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現実:土の種類 - 黄土(黄土高原・黄河・黄海)

▼黄土:

 黄土(おうど、こうど)はレス(英語: loess)とも称されるがその実態は、一度は砂漠や氷河に堆積した岩粉が風に運ばれ堆積していったものである。


 黄土自体は0.004~0.06ミリメートルの土の粒子シルトからなり、その主成分は水和酸化鉄で成分の組成により淡黄色・灰黄色または茶褐色と色合いが異なる。

なお、黄土と同様の性質だが黄土より粒径が大きな土壌を黄砂ということもある。


 また、古代から飲料に的さない粒子の細かい黄土・黄砂混じりの水源しかない土地では油を使った加工調理が発展していった。

黄河などの周辺地のことである。


 中国第二の大河で全長は5464キロある黄河は、上流部で黄土のただなかを流れるが、この黄土はシルトであり粒子が細かいため浸食されやすいく、そのため黄河には膨大な土砂が流れ込み、細かい土壌を含んだ河水はいつも黄濁しているので黄河という名称のもととなった。

また、黄海の名も黄河から流れ込む黄土などによって海面が黄色く濁って見えることからつけられた名である。


 近代的地形学の分野の創設者とされ、中国の研究を通じてシルクロードの定義「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」を定めたドイツの地理学者・探検家フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは、不毛の地にある高度に多孔質な黄土には農作物の成長に不可欠な鉱物質諸成分を土壌の毛細管構造によって不断に供給する「自己施肥能力」があるとする珍説を唱え、黄河文明は肥沃な黄土(矛盾)の上に発達した文明であるとする説が通説となってしまっていた。


 なお、第一次世界大戦の撃墜王として知られる「赤男爵レッド・バロン」ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン、およびマンフレートの弟のロタール・フォン・リヒトホーフェンは彼の甥に当たる。


 これに対して近年では、当然ながら粒子が細かく粘り気の無い土壌は植物の成長に必要な栄養分をイオンの形で根から供給しうる程度が低く、かつ水土流出を引き起こしやすい痩せた土地であるので黄土もまた例外ではなく、黄河文明の中心になったごく一部の地域だけはあくまで長年にわたる耕作と湖沼堆積物や水草などを投与した施肥作業の結果によって人工的に土壌の性質が変化して肥沃になった、とする反論が出されている。

その高い農業生産力を支えているのはあくまで豊富な黄河の水なのである。



▼黄土の堆積地・黄土高原:

 砂より小さいシルト状の土壌(黄土)は、ヨーロッパ中部~東部・北米中央~中西部以西で多く見られるが、特に中国の黄河周辺の華北地方黄土高原などに分布するものが有名である。


 黄土は固まれば非常に固いのだが水には簡単に浸食される他、一旦崩れると粉状になって飛び散りやすい土壌であるので、長年にわたり現在の中国北西部やモンゴル南部における砂漠地帯から風に巻き上げられて、南東方向に風塵として運搬されてこれらの地に一旦降り積もり堆積した結果、分厚い黄土の層ができた。

この黄河流域の黄土の堆積する地域を、人は黄土高原と呼んでいる。


 黄土高原の堆積年代は、なんと二百数十万年前(新第三紀末)から現在までの長期にわたり、また黄土が堆積してできた地層の各層厚にはばらつきが多い。

黄土高原上の黄土は厚さ50mから80mに達し、さらに隴東(甘粛省慶陽市付近)や陝西省北部では厚さ150にも達するが、最も厚い部分では200mにもなるのだ。


 これは、黄土の生成は風によって運ばれた風成堆積物であことから、気候変動などの著しい環境変化があったことを示すものである。



▼黄土の流出:河套の地

 日本に飛来する黄砂の主要発生地・黄土高原は、中華人民共和国を流れる黄河の上流および中流域に広がるおよそ400,000平方kmから640,000平方kmの広さの高原で、この数千年間に起こった農耕民族・後の漢民族による戦乱・森林伐採・過剰な開墾・放牧などによりその植生は破壊されていき土壌の流失が加速、一帯の地形は無数の水流が削ったために溝だらけのような状態(「千溝万壑」)になっている。


 中でも中国でも土壌流失が最も激しい一帯である太行山脈より西・烏鞘嶺より東・秦嶺山脈より北・万里の長城およびオルドス高原より南の一帯に黄土は堆積しており、これは山西省・陝西省・寧夏回族自治区・甘粛省・内モンゴル自治区などの行政区域にわたっている。


 また、頭道拐から黄河はほぼ真南に向かい黄土高原のただなかを流れるのだが、黄河そのものの浸食のほか黄土高原各地を流れる支流や関中盆地から流入する渭水も流域の黄土を大量に含んでいるため、土砂の供給のかなりの部分はここからもたらされている。


 なお、黄河の蘭州から渭水との合流地点まで(漢字の「几」の字のような形で大きく屈曲する部分)は、黄河屈曲部オルドス・ループ(Ordos Loop)と呼ばれ、この屈曲部の北東端までが上流で、それより南が中流ということになる。


 そもそも古代、明確に中原諸王朝の支配下にあった地域は黄河屈曲部の中ほどまでであり、それ以北は北方の遊牧民族諸王朝の勢力下にあることが多かった。


 なぜなら黄河の遊水地的な湿地帯・屈曲部の北端である河套地域は、牧畜に必要な豊かな草と水が広がる大牧草地として遊牧民に重要な土地のひとつとなっていたからで、逆に河套かとうと称してきた長城以南の漢人農民たちにとっては漢民族の塞外さいがい(長城外)の地であったからだが、やがてそのうちどちらの根拠地からも遠く離れていたこの地域は、両勢力の係争地となることが多くなっていった。


 なおこの「河套」は、「河(黄河)に包まれた場所」というような意味だが、西・北・東を黄河に南を万里の長城に囲まれたオルドス地方を中国・内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部北端の北側対岸にある河套平原なども含め「河套」とも言う。


 そもそも、砂漠化や洪水・激しい土壌流失が起こっているこの地は、はるか旧石器時代から人が住んでいて現在でこそその住民は漢族が多いが、紀元前6世紀から2世紀にかけては遊牧騎馬民族オルドス青銅器文化が栄え、後に遊牧民族匈奴・周の穆王に仕えた名御者の造父が封ぜられたのが始まりと言われている趙・周の孝王に仕え馬生産の功績を挙げ領地を貰り平王を護衛したため諸侯に封ぜられたのが始まりと言われている史上初めて全土を統一した秦によって次々に征服され、一時は南部に漢によって万里の長城が築かれるも、その後再び匈奴系や突厥系などの遊牧民が住むなど、遊牧民族王朝(遼、西夏、元など)と中華王朝(唐、明など)による支配を交互に受けるも、とうとう清代から漢族が本格的に入植して現代にいたる。


 調査では、侵食による不整合や砂礫層の水成堆積物を狭在するほか、化石・植物の胞子・石器遺物(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑の発見)など、多彩な歴史が存在していた。

そう黄河の治水……その実乱開発は古くより中国文明においての重大事であり、伝説上の中国初の王朝である夏王朝が、禹が黄河の治水事業に成功して舜より禅譲を受けたことにより成立したという伝説も、その一端を示している。


●黄河の変遷:

 黄河は、上流の山岳地帯の積雪の融解により7・8月に増水する為、黄河中流から下流域の中原と言われた地域は2年に一度はからならず氾濫し、下流は上流から運ばれた土砂の堆積が著しいためその膨大な土砂の堆積によって天井川を形成して常に洪水が起き氾濫し、そのため大きく流路・河道もたびたび変わったが、それらの元流路は黄河故道と呼ばれている。


 黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事のひとつであったが、黄河自体は過去に7回の大変動がある。

古代には現代の河道に比べてかなり西寄りを流れており、渤海北部の天津付近に河口があったが、元から清の時代には開封付近から東南に向かい山東半島の南に河口があり、黄海に注いでいた。

現在のように渤海湾に注ぐ河道になったのは1948年のことである。


紀元前602年

 記録されている最初の河道変遷が起こり、黄河は旧河道と現代の河道のほぼ中間を流れるようになった。


春秋戦国時代

 沿岸諸国が堤防を建設したが、この堤防は黄河本流から十分な距離をもって建設されており、氾濫しても堤防内にてある程度吸収することが可能であったため、黄河はやや治まっていた。


紀元前132年

 前漢の時代に入ると、濮陽において黄河が決壊した。

この決壊はそれまで知られていた黄河以北の河北平野における氾濫ではなく、黄河の南側で決壊して淮河へと流れ込むものであり、当時の経済中心のひとつであった黄河・淮河間の平野(淮北平野)に甚大な被害をもたらした。

淮河とは、黄河と長江に南北を挟まれその間を東西に流れているそれらに次ぐ第三の大河で、現在下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ本流は長江につながっている。

なお地形がそうである以上、同様の事態はいつでも起こりうるもよう。


紀元前109年

 この決壊は23年後にふさがれたものの、以後黄河は氾濫を繰り返すようになった。


紀元前7年

 これを防ぐために賈譲が「治河策」を著した。

これは黄河の治水策として、上策を河道変更、中策を分流、下策を現河道の堤防のかさ上げとしたもので、この案は賈譲三策として知られ、以後の黄河治水案の基礎となるものだった。

しかし、前漢王朝はすでに衰退しており、この案を実行に移す国力はすでに失われていた。


11年

 新王朝時代にはついに決壊して河道がさらに東へと転じ、現在の河道よりやや北をほぼ現河道と並行するように流れるようになった。

この氾濫・決壊は黄河下流域に甚大な被害を与え続けた。


69年から70年にかけて

 後漢の王景による治水工事が行われ、黄河は安定を取り戻した。

この王景の治水策は2点からなり、ひとつは華北平野で当時最も低く、なおかつ渤海へ最短距離で到達する河道を選択することで勾配をつけ土砂を押し流しやすくすることと、河北平野への分流を設け黄河の勢いをそぐことを根幹としていた。

この案は60年ほど前に提案された賈譲の上策および中策とほぼ一致するものだった。

この治水工事の効果は劇的なもので、これ以降黄河は唐の時代にいたるまで800年以上ほぼ安定したままで推移し、河道変遷にいたっては北宋時代の1034年にいたるまで1000年近く起きなかった。

この河道安定の理由としては、王景の治水計画が非常に優れたものであったことと、もっとも土砂流出量の多い中流域の黄土高原が、中国王朝の統治能力の減退によって北方の遊牧民がこの地域に進出し牧草地化したことで土砂流出がある程度抑制されたことがあげられる。

このため、再び黄土高原に農民が進出し耕地化が著しくなった唐代以降、黄河の洪水は徐々に増加していき、北宋期に入ると、黄河は再び暴れ川となる。


1034年

 この時の決壊からは、ほぼ10年ごとに河道が変転する事態となった。

この河道変遷は、漢の時代までの変遷が徐々に東へ向かう形だったのとは反対に、河道は徐々に西へと向かい、古代の河道のように北へと流れる傾向を示した。

これは地形的に自然河道変遷による南遷の限界を迎えたもようである。

だが、これ以上の河道改変・南流が起こらないとは言っていない。

しかし、朝廷内では黄河の河道を東に向ける派と北に向ける派が対立し、治水は遅々として進まなかった。

なお、歴史はくりかえす。


1128年

 黄河の河道はこのときまではすべて渤海に注いでいたが、南宋初期にこれを大きく変える出来事が起きた。

南宋の将軍である杜充が金軍の南下を防ぐため、まるで後の中国軍のように黄河の南岸の堤防を決壊させたのである。

黄河はこれにより大きく南遷して南の淮河に合流し、黄海へと流れ込むようになる。

1855年に再び黄河が北流し、現在の流路を流れるようになるまでこの黄河の南流は700年近く続いた。


1150年

 当初は旧河道を通って渤海へと流れ込む水流も辛うじて残っていたのだがついには途絶し、黄河はすべて南流することとなった。

実はこの南流期の黄河河道は一本化されておらず、何本かに分かれて淮河へと流入していたのだが、淮河の河道は黄河の全水量を受けられるほど広くなかったため、今度は淮河流域で洪水が頻発するようになる。


1194年

 淮河の流路は激しく変化してきた。

かつて淮河は今日の江蘇省北部を通って黄海に注いでいたが、しかしそれまで渤海へ北流していた黄河が南に向きを変え泗水の流路へ流れ込み、さらに淮河河道へ合流するようになると、淮河は黄河の流れの強さに押しだされた。

つまり黄河が堆積した土砂は高く積もったため淮河は流れをふさがれ行き場を失った水は逆流して、溜まってしまった溢れた水により多くの土地や町が水没し富陵湖や白水塘といったそれまでに存在した小さな湖を飲み込み、中国4位の広さを持つ淡水湖である洪沢湖を形成したのだ。

さらに洪沢湖から溢れた水は水は東へ南へと迷走し、高郵湖・邵伯湖といった湖を作ったあと、南の長江に流れ込むようになってしまった。

沂沭泗河水系の各河川も江蘇省北部で出口して迷走しながら大運河や黄海へ流れるようになった。

やがて明朝期後半には、黄河の流れを一本化(束流)して、その水量で土砂を押し流す(攻砂)という、いわゆる「束流」案が潘季馴によって提唱され、主流となった。

この案の円滑な運用には、流路に堆積する膨大な量の土砂を取り除くための定期的な浚渫が不可避であったが、清王朝後期にはこの河川管理が崩れ、黄河は再び水害を頻発させ始めた。


1855年

 黄河は大洪水を起こし、南流をやめてほぼ700年ぶりに北へと向かい、渤海へと注ぎ込むようになった。

このときの流路が、ほぼ現在の黄河の河道である。

黄河の現在の流路にはもともと済水(大清河)と呼ばれる大河が流れており、済南市の市名はこの済水の南に位置していたことからきたものだが、この流路変更によって済水の河道のほとんどは黄河本流となってしまった。

この時まで済水は古来はほかの大河と交わらず海に流れており、江水(長江)・河水(黄河)・淮水(淮河)とともに「華夏四瀆」と称されていた。

このときは黄河の河道を元に戻してほしい新流路である山東省グループと、黄河の河道変更を恒常化させたい淮河流域グループとの対立によって河道の改修と固定化が遅れた。

1850年代に黄河は再び北に流れを変えたが、淮河は黄河旧河道の堆積土砂による自然堤防のために元の流れに戻ることができず南に流れるままになり、安徽省・江蘇省境界付近でしばしば氾濫を繰り返した。


1875年

 結局、現流路に流路が固定されることとなった。


1938年

 日中戦争中に日本軍の侵攻を阻止しようとした中国国民党によって堤防が爆破され、黄河は流れを変え淮河に流れこみ黄海に注ぐことになった(第7回目の河道改変・南流、黄河決壊事件)。

蒋介石軍(湯恩伯将軍)は日本軍の徐州作戦を阻止するためだけに鄭州の東北で黄河の堤防を破壊して、日本軍の追跡を断ち切ろうとしたのだ。

淮河の氾濫でこの流域の人民は壊滅的な打撃を受け、日本軍の追撃作戦も人命救助の為に足止めを食った。

軍事目的の環境破壊として史上最大とされる。


1947年

 堤防の修復が完了し、河口が現在の位置になった。



▼黄海:

 太平洋の縁海の一つで東シナ海の北に位置する中国大陸と朝鮮半島の間にある内海。

遼東リヤオトン半島と山東シャントン半島の間にある渤海ポーハイ海峡によってポー海とつながっている。

全体に浅く平均水深は約44m最も深いところで約152m。

水域面積約38万km2。


 強い潮汐流のために東側沿岸地域は一般に砂質底である。

海域中央部は泥質シルトで渤海側に注ぐ黄河ホワンホーや他の河川によってもたらされた莫大な量の堆積物によって中国大陸近くでは泥が卓越している。

黄河から運ばれる細かい土壌であるこの黄土を含んだ河水によりいつも黄濁しているので黄海と言われる。

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