現実:歴史-民族 ソグド(商)人 と アレクサンドロス大王を苦しめた【スピタメネス】
▽遊牧騎馬民族の広範囲な活動により、従来別個に存在していた古代帝国ネットワーク間の交流が一層活発に
トランスオクシアナ:太古よりの大陸と文明の中心地、交差地点。
騒動を引き寄せ、波乱の因果を導き、激突に衝突させる、恐るべき『時』の勢い。 - 闘争の渦の地 -
ザラフシャン川やカシュカ川、アム川に流入する支流の流域ではオアシスが形成。
農業が営まれていた。
アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川流域の水を利用して、
中心地であるサマルカンドやブハラなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、
定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には遊牧民が闊歩する地であった。
オアシス都市は城砦と市街地から成り立ち、
規模の大きいオアシスは市街地の外に広がる郊外を有していた。
また中国内地とを結ぶシルクロードが発達していくと、
テュルク系民族やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。
それらのオアシス都市は周辺の村落や農地とともに一人の領主によって支配される。
中国の史料にはソグディアナに存在していた康国、
安国(中安国。ブハラ)などの都市国家が挙げられている。
こうしてイスラーム化前のトランスオクシアナはイラン系のソグド人の根拠地であり、
「ソグディアナ」と呼ばれていた。
紀元前6世紀にトランスオクシアナはアケメネス朝のキュロス2世によって征服。
ソグド州に区画されアラム語・アラム文字が導入。
アラム文字はソグド文字の原型となったと考えられている。
○ソグド人:イラン系民族。ソグド商人といわれた商業民族にしてオアシス灌漑農耕民族。
元々はアケメネス朝ペルシアの頃から、ゼラフシャン(ザラフシャン)川流域でオアシス灌漑農耕と牧畜を営む。
古代から農業が盛んで、*1.サマルカンド、*2.ブハラなどのオアシス都市国家が建てられた。
*1.サマルカンド:
元は中央アジアのソグディアナ地方:マラカンダ。現ウズベキスタン。
前10世紀ころからイラン系の人びとのオアシス都市として発展。
前4世紀にはマラカンダの名で知らる。
14世紀末―15世紀にティムール帝国の首都として繁栄。
東西貿易の中心というだけでなく、北のシベリアと南のインドを結ぶ南北の結節点でもある。
つまりユーラシア大陸の文明の十字路。
内陸アジアの東西交通・南北交通の要衝であることから周辺勢力の侵入が著しい。
さらに大月氏、康居、クシャーナ朝、エフタル、突厥など周辺の遊牧国家の支配を受けた。
サーサーン朝のもとでイランの支配に服したりした。
住民のソグド人も交通の要衝であることや、強大な遊牧国家の傘下にあることを生かして交易活動に従事するようになり都市文明が繁栄する。
*2.ブハラ:サマルカンドの西方二百五十キロほどの砂漠に位置する。
元はザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市。
450キロ北東に現ウズベキスタンの首都タシュケントが位置している。
イスラーム時代以降サーマーン朝の首都となっていた。
また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれた。
中央アジア乾燥地帯に位置しながら水資源に恵まれたオアシス。
ブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古い。
考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立。
都市国家ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍し、
隋唐時代の中国の記録には「安国」という名称で登場する。
古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。
やがてマムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げ、
ブハラはサマルカンドにかわってマー・ワラー・アンナフルの中心都市に成長した。
後にトルコ系ウズベク人により16世紀初頭から20世紀の初頭まで
ロシアやイラン、トルキスタンとの中継貿易で栄えた。
今ではイラン・イスラム文化とトルコ・イスラム文化が融合した古都であり、
それがサマルカンドと異なった文化的相違点。
○ソグド商人:
古くから内陸の中央アジア:シルクロード(オアシスの道)での東西交易など国際的商業貿易に従事。
内陸アジアの東トルキスタン、天山山脈北麓、甘粛北西部、
モンゴル高原内部に居留地をつくり、唐の長安にも多数住んで国際商人としても活躍。
特に匈奴、突厥、ウイグルなどの遊牧国家の保護の下、その内部で商業に従う。
それとともにその代々の君主たちの政治的・文化的顧問としても活躍。
中国では商胡、賈胡などと呼ばれた。
唐代には長安でも活動しゾロアスター教・マニ教を中国に伝えた。
イスラーム化前のソグディアナはペルシア文化圏に属し、
イランのサーサーン朝からの影響を強く受けていた。
7世紀後半までの約2世紀の間、
ソグディアナはテュルク系の遊牧民族突厥の支配下に置かれていた。
木汗可汗の指導下でエフタルを破った突厥はソグディアナを征服し、
583年に東西に分裂した突厥のうち、西突厥はソグディアナを支配下に置いた。
ソグド人は遊牧勢力の支配下で商業活動に従事し、
河西回廊から東トルキスタン、セミレチエからソグディアナにはソグド人の植民都市が作られた。
ソグド人の商業活動によって中央アジアの珍品が中国にもたらされ、
中国の諸王朝は西方との国交を樹立するために盛んに使者を送った。
7世紀半ばに西突厥が唐の遠征軍の攻撃を受けて壊滅した後、ソグディアナは唐の勢力下に入る。
銀貨、銅貨が流通し、7世紀初頭から方形の孔が空けられた中国式の銅貨が鋳造された。
ソグディアナでは手工業が盛んで、綿織物、絹織物、銀器などが生産されていた。
8世紀初頭のウマイヤ朝の征服後にイスラーム化が本格的に進展し、
イスラーム化と並行して近世ペルシア語が広まっていった。
この地域は13世紀にモンゴル人に侵されるまでイスラム文化の一中心地であり続ける。
▼文化:
初めはゾロアスター教徒であったが、のちにマニ教を奉ずる者も現れた。
彼らの発展によって、マニ教がウイグルの国教となり、ついで唐代の中国に伝わった。
中国産の絹を西に運ぶ一方で、西の特産物を東にもたらした。
中国の史書では初め、西方異民族のことを、専ら胡人と呼んでいた。
ソグド人もこの中に含まれており、商胡というのがそれにあたる。
「胡」がつく漢字というと、
胡椒こしょう、胡麻ゴマ、胡瓜キュウリ、胡菜、あぶらな、胡桃クルミ、
胡豆はエンドウ、胡蒜はニンニク、胡蘿匐はニンジン。あと胡弓こきゅう。
胡瓜も胡麻も、飛鳥時代に始まった遣隋使、
奈良・平安時代まで続いた遣唐使によって西域から伝えられた中国を通して日本にもたらされた。
ストロー効果?
彼らの使用した暦は、ティームール帝国のウルグ・ベク(在位1447~49)のときまでこの地方で使用。
独自の文字・言語文化(ソグド語、ソグド文字)を中央アジアで少なくとも11世紀半ばころまで保った。
この間ソグディアナは、アレクサンドロス大王やアラブ/イスラム王朝など、間断なき外部勢力の支配を受ける。
これらの支配も彼らの豊かな土地と都市文化および商業的才能との共生関係に支えられていた。
またソグド文字からウイグル文字がつくられ、これがモンゴル文字、満州文字のもとになった。
なお、最近の研究によると、いわゆる突厥文字もソグド文字からつくられたものであるといわれている。
近年、サマルカンド東方のムグ山、サマルカンド東方のペンジケントから、
文書(ムグ文書。紙・木などに書かれた法律・経済文書)や、
ソグド人の都市遺跡、各種の遺物が発掘され、彼らの生活様式、文化などが明らかになりつつある。
:Episode 密と膠の民
『旧唐書』などによると
「(ソグド人は)子供が生まれると、
かならず、その口中に石密(氷砂糖)をふくませ、掌中に明膠を握らせる。
それは、その子供が成長したあかつきに、口に甘言を弄することを石密の甘きがごとく、
掌に銭を握ること膠の粘着するがごとくであれ、という願いからである。
人々は胡書を習い、商売上手で、分銖の利益を争う。
男子が二〇歳になると商売のために近隣の国へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。
およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない」という。
彼らソグド人は、密と膠とに祝福された生まれながらの商人だったのである。
略歴:
アケメネス朝ペルシアの領土の一部となる。
アレクサンドロス大王に壊滅させられる。
バクトリア、大月氏、クシャン朝、ササン朝ペルシア、エフタル、西突厥と次々と支配を受ける。
8世紀にアラブ人に征服されイスラム化された。
1220年にチンギス・ハンに攻略されて全滅した。
1370年にティームールが興ってサマルカンドを首都としたため復興した。
そののちウズベク人が支配。
1868年にロシア軍が占領。
恐怖のソ連時代を経て今日に至っている。
- 中央アジアは地獄だぜ -
抜粋:
▼6世紀-9世紀:内陸アジアで変動 突厥、ウイグル(トルコ系民族)が一大遊牧帝国を建設。
★エフタル:イランに侵入した遊牧民国家。西アジア一帯とインドに侵入した。
4世紀後半:ヒンドゥークシュ山脈北麓に起こった遊牧民族。
人種的にはイラン系だが、王族はトルコ系。
次第に勢力を伸ばしイランのササン朝ペルシア領内に侵攻し、圧迫した。
ソグド人は、5世紀-6世紀にエフタルの支配下に入り、エフタルの保護のもとに商業活動。
5~6世紀:トルキスタンから西北インド(パンジャーブ地方)にかけての一帯に進出。
中央アジアとインドを結ぶ交易路を支配して、中国とも交易を行った。
中国の史料には嚈噠とか、白匈奴として現れる。
北インドではグプタ朝を圧迫し、仏教を迫害した。
グプタ朝はエフタルの侵攻を受けたことによって次第に衰え、550年頃滅亡した。
567年頃までにササン朝ペルシアと突厥に挟撃され滅亡した。
★突厥:モンゴル高原-中央アジアに至る大遊牧帝国を築き上げるトルコ系の民族。
6世紀:ジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族。
柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した。
552年に柔然から独立。
東方のモンゴル高原から北アジアの柔然を滅ぼし、勢い中央アジアのエフタルも滅ぼす。
突厥がソグドを支配するとソグドは今度は突厥と提携。
部族連合である突厥可汗国(突厥帝国)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。
582年には内紛によって東西に分裂した。
「可汗」:古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。
後に訛ってカアン → ハーン となった。
ソグド人と突厥帝国:中央アジアの商業民族ソグド人と密接な提携関係を結んだ。
彼らは東トルキスタンからモンゴル高原、西域諸国を通って中国にも進出。
ソグド人は古くは遊牧帝国である匈奴に従っていた。
遊牧民族とオアシス商業民との提携関係は古くから存在。
突厥とソグド人との提携関係はユーラシア規模で展開。
その後の交易ネットワークの発展の上で重要な役割を果たす。
6世紀に突厥帝国がモンゴル高原から中央アジアに及ぶ遊牧国家の大帝国を建設。
その保護のもとで東西交易に活躍。
突厥とソグド人の関係は一方の軍事力と一方の経済力と文化が相互に依存しあう関係。
続くウイグルなど騎馬遊牧民の遊牧国家との関係も同様。
だが、突厥の支配は短期間で終わる。
★唐:唐がオアシス地帯に進出して交易を推進。
7世紀:唐のもとで直接交易を担ったのはソグド人。
ソグド人と唐帝国:
7~8世紀には中国の唐の勢力が西域に及び、
その保護のもとで東西交易に活躍し、
唐の都長安には多数のソグド人商人が住んでいたことが知られている。
彼らによって中央アジアから中国にかけて、
イラン人の宗教であるゾロアスター教やマニ教、
また彼らの文字であるソグド文字などのイラン文化が広まった。
またソグド文字からウイグル文字が生まれた。
なお、唐の安史の乱を引き起こした節度使安禄山はソグド人であったという。
★ウイグル(回紇):
8世紀半ばに唐が衰退に向かうと、
今度はウイグル(回紇)が突厥に匹敵する遊牧帝国を建設。
ソグド人と提携して大規模な交易活動を展開。
唐から絹を買い、唐に西方の馬を売る絹馬交易が知られる。
751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、
759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。
9世紀になるとウイグルの帝国は崩壊。
その後トルコ人はイスラーム世界で重要な役割を果たす。
一方、ソグド人は永久に歴史の舞台から姿を消すことになる。
おそらくソグド人は、イスラーム勢力に飲み込まれ、
ムスリム商人に姿を変えて、交易活動を続けたものと思われます。
こうして、商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきましたが、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖されました。
結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。
★逸話:アレクサンドロスを苦しめたスピタメネス(ソグディアナ)、
一時の夢を見たオクシュアルテス(バクトリア)
アケメネス朝を滅ぼした憎きマケドニア王国の
アレクサンドロス3世に対してトランスオクシアナの住民は
一度は降伏するも反乱を起こし、
紀元前329年から紀元前327年までの間
およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された。
こうしてアレクサンドロス3世による征服の後、
ヘレニズム文化がトランスオクシアナにもたらされる。
○スピタメネス(紀元前370年頃 - 紀元前328年):
アケメネス朝ペルシア時代のソグディアナの豪族。
ダレイオス3世の死後ベッソスとともにアレクサンドロス大王に敵対も、
今度はベッソスを見限って彼をアレクサンドロスに引渡し降伏した。
その後更にアレクサンドロスに反旗を翻し3年間も彼一人によって苦しめた。
だが最後は暗殺された。
◎あらまし:
ダレイオス3世の軍中にあったバクトリア総督のベッソス。
その北方ソグディアナ豪族のスピタメネスや
地元バクトリア豪族のオクシュアルテスらと同盟を結ぶ。
彼は貴族階級の支持を受けてダレイオス3世を捕縛。
アレクサンドロスに引き渡そうとしていた。
その報を受けたアレクサンドロスがカスピ海の東端付近に達する。
ベッソスは急に恐怖にかられダレイオス3世を殺害して逃走を続けた。
まもなくアレクサンドロスは遺棄された
ダレイオス3世の遺体を発見しこれを手厚く葬る。
一方のベッソスはアレクサンドロスの追撃をふりきってバクトリアのバクトラに帰着。
なぜかダレイオス3世を暗殺した彼が自ら帝位に就いてアルタクセルクス4世と称した。
アレクサンドロスは東方へ進撃し、
バクトリア・ソグディアナの征服を意図し
紀元前329年にはヒンドゥークシュ山脈を越えてバクトラへ。
ギリシア軍の接近を聞いたバクトリア軍の多くは今度はベッソスを棄てて逃亡、
ベッソスはオクサス川を渡ってソグディアナに入り、河岸にあった船を焼いた。
しかしギリシア軍はヒツジやウシの皮袋、手製の筏を使って渡河、ソグディアナに侵入。
ベッソスの側近スピタメネスも
同僚オクシュアルテスとともにアレクサンドロスに対抗するも、
だがベッソスは呆気なく敗れてバクトリアを追われた。
よってスピタメネスも彼とともにソグディアナに逃走した。
だが彼はそこで、仲間のオクシュアルテスとともにベッソスを捕縛し、
彼の身柄をアレクサンドロスに引渡して降伏し、
アレクサンドロスはベッソスを処刑した。
その後アレクサンドロスはマラカンダ(現サマルカンド)を占領。
マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とした時、
抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にある。
長期間のゲリラ戦に手を焼いたアレクサンドロスは、
中心都市の占領のみで矛を収め将兵に
ソグド女性との婚姻を奨励するなど住民の鎮撫に努めた。
なお、アレクサンドロスの死後、
マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は
周辺の諸民族の乱入による混乱が続くも、
その間にソグド人はしだいに東西貿易に従事する商人として
優れた才能を発揮するようになるのだった。
マラカンダ(サマルカンド)を攻め落としたアレクサンドロスは
更に中央アジア方面シルダリヤ川へと向かっていた。
すると間もなく再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とする
ソグド人による激しい抵抗に直面した。
彼はアレクサンドロスの不在に乗じて
サマルカンドのギリシア人部隊に攻撃をしかけた。
その頃アレクサンドロスは、
シルダリヤ川近辺:北方のスキタイ人サカ族を攻撃。
サカ族を降す戦いで重傷を負いつつもこれを平定。
マケドニア軍は境界を定めるため新しい都市の建設を始めた。
ヤクサルテス川南岸にギリシア人都市(アレクサンドリア・エスタタ市)を建設中。
これに対して現地に住んでいたソグディアナの人々が反乱。
スピタメネス反乱の知らせを受けて将軍パルヌケスに鎮圧を指令。
スピタメネスはマラカンダを包囲。
パルヌケス率いるマケドニア軍が救援のために送られたことを知ると包囲を解いた。
その後、深追いしてきたパルヌケス軍歩兵2,000、騎兵300を全滅させ、勝利を収めた。
この敗戦の報告を受けたアレクサンドロス、
部下に対し敗北の知らせを外部に漏らさないように指示を出すと、自らマラカンダ奪回へ。
これを聞いたスピタメネスはアレクサンドロスとの直接衝突を避け、
その到着前にマラカンダを引き払ってオクサス川を渡ってバクトリアへ遁走し行方をくらました。
その後、スピタメネスはスキタイ人やマッサゲタイ人などと同盟を結ぶ。
ソグディアナ各地の都市住民を組織して軍事力を保持。
アレクサンドロスが占領地に残したマケドニアの守備隊などを襲撃して周った。
そして追討軍が現れると、
或いは現れる前にただちに撤退するという戦法で1年以上にわたってマケドニア軍をかく乱した
(これらの戦法は遊牧民のそれと同じであり、彼の軍勢に多数の遊牧民が参加していたことを示唆する)。
ソグディアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦を強いられ、将兵は士気の低下。
これに対し、新たにギリシア人傭兵部隊を増援に迎えて兵力を確保。
キュロポリスなど抵抗した都市に対しては占領後完全に破壊。
住民も強制移住させるという方法で鎮圧戦を行った。
スキタイ人に対しても切り崩しの工作。
更にアレクサンドロス指揮下の将軍達もスピタメネスの反乱鎮定に大規模に動員。
遊牧民の騎兵好戦的な遊牧民、攻撃を仕掛けてきたスキタイ人にも勝利を収める。
遊牧民の王「アレクサンドロス大王の命令は何でも受け入れるのでどうかお許しを」と懇願するほど。
これによってスピタメネスの活動範囲は次第に縮小していった。
紀元前328年、マケドニアの将軍クラテロスとの戦いで致命的な敗北。
スピタメネスの勢力は大きく減退した。
それでもスピタメネスはその後も、しばしばソグディアナ・バクトリアを襲撃。
アレクサンドロスの追撃から逃亡を繰り返す。
だがあるとき遊牧民、もしくは味方によって暗殺、または逃走に疲れた妻によって暗殺されたとも。
どちらにせよその首は紀元前328年に、スピタメネスの首級を献上されるアレクサンドロス。
紀元前334年から紀元前331年の4年間にわたって、
地中海の東海岸からペルセポリスの占領まで疾風のような遠征を行った。
だが彼一人によって結局アケメネス領中央アジア制圧にその後約3年の月日が費やされた。
なお、後のセレウコス朝初代皇帝セレウコス1世の妻であるアパメー1世は、
ソグディアナの豪族スピタメネスの娘である。
こうして紀元前327年までに西トルキスタンの征服を完了したアレクサンドロスは、この地方でイスカンダール、またはイスカンダール・ズルカルナイン(二本角のアレクサンドロス)と呼ばれるようになる。
●オクシュアルテス:アレクサンドロス大王の義父に。
アケメネス朝ペルシア時代のバクトリアの豪族。
ダレイオス3世暗殺後、ベッソスとともにアレクサンドロス大王に対抗、
後に降伏し、彼の娘ロクサネをアレクサンドロスに差し出した他、
もう一人の娘、妹のアマストリネもヘファイスティオンの妻となっている。
バクトリア地方の有力者であったオクシュアルテス。
紀元前331年のガウガメラの戦い後ダレイオス3世を暗殺に加担。
ペルシア王を称したバクトリア総督ベッソスとともにアレクサンドロスに対抗した。
しかしベッソスはバクトリア地方で満足な抵抗が出来ないままソグディアナへ逃走。
オクシュアルテスはその後ソグディアナの岩砦の守備を勤めたが、
同じくベッソスとともに戦っていたスピタメネスらと共にベッソスを裏切って捕らえ、
その身柄をアレクサンドロスに引き渡して降伏した。
そしてアレクサンドロスに娘ロクサネが嫁ぐ事になる。
紀元前327年、盛大な結婚式が挙行された。
その後紀元前324年の集団結婚式では娘アマストリネがヘファイスティオンの妻に。
これによってアレクサンドロスの帝国内における地位を確保し、
パロパミソス(バクトリアの東、現在のアフガニスタン東部)の太守となった。
その後のディアドコイ戦争では当初エウメネスを支持したが、
彼の死後アンティゴノスについた。その最後は明らかではないが、
セレウコス1世の東方遠征の頃には既に死去していたといわれている。
彼が統治したパロパミソスはその後、
セレウコスとチャンドラグプタの協定によりマウリヤ朝の支配下に入った。
一方のバクトリアであるが、大王の死後、
セレウコス朝シリアの領土となっていたが、
紀元前255年ごろにギリシア人総督に率いられて、
アレクサンドロス大王がこの地に入植させたギリシア人の子孫
(インド=ギリシア人)によって
独立前3世紀の中頃に中央アジアに建設した。
この国を「グレコ・バクトリア王国」と言い、都はバクトラであった。
★ロクサネ:大王の最初の妃。オクシュアルテスの娘として*3.バルフで生まれた。
紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロニアで突然死去すると、
ロクサネは、別の后であるスタテイラと、
その妹ドリュペティス、または3人目の后パリュサティス2世ともども殺害した。
彼女はアレクサンドロス3世との間の子を産み、アレクサンドロス4世と名付けた。
ロクサネと息子のアレクサンドロス4世は、
マケドニアでアレクサンドロス3世の母オリュンピアスに保護されたが、
紀元前316年にオリュンピアスは暗殺され、カッサンドロスは即位を望んだ。
アレクサンドロス4世は、アレクサンドロス帝国の正当な後継者であったため、
カッサンドロスは紀元前310年頃に彼とロクサネの殺害を命じた。
これによって大王の血縁は完全に断絶した。因果は廻るものである。
*3.バルフ:バクトリア地方の都市。
青銅器時代、バルフ近郊のダシュリー・オアシスではバクトリア・マルギアナ複合文明が栄えていた
バクトリア王国の都バクトラはバルフ、あるいはバルフ周辺の地域に存在していたと推定されている
バクトリアはヘラート、メルヴ、サマルカンドなどとともに
中央アジアにおけるイラン系民族によって建設された最古のオアシス都市のひとつ。
オアシスの交易国家・都市国家として繁栄。
バルフはメソポタミア文明とインダス文明を結ぶ交易路やシルクロードが通っていた。
西・西南・南(インド古道)・東南・東の5方向に放射状の幹線が延びている。
支配階級はペルシア人とスキタイ人とによって構成されていた。
バクトリア地方は、もともとアッシリアが分裂してできた4王国の一つであるメディア王国の一部。
バクトリア王国の都バクトラはバルフ、あるいはバルフ周辺の地域に存在していたと推定
現在、バルフは人口数百の小さな村落にすぎない。
村の近くには城壁に囲まれた巨大な廃墟がある。
一説には現在のバルフは古代のバクトラではなく、バクトラはもっとアム川に近いところにあったとも。
しかし、バルフの付近には古代ゾロアスター教の祭壇の遺跡もあり、バクトリアの貨幣も多く出土している。
ペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアスター教の開祖であるゾロアスターは、
古くからバクトリアの人だという伝説がある。
少なくともアケメネス朝時代にはバクトラがゾロアスター教の中心地の一つであった。
メソポタミアの文明やエラム文明、インダス文明など他の文化との関係、
特にアーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目されている。