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現実:食-珈琲-インスタント・コーヒー「ソリュブル・コーヒー・パウダー」

★インスタント・コーヒー:


 お湯さえ、お湯さえあれば……

何時でも、何処でも、誰が淹れても、同様の味になるという科学なコーヒー。


 悲しいことに日本のコーヒー消費量の半分以上は、

インスタント・コーヒーだというのは有名な話。



★ソリュブルコーヒーの歩んだ歴史:


 従来日本でインスタント・コーヒーと呼ばれてきたコーヒーは、

正確にはソリュブル(可溶性)・コーヒーという名称です。


 インスタントコーヒーの発明は人々の生活を大きく変えました。

それまでは手軽に飲むことができなかったコーヒーですが、

インスタントコーヒーができてからは

多くの一般大衆でもコーヒーが飲めるようになりました。


 コーヒー豆を抽出した液を乾燥させて粉末状にして、

お湯を入れるだけでコーヒーが作れるようになったのはとても画期的な発明でした。

ただし、インスタントコーヒーは

決して本気でドリップしたコーヒーに味で勝つことはできません。


 インスタントコーヒーの発展の歴史は、

いかに本気でドリップしたコーヒーと比べて品質を下げずに

コーヒーを抽出できるようにするかにあると言ってよいでしょう。



 ソリュブル・コーヒーの製造工程は、

ブレンド、焙煎、粗挽き、抽出まではレギュラー・コーヒーとまったく同じです。


 それ以後の工程でお湯や水に溶けやすい粉末や顆粒状に加工してあるので

ソリュブル(可溶性)・コーヒーと呼ばれます。


 ちなみにレギュラー・コーヒーの呼称も日本で造語されたもので、

世界ではロースト・アンド・グラウンド(焙煎・粉砕)コーヒー、

略してアール・アンド・ジー(R&G)コーヒーと呼ばれています。


 しかし驚いたことに、ソリュブル・コーヒーを発明したのは日本人なのです。

そうインスタント・コーヒー、

その産みの親は実は日本人だっていうことを……


「貴殿にはご存じなきや。

 あれこそは日本の化学者が一人、加藤了(博士)に候」


 1899年にアメリカで実験に成功させた

科学者・加藤了博士、その人なのです。


 このインスタントコーヒーの発明者、日本の化学者、加藤了博士。

同氏は元々水に溶けるインスタント緑茶を研究していた人である。


 もっともインスタントコーヒーの発明者とはされていましたが、

世界で最初に特許を取得した訳では無い。

『ただし、世界じゃあ二番目だ』

『では、世界で最初は!?』

『チッチッチ、ニュージーランドのデイビッド・ストラングさ』

1901年に考案されて、全米博覧会に出品されました。


1903年、シカゴ在住の日本人加藤サトリ氏は、

インスタント・コーヒーでは初の米国特許を取得した。

この製造方法は現在のインスタントコーヒー製造の基盤となりました。


 でもこんな素晴らしい発明も、

当時は技術が未熟で肝心の味があまりよろしくなかったようで

その人気は今一つ伸びませんでした。


 そしてこの製品もまた、いつも通りですが

八木・宇田アンテナ、岡部マグネトロン、屋井式乾電池同様、

要素技術を他国に先駆けて発案・発明していたにも関わらず、

日本軍や産業界の無理解により日本の主導では一切実用化していなかったのです。

だから日本ではベンチャー企業は成功しないのです。

レーダー研究は日本が英米に先行している部分が多かったのです。

日本軍がイギリス領だったシンガポールを占領し、

レーダーに関する書類を押収してみると「YAGI」という文字が並んでいる。

なので捕虜のイギリス兵に新型アンテナに対する質問をしたところ


「ご存知、ないのですか!?

 YAGIアンテナとは新技術レーダー関連の三大要素

 (マイクロ波マグネトロン、電波高度計、そして八木・宇田アンテナ

 のうち最初と最後として生み出さた画期的な日本の技術

 八木・宇田アンテナと岡部が発明したマグネトロンの組み合わせ)の一つのこと。

 つまりYAGIこそ、この超時空アンテナを発明した日本人の名前です!」


 と教えられて恥をかいたと言われている。

もっとも知っていたとしても日本では宇田アンテナとしての名前の方がまだ知名度が高く

八木の名前のほうはまったく浸透してませんでした。

なのでYAGIアンテナという海外の呼び方では気付かれませんでした。

八木教授の実験と研究を引き継ぎこのアンテナの理論体系づけと実用化に大いに貢献された、

宇田先生の努力がなければ工学的価値を生み出すことができなかったかもしれません。

しかし、日本ではこの発明が全く見向きもされませんでした。

そもそも八木・宇田アンテナが素晴らしいとされたのは海外で改良を受けたからで、

日本国内で発明された当時は「もっと実用的なもの作ってから持って来い!」

と叱られて当然の低性能なものでしかありません。

まあ、それが持つ意味、その発明の応用性がどれほどの意味を持つのかなど考えようともしない

日本人のお偉方にとっては目先の利益でしか理解できないからでしょうが。


 こうして日本がシンガポールを占領したときになって、

イギリス軍の電波探知機システムにこのアンテナが使われているのをようやく知り、

日本の技術将校は大きな衝撃を受けたと言われています。


 その後八木秀次は、1931(昭和6)年に大阪帝国大学理学部物理学科の初代主任教授に就任し、

そこで当時講師だった湯川秀樹を激励し、

これが後に日本人初のノーベル物理学賞を受賞することになった中間子論の論文へとつながります。



 1887年に「乾電池」の発明に屋井先蔵が成功。

乾電池の発明者もまた、日本人だった。


 1892年シカゴ万国博覧会に帝国大学理学部が地震計を出展。

これに使用した屋井式乾電池もまたアメリカ企業に勝手に模倣され、

翌年には恥知らずにも「Dry battery」という模倣品が

舶来品としてどうどう日本に逆輸入された。


 しかも、日本における最初の乾電池の特許は屋井のものではなく

なんと屋井の特許公告日より1か月早く出願した高橋市三郎によるものである。


 1888年にはドイツではカール・ガスナーが、

デンマークではヘレンセンが乾電池の特許を取得している。

発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許を取得はできなかったのだ。


 また、乾電池を発売した当初、

大半の世論は「乾電池などという怪しいものが正確に動くはずがない」というもので、

先蔵の乾電池は全く売れなかった。


後に従来の湿電池では液が凍結したため満州では使用できなっかったが、

屋井の乾電池だけは使用できたため

ある日発行された号外で、満州において使用された軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載された。


 さらに持病の為に寝込む日が続き生活は貧窮を極めた。

さらにさらに、先蔵の乾電池の価値を知った外国人が

万博にて自分が発明したものだと主張したため、

しばらく時間が経つまで世界で最初に乾電池を発明したのが先蔵であると

認知されなかった



 1927年東北帝国大学の岡部金治郎により

「分割陽極型マグネトロン」が開発され国内で発表された。

これによりマイクロ波の発振が可能になった。


 1928年にはアメリカの学会で八木アンテナと共に英文論文も発表された。


 1946年にマグネトロンが発するマイクロ波が

食品の温度を上昇させる効果がパーシー・スペンサーによって発見された……とされ、

これが電子レンジの端緒となった。


 いっぽう、日本での電子レンジの原型は、

第二次世界大戦中に焼芋をマイクロ波で焼く実験が行われていた。


1944年(昭和19年)、大日本帝国海軍は海軍技術研究所と島田実験所

(現島田理化工業の前身)にてマイクロ波を照射して

航空機などを遠隔攻撃するための研究をおこなっていた。


 初の実験対象はサツマイモで、みごと焼芋となったという。

その後、5mの距離からウサギを殺すことにも成功したが、

それ以上の大型化が困難となる。


 つまり、マグネトロンの前に立ったレーダー設置担当の技師パーシー・スペンサーは

彼のポケットの中のチョコバーが溶けていたことを偶然発見したそうだが、

その実命拾いしていたのだ。


 結局大和型戦艦から撤去した副砲の旋回部分を利用して

パラボラアンテナを設置する工事も行われたが、

兵器として実用化されることなく終戦を迎えた。


 なお、開発者の一人中島茂はマイクロ波でコーヒー豆を炒る機械を製作して

東京のコーヒー店に納入し糊口をしのいだ。

だが、日本でこの電子レンジが商品化されることはなかったという……。


 ちなみに皮肉なことに、アメリカではコーヒーを沸かすのに

電子レンジを使うことが一番多いという統計もあります。




   - 閑話休題 -




 のちにインスタントコーヒー自体は

第二次世界大戦でアメリカ軍の携帯飲料として珍重され、

その名は一躍広まる事になり、

今ではその味も、本物のコーヒーと相違ないほどになってきました。


 ところでこのインスタントコーヒー

大型のパーコレーターで一度に大量のコーヒーを作るところまでは同じなのですが、

その後の製法は2つに分別されます。


 ひとつは冷菓0度の低音で大きな板状にして凍結させ、

それを砕いて真空乾燥させるフリーズドライ法。


 もうひとつは凍結させずに乾燥塔の上から霧を噴射して水分を飛ばすスプレードライ法。


どちらにしても実はこんなに大掛かりな作業を経て作られているのです。

これは心して飲まなければいけませんねぇ。



インスタントコーヒーが広く普及するに至るきっかけ:ネスカフェ誕生


そして、ソリュブル・コーヒーの製造技術を完成し、実用化したのは、ネスレです。


 1930年、ブラジルではコーヒー豆の大豊作となりコーヒー豆の価格が暴落しました。

そこでブラジル政府は「ネスレ」に余ったコーヒー豆で加工食品を作るように依頼

ネスレの研究陣はこの大量の豆を使い、

苦心の末、1937年にソリュブル・コーヒーの製造技術を完成しました。


翌1938年、完成品にネスカフェの商標名がつけられ、スイスで生産が始まりました。

同年4月には同国で発売され、以後世界各国で製造販売されるようになりました。





★ソリューブルコーヒー(インスタントコーヒー)年表:


 コーヒーを即席食品化する場合、抽出液を粉末化するのがもっとも簡易である。

しかし、その加工過程では嗜好品であるコーヒーにとって重要な味や香りが損なわれやすい。

加工後も味と香りを維持する技術の改良史が、インスタントコーヒーの歴史と言える。


○18世紀


 1771年、イギリスで水に溶かすインスタント・コーヒーが発明されたが、

製品の貯蔵可能期間が短く発展せず。


○19世紀


 1853年、南北戦争前には、米国人がインスタント・コーヒーに挑戦し、

粉末状にしたコーヒーを固めたものが作られた。

しかしこれも同じで、保存が利かずに売れなかった。


 1889年にニュージーランドはインバーカーギルの

コーヒー・香辛料販売業者デイビッド・ストラングが

「ソリュブル・コーヒー・パウダー」(可溶性コーヒー粉末)の作成法の特許を取得し、

「ストラング・コーヒー」として製品化したのが、記録上確認できるはじめとされる。


 1899年(明治32)米国シカゴ在住の化学者:ドクター加藤(本名:加藤了)は

揮発性オイルを使用したコーヒー抽出液を真空乾燥して粉末にする技術を発明した。


 元々当時シカゴに留学し水に溶けるインスタントの緑茶

(緑茶の即席化)のため緑茶粉末化の研究を行っていたのだが、

加藤の水分除去法の開発(つまりは水分を飛ばす『飛び加藤』?)が

米国で知られるところとなり、

インスタント・コーヒーの可能性に目をつけた

米国のコーヒー輸入業者と焙煎業者が加藤氏に

同氏の水分除去法をコーヒーで可能にするよう応用を依頼。


 それに応じた加藤氏は米国人化学者の助けを借りて、製造法の詳細を詰めた。

そして1901年4月17日、同氏は特許出願の書類を提出した。



○20世紀


 1901年4月17日(明治34)、加藤了は特許出願の書類を提出し

そこでは保存の問題点と、それを解決した同氏の方法が説明されている。


 加藤氏のKato Coffee Company(カトウコーヒー社)はこの年

 1901年9月にニューヨーク州バッファローで開催された全米パンアメリカン博覧会の製品館で

世界初の「ソリュブル・コーヒー」(可溶性インスタントコーヒー)として発表し、

この「コーヒー類似の」製品の無料サンプルを配った。


 なお、同博覧会場にてマッキンリー大統領暗殺事件が起こったもよう。


 1903年8月11日に加藤氏は

「コーヒー濃縮物およびその製造プロセス」で

「特許番号735777号」を取得した。


 しかし、バッファローで配られた同氏の製品は、商品化には成功しなかった。

カフェイン中毒者には満足できないものだったが、

そのほかの人にとっては、カスも出ずに申し分ないものだったのだが……



 1906年(明治39)、その後アメリカ人発明家のジョージ・ワシントン(いかにも偽名っぽい)

が別の特許を取得した。


1909年(明治42)にヨーロッパで「ベルナ」というインスタントコーヒーが販売された。

ワシントンはRed E Coffeeの大量生産を開始し、第一次世界大戦中の米軍で供給された。


 なお、ストラングやカトウの製法とワシントンの製法との関連は不明である。

全ては闇の中だという。


 もっとも一方の日本では第二次世界大戦中の日本軍に固形抹茶「抹茶錠」が供給されていた。



  「ネスカフェ」誕生


 その後、スイスのNestlé(ネスレ)社が、より改善された製法を開発し、

1938年に『ネスカフェ』として製品を市販した。

こうして、ネスカフェは第2次世界大戦中の米軍兵士たちに供給された。


 ワシントンの特許以後、

いくつかのメーカーがインスタント・コーヒーの製造販売を行ったが、

その中で後年にまで知られる大きな成功を収めたのは、

スイス・ヴェヴェイに本拠を置く食品商社のネスレであった。



 その理由はと言うと……


 1929年、当時のネスレ会長のルイ・ダプレスは

以前に勤めていた銀行から興味深い仕事を持ちかけられました。


 ウォール街の株価暴落に続き、

コーヒーの大産地であるブラジルでコーヒー豆の大豊作で価格相場もまた暴落し、

その銀行はブラジルの倉庫に大量のコーヒー豆在庫を抱えていました。


 この在庫を市販するために「可溶性固形コーヒー」にできないかと、

ネスレに相談が寄せられたのです。


 どうやら農民の困窮に苦慮したブラジル政府が、

余剰のコーヒー豆を用いた加工食品の開発をネスレに要請したわけではなささそうですね。

きな臭くなってまいりました。


 化学が専門のマックス・モーゲンターラー博士をネスレの研究チームに迎え、

解決策を求めての取り組みが始まりました。


 しかしながら、

モーゲンターラー博士は、コーヒーの味と香りは、

ブラックよりもミルクと砂糖が入ったコーヒーの方が

よりよく保持できることを発見しました。


 さらに、高温と高圧にさらされたあとのコーヒーは

より長く保持できることも分かりました。


 これによりモーゲンターラー博士は、コーヒーの味と香りを保つ秘訣は、

十分な炭水化物でソリュブル(可溶性)コーヒーを作ることにあると結論付けました。


 これはまったく新しいことで当初の考察に反するものでした。


 博士は特別な技術を用いてこれを実証するパウダーを作り、

おいしく飲めるソリュブルコーヒーの見本としてネスレの重役会と技術責任者に提示しました。


 しかしこの粉末は簡単には溶けずミルクと砂糖は製造上の問題の原因となりました。


 そこでネスレはさらに数年間の開発期間を経て、

1937年にほぼ現在同様のスプレードライ法による

画期的なインスタント・コーヒーを完成させました。


 1938年4月1日「ネスカフェ」と名付けられたソリュブルコーヒーが

スイスで発売されました。


 ネスレは、スイス西部のオルブという町にある工場で

「ネスカフェ」をつくるためにコーヒーの抽出と

噴霧乾燥の大規模な生産設備を立ち上げたのです。


 こうして「ネスカフェ」は2カ月後には英国に、

1939年には米国で発売され、

インスタント・コーヒーの代名詞として知られるようになる。


1940年4月までには「ネスカフェ」は世界30カ国にいきわたりました。


 第二次世界大戦中は、

世界で生産される「ネスカフェ」の4分の3はスイスと英国、米国で消費されていました。


 レギュラーコーヒーよりも長く味と香りを保つことができるため、

その人気が高まり販売量も2倍になりました。


 また大量の「ネスカフェ」が米軍に供給されるようになりました。

この需要にこたえるために1943年までに米国内に2つの生産工場がつくられました。


 1952年フランスのサン・ムネにある「ネスカフェ」工場では、

炭水化物を加えなくともよい革新的な製品を開発しました。


 日本では1950年代からインスタント・コーヒーが輸入され始めたが、

1960年代以降森永製菓によって国内生産が開始されて

一般大衆にコーヒーを広く普及させる契機となった。



 1960年代になるとヨーロッパと日本で、

コーヒーの新鮮さを保つためにガラス容器入りの製品にリニューアルされました。


 1965年には「ネスカフェ」から、

フリーズドライ製法というさらに革新的な方法で製造され

アメリカで風味に優れることから成功を収めました。


 1990年台には、ネスレはミルクの泡立ちの質感を向上させる独自の技術を開発しました。

現在も「ネスカフェカプチーノ」などに応用されています



○20世紀


 ネスレは事業展開の革新の一環として、

2006年にスイスとドイツ、英国でカプセル容器に入った革新的なコーヒーマシンを発売。

その1年後にはスペインでも発売しました。


 この「自宅でカフェの味わい」マシンはホットでもアイスでも楽しめます。


 2年後、

ソリュブルコーヒーを使う唯一の「自宅で1杯ごとにカフェの味わい」マシンが開発されました。

現在日本でのみ販売されています。


 2012年そのマシンは小規模の飲食店向けにヨーロッパで販売されました。

ネスレの業務用製品部門のネスレプロフェショナルがそれを扱っています。


 これは、2000年くらいからカフェブームが起こり、

カプチーノとカフェラテが世の中的に当たり前になってきている中で、

瓶に入ったインスタントコーヒーは、廉価というだけではその波に乗り遅れていたからです。


 そこで、業務用のマシンを小さくするのはどうか、

という提案がスイス本社からあった時に、唯一手を挙げたのがネスレ日本でした。

そこから開発が進んだので、完全に日本向けに開発が進んでいったことになります。


 スイス本社とやりとりしている中で、開発のエコ&システムパックとの連携という話がでて、、

これをバリスタのタンクにそのまま詰め替えられるよう、

バリスタの開発と(バリスタに簡単にインスタントコーヒーが移し替えられる)

エコ&システムパックの開発という、

2つのプロジェクトが一緒になりました。


 詰め替え市場も伸びていたので、さらに需要が開拓できると考えたのでした。



 もっとも工業国でない(技術力の低い)国の多くで、

レギュラーコーヒーよりもインスタントコーヒーの方が値段が高いことがあります。

手間ひまがより多くかかっているから……。


 一方ソビエト連邦時代のロシアではトルコ風の煮出しコーヒーが飲まれ、

ドリップやフィルターはあまり普及しなかったが、

そもそも良質なコーヒーの入手が困難なこともありロシアでは「泥臭い」コーヒーよりも

まだ割高でも輸入品のインスタントコーヒーの方が好まれていた。


 ……ゆえにロシアは紅茶の文化なのです。



 なお、最近真の先進国では技術が進んで

カフェインを抜く加工を施したカフェインレスのインスタント・コーヒーまでもあります。


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