現実:歴史-古代エジプト文明史 - 年表一覧
★年表一覧:
☆新石器時代
エジプトで人々が定住し農耕を開始した
紀元前5000年ごろから
いくつもの部族国家に分裂しており、
やがてこの国家群が徐々に統合されて
いくつかの国家にまとまりはじめた。
☆原始王朝時代(前3500~前3100年頃)
(黎明期、上エジプト、下エジプト)
紀元前3500年頃にはまず上エジプト(南:上流)、
そして下エジプト(北:下流)、
南北でそれぞれに二つの統一国家が成立したと考えられている。
☆初期王朝時代(前3100年~前2700年)
上エジプトのナルメル王が、
下エジプトを征服して、
上下エジプトを統一。
エジプト第1王朝を開き、
下エジプト南部の新首都は『Ineb Hedj(白い壁)』
(後にメンフィス)と呼ばれた。
こうして統一された古代エジプト史の流れは、
大きく三つの時代に分けられます。
★古王国(前2700~前2200年頃)
古王国の都はメンフィス。
ナイルの下流地域、下エジプトに都が置かれた。
古王国はピラミッドが造られた時代。
ファラオ専制神権政治はこの時期に確立したと言っていい。
当時のファラオの偉大さは、
この時代に作られた巨石墳墓ピラミッドで示される
現在のカイロの対岸にあたるギゼー(ギザ)において、
最大のクフ王のピラミッドをはじめ、
世界最大のピラミッドを造営したのも
すべてこの時代のものです。
やがて、メンフィスを中心としたエジプト古王国の統一権力は、
地方州侯の勢力が徐々に拡大したことにより、
治世末期に陥り統制能力を喪失し戦国乱世の世となった。
★中王国(前2100~前1700年頃)
中王国の都はテーベ。(古代エジプト語ではワセト)
ナイルの上流地域、上エジプトに都が置かれた。
エジプト古王国時代の終焉以来
分裂していたエジプトが第11王朝によって再び統一されることになったが、
後にクーデターによって王位を簒奪した第12王朝の衰退から、
中王国期もまた終焉を迎えていった。
この王朝は正統性を確保するため、また戦略的な理由から、
首都をテーベから古王国時代の首都メンフィスのそばに建設し
イチ・タウィへと遷された。
(「二つの土地の征服者」と言う意味)
また、理想化された数百年以上前古王国時代の予言として
偽書『ネフェルティの予言』
(全土が混乱と掠奪に晒されることや
下エジプト(ナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入、
その混乱状態を救済主アメンエムハト1世が救うとした。)など
政治宣伝を繰り広げた。
一方、実利的な事業としてエジプト第12王朝センウセルト2世の時代から、
大規模な干拓工事がファイユームで着工されていた。
ファイユームは当時古代湖が干上がった後に
ナイル川の水が流れ込んで作った湿地帯が広がり、
農耕自体はともかく大規模な農耕の困難な土地であったが、
これまた大規模な堤防を築くことで
ナイル川からの水の流入を防ぐことが試された。
この大工事は3代かけて達成され、
ファイユームはエジプト有数の穀倉地帯となった。
ファイユームの干拓工事や、
エジプト古王国時代(第6王朝)によって作られた
運河の改修工事を行い、食糧生産の増加や物流が改善された。
だが、やがてアジア系の王となった第12王朝や、
数多くの明瞭でない平民出身の王達から成っていた第13王朝、
エジプトに流入して数を増やしていた
カナン系の住民による第14王朝により
王権は極めて弱体化していった。
この時代には下エジプトで「アジア人」の勢力が増大し、
第1中間期以来、傭兵や奴隷、そして時には外敵として
エジプトに入っていたのだ。
彼らはエジプト人の歴史叙述においては「侵入者」と見なされるが、
実際には中王国時代にアジア系の高官が輩出しており、
その人的交流は相当に活発であった。
そうして、中王国は伝説によれば
エジプト初の外来民族の侵入によって衰退しました。
(混成民族集団ヒクソスがアジア方面から侵入したと主張するが、
実際にはエジプトへの移住者だったらしい)
ヒクソスは馬と戦車を巧みに使用し、ナイルのデルタ地帯に本拠を築き、
100年余りエジプトを支配した。
ヒクソスの侵入で馬曳戦車がはじめてエジプトにもたらされた。
(それまでのエジプトには馬がいなかった。)
この時代はまだ馬に乗って戦えません。
馬は戦車を牽かせるために使います。
(戦車といってもただの馬車みたいなもので御者が一人、
そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を射った。
これに対しエジプト兵はみな歩兵ですから、
圧倒的に機動力で優れていた)
馬に乗って戦うためには、
鞍とあぶみが必要ですがまだ発明されていないのです。
また、戦車の他に、新兵器として複合弓、新型の剣なども導入された。
その馬曵き戦車にエジプトは征服されますが、
やがてエジプトはこの新戦法を自分のものにして
ヒクソスを追い出しできたのが新王国。
★新王国(前1600~前1100年頃)
新王国の首都は再びテーベにおかれた。
この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げました。
シナイ半島をこえて、
地中海西岸シリア・パレスチナ方面に進出します。
ヒクソスを追放してエジプトを再々統一したトトメス1世は、
テーベ西郊、ナイル左岸の岩山に、王室の石室陵墓を建設した。
これを"王家の谷"という。
新王国の成立の少し前に、
ハンムラビ国王で有名な例の古バビロニア王国が滅びていて、
この時期、
メソポタミア地方中南部はカッシート王国、
北部にミタンニ王国、
小アジア地方にはヒッタイト王国という強国があった。
新王国エジプトはこれらの国々と抗争をくりかえします。
そしてトトメス3世(前1504ころ~前1450年ころ)の時に
エジプトの領土は史上最大になる。
*それぞれのあいだの期間は中間期といって、
エジプトが一つの国にまとまっていなかった時期です。
☆エジプト末期王朝時代(前664年 - 前332年)
古代エジプトの末期王朝は、
アッシリアの庇護の下でエジプト第26王朝の時代になったり、
ペルシアの征服などで事実上アケメネス朝の属州になったりと
エジプト人による支配が最後に花開いた時代を言い、
アレクサンドロス3世の支配と共に終わった。
そこではエジプト人自身による国家権力掌握は、衰退しました。
☆アルゲアス・プトレマイオス朝(紀元前332年 - 紀元前30年)
マケドニア王国の(アルゲアス朝)
征服王:アレクサンドロス大王によってエジプトは征服された。
実はアレクサンドロスはファラオでもあったのだ。
(なお、帝国の首都はバビロン)
大王の死後、ディアドコイ戦争を経て、
紀元前305年にギリシア系のプトレマイオス朝が成立。
首都はアレクサンドリア。
プトレマイオスが大王の遺体を奪取し、
大王の遺体を自国の首都アレクサンドリアにミイラとして埋葬し、
大王の後継者として名乗ったためである。
☆ローマ帝国期(紀元前30年 - 395年)
そのプトレマイオス朝も紀元前30年に滅ぼされ、
エジプトはローマ帝国の属州となる。
なお、国家を滅亡から救うため
カエサルやアントニウスなどのローマ帝国の権力者に
取り入った最後のファラオ:クレオパトラだが、
実はプトレマイオス朝エジプトの支配者はマケドニア人であり
即ちギリシャ系( マケドニア人)の子孫である。
「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父親の栄光」を意味する、
現在でもギリシャでは人気のある女性名である。