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現実:食-揚げ物 「天ぷら」 ~天ぷらの歴史~ 

もの

 あるいはげ料理とは、高温の多量の油の中で食材を加熱調理した料理、またその調理技法をいう。



▼天ぷら(てんぷら・天麩羅・天婦羅):

 魚介類や野菜等の食材を小麦粉を主体とした衣で包み、油で揚げて調理する日本料理である。

奈良時代から平安時代にかけて中国から伝来したものは米粉などを衣にしたものであったが、その後16世紀にポルトガルのカトリック宣教師が小麦粉を使った西洋式の揚げ物の調理法を日本に伝えた。



▼天ぷらの語源は? : テンポーラ?  それともテンペーロ?

●日本語天ぷらの語源にはいくつかの説があります。

・ポルトガル語で料理という意味の「テンペーロ(tempero)」が転じたという説。

 オックスフォード英語辞典では、英語 "tempura" (初出:1935-40年)の語源である日本語 "tenpura (てんぷ)" の語源を、ポルトガル語 "tempêro (意:seasoning、調味料。taste)" であるとしている。

・ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera) または tempero (調理あるいは調味料の意)であるとする説。

・ポルトガル語の temporras (金曜日の祭り)であるとする説。

・ポルトガル語の templo (寺の精進料理)であるとする説。

・ポルトガル語の temporal (一時的な・臨時の)から来たとする説。

・スペイン語・イタリア語の témporas (天上の日、斎日(en:Ember Days)の意)であるとする説。

・乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具テンペラに由来するという説。

 乳化剤として鶏卵を用いる卵テンペラ、蜜蝋やカルナウバ鑞を鹸化した鑞テンペラ、カゼインを使うカゼインテンペラなどがある。

・テンピユラリ(天火揺らり)を語源とするとの説。

・油を「天麩羅」(あぶら)と書いていたものが後に音読されるようになったとする説。


●また、漢字の「天麩羅」の由来についても諸説ある。

・「天麩羅阿希あぶらあげ」といわれていたものの、漢字の阿希あげを省いた「天麩羅」から「てんぷら」となったという説。

・揚げ油の上辺(天)にゆらゆらする小麦粉(麩)さらに羅の印象を寄せ集めた当て字であるとする説。

・江戸時代の戯作者 山東京伝の弟、京山が書いた「蜘蛛の糸巻」(1846年)の中に記された、山東京伝による「天竺浪人がふらりと江戸に出てきて始めた」ことを由来とする創出という説を唱えているが、それ以前から「てんぷら」の名があったことは明らかなので俗説として退けられている。



▼揚げ物料理と天ぷらの起源・語源の混同:

 「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは、江戸時代前期の1669年(寛文9年)刊『食道記』である。

ただし、「素材に衣をつけて油で揚げる」という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られる。


 江戸末期の関西では、「はんぺんを油で揚げたもの」を天ぷらと呼んだ、あるいは中国由来の料理が琉球に伝わり薩摩を経由し全国に広がったとされる「薩摩揚げ(揚げかまぼこ)」を天ぷらと呼んだ、などと諸説あるが、現在でも関西の一部では練り物を天ぷらと呼ぶことから、もともとは「練り物を油で挙げたもの」を指していたと思われる。

一方、江戸では同時期に衣揚げという言葉が出ている。


 こうした経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素揚げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域が広く、江戸時代の料理書では、これらの両方を「てんぷら」と称していた。



▼天ぷら色々:

 京都・関西では魚のすり身を素揚げにした「さつまあげ」が登場したが、これに対し「天ぷら」は小麦粉で衣を付けた料理を指す。

特に江戸では江戸前の魚を使ったものを「天ぷら」と呼び、それ以外の野菜を揚げた料理は「あげもの」「胡麻あげ」と呼ばれて区別された。

なぜなら江戸時代から明治の頃までは、野菜の天ぷらは"天ぷら"とは呼ばれず、精進揚げとして別モノ扱いでした。

天ぷらといえば、それは江戸前の魚介ネタを指し、野菜は"格下"だった。

しかし、時代を下るとこれらの境界は曖昧になり、現代では具材の種類を問わず全て「天ぷら」で総称される。


 また、野菜も魚介類も使うかき揚げも天ぷらの一種ですが、これは調理方法が若干異なります。

天ぷらが素材を食べやすい大きさに切ってから衣を付けて揚げるのに対し、かき揚げは素材を細かく切り、素材全体に衣を付けてまとめてから揚げるのが特徴です。

なお、かき揚げの語源は、野菜や魚介類などの材料を細かく刻み、衣の中でかき混ぜて揚げることから『かき揚げ』と呼ばれるようになったと言われています。


 なお『鸚鵡籠中記』に1693年(元禄6年)1月29日の項に酒肴として「てんぷら」についての記述があるが、どのような料理かは不明である。


 そう言えば、伝説では捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られた(釜茹で)石川五右衛門は素揚げなのだろうか? それとも衣が着いていたからやはり天ぷらなのだろうか?


 俗説として、徳川家康が鯛の天ぷらにあたって亡くなったとするものがあるが、これはてんぷらではなく鯛の揚げ物のことで、しかもちょっと気分が悪くなった程度で直接の死因ではないと言う。


 ちなみに将軍の食事にてんぷらを出すことは禁じられていた。

てんぷらだけがダメなのではなく列挙すると獣肉全般は勿論、ネギ・ニラ・大蒜・莢豌豆・鰯・鮪・秋刀魚・牡蠣・アサリ・赤貝・油揚げ・納豆そして天ぷらなどなどが禁止であった(将軍によって違いはある)。



▼天ぷらはどこから始まった? : "南蛮料理"から日本を代表する和食へ 天ぷらのルーツ

 今や和食には欠かせない存在となっている天ぷら。

年々増えている外国人観光客からも「食べたい和食」「おいしかった和食」の一つとして常に名前があがる人気の料理です。


 日本を代表する料理といわれる天ぷらですが「てんぷら」という語感や「小麦粉の衣をつけて油で揚げる」という調理法は伝統的な和食とは少し違うようです。

では、その起源はどこにあるのでしょうか?


 天ぷらはポルトガル人によって日本にもたらされたことは前述しましたが、天ぷらのルーツはポルトガルではなくペルシア(現在のイラン)にあるとされています。


 6世紀頃、ササン朝ペルシア帝国の王が『シクバージ』と呼ばれる料理を好んで食べていたそうです。この料理はもともと酢を大量に使った牛肉の煮込み料理でしたが、後に小麦粉をまぶした魚を使ったシクバージが作られるようになったと言われています。


 このシクバージは地中海を通ってヨーロッパに伝わり、スペインやポルトガルでは揚げた魚に酢をかけて食べる料理になりました。この料理がポルトガルから日本にもたらされ、後の天ぷらになったそうです。



▼天ぷらの歴史:

 日本における、油を使った料理の歴史は古くて新しい。

日本料理の基礎が室町時代以降に固まり、江戸時代後期にほぼ完成に至ったものである。


●古くは奈良時代(710年〜794年)、奈良の春日大社を始めとして寺社で胡麻油が唐菓子の製造に使われていたが、料理用に油が使われるのはごく一部で、水を使った煮る料理が一般的だった。


●油料理が全国に広まったのは鎌倉時代(1185年〜1333年)の「精進料理」の誕生・室町時代(1336年〜1573年)の「本膳料理」の誕生で、動物性食品を避けるため、油や大豆を使った料理法が発展。

寺院の点心からうどんや饅頭、羊羹などが民間に広まったのも鎌倉時代。


●室町時代(1336年〜1573年)に入り食用油の流通網が確立し、普及していく。

そして日本に西洋式の揚げ物としての天ぷらの調理法が最初に伝わったのも室町時代、鉄砲の伝来とともに"南蛮料理"としてポルトガルから伝わったとされ、ポルトガル語の「テンポーラ(temporas)」/四季に行う斎日」が語源という説があります。

カトリックでは、四季に行う斎日テンポーラで祈祷と断食を行い、その間は肉食を禁じ、代わりに野菜や魚に小麦粉で衣をつけて揚げた料理を食べていたそうです。


 ただ、この時代の天ぷらは小麦粉に砂糖や塩、酒を加えてラードで揚げたとあるので、現在のフリッターに近いものだろう。


 ただその頃の日本はと言うと油が貴重品だったので、庶民には調理に大量の油を使う「天ぷら」なんてめったに作ることができませんでした……と言うか、そもそも庶民は揚げる調理法など知らず、故に揚げる技術も無いでしょう。

考えるに精進料理や本膳料理で腕を磨いた僧侶や、貴族・武士などに仕える料理人の一部のみが身に付けられた技法だったのでは?

それまで公家や武家などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡ったのは、ずっと先の江戸時代。


 なお、「日本料理」には一部料理屋で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は家庭食も含む日本食文化全体を表す言葉として、よりふさわしいとする意見もあるが、ならば日本料理は米を中心として獣肉と油脂の使極めて少ないという特徴がある一方、和食とは米と魚の文化であり、その原型に神へのおもてなしがあるとされるなら、厳密に料理人が考案した伝統的な日本料理とすると、すき焼き、てんぷら、寿司等は庶民の間に生まれたため和食に含まれず、カレーやラーメンは日本独特に発展しており広くみると和食となるのであろうか?

肉や油脂に代わる味付けとしてだしが発達した一方、欧州などよりもはるかに産地に近いと言うのに香辛料はあまり使われず



 ただ京料理の料理人から見れば、和食の要にあるのはダシのうまみであり、魚を焼くという技術を高度化し、食器も日本風に調製し、鎌倉・室町時代には天ぷらような伝来した技術も取り入れ、これらはご飯を中心にして和食として形作られ、取り肴・造り・御椀・焼き物・揚げ物・焚合わせ・香の物といった献立を成立させ、日によってこうした中から組み合わせその日の献立を作るものらしい。


●戦国時代(1495年〜1573年))から南蛮文化が入って揚げ物料理や焼き菓子などの製法が伝わり、動物性食品を使っての油料理が登場する。


 一方、日本の天ぷらの起源とされる「長崎天ぷら」は、それより少し後の安土・桃山時代(1573年〜1598年)に再びポルトガル人が長崎に伝えたといわれています。

このときの衣も水を使わずに小麦粉・卵・酒・砂糖・塩を混ぜたもの。

厚いフリッター状の衣にはしっかりと味が付いており、食材と衣の両方を味わうものでした。

ただ、その頃もやはり日本では油は大変貴重なものでした。

そのため、油を大量に使う天ぷらは高級品であり、庶民の口に入ることは滅多にありませんでしたので、広まる事もありませんでした。


●文献に初めて「てんぷら」が登場するのも江戸時代(1603年〜1868年)。

江戸時代初期になると、油の生産量が増え、天ぷらは江戸の"庶民の味"として徐々に広まっていきました。

1669年の「料理食道記」に「てんぷら」の名称が記されたのが最初ですが、現在の天ぷらと思われる料理法が最初に文献に登場するのは1748年に刊行された「歌仙の組糸」です。

ここには「てんふら」の作り方として、「てんふらは、何魚にでも饂飩うどんの粉まぶして、油にて揚る也」とある。

但前にある「きくの葉てんふら、又牛蒡ごぼう、蓮根、長いも其他何にでもてんふらにせん」には、饂飩の粉を水醤油とき塗付て揚る也」という記述があります。


 江戸時代のてんぷらは小麦粉を水で溶かして衣とし、具材としては江戸末期の百科事典「守貞謾稿」(嘉永六年(1853年))によれば江戸前のあなご、芝海老、こはだ、貝の柱、するめであったという。

この頃には現在とほぼ同じ天ぷらが食べられていたようです。

江戸に広まった「江戸天ぷら」は、薄い衣で味も風味を残す程度にして、天つゆをつけて食べるスタイルでした。


 その当時に発達したのが、日本のファストフードのルーツでもある屋台。

寿司、うなぎ、そばなどの屋台とならんで人気のあった天ぷらの立ち食い屋台では串刺しにされて提供され、おやつ感覚で(ファストフード気分で)気軽に食べられていたそうです。

やがて同じく江戸を代表する料理である蕎麦でもてんぷらそばが登場、同じく「守貞謾稿」に江戸の蕎麦屋の代表的メニューとして「てんぷらそば」がある。


 現代のように衣を薄くカリッと揚げるのは技術力がいるので、当時は衣が厚く時間をかけてじっくりと火が通されたようだ。

それゆえてんぷらを美味しく食べるため編み出されたのが天つゆと大根おろしの組み合わせであった。

これは「余分な油のくどさを解消するにはたいへんよいアイデアであった」という。

また屋台で手軽に販売されるものだったから、手が汚れず持ち運べるように串が通されたのだ。


 屋台で庶民向けに登場したてんぷらは調理法も洗練されていき、文化期(1804~1818年)頃から幕末にかけて料理店やお座敷でも出されるようになって高級料理化し、日本料理の代表格として広まっていった。

だが菜種油の価格はそう安価ではなく文化年間の価格で見ると米が1升100文だったのに対して菜種油は400文と高かった。


 また、豆腐を油で揚げて作る油揚げは、長崎で南蛮料理としてポルトガル人により伝えられた天ぷらの種のひとつとして考えられたと言われています。

そう、今でこそ油揚げは独立した食材ですが、誕生した頃は天ぷらの種類のひとつだったわけです。

なお当時は豆腐揚げと呼ばれ、稲荷寿司に関する最古の史料も江戸時代末期に書かています。


 俗に「キツネの好物」とされるので、故に稲荷神には油揚げを供えるとされた由来には諸説あるが、昔話などでは元々キツネの好物は「ネズミの油揚げ」とされており、殺生を禁じた仏教の影響もあってかわりに豆腐の油揚げを供えたのだと言うそうな。


 こうして庶民の味として屋台料理で広がった天ぷらですが、江戸時代後期(安政期1854~1859年)から明治時代にかけては屋台ではなく、店構えの「天ぷら」屋が登場し、料亭でも「天ぷら」が出されるようになるのです。

天ぷら料理の専門店や料亭が登場し高級料理としての地位も確立します。


 それとともに、揚げる素材や油の種類、衣にこだわった『金ぷら』や『銀ぷら』、その他『珍ぷら』などが出現。

出前スタイルで材料や道具を持ち込み、客の目の前で天ぷらを揚げる職人(福井扇夫)が話題になるなど、いわゆるお座敷天ぷらが生まれたのも幕末のこの頃とされています。

なおお座敷天ぷらにおいて、衣に卵黄を多く使ったものを「金ぷら」、卵白を使ったものを「銀ぷら」と呼ぶそうだが、しかし実はこの「金ぷら」がどのようなものであったのかについては諸説・異説あって定かではない。

例えば、衣に蕎麦粉を使ったものを「金ぷら」と称していたとする説、揚げ油に椿油あるいは萱油を使ったものを「金ぷら」と称していたとする説、また、小麦粉を使わずにそば粉で衣を作って金色に似せたという説もある。

さらには、金ぷらはかや油を使ったものだ、という説までもあり、卵白を泡立てた泡雪揚げを銀ぷらとも言うそうだ。


●また、江戸の料理だった天ぷらが日本全国で食べられるようになったのは、大正12年(1923年)に起こった関東大震災がきっかけといわれています。

震災で職を失った職人たちが日本各地に移り住み、東西の職人たちが交流することで、東京でも関西風の天ぷら(薩摩揚げ)が食べられるようになり、江戸天ぷらも全国に広まりました。


●こうして、全国に浸透していった天ぷらですが、昭和初期には油が高価だったことから、お祝いごとや祭りごと、お正月などに食べるハレの日の特別な料理だった。

高級天ぷら専門店の「ハゲ天」や銀座「天一」が誕生したのもこの頃です。


●その後、太平洋戦争の戦時下では、食糧不足のため貴重な油脂を使った料理を楽しむことが困難となり、天ぷらは「贅沢なごちそう」となっていきました。


●そして戦後になると雑誌やテレビなどの普及によって、多彩な料理情報が消費者に届くようになり、旬の野菜や魚介類などを使ったおいしい天ぷらの情報に注目が集まるようになり、経済が回復するのに伴い日本の食生活も徐々に豊かになっていきますが、未だ天ぷらはごちそうのままだった。


 ちょうどその時期の事、世界で初めてインスタントラーメンの開発に成功し「チキンラーメン」を商品化させた時のエピソードなのだが、何度目かの『脱税疑惑』や、これまた何度めかの『全財産を失った』経験を繰り返す安藤百福(本名:呉百福)は、昭和32年その当時理事長を務めていた在日台湾人専用の信用組合大阪華銀の破綻(世の中には計画倒産なる言葉がある)に巻き込まれて、それまで築いた全財産をまたもや失った(はずだった)。

だが小屋に閉じ籠もり研究を続けるある日、世帯主であるはずの主人は働きもせず碌な収入源もなく家に残された僅かな貯蓄を切り崩し雀の涙な貯えに頼って生活していたはずだがのんきな夫人はいつものように天ぷらを揚げ、それを見ていた百福が即席麺の手がかりを得たというのだ……この時期特に極貧を極めていたはずなのだが、なぜ天ぷらなど揚げられたのだろうか?

しかも記録によれば、この頃つまり昭和33年47歳の頃には、巨額の資金を背任・横領した事が立証され百福は逮捕、夏の有罪確定までは拘置所暮らしで、その後悪名高き巣鴨プリズンに収監されていたのだが……ブタ箱の事を小屋と呼んだのか? ゴーンも真っ青? (ではなぜ出所して間も無くチキンラーメンを発売できたかというと、それまで委託販売しいた大和通商の鶏糸麺をチキンラーメンに改名してそのまま売ったからです。当初のチキンラーメンの正体が、他社の製品を改名しただけのものであったことは、昭和44年の安藤百福推薦「即席麺と特許」に掲載されている百福公認の話らしいです。) - 閑話休題 -


●さらに時は過ぎ、高度経済成長期になると食用油脂の生産量増加に伴い、日本人の油や脂肪摂取量が急速に増加。

油で揚げる料理は家庭でも手軽となり、栄養も豊富な天ぷらは広く食卓に登場するようになりました。

それと同時に、スーパーマーケットの惣菜売り場でも天ぷらを中心とした揚げ物が人気となり、惣菜市場も成長していきます。


 1989年以降、オートフライヤーなどの高機能厨房機器と天ぷら粉をセットで導入することで、専門の職人がいない外食店でも簡単においしい天ぷらを提供することが可能となり、様々な天ぷらや天丼チェーン店が全国に拡大を続けています。


 仕事を持つ主婦や、一人暮らしの男性など「時間をかけずにおいしいものを、手軽に食べたい」という層が増えるなか、中食・外食需要は今後ますます拡大することが予想されます。

様々な変遷を経て、世界に誇れる日本の国民食として成長を遂げた天ぷら。

その魅力が広く認知されていった背景には、「昭和天ぷら粉」・「コツのいらない天ぷら粉」などの貢献が大きかったのかもしれません。

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