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現実:文学 『古今伝授』

古今伝授こきんでんじゅ:または古今伝受とも

『古今伝授』とは延暦5年(905年)7月に編纂された最初の勅撰和歌集『古今和歌集(古今集)』の解釈を中心に歌学や関連分野のいろいろな学説を作法や秘事を、『口伝』・『切紙』・『抄物』によって、師から弟子、或いはその道に長じた特定の人へ『秘説相承』の形で伝授する事を言います。


 広義では、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。


 狭義では、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈が、「東常縁」から「宗祇」に伝えられて以降相伝されたものを指す。


 平安時代後期、「藤原基俊」から「俊成」・「定家」へと伝えられた古今集の解釈が基本となっていると思われ、これが『古今伝授』として『切紙』を以って伝授が形式化されたのは「東常縁」に始まる。 


▼「常縁」の『古今伝授』の歴史:

 それまでの『古今和歌集』の解釈は、和歌の故実(作法・習わし・先例)や解釈などが口伝(口移しで伝えられること)のみで伝承・継承されており、それが「基俊」・「俊成」・「定家」と正しく伝えられてきたものの、その後は「二条」・「冷泉」・「飛鳥井」・「六条」など、各流派の人たちによってそれぞれに解釈が異なり、多くの疑問や矛盾『解釈違い』が起きるようになってその内容が混乱してきたため、この解釈の違いによって激しい論戦が起きる事を憂いた「常縁」は、それを文字で形に残しつつ整理しようとしたと言う。 


 彼の『古今伝授』は「東氏」に伝わってきた『家説(古来の二條流中院為家の古今集の『原解釈』)』、ならびに二条流宗家が作り出していった『伝来の家伝書と称するもの(『桐火桶』『和歌秘書集坤』『愚秘抄』など)』が基本となり、中でも古今集のうち解釈の難しいとされるもの数首が伝授されていったとされる。


文明3年(1471年)、

 「常縁」は、口伝の条目を記した『切紙』に添えて古今集解釈の奥義を伝える『切帋伝授』という伝授の基本形式を作りだし、はじめて「宗祇」に行なった。


文明13年(1481年)10月3日、

 その後「宗祇」は、堺で「牡丹花肖柏」に『古今伝授』(堺伝授)した。


長享元年(1487年)6月18日、

「三条西実隆」へ『古今伝授』した。


明応4年(1495年)6月5日、

 師「東常縁」の子である「東素純」への『古今集講義』が開始され、7月18日に『古今伝授』を完了する。


明応7年(1498年)2月5日、

 前関白「近衛尚通」に『古今伝授』した。


こののち、「三条西実隆」から「三条西家」を通じて「細川幽斎」に伝えたられたものを『御所伝授(御所伝授)』、「牡丹花肖柏」から「饅頭屋宗二」に伝えられたものを『奈良伝授』という。


 こうして公家だけの教養であった和歌も、武家でありながら公家に劣らぬ教養深い一族「東家」の影響で武家の間にもひろまり、室町中期の「足利義政」の時代には武家の必須教養のひとつとなっていった為、「東常縁」→「宗祇」という『古今伝授』の影響は、のちの戦国大名たちの文化的教養の基本となっていく。


 ただし、この『古今伝授』されること自体が重んじられ、和歌の幽玄を匂わす域を『格式』という枠で囲ってしまう弊害を生み出したが、一方で、応仁の乱以来廃れてしまっていた和歌という文化に再び脚光が浴びせられ、公家だけではなく武家の教養の一つとして広まっていった功績も否定できない。



とう常縁つねより

 室町時代中期から戦国時代初期の武将・歌人・古典学者。

家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある。

本姓は「平」。

郡上東氏七代、桓武平氏の出身で美濃国 郡上(ぐじょう)領主で美濃篠脇城主だが、官職が下野守だったため一般には「東野州とうやしゅう」と称される。


 「常縁」は『古今伝授』の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。


 代々二条派の歌人であった「東家」に伝わる歌学を学び、冷泉(れいぜい)派の「正徹(しょうてつ)」に歌を学び、さらに二條流中興の祖・「頓阿」の曾孫「堯孝」に入門、当時の二条派歌学を集成し、古今集の奥義をきわめ、門弟で弟になる「宗祇」に伝えたのが『古今伝授』の初めとされる。


 何故ならば『古今和歌集』は和歌の規範とされていたが、成立後100年も経つと歌の本文や解釈に疑問が生じ、「六条家」や「御子左家みこひだりけ」など歌道の家々にはそれぞれの解釈が秘伝として伝えられるなど、早くからその解釈の説が分かれたからだが、それを室町時代に入って「二条家」の末流である「東常縁とうのつねより」が、「東家」に伝わる秘伝のほかに「頓阿」の流れをくむ「尭孝」の秘伝をあわせて、いわゆる『古今伝受』の原型をつくったのだ。


●祖先:

 東氏は「とう」とよみ、鎌倉時代の初めに東国の武門の名家「千葉氏」の「千葉常胤」の六男「胤頼たねより」が、下総国東荘(とうのしょう、現在の千葉県東庄町)に移り住んだ際、東大社の神官(本来の「東氏」)より名前を譲り受け、それ以後「東六郎大夫とうのろくろうだゆう」と称したのに始まる。


 京を警護する大番役として上洛した後、関東に戻った「胤頼」は「三浦義澄」とともに伊豆国北条蛭ヶ小島の「頼朝」のもとへ参向、「頼朝」の旗揚げに参画し一躍、幕府の有力御家人となり、子の「重胤」、孫の「胤行」は歌道に優れ、ともに鎌倉幕府3代将軍「源実朝」に重んじられた。


 その後、二条流の歌人として知られる「東胤行(とうたねゆき)」は、承久の乱の戦功により美濃(みの)郡上(ぐじょう)郡山田荘(現在の岐阜県郡上市)の地頭となった。

子の「東行氏とうゆきうじ」がこの地に土着し、『阿千葉城』を築城し居城としたが、郡上郡の地頭となって以後その子孫は在京人として六波羅探題のもとで活躍しながら、11代320年間にわたって郡上の大部分を治めました。


 だが、「東胤行」の孫「東時常」が越前の大野郡に攻め入り討死し、その弟で鎌倉-南北朝時代の武将・歌人「東氏村(とううじむら)」が家督を継いだ際、本拠地『阿千葉城』の南東に位置する砦『篠脇城』を拡張して本城とした。

これ以降、赤谷山へ移るまで『篠脇城』が「郡上東氏」の本拠地となった。


●略歴:

応永12年(1405年)1月15日、

 「東益之」の子として生まれ、はじめ一族の「野田氏」の家督を継いだと伝わるが、その後室町幕府奉公衆として京都にのぼった。


宝徳1年(1449年)、

 二条派の二條流中興の祖「頓阿」の子孫「尭孝」や「清巌正徹」に和歌の指導を受ける。


宝徳2年(1450年)、

 正式に二条派の「尭孝」の門弟となる。


亨徳3年(1454年)年7月26日、

「常縁」は左近将監に宣任され、8月13日正六位上「常縁」は旨叙従五位下した(『康富記』)。

また、12月27日には「常光院堯孝」より広義の『古今伝授』をされている


康正元年(1455年)、

 関東で享徳の乱が発生。

それに伴い下総で起きた本家「千葉氏」の内紛を収めるため、8代将軍「足利義政」の命により、嫡流の「千葉実胤」・「自胤」兄弟を支援し「馬加康胤」・「原胤房」と戦い関東を転戦した。

だが、古河公方「足利成氏」が「常縁」に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた「酒井定隆」も「成氏」に寝返った。

以後、下総で「足利成氏」と対峙することとなった。


応仁2年(1468年)9月、東左近将監「常縁」が下総に下って関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護「土岐成頼」の守護代「斎藤妙椿」に『篠脇城』を奪われた。


 城を奪われた事を嘆いた「常縁」の歌に感動した「妙椿」より所領の返還がかなった。

実は城を奪った「斎藤妙椿」はともに「足利義政」の奉公衆で、「常縁」の歌の友だった。

そこで、「常縁」は「妙椿」に城の返還を嘆願すると、「妙椿」は歌を送ってくれたら城を返そうと返事した為、さっそく「常縁」は十首の心情を込めた和歌を送り、「妙椿」もこれにうたれて城を返還したのたった。

その後も二人は詩の交流を続けたという。


 余談だが、この「斎藤家」の重臣である「長井弥二郎」に仕えた人物に「西村新左衛門尉」なる者がいた。

彼はその後、主君の「長井姓」を称して「長井新左衛門尉」と名乗り、主君の「長井藤左衛門尉」とともに「斎藤氏」を追放。

ところがさらに主君の「長井氏」をも滅ぼし、子「規秀」は今度は「斎藤氏」を冒して「斎藤山城守」を称した……のちの「斎藤道三」である。

「光秀」・「信長」の野望のルーツ、麒麟とは何だったのか?


文明3年(1471年)、

戦乱の最中に訪れた「宗祇」に『古今和歌集』に関する秘事の口伝(『古今伝授』の始まり)を行い、後年『拾遺愚』の注釈を「宗祇」に送っている。


文明7年(1475年)、

 武蔵国に下っており、歳七十にして再び戦いの中に身を置くこととなるも、「常縁」は在陣しつつ知己の僧侶や被官らに古今集講釈を行ったのだろう。


文明10年(1478年)8月21日、

 嫡男の「頼常(前名は縁数、さらに頼数と改名)」へ『古今伝授』を行った。

当時「常縁」は病中であったが、8月23日には「頼常」に三代集(古今、後撰、拾遺和歌集)の『題号口伝』を行っている。


文明16年(1484年)3月16日、

 没したとされる。享年八十。法名は花山院徳元常雅。東家菩提寺の木蛇寺(郡上市大和町牧)に葬られた。


●子孫:

 室町時代、「東常縁」の孫で美濃国郡上郡篠脇城主の「東常慶」の娘婿であった「遠藤盛数」は、兄の「胤好」が「常慶」の子で当主の「常堯」に殺されたことから、「常堯」を攻めて「東氏」から家督を奪い、以後は分家の「遠藤氏」が本家の「東氏」の家督をも継承する事となった。


 一方で家督を奪われた「常慶」の実子の「常堯」は逃れてその後も抵抗を続け、飛騨の「内ヶ島氏理」の庇護を受け娘婿となっていたが、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正大地震の際、飛騨の帰雲城にいてその崩壊で死去した。


 その後、「遠藤氏」は郡上八幡城を本拠とし郡上一円を支配し、「盛数」の子で「常慶」の外孫である「遠藤慶隆」は戦国時代、安土桃山時代を乗り切り、江戸時代には美濃八幡(郡上)藩主となったが、その子孫は無嗣改易された。



宗祇そうぎ

 室町時代の連歌師。

号は自然斎、種玉庵。

 和歌文学の主流を大づかみすると、和歌→連歌→俳諧となり、連歌も俳諧も元は和歌の流れです。

和歌の上句(5・7・5)と下句(7・7)を交互に付け合い、およそ100句で一つの作品とする連歌は、〝中世文芸の華〟と言われる主要な文学で、この連歌を大成したのが「宗祇」です。


 連歌の宗匠として全国の大名家を渡り歩いて遇されており、その一生は旅の連続で、俳聖・芭蕉も宗祇をたいへん尊敬し、その足跡を追って旅しています。


 応仁元年(1467年)『応仁の乱』以後、荒廃した京から地方へ下った文化人も多く、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られ古典復興の気運が高まった。

この全国的な連歌の流行とともに、地方から地方へ行脚した「宗祇」やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。


 そんな中、「宗祇」は連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である『たけ高く幽玄にして有心うしんなる心』を表現したと言う。


●略歴:

 「宗祇」は若いころ京都相国寺に入り、30歳過ぎて文芸を志し、連歌を「宗砌(そうぜい)」・「専順」・「心敬」らに、和歌・古典を「東常縁(とうのつねより)」・「一条兼良」らに学んだ。


文明3年(1471年)、

 「宗祇」は「東常縁」に『古今伝授』を授けられた。

こうして「東常縁」は『古今伝授』の創始者となったのだ。

また、「常縁」の弟である「正宗龍統」から漢学を学んでいる。


文明5年(1473年)以後、

 公家や将軍、管領の居住する上京かみきょうに種玉庵を結び、「近衛尚通」、「三条西実隆」といった公家や「細川政元」など室町幕府の上級武士と交わった。

また、畿内の有力国人衆や周防の「大内氏」、若狭の「武田氏」、能登の「畠山氏」、越後の「上杉氏」ら各地の大名をたずねている。


長享2年(1488年)3月、

 北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。

この職はまもなく「兼載」に譲った。


明応4年(1495年)6月、

「兼載」らと『新撰菟玖波集』を撰集した。


文亀2年(1502年)、

 生涯を通じたびたび各地を旅したが、弟子の「宗長」・「宗碩」らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没し、駿河桃園(現:静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。

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