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現実:歴史-ディアドコイ戦争  〜 大王の血統、その末路とは 〜

だいたいイスカンダルのせい

★ディアドコイ同士の争いであるディアドコイ戦争は前323年から前276年までの約50年にわたって展開された。




▼経緯:

 アレクサンドロス大王の一族はディアドコイ戦争中に殺害され、大王の血統は断絶した。


(没)大王の異母姉:『キュナネ』 - 新摂政ペルディッカスの弟アルケタスにより暗殺。

(没)大王の姪:『エウリュディケ2世』 - 異母姉キュナネの娘。カッサンドロスと組んだ為オリュンピアスにより処刑。

(没)大王の異母兄:『ピリッポス3世』 - 王妃エウリュディケがカッサンドロスと組んだ為オリュンピアスにより処刑。

(没)大王の母:『オリュンピアス』 - 自ら兵を率いたもののカッサンドロスに敗れ殺される。

(没)大王の妻子:『ロクサネ』と王子『アレクサンドロス4世』 - 共にカッサンドロスにより処刑。

(没)大王の庶子:『ヘラクレス』 - カッサンドロスに買収されたポリュペルコンに暗殺される。

(没)大王の同母妹:『クレオパトラ』 - プトレマイオスの求婚を受け、敵対していたアンティゴノスにより暗殺。

(没)大王の異母妹:『テッサロニカ』 - カッサンドロスの妻に、彼の死後に息子たちの後継者争いに介入アンティパトロス2世が母親を殺害。

(没)大王の甥:『ピリッポス4世』- カッサンドロスの子(長男) 。父の死後に王位についたが、1年と経たずに病死。

(没)大王の甥:『アンティパトロス2世』- カッサンドロスの子(次男) - アンティゴノスの息子デメトリオスに追放されその後内紛で義父により暗殺。

(没)大王の甥:『アレクサンドロス5世』- カッサンドロスの子(三男) - アンティゴノスの息子デメトリオスが内紛で暗殺。




▶バビロン帰還と大王急逝:

 東方遠征の後、バビロンに戻ったアレクサンドロスは今度はアラビア遠征を計画していたが、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日、32歳の若さで死去した。


●暗殺説:

・犯人_アンティパトロスとその子であるカッサンドロス説:

紀元前323年、アレクサンドロスは当時の摂政アンティパトロスに新兵をアジアまで率いてくるように命じ、

その一方でクラテロスにベテラン兵たちを本国へ返し、アンティパトロスの地位を引き継ぐよう命じた。


 しかし、摂政位の交代はなされることはなかった。

同年、アレクサンドロス3世は高熱を発し、なんか急死した。 

その死因は現在も諸説あるものの、アレクサンドロスの死は一般的にはマラリアによる病死とされるが、

暗殺を疑う後世の多くの史家、ユスティヌスなどによれば、

アンティパトロスとその子であるカッサンドロスをこそアレクサンドロス暗殺犯の有力候補ではないかと目した。


 その動機は、アレクサンドロスによるアンティパトロスの摂政解任が決定的な動機であり、

それ以前にも王に親しい友人たちを殺され、ギリシアでの勝利のために王から疎まれ、

さらにオリュンピアスの中傷をアンティパトロスが受けていたことから、

王の執事をしていた息子のカッサンドロスを唆し、

それが以前からアレクサンドロスへの強い恐怖が染み付いたカッサンドロスをして王に毒を盛らしめたというのである。


 例えば、歴史家のユスティヌスは見てきた訳でもないのにはっきりと、

アンティパトロスの指示でカッサンドロスは王を毒殺したなど根拠もなく述べている。


 このように言われるほど、カッサンドロスは他のディアドコイに見られないほどアレクサンドロスへの憎しみを抱いていたようであり、

後にアレクサンドロスの遺族を根絶やしにして王位を奪った。

なお、アレクサンドロス大王の異母妹との間に子をもうけるのは構わなかったもよう。


 また、アッリアノスによれば暗殺に使用された際のその毒は、東方遠征に従軍歴史家として参加していたのに、

反逆の陰謀に加担したという口実のもとに甥を処刑されたアリストテレスの調合したものであったという。




・実話:

 ペルディッカスは臨終のアレクサンドロスによって印綬の指輪を渡される

 (ユニティヌスは、これを「暗黙の」後継者指名だったと記し、アッリアノスではこの経緯が欠損している)。

・ここから捏造:犯人_ペルディッカス(ザビ家的に)

 我が自説によると、

『ペルディッカスは臨終のアレクサンドロスが何か呟いた後自身を指差して命を落とした際、

 周囲に印綬の指輪を渡されたと解釈させた』

 と筆者はこれを暗殺の告発だと捏造してみる。

 

 呟いたのは「お前が暗殺を企てたのか?」

 この確認をしたとも言われていて、ペルディッカスを指差したのは周りにいた人に、

「暗殺の真犯人はペルディッカスだ!」

 という事を示したかったのではないか!?


 その状況で、ペルディッカスが仕組んだ情報操作が機能したら、

 指を差されたペルディッカスが「新しい希望」として正式に後任として指名されたと解釈しても何の不思議もありません。




▼バビロン会議:「ディアドコイ戦争」前夜  〜 紀元前の清州会議 〜

 マケドニアの貴族、軍人たちは一斉に集って大王死後の国家体制を話し合うことに決し、会議をバビロンで開くこととした。


 紀元前323年にアレクサンドロス3世(大王)の死後、次の王を誰に決めるかが問題となった時、異母姉キュナネは娘エウリュディケを伴ってアジアに渡った。


 王の死後に開かれたバビロン会議において、大王の死後の王位を誰に継承させるかという問題で諸将の間で口論となった。

アレクサンドロス3世(大王)が急逝した時、王妃ロクサネは妊娠中であったが、

誕生する子の性別が判明しないため、遺された家臣の間では王位継承順について意見が衝突したのだ。

ネアルコスは大王と側室バルシネの子ヘラクレスを推したが、彼は庶子だったため賛同者は現れなかった。


 続いて一人の一兵卒のモブ兵士がアレクサンドロスの異母兄アリダイオスの名を唱え、

異母兄アリダイオスを推す歩兵とそれを支持した武将メレアグロスとの騒動で、

その際支持しない重臣の一人でバビロン会議を主導したペルディッカスが対立し、一時は殺されそうになった。


 ペルディッカスはあくまで王妃ロクサネの腹中の子が男子である可能性に望みを託し出産を待ち、

出生後に摂政を置くべきだと主張した。


 そうして騎兵と他の諸将の支持を得たペルディッカスは歩兵たちを演説によって説得して和解。

この際に、プトレマイオスは重臣達の合議制を提案したが、

ペルディッカスは大王の妃で妊娠中だった王妃ロクサネの出産を待つべきと反対した。


 書記官エウメネスの仲裁による妥協の産物として締結された協定で、

異母兄アリダイオスが新王ピリッポス3世として即位する代わりに、

王妃ロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)が男子ならば彼をピリッポスの共同統治者として王位につけ、

その摂政としてペルディッカスが統治することとなった。


 摂政となったペルディッカスは、大王の遺将たちとサトラップたちによる大王遺領の配分を主導した。

こうしてアレクサンドロスの死後、バビロン会議によってマケドニアの実権を握ったペルディッカスは

アンティパトロスのマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、

ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロスと王妃ロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)

の暫定的な後見人となったのだ。


 異母兄アリダイオスを王として王妃ロクサネの子が男子ならその共同統治者とし、

共に王妃ロクサネの子の後見人になることにしてメレアグロスとも妥協し、難なきを得た。


 しかし、その直後に神殿に逃げ込んだメレアグロスと約300人の彼の支持者の兵士はペルディッカスにより殺害された。


 異母姉妹のキュナネは、娘のエウリュディケ2世とアレクサンドロスの異母兄弟の王ピリッポス3世との結婚を望んでした。

しかしこれはアレクサンドロスと王妃ロクサネの遺児の後見人となって権力を握ろうとしたペルディッカスにとって邪魔だった。

そうしてこの時異母姉キュナネも邪魔者として、バビロン会議の結果摂政として実権を握った有力貴族ペルディッカスの弟アルケタスによって殺された。


 これらの事件にさすがに軍が憤慨したため、それを宥めるために(おそらくペルディッカスの計らいでその埋め合わせとして)、

異母姉キュナネの娘エウリュディケは母の願い通り王に即位した大王の異母兄ピリッポス3世と結婚することになった。

ピリッポス3世は精神に障害を持っていたため、そこに女性である大王の姪エウリュディケの政治での主体的活動の場が与えられることになったのだ。


 その後王妃ロクサネが産んだ子は男子であったため、アレクサンドロス4世として王位につけられ、ペルディッカスは取り決め通りその後見人として帝国摂政となり、帝国の実質的なトップの座に就いた。



▶第一次ディアドコイ戦争(紀元前322年-紀元前320年):「ディアドコイ戦争」開始

 旧摂政アンティパトロスはアレクサンドロスの母オリュンピアスとは当初は友好的な関係で、

アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。


 新摂政ペルディッカスは、自らの勢力の安定化のため、旧摂政アンティパトロスとの連携を目論み、

彼の娘ニカイアとの結婚を申し出た。

他方、新摂政ペルディッカスを自分の側に引き入れようと考えたアレクサンドロス3世の母オリュンピアスは、

自分の娘:大王の異母妹クレオパトラとの結婚を勧めた。


 これに魅せられた新摂政ペルディッカスはひとまずニカイアと結婚するが、即座に離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。

今流行りの婚約破棄令嬢の誕生である。


 これを知ったアンティゴノスは新摂政ペルディッカスの許から逃亡してマケドニアにいた二人の重臣、

旧摂政アンティパトロスとクラテロスにこれを知らせた。

このことを知った旧摂政アンティパトロスは激怒した。

必ずかの邪智暴虐の新摂政ペルディッカスを除かなければならぬと決意した。

またその権力が強化されることに脅威を感じ始め、僚将のクラテロスやプトレマイオスと共に、

新摂政ペルディッカスとの対決姿勢を明確に現し始めた。


 クレオパトラとの結婚でニカイアとの婚約を破棄したためにその父の怒りを買い、

さらに大王の姉妹との結婚はペルディッカスの王位への野心の表れとみなされ、

次第に旧摂政アンティパトロスと他の将軍たちはペルディッカスと対立していく。


 旧摂政アンティパトロスは彼に警戒心を抱いていたクラテロス、プトレマイオス、アンティゴノスらの諸将と共に

対ペルディッカス同盟を結び、結局最後は戦争になった。


 新摂政ペルディッカスは小アジアに味方の諸将を配置しつつ、そこでの戦いを書記官エウメネスに任せ、

自身はプトレマイオスを滅ぼすべく軍勢を率いてエジプトに向かった。

しかしナイル渡河に失敗し、戦わずして多数の将兵を失ったのち彼の威信は地に落ちた。

失望した兵士たちによって反乱が起こり、新摂政ペルディッカス配下の将軍達(ペイトン、アンティゲネス、セレウコス)によってなんと暗殺された。



▶トリパラディソスの軍会:王の財の再配分。 

 紀元前321年に新摂政ペルディッカスが諸将の攻撃を受けて殺されると、トリパラディソスで新体制を定めるための会議が開かれた。

ここでバビロン会議にて決定された地位と太守領の再編が行われ、

プトレマイオスは空席になった摂政位にペイトンとアリダイオスのコンビを最新摂政就任に就けようとしたが、

これに対し新王妃となったエウリュディケが異を唱えた。

これを受けて実力不足だったと二人の摂政は辞任して代わりに大王の父ピリッポス2世の頃から仕えてきた旧摂政アンティパトロスが次の候補にあがってきた。


 新王妃エウリュディケはここでも再び異を唱え、旧摂政アンティパトロス弾劾演説を軍の集会で行ったため兵士たちにより暴動が発生、

彼は命からがらその場は逃げアンティゴノスとセレウコスによって救われた。


 その後、結局は将軍たちと貴族階級であった騎兵たちの支持を受けた旧摂政アンティパトロスは騒動を収めて摂政に再就任したため、

自身が実権を握ることを目論んだも、新王妃エウリュディケの権力奪取の試みは失敗に終わった。

 こうして、アンティパトロスは帝国摂政となって会議を主導し、

アレクサンドロスの遺児アレクサンドロス4世とアレクサンドロスの兄弟のピリッポス3世の後見人として

ギリシアを支配するに到った。


 そして彼は王国軍隊の総司令官としてアンティゴノスを任命した。

そして、彼はアジアに関心を示すことなく、マケドニアへと帰国してしまったこともあり、

これ以降20年にわたる後継者間の領土や権力をめぐる争いのなかで総司令官アンティゴノスが大権をふるうようになっていくのである。


 実はその後、再び摂政となったアンティパトロスは病を患って職を辞し、やがて死んだのだ。

その際、彼は自身の地位を老将ポリュペルコンに譲った。

しかし、この人事は後の混乱の元となる不味いものであった。

というのも、我こそは父の地位を継ぐものと思っていたカッサンドロスはその人事に不満を抱き、

アンティゴノスと組んでポリュペルコンに対峙し、新たな戦争の火種となったからである。


 こうしてアンティパトロスに後継者に指名された老将ポリュペルコン及び大王の母オリュンピアスと、

アンティパトロスの息子で我こそは父の後を継ぐべしと考えていたカッサンドロスとの間で、

摂政の地位をめぐっての争奪戦が勃発し、これがディアドコイ戦争を更に激化させることとなった。


 この決定に不満を抱いたカッサンドロスは、プトレマイオス、アンティゴノス、ピリッポス3世の

野心的な妃エウリュディケと同盟し、摂政の名の下にポリュペルコンと対峙した。

対してポリュペルコンはエウメネス、アレクサンドロス大王の母オリュンピアスと同盟した。


 一方、総司令官アンティゴノスとの戦いにおいて自身の優位と正当性を得ようとしたプトレマイオスは、

寡婦となっていた大王の同母妹クレオパトラに求婚した。

クレオパトラはこれに応えてエジプトに渡航しようとしたが、それを察知したアンティゴノスに暗殺された。



▶第二次ディアドコイ戦争(紀元前319年-紀元前315年):『孤児と未亡人達による連合政権』V.S『若夫婦一家』+『摂政家一族』


 老将ポリュペルコンの艦隊は紀元前318年に総司令官アンティゴノスによって打ち破られ、その年にカッサンドロスはアテナイの支配を得た。

その後すぐに、老将ポリュペルコンはカッサンドロスによってマケドニアを追われ、エペイロスに逃げた。

彼はそこでアレクサンドロスの母オリュンピアス、アレクサンドロスの未亡人ロクサネ、アレクサンドロスの遺児アレクサンドロス4世と合流した。


 一方カッサンドロスと手を結んだ新王妃エウリュディケは老将ポリュペルコンに軍をカッサンドロスに引き渡すよう命じる手紙を書き、そして紀元前317年にオリュンピアスと一戦交えようと挙兵した。

彼女は軍事の素養のあった母キュナネによって育てられて彼女から戦術を学んで雄雄しい女性に育ち、

後にオリュンピアスと争った時には鎧を着て戦ったという。


 老将ポリュペルコンは大王の母オリュンピアスとエペイロス王アイアキデスとの同盟を締結し、

こうして力を得たオリュンピアスはマケドニアに進軍した。

オリュンピアスが大王の遺児アレクサンドロス4世を奉じて帰国してくると

将兵たちは新王妃エウリュディケを見捨てて戦わずして大王の母オリュンピアスの側につき、

新王妃エウリュディケは夫と共にアンフィポリスへの途上で捕らえられた。


 新王妃エウリュディケは大王の母オリュンピアスによって夫と共に狭い牢獄に軟禁された。

そして大王の母オリュンピアスは彼女に剣、縄、数個のドクニンジンを送って死を命じた。

この仕打ちに対して新王妃エウリュディケは大王の母オリュンピアスが自らに似た運命を辿らんことを祈った後、

既に殺されていた夫の体の傷を拭き「運命を嘆くこともなく不運の重さに卑屈になることもなく」縄で首を吊って命を絶った。


 その後、ピリッポス3世とその妃エウリュディケ、そして大王の異母姉キュナネのためにカッサンドロスが葬儀を挙げ、彼らはアイガイの王墓に葬られた。


 そういえば、書記官エウメネスがクラテロスに、また彼が総司令官アンティゴノスにと、盛大な葬儀を挙げるのが流行っているのでしょうか?

……アレクサンドロスはダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行ってダレイオス3世を葬り、

その仇を討つという名目をえていましたし、

アレクサンドロスの遺体もペルディッカスがバビロンから王都ペラへ移送途中にプトレマイオスに強奪され、

ミイラとしてエジプトに埋葬されいましたな。


 それはともかく、大王の母オリュンピアスはすぐにペロポネソス半島より戻ってきたカッサンドロスに敗れ、紀元前316年に捕らえられて殺された。

同時にカッサンドロスは大王の未亡人ロクサネと大王の遺児アレクサンドロス4世を軟禁した。



▶第三次ディアドコイ戦争(紀元前314年-紀元前311年):

 紀元前309年、カッサンドロスはロクサネとアレクサンドロス4世の暗殺を命じ、二人は毒殺された。


 一方ポリュペルコンは再び逃げ、カッサンドロスとの同盟を破棄していた総司令官アンティゴノスと同盟し、

コリントスとシキュオンを除く全てのペロポネソス半島を支配下においた。

後に再び戦争が始まり、総司令官アンティゴノスはアレクサンドロスの庶子ヘラクレスをカッサンドロスとの交渉の切り札としてポリュペルコンに送った。


 しかし、紀元前309年にカッサンドロスに買収されたポリュペルコンはヘラクレスとその母バルシネも殺害してしまった。

その後、彼はペロポネソスの支配を数年後の死まで維持したが、政治面で更なる役割を演じることはなかった。



こうしてディアドコイ戦争によってアレクサンドロス大王の直系子孫は途絶え断絶した。

「親の因果が子に報い」



▶第四次ディアドコイ戦争(紀元前308年-紀元前301年):

▼イプソスの戦い:総司令官アンティゴノスが敗死

 紀元前306年に総司令官アンティゴノスは他のディアドゴイに先駆け王位に就きアレクサンドロスの帝国全体を再統一しようとしたが、

他のディアドコイは反アンティゴノス同盟を結んで対抗。


 紀元前301年、総司令官アンティゴノスはこの同盟を粉砕せんと小アジアのイプソスでセレウコス・リュシマコス連合軍と決戦に及ぶも、

デメトリオスの部隊と分断されて孤立した総司令官アンティゴノスの本隊は打ち敗られ、自身は投槍を受けて戦死した。


 こうしてディアドコイ戦争最大の会戦の後、遺領は勝者たちによって分割され、

エジプトをプトレマイオス、トラキアと小アジアをリュシマコス、シリアとシリア以東をセレウコス、マケドニアをカッサンドロスが統治することになり、

この四王国の分立によって彼の大望でもあったアレクサンドロス帝国の再統一は不可能となり、分裂が決定的となった。


 総司令官アンティゴノスの息子デメトリオスはイプソスの戦いで敗走するも生き残り、勢力を挽回すべく転戦を重ねる。



▽アンティパトロス朝(カッサンドロス朝)

 カッサンドロスはアレクサンドロス大王の異母妹テッサロニカと結婚し王位継承権を得、紀元前316年に大王の母オリュンピアスを殺害して実権を握った。


 さらに紀元前310年には大王の子アレクサンドロス4世を殺害し、王位を主張した。

カッサンドロスの死後はその3人の息子が王位についが、紀元前294年にデメトリオス1世に王位を奪われた。


・詳細:

 カッサンドロスの死後、異母妹テッサロニカは最初は息子たちへの影響力を保っていたとされる。

息子の一人ピリッポス4世が父の後を継いで王になるも時期に病没した。


 彼女は次期に王位を継ぐはずだったアンティパトロス2世に対し、アレクサンドロス5世と王位を分けるよう要求したため、

アンティパトロス2世は母が弟に深い愛情を注いでいることを妬むようになり、紀元前295年、ピリッポス4世の死後の王位を独占せんと母を処刑してしまった。


 紀元前297年、カッサンドロスの息子たちアンティパトロス2世とアレクサンドロス5世がマケドニアの王位をめぐって争うと、

それに介入していたリュシマコスは義理の息子のアンティパトロス2世を説得して

デメトリオス(アンティゴノスの子)の援助を得ていたアレクサンドロス5世と和解させようとしたが失敗した。


 この頃、リュシマコスはゲタイ人の王ドロミカイテスと戦っており、

その上でデメトリオスとも戦う二正面作戦を避けようとし、

紀元前294年にアンティパトロス2世を見捨ててデメトリオスと講和し、

既にデメトリオスを裏切って暗殺してきたアレクサンドロス5世を返り討ちにして殺していた彼の王位を認めた。


 アンティパトロス2世がリュシマコスの支援打ち切りに不平を漏らしたため、リュシマコスは反逆の意思ありと感じ彼を殺した。

これによってアレクサンドロス大王に連なる人間は完全に完璧に死に絶えた。祟じゃ。



▽アンティゴノス朝:

 総司令官アンティゴノスの子デメトリオスはアンティパトロス朝の後継者争いに乗じてカッサンドロスの息子達を倒し、

紀元前294年にマケドニア王位に就くものの、かつての領土を取り戻すべく戦争と重税を重ねたために民心を失う。

デメトリオスは娘ストラトニケをシリア王セレウコスに嫁がせた。


 紀元前288年にプトレマイオスとリュシマコスの支持を受けたエピロス王ピュロス

(デメトリオスにとって妻の弟にあたる)の侵攻を受け、国を奪われて放逐された。

小アジアに侵攻してセレウコスの領土を狙ったが、彼に捕らえられ獄中で死に王位を失った。


 一方、父デメトリオス1世が小アジア・マケドニアなどで戦争に明け暮れている間、アンティゴノス2世はギリシアで地位を確立する事に努めた。



▽セレウコス朝:

 セレウコスは当初、帝国摂政を称したペルディッカスに従い、紀元前321年に反ペルディッカス派を討伐するため共にエジプトへ遠征する。

しかし、ナイル川の渡河すらままならないペルディッカスの実力に見切りをつけたセレウコスは同僚の将軍達、

ペイトン及びアンティゲネスと共にペルディッカスをナイル川河畔で暗殺した。


 ソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶り生涯アパメーと連れ添った。

ソグディアナ人のアパメーを妻としたことは、後に彼の東方支配に大いに利したとされる。



▶ディアドコイ戦争最後の戦い(紀元前281年):コルペディオンの戦い

 エジプト王プトレマイオスには、

摂政アンティパトロスの娘エウリュディケとの間に長男プトレマイオス・ケラウノスがいたが、

ケラウノスと対立したプトレマイオスはこれを後継者とせずにエジプトから追放した。


 プトレマイオスは娘のアルシノエをリュシマコスと結婚させて同盟関係を結び、これに対峙していた。

ケラウノスはアルシノエを頼ってリュシマコスのもとに身を寄せたが、ここでも後継者問題に巻き込まれた。

リュシマコスが後継者問題で対立した息子アガトクレスを処刑したのだ。


 ケラウノスはアガトクレスの妻リュサンドラ(ケラウノスの同母妹)の味方につき、

シリア王セレウコス1世の許へ助けを求めに向かった。

セレウコスは対リュシマコスの兵を挙げてリュシマコスが支配していた小アジアに侵攻し、

紀元前281年のコルペディオンの戦いで彼を敗死させた。


 しかしこの七ヶ月後にケラウノスは、セレウコスには自身の登位を援助する意思がないことに気づきセレウコスを暗殺した。

ケラウノスはこれをリュシマコスの復讐としてアピールし、マケドニアの王位に就くことを宣言した。

もっともその後蛮族との小競り合いでつまらない死に方をしてしまったが。


 ケラウノスの次の王位には弟のメレアグロスがついた。

しかし、メレアグロスはアンティパトロス・エテシアスによって間もなく廃位され、

以後紀元前277年にアンティゴノス2世が王位につくまで(ガリア人の侵入もあってか)

マケドニアでは次々と王が変わる不安定な情勢となった。


 紀元前279年にアンティパトロス一族のエテシアスが王位についたものの、エテシアスは在位数十日で王位を奪われた。


 紀元前277年にアンティゴノス2世はアンティパトロス朝最後のソステネス王を殺害後、

マケドニア王に即位し、父の死で断絶していたアンティゴノス朝マケドニアを復活させた。


 紀元前274年にエピロス王ピュロスによって一時王位を追われたが、ピュロスの死後王位を回復した。


 アンティゴノス朝の強大化・エーゲ海の制覇を恐れ、

スパルタ王アレウス1世がアテナイ、プトレマイオス朝エジプトと同盟してアンティゴノス朝マケドニア打倒を図ったため、

クレモニデス戦争、紀元前267年-紀元前261年)が起こったが、アンティゴノス朝は勝利を収め、エジプト王プトレマイオス2世との和議を締結した(紀元前255年)。

この戦勝によってアンティゴノス朝はギリシアにおける覇権を確立した……以降ローマに滅ぼされるまではアンティゴノス朝がマケドニアを支配したのだ。




 最終的にアレクサンドロスの帝国は

プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアのヘレニズム三国に分裂したのだ。


 なお、ディアドコイの多くが暗殺や戦死、獄死といった非業の死を遂げる中で、プトレマイオスは天寿をまっとうした数少ないディアドコイの一人であった。

 所謂魔女といえば『裏切りの魔女メディア』とも言われるが、実はプトレマイオスの娘『アルシノエ2世』こそ本物の魔女である。



▼経歴:

 ヘレニズム国家をエジプトに興したプトレマイオス1世ソーテールとその2番目の妻ベレニケ1世との間の長女として誕生。

リュシマコス王との結婚によりその妻として『トラキア』・『小アジア』・『マケドニア』の女王となり、

後に弟であり夫ともなったプトレマイオス2世とともに『エジプト』までをも治めた。


・マケドニア王リュシマコスと15歳のときに結婚、3人の子をもうけた。

  父に勘当されたアルシノエ2世の異母兄弟プトレマイオス・ケラウノスが腹違いの姉妹アルシオネを頼ってきたが、

  この時アルシノエ2世が前妻の子でリュシマコスの長男アガトクレスを処刑するように画策。

  プトレマイオス・ケラウノスがアガトクレスの妻であった実妹エウリュディケの味方につき、

  シリア王セレウコス1世の許へ助けを求めに向かった。


  シリア王セレウコス1世とトラキア王リュシマコスが戦い、セレウコスが勝利しリュシマコスは敗死。

  セレウコスは庇護していたプトレマイオスの子プトレマイオス・ケラウノスによって暗殺。

  セレウコスを暗殺したプトレマイオス・ケラウノスはそのままマケドニアに渡り、

   ケラウノスはこれをリュシマコスの復讐としてアピールし、マケドニアの王位に就くことを宣言。


・異母兄弟プトレマイオス・ケラウノスと再婚(リュシマコスがコルペディオンの戦いで亡くなったため)。

  前夫との息子たちをけしかけ夫に反旗を翻すも返り討ちに会い自分一人だけエジプトのアレクサンドリアへ逃亡。

  実家に出戻る。

  もっともそれから程なくしてマケドニアに侵攻してきたガリア人との戦いで異母兄弟プトレマイオス・ケラウノス戦死。 


・同母弟プトレマイオス2世と再々婚。

  弟を唆してプトレマイオス2世の最初の妻であるリュシマコスの娘*1.アルシノエ1世に夫の暗殺疑惑の濡れ衣を着せて離婚させ、南エジプトに追放。

  そうしてアルシノエ2世は自分の同母弟の妻となり女王となった為、

 「兄弟姉妹を愛する者達」として非難される。プトレマイオス王朝の近親婚の起源、プレ_クレオパトラ。

(ただし古代エジプトでは兄弟姉妹の結婚は禁忌ではなかった。

  換言すれば、エジプトの因習的な文化がギリシア世界に持ち込まれたとみることもできる。)


*1.アルシノエ1世(紀元前305年- およそ紀元前248年以降)『アルシノエ2世』とは別人。

マケドニア人とテッサリア人を祖にもつギリシア人。

トラキア、小アジア、マケドニアの王であったディアドコイのリュシマコスとその最初の妻である王妃ニケアの次女。

 母方の祖父は権勢を誇った摂政のアンティパトロス。

プトレマイオス朝エジプトの王妃・女王(ファラオ・共同統治者)

アルシノエ2世の扇動で、プトレマイオス2世の暗殺を企てたとしてアルシノエ1世が咎め立てられ、

離婚が決まり、アルシノエ1世は南エジプトのコプトスへ追放された。

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