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現実:建築物 - 城 「帰雲城」 ~ 前代未聞の大地震による全滅の地 ~

★内ヶ島一族の災禍:『災土ストーリーズ』

 戦国乱世に陸の孤島_白川郷にひきこもり、侵略も侵攻も行わずその地を支配していた男がいた。

盛者必衰の時代としても前代未聞な「天災によって一族郎党が一夜にして滅亡」と言うアトランティス文明かクレタ文明のような最後を迎えた帰雲城主にして内ヶ島氏最後の当主_内ヶ島氏理の事だ。


帰雲城かえりくもじょう:『山塊の落ちた地で…』

 現在の岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇ほきわき辺りにあったとされる日本の城であるが、今なお城跡すら見つかっていない。


 だが、帰雲山付近の庄川沿いの山麓にあった帰雲城に内ケ島氏が築いた城が帰雲城で、内ケ島氏はこの地で120年4代の繁栄を誇ったと記録にはある。


 そう、当時この地方に威を張っていた内ヶ島氏の居城-帰雲城があったのだが、1586年(天正13年)の天正大地震による帰雲山・三方崩山の山崩れによって城と城下町が全て埋没、一夜にして忽然として消えさって城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、城の消失と同時に内ヶ島氏は滅亡したのだ。


 周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い多くの犠牲者を出すこととなり、庄川上流の飛騨白川郷では300戸の家屋が倒壊するか人馬ともに飲み込まれ土中に埋まり、生き残った者などいなかったと伝えられています。


 ちなみに天正13年とは豊臣秀吉が関白となり、その家臣 金森長近が飛騨攻略を始めた年でもある。


▼立地:『死したる者たちへの祈り』

 城のあった正確な位置は現在も特定されていないが、保木脇に帰雲城趾の碑が建っている。

とは言え、この一帯では過去に土砂崩れがあったことは地質調査で判明している。

だが、碑の下に必ず帰雲城が埋まっていると決まっているわけではない。


 また、庄川河川からの採石業を営む田口建設という建設会社の社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を地元住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などをこの地に建立・公園化して今に至っています。


 なお、現在存在する保木脇集落は帰雲城城下町の名残ではなく、庄川水系の鳩谷ダムや御母衣ダム建設に伴う家屋や田畑などの移転先として昭和30年代(1955-65年)に形成された新しいものである。


 1993年(平成5年)に発足した「白川郷埋没帰雲城調査会」は、江戸時代の地誌や古地図から帰雲川左岸のいずれかにあったと推定しており、2027年に試験的な発掘調査を予定している。



▼その被害:『クロスディメンション テンショーサーティーン』

●帰雲山・三方崩山の山崩れ、自然堤防による堰き止め湖:

保木ほきとは、ほきまたは歩危ほきから転じた断崖を示す地形用語で、まさに地震後にこの地が一変した様を彷彿とさせる地名である。


三方崩山さんぽうくずれやまとは、一帯は断層が多くまた崩落の激しい地質であるため1586年(天正13年)の白山(天正)大地震の際に大崩壊した山頂部から北東・南東・南西の三方向に赤茶けた大きな崩落地があることがその山名の由来であるが、庄川を挟んで右岸の帰雲山にも西側山腹が裂け分かれて赤色の山肌をむき出しにした箇所があり、当時の悲惨な状況を物語っている。

この際、大崩壊で崩落した土砂により麓の庄川上流が河道閉塞となり、堰き止め湖が形成されたほどだったという。


 また三方崩山は、活火山である霊峰「白山はくさん」から北へ延びる主稜線から東へ派生する主脈上の「間名古まなご)かしら」から(そのまま北に進めば飛騨岩(岐阜県側)越中岩(富山県側)加賀岩(石川県側)の大岩壁に囲まれていて、この3つの岩壁が山名の由来となっている三方岩岳さんぽういわだけに)、間に奥三方岳を挟み、その先さらに東に派生する尾根の末端に位置している山でもある。


・帰雲山は霊峰・白山の山腹で湧いた雲をはね返したことにちなむ山名というが、ただし、昔は西方庄川左岸の崩壊跡保木脇のある三方崩山側を帰雲山としていましたが、近年では東方庄川右岸の木谷きだにの崩壊跡を残す山が帰雲山だとされています。


 このような事もあり、城や城下町などがそのどこに形成されていたのか正確な位置は現在でも謎とされており、「幻の帰雲城」といわれる所以もそこにあります。


●金屋岩黒山の東方山地の山崩れ、自然堤防による堰き止め湖:

 帰雲の地により庄川下流域でも同様な被害が出ている。

元々庄川は、山間部の飛騨・五ケ山地方を通って湯山・小牧の渓谷を離れると、現在の庄川合口堰堤付近から数条の川筋となって砺波平野を放射状に流下していたのだが、この時その手前(帰雲城から45㎞程下流)谷の出口付近にあたる金屋岩黒山の東方山地(現在の前山付近)が当時の蛇島(現在の赤岩)へ崩れ自然堤防を築き、20日間も庄川をせき止めた為、付近の住民の中には川原で鮭・鮎などを捕らえ金沢や高岡へ売りに行った者もいたそうですが、反対に川が決壊することを恐れて井波・増山・守山など周辺の山へ避難した者もいた。

だが、大半は積雪時期で大変でしたがそのまま仮小屋を建てて住みました。


 やがて川が氾濫して、崩れ山の元対岸(庄川右岸)「壇の山」と呼ばれる台地上(標高136メートル)に在った山城 壇ノ城から西に続いていた山を突破したが、水流が緩慢だった為平野部への被害は少なく済んだらしい。


 庄川流域で形成された帰雲山(庄川上流)と金屋石黒(庄川下流)の両天然ダムは共に20日後に決壊しています。

詳しいことは分かっていませんが、これは帰雲山の天然ダムが先に決壊し、金屋石黒(庄川下流)の天然ダムを襲って決壊した可能性が考えられます。


●「雄神神社」と「雄神の庄の川」:雄神川 ー 庄の川

 また庄川の古称は「雄神川おがみがわ」とされ、これは今も谷口附近にある雄神神社 (砺波市) に因むものとされている。

この流域を「雄神の庄」(庄は荘園の意)と呼んでいたことから、河川自体が「雄神の庄の川」と呼ばれ、「庄川」という名前になったのだと。

なお山間部出口の流域である「雄神の庄」から下流では、「野尻川」「中村川」「千保川」「中田川」など、それぞれ分流の名で呼ばれていた。


 因みに雄神神社は元々は近くの庄川右岸「壇の山」と呼ばれる台地上に在った山城 壇ノ城の麓に社地があり、そこに鎮座していたのだが、天正大地震から半世紀以上後の寛文3年(1663年)洪水により本殿と拝殿の間に庄川の新しい流路ができてしまった為この時流され、神体は水宮村(砺波市)へ押し上げられました。


 そのため、半世紀後の宝永7年(1710年)になってようやく本殿を拝殿からほぼそのまま延ばした位置にある壇ノ城地殻の高台の現在地に遷座し、庄川の左岸に残った拝殿に本殿と同じ神を勧請して元雄神神社とした。

後に弁財天宇賀社を元雄神神社に合祀し、元雄神神社を弁才天社に改称した。


●その他の被害:

 またその下流の砺波地方でも天正地震の時、木舟城きふねじょうの地盤が3丈(約9メートル)も陥没した為、木舟城は倒壊して前田利家の末弟で城主の前田秀継夫妻も多くの家臣等と共に圧死したが、遺体が見つかったのは3日も後の事だったという。

当然城下も壊滅的な打撃を受け、震災の痛手からの立て直しは困難であるとの判断から数年のうちに廃城となる。


 また、秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが震災で全壊し、一人娘 与祢よね姫(数え年6歳)と乳母が圧死した。



天正地震てんしょうじしん:『ザ プルーム ディスティニー』

 安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震である。

主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ。


 なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した。


 またこの地震は一般には「天正地震」と呼ばれるが、飛騨では白川谷が最も激甚であったため「白山地震」ともいわれている。

この地の震源地は庄川上流の白山直下とも言われ、夜中に起こったこの地震で所々の山が崩れ、谷が埋まり、その被害は全川にわたり、震動は12日間も続いた。


 御母衣断層は、富山・石川県境の「白山を開いた泰澄大師が開山した」医王山いおうぜん付近から庄川流域(白川谷)に沿って南下し、同川源流の山中峠付近まで北北西-南南東に延びる活断層である。

また、御母衣断層系を庄川しょうかわ断層帯とも呼ぶが、両白山地と飛騨高地の境界付近に位置し、石川県金沢市東部から富山県西砺波郡福光町(現・南砺市)ー 岐阜県大野郡白川村 ー 荘川村(現・高山市荘川町)を経て、同県郡上市北部に至る断層帯で、全体の長さは約67km、ほぼ北北西−南南東に延びています。

 


▼地震の規模:『ミッシングリンク』

 被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ近畿から東海・北陸にかけての広い範囲にある、日本史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、またいくつかの調査が行われているが未だ震央位置も判明していないのだが、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。

 

 同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり、豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。


 しかし、三河にいた徳川氏の家臣_深溝松平家4代当主の日記(『家忠日記』は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。)によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。


 その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。


 本願寺門主顕如の側近で当時大坂にいた宇野主水が記した『顕如上人貝塚御座所日記(宇野主水日記)』の記述によれば、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。

この他、天正地震での各地の被害情報が記されている『越中国名跡志』という史料にも同様の記述があるのだ。



▼略史:『ロストキャッスル クロニクルズ』

 帰雲城は武将である内ヶ島氏の居城であり、寛正年間(1461年 - 1466年)の1462年頃、内ヶ島為氏により築城された。


 実は、寛正元年(1460年)将軍足利義政の要請で、信州松代から飛騨白川郷に移ることになった。


 白川郷は一向宗が盛んになる以前は加賀・越前・美濃にまたがってそびえる白山を霊場とした白山信仰の強い影響下にあったのだが、当時既に飛騨一円は一向宗の地盤であり正蓮寺を中心に浄土真宗(江戸幕府によって強制的に浄土真宗を公式名称とさせられた)が一大勢力を築いていたため、為氏は入部当初一向宗徒(住職兄弟で、弟に継がせた兄が還俗し諸国から侍を雇い入れて対抗した)と争いを繰り返したが遂には撃破して新住職となった弟の子と和睦し、従属を条件に領土の安泰をはかると(移転し「正蓮寺」から「光曜山照蓮寺」に改称して復興)その関係は連合軍を組む程に親密になる。


 その後白川郷の牧戸に「牧戸城」を築き、さらに数年後に白川の(現)保木脇近くの帰雲山麓に「帰雲城」を築いてこれを本城とした。

そして加賀・越中一向一揆の後ろ楯となって活動したようである。


 だが、羽柴秀吉の侵攻(富山の役)に対しては、羽柴方に降伏し飛騨一国を治めることになった金森長近に従属する事となる。

今度は内ヶ島氏の家名と所領が安堵されたからである。


天正13年11月29日(1586年1月18日)、帰雲城において所領安堵の和睦成立を祝う宴を翌日に控え、氏理本人はもちろん娘婿の元美濃篠脇城主の子で悪逆非道と呼ばれる東常堯や嫡男の氏行など内ヶ島一族・重臣・家臣の主だった者・能楽師を帰雲城に呼び寄せ、前日から勢揃いさせていた。


同日深夜、白川郷一帯を大地震、いわゆる天正地震が襲った。

土石流は庄川を塞き止め、それに伴った洪水も発生したが、土石流はまた同時に、その直下にあった帰雲城とその城下町をも襲って飲み込み完全に埋没。

こうして帰雲城は山体崩壊に巻き込まれ、城主の内ヶ島氏理らの一族郎党は一夜にして全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。


 なお、同所の領民の被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる。

偶々その地を出ていた人々以外は生き埋めとなり、内ヶ島一族含め領民もまた死に絶えたのだった。


 だが、大名としての内ヶ島氏は滅亡したが、個々人については難を逃れた者もいた。

ただし当日城内で一族の重大な祝宴が行なわれていたので、一族のもので難を逃れたのは各種所用のため不在だったわずか4人とも、5人とも言われる。


・氏理の実弟・経聞坊きょうもんぼうともう一人の弟は、彼らのみが仏門にあった為に宴席に参加しておらず難を逃れた。

経聞坊はこの地震に関する書物(経聞坊文書)を残した。


・家老だった川尻氏信は、金森長近に勝手に降伏してさらに内応したために宴に呼ばれなかったが、そのお陰で生存した。

氏信は宴に招待されなかったお陰で死を免れ、そのまま飛騨の太守となった長近の家臣となり101石を賜った。

こうして九死に一生を得た川尻一族であるが、江戸時代には帰農したという。(金森一族は数代後に転封させられている)


・他にも譜代家臣で内ヶ島の血族でもあった山下時慶・山下氏勝の父子は、長近に降伏せずにいた為、その席に呼ばれていなかったので生き延びた。

なお、のちに氏勝は江戸幕府成立後の尾張藩に仕え、大規模な都市移転「清洲越し」を進言し立役者となったと言うが、この清洲越しの進言は、水害が多発すること・水攻めされると兵糧に欠くこと・城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないなどの弱点を持つ清洲城が、天正地震で液状化していた事と、何か関係があるのだろうか。



▼埋没金伝説:『帰雲、欲望の果てに…』

 内ヶ島氏の領内に数多く鉱山があったことから、その城崩壊とともに内ヶ島一族の金銀財宝が埋まったとされる埋没金伝説がある。


 そもそも内ヶ島氏は室町幕府将軍足利義政によって鉱山奉行として飛騨に入った一族であった為、飛騨の金山・銀山・銅山等八つの鉱山を所有(私物化)していたとされており、秀吉の侵攻の際も室町時代から金山採掘していた内ヶ島氏が持つ金採掘の技術と金銀の献上を引き換えにして生き残ったと考えられ、土砂に埋もれた帰雲城には五千億円とも一兆円ともされる金銀銅が眠っているという埋蔵金伝説が囁かれている。

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