現実:歴史-古代エジプト文明 - 文化
★古代エジプト文明:
- エジプトはナイルの賜物・
エジプトはナイルなトトメス -
エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。
前2700年頃には統一王朝が成立します。
エジプトは周囲を砂漠に囲まれているので
メソポタミアのようなめまぐるしい民族の侵入や王朝の興亡はあまりなく、
独特の文化を築けました。
そしてエジプトが文明をもてたのはなんといってもナイル川のおかげ。
ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。
毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくる。
だから何もしなくても地力が維持できるのです。
あとは洪水が引いていく時に水の管理さえしっかりできればよい。
前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です、
「(所詮)エジプトはナイルの賜物」と。
エジプトの空中写真を見るとナイル川の縁だけが
緑になっているのがよく分かるでしょう。
流域から少しはずれるとずっと砂漠が広がっています。
エジプト文明をつくった元々の人々はハム系という言語系統です。
けっしてハムスター系ではありません。
現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますが現代ではアラブ人と混じり合っていて、
かれら自身もアラブ人だと称している。
実のところその土地に住んでいると言うだけであって
ピラミッド等の所有権など本当にあるのか疑わしいものです。
★エジプトの文化
▼暦:エジプトの暦は太陽暦です。1年365日です。
ナイル川はティグリス・ユーフラテスのように
不定期な大洪水はおこりません。
1000キロ以上上流のエチオピアの高原に降ったモンスーンの雨で
ナイル川は増水するので、毎年決まった時期に同じ様なペースで水かさが増していきます。
エジプト人はいつナイル川が増水するか、それが最大の関心事。それにあわせて農耕の準備をするわけです。
古代エジプトの暦も古くは伝統的な「30日×12ヶ月=360日」
1年=360日とする変則的な太陰暦でした。
神官たちは、天体を観察しながら、ナイル増水の時を調べました。
7月の半ば明け方の東の地平線ぎりぎりにシリウスがひときわ輝く時がある。
ちょうどその時からナイルが増水することが解ってきた。
翌年同じ場所にシリウスが輝くまでが365日。
そして、またその時に増水がはじまるのです。
こうしてできた暦が太陽暦です。
伝統的な「30日×12ヶ月=360日」に、
1年のどの月(暦日)とも関係のない「5日」を加えた「365日」からなる、
国定の民間暦(民衆暦、シビル暦)が創出されました。
(厳密には太陽ではなくシリウス(ソティス)や洪水の周期に基づくものなので、
これを「ソティス暦」(シリウス・ナイル暦)という。)
この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、今日では世界的に使われている暦となったのです。
▼時間:
1日を24時間にしたのもエジプトです。
エジプトは10進法で、はじめは昼と夜をそれぞれ10に分けて20だったのが、
昼と夜の境界の時間をそれぞれに付け加えて24になったそうです。
▼測地術:
洪水の水が引いたあと、農民たちはその上で農耕をはじめるのですが、
増水のあとは泥に埋もれて土地の境界線が全然わからなくなってしまうので、
エジプトでは測地術も発展しました。
「縄張り師」と呼ばれる測量技師がいて等間隔に結び目がついた縄を使って
直角をつくる方法を知っていたのです。
また、これらの測地術はギリシアの幾何学の元となった考え方とされています。
なお、ギリシアの幾何学では人物としては、タレス、ピタゴラスなどが有名であるが、
有名な三平方の定理などは、
ピタゴラスは土木・測量技術や天文学の先進地エジプトを旅した為、
この定理も,エジプトで測量術として利用されていた事を知っていた疑いが濃厚である。
▼神聖文字:
古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つでエジプト独自のものであった。
エジプト人が創始した表意文字(象形文字)は、表音化され、書体でも様々な形で用いられた。
エジプト原始王朝時代(紀元前3500年 - 紀元前3100年)
紀元前3200年頃、上エジプトにあった遺構から出土した文字が最古のヒエログリフとする見解が
長い間一般的であった。
ヒエログリフは神聖なものとされ、神やそれと同等であるとされたファラオを称える石碑や
神殿・墓などに刻まれた言わば漢字における楷書に相当する。
一方、パピルスへ手書きするときにはヒエラティック(神官文字)が使われ、これは行書に例えられる。
また、一般の民衆には簡単に読み書きが不可能であるように、
文字や文法も故意に複雑化されていたが、
エジプト中王国時代(紀元前2040年-紀元前1782年)にヒエログリフの改革が行われた。
なお、同時代の古代オリエント世界において楔形文字でも使用する文字数を減らす改革と、
起こった時期が一致している。
末期王朝時代のエジプト第26王朝(紀元前650年)頃にはヒエラティックの簡略化が進み、
草書体とも言うべきデモティック(民衆文字)となった。
日本語で単に「アルファベット」と言うと古代ローマ共和国の公用語として広く普及した
ラテン文字のことを指すことが多いアルファベットは、
紀元前1700年 - 紀元前1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達し、北セム文字と呼ばれ
楔形文字とヒエログリフを組み合わせてできたものである。
こうしてエジプト神聖文字から原シナイ文字が生じ
紀元前1400年頃から原カナン文字へと発展し、
ヘブライ語とフェニキア語のようなカナン諸語の表記に採用された。
原カナン文字とフェニキア文字は連続性が強く
便宜的に紀元前11世紀半ば以降のものをフェニキア文字と呼んでいる。
紀元前1000年頃に北セム文字が、
南セム文字、カナン文字、アラム文字、ギリシア文字の4つの系統に分かれ受け継がれた。
ギリシア文字は、古代ギリシア人がギリシア語を表記するため、
フェニキア文字を元に作った文字である。
ラテン文字やキリル文字は、このギリシア文字を元に、後に生まれた。
そうラテン文字はギリシア文字から発展したのだ。
「アルファベット」という言葉は、
この文字体系の伝統的配列の1番目と2番目の文字名称が、
その語源である。
▼パピルス:縛れパピルス!
また、「紙」を意味する英語のペーパーの語源である古代エジプトで使用された文字の筆記媒体パピルス
(ただし、パピルス紙はその実、紙ではないと言う)は、
製作にはかなりの人手と日数を要した事、1枚1枚手作業によって製作されていたために高価だった。
高級品は純白で、罫線つきのものもあったが、一方、最低級品は包装用であったと言う。
なお、エジプト政府が使うためのパピルスを確保するために
専売制も導入されたが、プトレマイオス朝時代には、エジプトの輸出品として各地に広まった。
他方、プトレマイオス朝時代のペルガモン王国への禁輸は、
同国の図書館と蔵書の数を競った為だけでなく、生産が間に合わずに品薄だった為ともいわれる 。
薄片を二層に接着して作るという構造上、
表裏で繊維の向きが異なり、また折り曲げに弱いため冊子状にすることは難しいので,
数枚から20枚程度のシートをアラビアゴムで長く繋ぎ合わせて巻物として使用された。
古代ギリシアで作られた巻物は長くても10m内外だが、エジプトでは30mに及ぶものがあった。
故に、両端に巻物の幅より長い木の心棒を付け、読むときには片手で巻きを戻しつつ、
もう一方の手で読み終わった部分を外側の心棒に巻き取りつつ読んだ。
この他、一枚目をprotokóllonといってローマ人はそこに巻物の産地と日付を記した。
(この言葉は今でも「プロトコル」として外交や通信の用語として残っている。)
フェニキア人の都市ビブロス(現在のレバノンのジュバイル)が
そのギリシャ向けの積み出し港だったのでビブロスの名がパピルスを意味する語に、
また本を意味するようにもなった。
(現在英語で聖書を意味するBibleという言葉もそこから来ているとされる。)
後に小アジアのヘレニズム国家、ペルガモン王国に対する禁輸がもとで
同国で羊皮紙の生産や文芸書への使用が奨励され、使いやすい羊皮紙が生産されるようになった。
(羊皮紙を意味するパーチメントはこのペルガモンに由来すると言われている。)
羊皮紙も高価ではあったが、
強度があり両面に書けるなど冊子としての利用に適しており、
誤字は削って書きなおし可能という利点があったので、エジプトから遠い地方で普及したが、
全ての書き物を羊皮紙で置き換えるのは高くつくため、手紙やノートなどには依然パピルスが使われ続けた。
だが、800年頃に中国から紙の製法が伝わるとやがてパピルスは生産されなくなった。
こうしてパピルスの製法は、生産がエジプトその他で廃れるてしまうと、
以来その製法は失われていた。