現実:食-揚げ物 「食用油(揚げ油)」 ~日本の食用油の歴史~
☆日本の食用油の歴史:
▼油脂の歴史:“火”の歴史
人類にとって “あかり”の歴史は、すなわち“火”の歴史でもあったが、それはまた「油脂」の歴史でもある 。
火を作り出すことを覚えた人類は長時間にわたって火を絶やさない方法を考え、囲炉裏を生み出し木を燃やした。
竪穴式住居の縄文人は部屋の真ん中に囲炉裏を作り、この囲炉裏ば炊事と暖房とそして灯火の役割を果たした 。
その後、徐々に火をそれぞれの用途に応じて使 い分けるようになって行くが未分化状況は意外に長く残り、江戸時代でも地方の農家や漁村では囲炉裏の火が唯一の灯火であったと言う。
最初は松脂(松ヤニ)を多く含んだ松の根や幹をそのまま燃やして灯かりとして使ったという。
灯かりを絶やさないために松の根や幹を細かく割り、石や鉄で作った灯台に次々と差し加える形が一般的となった。
その後長い間、松明が灯火として重要な役割を果たしていたと見られる。
こうして動物や植物の油脂を燃して灯りとすることが行われたのであろう 。
▼動物性油脂:
人類が使い始めた最初の油は動物性油脂と考えられ日本の場合も油は動物起源のようで、日本でも同様に最初に使われ始めたのは分離が簡単な魚や獣からの動物性油脂であると考えられる。
海からとった魚を火で焼いた時、その脂がよく燃えるのを見て人々はこれを灯りに使うようになったのであろう。
海の幸に恵まれたわが国では、この魚の脂を灯りに使用することは案外早くから行われたと思われるのだ。
▼植物油に関しての概略:
●縄文時代晩期
熱帯地方アフリカ原産のゴマが日本にまで伝わる。(古代から既に遠距離貿易はあった)
●3-4世紀ごろ
日本書紀にハシバミから油を抽出したとの記述があり、植物油の利用は始まっていた。
●奈良時代
ゴマの搾油技術が伝来しており、大化の改新(645年)の頃には荏胡麻油が税として徴収されていた。
●平安時代
搾油機が発明され、より大量の植物油が供給されるようになった。
それ以前は木の実からしぼりとった木実油が使われたと推定されるが、8世紀以降はもっぱら草種子油(油火)が用いられるようになったという 。
●鎌倉時代
様々な油屋があったがそれぞれ独占権を与えられていた。
なぜなら当時は植物油は貴重であり灯油が主な用途であったからだ。
これはごま油を例にとるとゴマ40-45株から約300グラムのゴマが収穫でき、それから約150グラムのごま油が得られるのみであり、当時は食用に利用出来るのは富裕層に限られていた。
なお、庶民においては植物油は食用はもちろん燈火用にも高価であり、魚油や鯨油などが一般的に使われていたのは、ろうそくは植物油よりさらに高価なものであったからだ。
●江戸時代
菜種油や綿の生産増に伴う綿実油の生産が増加し始め、庶民による植物油の利用が広まっていった。
18世紀初期には江戸では一人あたり平均年間約7.2リットルの消費まで増加し、大坂の江戸積油問屋から不足分の供給を仰いでいた。
燈火用と食用の比率は分からないが、庶民層においては消費量自体が小さく燈火用が主であったと考えられる。
●明治時代
燈火用にはケロシンが植物油にとって代わるが食の洋風化と共に食用の消費が増え、大正には大規模な製油工場も稼働を始めた。昭和になるとさらに食の洋風化が加速し植物油の消費も増えていった。
▼食用油の変遷:大山崎油座アフター
日本では奈良時代には揚げ物の調理法が知られていたが、食用油の商取引の専有・流通コスト高・生産量が少ないなどで高価であったため広く普及することはなかった。
この時期ゴマ油も造られていたが中世においては次第に生産されなくなり、ゴマが再び日本に普及するのは日明貿易で再輸入されるようになって以降である。
よって日本における食用油と言えばシソ(青紫蘇)と同種の変種でよく似ている荏胡麻が最初だったとされ、搾湘が始まる前に既に食用として古代から利用されていた。(ちなみに、中世から鎌倉時代ごろまで搾油用に広く栽培された為、荏原など地名に「荏」が付く場所の多くは荏胡麻の栽培地であったことに由来する。)
これは中世末期から不乾性油の菜種油が普及し始める安土桃山時代までは、日本で植物油と言えばエゴマ油であり灯火までにもこれが主に用いられていたため、これを安定的に確保・供給するために石清水八幡宮の末社である山城大山崎離宮八幡宮に属した油座-大山崎油座というエゴマから生成した油(荏胡麻油は主として照明用の灯油として用いられ、灯油の最大の需用は寺社の灯明用だった)を独占的に販売する商人組合(八幡に勤仕して灯油を扱っていた為、座の構成員は主に離宮八幡宮の神人であった)が作られ、エゴマ (荏胡麻) 仕入れ権,油の製造,販売権を握り、鎌倉-室町時代を通じて独占的特権油商人として畿内・東国・四国・九州にわたって経済界に活躍した(大山崎油座のその販売対象地域は畿内を中心に広範囲に及び、主として瀬戸内海沿岸の地方からエゴマを船で大量に仕入れ,大山崎の地で加工してから各地にこれを販売した為、筑前国博多筥崎宮の油座や大和国符坂油座などをしのぐ、中世日本最大規模の油座だった)。
だが、やがてそれは時流にそぐわなくなった特権として存在し続けた為、食用油の普及が遅れた。
(荏胡麻から油を絞るという作業自体は特に難しい技術を必要とする産業ではなかったため、新規参入者が絶えることはなく、大山崎は幕府権力への癒着を深めることでこれらの商人を排除する方策を採った。)
本来この八幡に勤仕して灯油を扱っていたために、関税その他の免税という保護のもとに油商人の座が形成されたのだが、大山崎油座は応仁の乱による山崎の荒廃・油売りが四散するなどの打撃を受け、さらに安土桃山時代に織田信長による楽市・楽座政策の断行(洛中油座の破棄を命じた)によって打撃を受け(中世に発達した座は、そもそも排他的・独占的に商いを行う組織である)繁栄の終焉を迎え、豊臣秀吉が京都大仏建立の折、灯明油を献上させるために大山崎油座の特権を認め洛中油座の復活も認めていたがそれも一時的なもので、やがて徳川家康の江戸時代に菜種油・綿実油の出現・普及にいたり製油業の中心は大坂に移り崩壊をむかえました。
なお、戦国大名の中で美濃の斎藤道三は大山崎の油商人の出身から下剋上でのし上がったという広く知られている伝承があったが、現在ではこれを否定する見解が有力である。
かつて荏胡麻油で市場を席捲した大山崎油座の崩壊と連動するかのように近世に入ると菜種油が主流となり荏胡麻油の利用は衰退していき、次第に荏胡麻からの搾油も次第に行われなくなって、乾性油としての特質が不可欠な用途にのみ限られていき、知名度は低くなっていった。
また菜種油は蝋燭よりもはるかに安かったが、庶民にはやはり高価で行灯には一般的には魚油を用いた(化け猫が行灯の油を舐めるのはこのため)。
灯火油の歴史は松脂を多量に含んだ松の根を燃やすことから始まり魚油・榛油・椿油・胡麻油・荏胡麻油と変化してくるが、魚油は菜種油の半値だった ... 提灯が普及する前の時代の話である。
ただし正確には、これらの油は時代とともに変遷すると言ったことではなく同時期に重なって使われている。
トレンドがあるだけなのだ。
▼揚げ油:ごま油と菜種油、そして椿油
江戸時代初期に、植物油の主流が高価な胡麻油から量産の可能な菜種油に変わったことや、調理方法である天ぷらの普及、そして天ぷらに合った調味料の醤油の開発と流通に伴い、広く庶民にも食されるようになったが、揚げ油としての特性にも違いがある。
菜種油が精製されるようになってからは、ごま油と菜種油が天ぷらに使われるようになった。
だが、天ぷらが庶民の味となった背景には、先述した油商人組合の衰退があるが、関東と関西ではそもそも使用する油が違う。
関東では卵入りの衣をごま油で揚げることで、キツネ色に揚がる。
一方関西では卵は使わず、衣をつけて菜種油で揚げるので仕上がりは白い。
これはどうも関西で広まった天ぷらは野菜中心だった為に、自然の味を損ねないように菜種油で揚げて塩をつけて食べていたようだが、それが関東……というより江戸に伝わり、江戸日本橋の魚河岸で水揚げされた魚介を食べる為に、ごま油で揚げるようになったそうだ。
なぜなら、ごま油は魚の臭みが抑えられるためで、そこで天つゆに浸し大根おろしをかけて食べるのだ。
なお、天ぷら料理は江戸時代に搾油技術が向上し油が安価になったことで誕生し、主に屋台の味として親しまれていましたが、文化文政の頃になると一流料亭でも天ぷらを出すようになり、そこで、人気を呼んだのが「金ぷら」と「銀ぷら」である。
これは衣に黄身を使うか、卵白を使うかの違いがあるのですが、何とも洒落の効いた名前です。
なお、神戸は有馬温泉には「金泉」と「銀泉」なるものがあります。
また、髪油(鬢付け油)、スキンケア、保湿に用いられたり、日本刀の磨き油のほか、木刀や碁盤、将棋盤、将棋駒、木彫り、櫛など木製品の磨き・ツヤ出しに使用されていた椿油も食用としても、昔から使われて来ました。
古くは鎌倉時代に確立された精進料理には揚げ油として使われており、江戸時代には一部の高級店で天ぷら油として使われ、将軍徳川家康は椿油で天ぷらを揚げて食していたと言われる程江戸の時代から、椿油で揚げた天ぷらはその希少性と黄金色の見た目から「金ぷら」と呼ばれ、高級な料理として人々に愛されてきたのでした。
味わいはクセが少なく、 上品でまろやか。油にクセがないので、素材本来の旨みを逃さず、味を引き立てます。




