできない。
しかしその部分を除けば航行は可能であり、
河口から第一急流アスワンまでの間は古来より交通路として
非常に重要な地位を占めてきた。
なお、現代においてナイル川は地中海から船舶で南下して行き
アスワン-ハイ-ダムの建設によって造成された
ナイル川中流にある人造湖ナセル湖、湖畔にある
(北上する鉄道や船舶航行の終点)スーダンのワディハルファまで
途中アスワンで乗り換えではあるが航行が可能なもよう。
ナイル川は平坦な砂漠を流れる河川ではなく、
東側はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって
紅海とさえぎられている。
そしてナイル川の西側もまた高地であるため、
ナイル川が大規模に流路を変える可能性は低い、
と言うより今更変わりようもない。
なぜなら古代ナイル川とは、エチオピア高原が隆起してきた
白亜紀以降に形成されたと考えられているからである。
ナイル川は中新世以降、その状況は5つの時期に分類される。
中新世の頃のものは古ナイル(Eonile)と呼ばれ、実は侵食系であった。
中新世後期の約600万年前、ヨーロッパ地中海(その頃は地中海海盆)が
アラビアの圧力により西端ジブラルタル海峡が閉じられ、
大西洋から地中海への海水流入が止まり、
海水の蒸発により干上がったり塩湖を形成して海を消滅させた為、
地中海は非常に塩分の濃い海となった。
これをメッシニアン塩分危機と言う。
このメッシニアン塩分危機の末期に至るまで
干上がっていた地中海のこの盆地に向けて古代ナイル川が流れたため、
峡谷が形成されたものと思われているのだ。
そしてその頃ナイル川も地中海同様に乾いた峡谷となっており、
ナイル川は峡谷の最低部
(およそ2400m以上の深さで、現在のカイロのある場所)
を通過して地中海になる盆地へと流れていたのだ。
中新世の終わり約500万年前に地中海が再び水で満たされた時、
ナイル峡谷もまた隣の紅海のように海の一部となり、
アスワンよりも内陸へと延びる細長い湾となった。
だが、年月を経るうちに湾には次第に泥が蓄積し、
今日のナイル谷ができた。
古ナイルによって形成された峡谷は埋積され、
現在ではそれらの領域の一部にガス田が見られる。
更に現在のナイル川水系となったのは更新世末期のことである。
12500年前には最終氷期の終わった影響によって
ヴィクトリア湖の水位が急激に上昇し、
それまで閉鎖湖だったものが北のナイル川水系へとあふれ出した。
このときに、ヴィクトリア湖は現在のナイル川水系に接続された。
ナイル川の水の恵みを受けているのは
南北に連なるこの幅15~20kmの細長い川辺の地域だけであり、
三角州の始まりであるカイロ市外の南方10kmまではこのような風景が続く。
そう、カイロは二つの高地が終わるちょうど扇状の扇頂の位置に広がる。
このため、カイロ自体の標高は15mから60m程度だが、
南東方向に2km進むだけで標高150mにまで達する。
この地区はモカッタム丘陵と呼ばれる。
なお、カイロ周辺では南東に約100km離れた
ガララアルババリーヤ山 (1274m) などが際立つ。
★古代エジプトの都市:
古代エジプトとは、
具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するが、
一般的において
紀元前3000年頃に始まった第1王朝から
紀元前30年にプトレマイオス朝が
共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代
古代のエジプトに対する呼称をさす。
古代エジプト文明の時代よりエジプト人は
ナイル河畔に居住していた。
特に第一急流アスワンまでの間は河川交通によって密接に結ばれており、
故に河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。
ナイル川の流れはエジプト国内で言えば
南北1545kmにもわたって北上し、
アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが
幅は5kmほどとさほど広くなく、
上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、
途中、アシュート近辺で分かれた支流が
ファイユーム近郊のカールーン湖(かつてのモエリス湖)に流れ込み、
この支流によって、カールーン湖近辺は
肥沃なファイユーム・オアシスを形成している。
一方本流は、
下流カイロ近辺で典型的で広大な扇状三角州地帯を
形成して地中海にむかって約250kmも広がって河口から海にそそぐのだ。
かつてはナイル川によって運ばれる土で、
デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、
アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、
地中海から逆に塩水が入りこむようになった。
ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、
カイロを境にした2つの地域に分けられている。
前者はデルタ地域をさし、後者はカイロから上流の谷をさしている。
ナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。
ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、
わずかな人がオアシスに集まって住むのみである。
古代エジプト初期、
エジプトはいくつかの都市国家に分かれていたが、
やがて上エジプトを統一した王が勢いかってそのまま下エジプトをも襲撃。
結果、
ナイル川上流地域(上エジプト)
(現在のカイロ南部からアスワン辺りまでのナイル川流域地帯)と
ナイル川下流地域(下エジプト)
(現在のカイロ南部から地中海に至るまでのナイル川デルタ地帯)の
二つが統一国家にまとまった。
こうして、
上エジプトと下エジプトが交差するとき物語は始まる。
このように、それぞれ違った文化が発展しつつも、
ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘に対し、周囲に
不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプト(タ・シェマ)と
広大なデルタ地帯が扇状に広がり一面に緑も広がり
海に面した下エジプト(タ・メフ)と言う
それぞれ二つの統一国家が成立していた。
また、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、
ファイユーム低地地方が存在した。
ナイル川の分流が流れ込んで形成された
カルーン湖を中心とするこの地方は、
中王国時代に干拓が行われるまで、
広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、
原始時代より人類の生活の舞台であった。
お互いの領域が拡大し、
上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大して
文化経済的には先んじて統一された後に武力統一されたため、
比較的かんたんに統一はなされたようだ。
ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、
故に古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。
数千年の間、エジプトの首都は、ナイル川流域を転々としていた。
メンフィス、テーベといった都市が一例として挙げられるが、
エジプトはそれだけ、ナイル川に依存していることの証左でもある。
紀元前331年、アレクサンドロス3世がエジプトを征服すると、
彼の名前にちなんだ都市がナイル川河口に建設された。
それが現在のアレクサンドリアである。
アレクサンドリアが
エジプトの政治、経済、宗教、文化の中心であった時代は、
ローマ以降、641年、イスラーム勢力(アラブ人)が
アレクサンドリアを陥落させるまで続いた。
ウマルの命令を受けていたアムル・イブン・アル=アースは、
古都メンフィスにほど近いナイル川東岸に新しい都市を建設した。
アムルはエジプト支配の拠点として、
ローマの古城:バビロン城に近いナイルデルタの頂点に
軍営都市ミスル・アル・フスタートを建設した。
これが現在のカイロ市の原型である。