現実:職―陰陽寮で陰陽道を使う陰陽師と、その宗家「安賀両家」
▼陰陽寮:「うらのつかさ」「おんようのつかさ」とも
陰陽寮は中務省に属し、卜筮・天文・暦数(暦・時刻のこと)などに関すること所謂『陰陽道』のことを司った役所で、飛鳥時代の701年(大宝元年)天武天皇のときに創設された古代の律令制である大宝律令制下の官司である。
また大宝律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らで、奈良時代の718年(養老2年)元正天皇が藤原不比等に大宝律令の補足と再検を命じたが施行を前に享年62歳で病死した為、実際に養老律令を実施したのは孫の藤原仲麻呂の時であり、これは757年(天平宝字元年)孝謙天皇のとき大宝律令に続く律令として祖父の不比等が着手した養老律令を藤原仲麻呂による主導で施行したものである。
だがこの際に唐風政策を推進し無駄な官号改易(官職の唐風改称)で、陰陽寮も一旦は大史局と改められたが、仲麻呂の失脚後には他の官職同様旧に復した。
これまで謀反の罪を着せて政敵らを一気に抹殺排除してきた仲麻呂だが、今度は自身が本当に謀反を起こした為、その一族はことごとく処刑されたのだが、六男の刷雄は死刑を免れて隠岐国への流罪となり、のちに赦されて桓武天皇の時代に大学頭や陰陽頭を歴任している。
また十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、のちに筑波山知足院中禅寺の開山となり、やがて最澄や空海の論敵としてその名を馳せることになる。
やがて養老律令の齟齬は、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたのだが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化してしまったが廃止法令は特に出されず、形式的にはなんと明治維新期まで存続していたが、明治維新後の1870年(明治3年)に至り、新政府は『天社禁止令』を発布し、陰陽道を迷信として廃止させた。
●職員:
大宝令制定以前にもその存在が知られるが、大宝令で整備され、頭・助以下の職員と、陰陽博士・暦博士・天文博士・漏刻博士などの専門家がおかれた。
職員は事務系統に頭・助・允・大属・少属各1人、技術・教官・学生の系統に陰陽師人、陰陽博士1人、陰陽生10人、暦博士1人、暦生10人、天文博士1人、天文生10人、漏刻博士2人、守辰丁20人、使部20人、直丁3人が配属され、730年(天平2)には陰陽3人、暦2人、天文2人の得業生が置かれた。
天体観測・暦の算定・気象観測などを管掌するためには特別の技術を必要としたため、平安時代中期には賀茂・安倍両家の家人が頭をはじめ要職を占めるようになり、後世安倍の子孫は土御門を、賀茂の子孫は幸徳井を姓とし、特に土御門家が陰陽道の長として代々勢力を保って世襲化していき近世に及んだ。
▼陰陽道:陰陽五行思想(説)
陰陽寮で教えられていた天文道・暦道といったものの一つで、夏・殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した中国古代の自然哲学思想:陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。
これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで、国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教・魔術体系を指す用語ではない。
前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに、中国大陸(南北朝またはそれ以前)から直接、または朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して厩戸皇子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、厩戸皇子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土または寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶または学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。
諸学の導入が進むと、日本においては「日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る」ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
▼陰陽師:悪霊退散レッツゴー
奈良・平安時代から存在した律令制における役職の一つ。
律令制においては中務省配下の陰陽寮に所属した。
陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学・暦学・易学・時計等をも管掌した日本独自の職で、陰陽道を駆使し様々な現象を検証することを専門とする学者と占い師をミックスしたような国家公務員であり、これら陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって地相などを職掌とする方技(技術系の官人・技官)及び占筮として配置された者を指す。
本来は、この様な陰陽道に携わる者を陰陽師と呼んでいたが、後には陰陽寮に属し、2000年前の中国で成立した占術である六壬神課を使って占いをし、除災のために「御払い」をするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。
逆に陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。
また中・近世においては、民間で私的祈祷や占術を行う者(法師)を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
開祖は奈良時代の学者・政治家である『吉備真備』とされる。
伝承によると、唐より陰陽道の知識をもたらしたとされる吉備真備は、異国で客死した阿倍仲麻呂の霊の導きによってこの貴重な知識を持って帰国することができたとされている。
陰陽道は、当時日本で最先端の学問とされた仏教と道教に、神道や修験道の要素を混合させた日本独自の学問であり、時の最先端科学であり、それを成す彼らは当時の日本の一大頭脳集団でもあった。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。
また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
その名声が頂点に達したのが安倍氏の祖たる陰陽師:安倍晴明であり、祈りによって雨を降らせ病を癒し怨霊を鎮めるなど史実と伝承とを問わず縦横無尽に活躍する(『小右記』『御堂関白記』『今昔物語集』ほか)。
また、陰陽道は本来国家機密だったものが次第にその知識が貴族や民間にも流出していったが、陰陽師とは本来は朝廷に仕える身分を指すため、民間にて陰陽師と同じ力をふるう者は一般に「法師」と呼ばれていた。
その有名な例が播磨の法師「蘆屋道満(道摩法師、別人説もあり)」であり、晴明と勝負をしたという記録も残っている(『峰相記』)。
●陰陽道宗家:「安賀両家」
平安時代中期~後期以降、「賀茂氏」とその嫡流末裔「勘解由小路家」が『暦道』、「安倍氏」とその嫡流末裔「土御門家」が『天文道』の宗家として、代々家学を世襲してきた。
この2家を合わせて「安賀両家」と呼ばれたが、江戸時代に賀茂氏が衰退して以降は、もっぱら土御門家を示す通称となった。
・賀茂氏:
平安時代中期に、賀茂氏は朝廷陰陽寮の長官・陰陽頭を務め「安倍晴明」の師匠として知られる「賀茂忠行」・「保憲」父子を輩出し、その弟子である「安倍晴明」が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、子孫は暦道を伝えた。
なお、「賀茂忠行」の子には儒学者に転じた「慶滋保胤」、「保憲」の子には家学の暦道を継いだ「賀茂光栄」がいる。
賀茂氏は、その嫡流の末裔・勘解由小路家および庶流の幸徳井家があったが、勘解由小路家は室町時代には昇殿が許されている堂上家となり代々陰陽頭を務めたが戦国時代から江戸時代初期にかけて断絶し、賀茂氏庶流・幸徳井家は江戸時代まで昇殿が許されない廷臣の家格「地下家」として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道宗家の地位を奪われ、中期以降は陰陽寮の次官にあたる陰陽助を務めたが、明治以降は消息不明となった。
・安倍氏:安倍晴明の先祖は安倍仲麻呂であると言われている。
平安中期以降、安倍氏は「安倍晴明」を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門家と名乗り、安倍晴明」以後の安倍氏が賀茂氏とともに陰陽道、ことに天文道を司ったので、代々陰陽道の家として知られるようになる。
しかし、官位的には「晴明」も息子「吉平」も先祖と比べれば格下であるが、その後「吉平」の長男「時親」は天文密奏宣旨授与者、次男「章親」は天文博士、3男「奉親」は天文権博士と、天文道に関する地位を独占し、以後代々天文博士・陰陽頭に任じられたが、その一方でその地位や学説を巡る一族間の対立も激化していき、子孫達がこの3系統に分立して激しく争った。
安倍氏は、その嫡流の末裔・土御門家およびその庶家・倉橋家の子孫が健在するが、明治維新以降は陰陽道との関わりを絶たれ、現代に至っては全く陰陽道と無縁な存在である。
福井県大飯郡おおい町に現存する神道の教派・天社土御門神道などは、歴史的に陰陽道および土御門家と関わりのある宗教団体ではあるものの、その関係者は土御門家の末裔などではない。
●略歴:
・飛鳥時代の壬申の乱の際に天武天皇が自ら栻(占いの道具)を取って占うほど天文学や遁甲の達人で『陰陽五行思想』にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には『陰陽師』という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなる。
・奈良時代の養老2年(718年)の養老律令の着手において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった為、占筮による占いや地相による土地の吉凶を調べる職務を担当した。
また、陰陽師の筆頭の陰陽博士は、陰陽師見習いに当たる学生の指導にも当たった。
陰陽寮では他に天文博士(天文を観察し異変があれば奏上する)・暦博士(暦を作成する)には、その指導下にある天文や暦専門の学生たちがおり、時代が下るとこれら各博士・陰陽頭も賀茂家や安倍家といった陰陽師の家系が担うことになる。
・平安時代ごろの陰陽師における主な仕事は天文学と方位学による占術で、風水などの方位学や占星術などの天文学を用いて吉凶を占う事であった。
また自然地理学や気象予報にも長け、都市計画や暦・節季の予想など、占いばかりでなく現在に通じるような学術的な研究も多くなしている。
この延長線として退魔行を成すこともあり、現在ではこちらの側面の用が有名であろう。
ただし、呪術は本来は「呪禁師」の領分で、陰陽師が職分を侵蝕して取って代わったという経緯もある。
特に平安時代の貴族たちは政争を繰り返し、菅原道真や平将門など恨みを持って敗死した貴族たちが怨霊になったと恐れていた為、政争の度に怨霊が生まれ、かくして無数の怨霊に怯える貴族社会こそが、陰陽師台頭の一因になったともいう(『妖怪と怨霊の日本史』pp.158)。
だが中世以降、律令の崩壊と武士の台頭による朝廷の政治力の後退によって、朝廷の官人である陰陽師たちもまた勢いを失っていった。
・鎌倉時代には、安倍氏の傍流が鎌倉幕府に仕えて民間に陰陽道を広め、『吾妻鏡』にも多くその活躍が記されている(斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』)。
・室町時代に、足利義満が神仏による朝廷の権威に対抗すべく陰陽道を重用したことで、晴明の子孫:安倍有世が台頭するが、次の将軍足利義持は朝廷と神仏を重んじたため長続きしなかった。
それでも有世の子孫は、土御門家を名乗って陰陽道の職分を独占した。
・戦国時代、山本勘助をはじめとした軍師たちにも陰陽道由来の知識を持つものが多かったらしい。
・江戸時代には、幕府から暦を作成する権限を委任され、土御門神道を形成して神道としての側面も強めていった。
・明治初期には、ついに陰陽寮が西洋式の近代科学の導入の妨げとして廃止され、これにより官職としての陰陽師も存在しなくなった。
だが陰陽道の情報までなくなったわけではないため、学び手や個別の部分の実践者は存在することはできるが、官職としての定義上、その人達は陰陽師ではない。
・第二次世界大戦後に、土御門神道は復興されたが、陰陽道の方まではされていない。
陰陽師はあくまで国家が任命する官職であり、現代においては国家公務員である必要があるが、現代ではありえない話である。
このように陰陽師の資格を新たに認定する制度『国家陰陽師認定試験』などは現存しないため、今「陰陽師」と名乗る人がいたとしてもその称号は文字通りの「自称」である。