現実:地形-加古川系の河川争奪 -分水界は略奪あい- 「篠山川」と「武庫川」『篠山盆地』【波多野氏】
律令制に基づいておかれた令制国の境はその多くが分水界となっている。
通常川筋や尾根筋をそのまま国境くにざかいとすることが多いから当然といえば当然ではあるが、
尾根を境に気候や植生が変わり文化が変わるのだから、合理的な分割法ということもできる。
例えば中世において伊賀国が、隣の近江・大和両国と国境紛争を起こした際には分を境目とする裁断が下されている。
山岳部では稜線とほぼ一致するが、下流の平野部(特に大平野)では分水界が不鮮明である。
これは増水する度に河川が流路を変更するためである。
このことは古代から近世にかけて、為政者にとって最大の悩みであった。
そのため古代の入植は、新田や耕作地の開発のし易さから山際近くで開始されている。
そして近世になるにつれて、低地や川際へと開発が進んだ。
近代以降は土木技術の進歩で河川整備が進み、河川の流路が変わらなくなっている。
なお、分水界が国境というのは日本国内に限ったことではない。
ヨーロッパにおいても尾根が国境とされることが多いため、アルプス周辺では分水界と国境がほとんど一致している。
★丹波国と加古川水系:
丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地の
それぞれ母川の違う大たきな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。
丹波高地はさまざまな方向の構造線によって分断され、
篠山・須知・福知山・亀岡などの構造(断層)盆地が形成されている。
また、水系の源流部には地盤運動の結果である河川の争奪が見られるところがあり、
篠山盆地西縁部や須知盆地北東部では谷の中に分水界が多数形成された。
篠山盆地内部にもまた「篠山川」と「武庫川」を結ぶ「田松川」に分水界が存在します。
▼「明智光秀」と「波多野氏」【八上城】:
篠山盆地のほぼ中央南部寄りの高城山(460m)および西隣の法光寺山(340m)の
山陰街道が東西に通過する位置に、丹波国の国人である波多野氏が本拠とした八上城があった。
天正3年(1575年)に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、
毛利氏や赤井氏の支援があったものの兵糧攻めにより天正7年(1579年)に落城。
波多野氏は滅亡した。
この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔になった城としても知られるが、
史実ではないことが明らかとなっている。
この母親が磔になったとされる逸話は『総見記』や『柏崎物語』に記載されているが、
光秀の調略による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したものである。
八上城の落城は確実であったわけであるから、
光秀としても、あえて母親を人質とする必要に迫られることはなかったのである。
事実とはほど遠い創作で信じるに足りない、波多野氏が滅亡した後、明智光忠が城代として入城している。
慶長7年(1602年)、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上五万石を領して入城するも、
慶長13年(1608年)に茂勝が改易される。
慶長14年(1609年)徳川家康松が平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。
こうして入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となる。
これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築く篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、
大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。
だが廃城になるまで数多くの籠城戦が繰り返されていた。
山全体が要塞化しており、東西に長く北西はもっとも険しく南は細い尾根が続いており、
攻めにくく守りやすい地形を利用して高い防御力を発揮する戦国時代の典型的山城である八上城と、
政治・経済の拠点になる近世城郭で典型的な平城である篠山城(ともに国の史跡)とが、
ともに丹波篠山市内の近い場所にあるという点も特筆される。
▼篠山盆地:兵庫県丹波篠山市の盆地。
中国山地最東端の丹波高地内にあり、兵庫県東部に東西に細長く広がる構造盆地で、
四方を
・西方の「白髪岳」・「松尾山」、
・南西の「虚空蔵山」
・南方は三田市の「三国ヶ岳」、
・南東の「弥十郎ヶ岳」
・北方の「多紀連山」、
などの連山に囲まれた西流する加古川の支流篠山川流域の山間盆地。
東西 16 km 、南北6km。
標高はもっとも低い所で200m、つまり盆地床の標高200~260m。
秋から冬にかけては盆地特有の濃い霧が発生する日が多く、
低い山からでも眺められる雲海は「丹波霧」とも呼ばれ名物にもなっていて、
「盃ヶ岳」などが雲海の名所であり、特にその中腹からは日の出と「八上城」が見える。
篠山盆地は篠山市の中心部を占め、旧丹波国として古くから山陰・山陽を結ぶ交通の要衝で、
古来京都への交通の要として栄えてきた歴史があり、
町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残しているのだが、その開発は縄文時代に始まる。
篠山盆地は中生代の湖水堆積物が隆起し、それが削り残された所であるが、
その南部は加古川支流の篠山川流域となっており、
川の働きにより流入した多くの礫や砂・土が堆積した「沖積地」および
川の働きにより逆に削り取られた「段丘」から構成されている。
故に盆地内には多くの孤立丘が散在し山地深く切れこむ谷もある。
これらは丹波高地の盆地に共通してみられる特徴で、
それらの盆地は標高400m程度の低い峠でつながっている。
なお、篠山盆地の成因については断層によるものと軟弱地層の浸食によるものとの2説がある。
●「白髪岳」・「松尾山」:
白髪岳は標高721.8 mの山で、加古川水系と武庫川水系の分水嶺。
関西百名山の一つで、南側から望めば、綺麗な両肩をいからせたような山容が特徴で、
丹波富士とも称され秀麗な山容が特徴的である。
東隣に位置する松尾山(高仙寺山)688.0 mとは続き尾根となっており、
双方の登山が周回ルートにもなる。
松尾山は山頂に「高仙寺城」(酒井城)跡や「松尾城」本丸跡などの史跡があるが、
高仙寺城は、波多野氏に属する矢代酒井党の惣領主水介氏治が築いたとされる。
氏治は元々後の田松川沿いになる「南矢代城」を本拠にしていたが、
明智光秀の丹波攻めが始まると、さらに酒井党が割拠する諸城の要城として、
南矢代城の後方・西方にそびえる標高もある峻険な松尾山上に新たな城・高仙寺城を築き、
酒井党の中心として活躍したのだ。
●「虚空蔵山(岩辻山)」:
兵庫県丹波篠山市・三田市にある標高596mの山である。
こちらは加古川水系と武庫川水系の分水嶺。
なお、登山道の途中にその名の由来である虚空蔵寺が現存している。
推古天皇時代、聖徳太子が夢のお告げによって三田市側の中腹に虚空蔵堂を建立したことから、
虚空蔵堂山と呼ばれるようになったのだ。
ここも天正7年(1579)明智光秀の「丹波攻め」の際、やはり兵火に焼かれ焼亡したが、
幸い御本尊虚空蔵菩薩像だけは難を逃れ、三村但馬守等などにより再び伽藍は復興したが、
豊臣時代には寺領を没収され衰退、明治時代の廃仏毀釈により僅かに仏閣を留めるだけとなっていたが、
今でも虚空蔵堂が残り歴史を感じる造りになっており聖徳太子ゆかりの寺を参拝できる。
●「三国ヶ岳」:「美濃坂峠」南方
三田と篠山の市境になっている標高648mの山。
「美濃坂峠」は三田市と篠山市とを繋ぐ重要な標高490mの峠で、
三国ヶ岳の稜線を西に落ち切った場所なので、美濃坂峠から三国山へ登山道で登山できる。
丹波地域の山々を包む朝霧、夕霧は「丹波霧」と呼ばれ、
この美濃坂峠から眺める丹波霧はとても美しく、この名にし負う「丹波霧」を全国に知らしめたのは、
夏目漱石が小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を発表したことでも知られる俳誌「ホトトギス」
その表紙画・挿絵を描いた日本画家の「小川芋銭」がこの場所で描いた「丹波の朝霧」
が公開された事によって、その名が全国的に知られるようになったという。
●「弥十郎ヶ岳」:
弥十郎ヶ嶽北峰から北西の尾根にある火ともし山は、
中世・戦国時代に勢力を誇った波々伯部一族の平内が拠った山城であり、平内丸とも呼ばれる。
西方には波多野氏の主城である八上城がある。
●「多紀連山」:
多紀連山は、 鎌倉時代から室町時代にかけ、丹波修験道場として隆盛を極めた山であり、
現在も多くの登山者、修験者が山行を行っている
京都府から丹波篠山市、丹波市にかけて高い岸壁状に連なる500m~700mの山々の総称であり、
篠山盆地の北方に連なる標高600~800mの連峰で多紀連山県立自然公園を形成する。
古生層の岩質は珪岩で、南方は緩やかで北方が急峻な地形であり、
水系としては日本海へ注ぐ由良川水系と瀬戸内海に注ぐ加古川水系とに分かれる中央分水嶺となっている。
なお多紀連山では、「鼓峠」が最も標高の低い分水嶺である。
●盃ヶ岳:北方
多紀連山の最前衛に位置する標高497mの山。
盃をひっくり返したような山容がその名の由来。地元では盃山で通称される。
篠山盆地を見下す位置にあり雲海の名所として知られ、
秋季から初冬にかけては篠山盆地にかかる朝霧(丹波霧)の形成する雲海を観察できる。
雲海は篠山盆地の山の多くで見られるが、盃ヶ岳からは特にその位置関係から朝日と八上城が見え絶景である。
また、畑氏の居城・波多野氏の狼煙山だった。盃ヶ岳城跡もある。
なお、盃ヶ岳から尾根を西に約1km程移動した別峰になる標高356mの峰に
盃ヶ岳から南西に派生した矢代城が築かれていた。
山上から南尾根先端までの城域の広い城跡で、酒井氏の重臣である国松氏の居城と伝わる。
▼「篠山川」と「武庫川」と「川代渓谷」:河川による、風化・侵食・堆積
●「篠山川」と「武庫川」:
篠山川は、兵庫県・京都府境の雨石山西麓に発し、小金ヶ嶽南麓を取り巻くように南下し、
篠山盆地に出てからは概ね西流、丹波篠山市街を潤してから篠山盆地西縁部の川代渓谷を抜け、
丹波市山南町井原付近で加古川(佐治川)に注ぐ。
なお「日本のへそ」としてアピールしている「西脇市」とは、河口付近の左岸で約1.4kmだけ接する。
「篠山盆地」は、現在その中央部を「加古川」の上流である「篠山川」が西流し盆地面は水田化しているが、
実は篠山盆地自体の基盤は南にいくほど低くなっている為、
古代篠山盆地の排水は、現在の篠山川を通じては行なわれず武庫川によって行なわれていたと考えられる。
つまり現在「篠山盆地」を流れ、西の「川代渓谷」を経由し加古川に注ぐ「篠山川」は、
過去の最終氷河期ヴュルム氷期までは篠山盆地より上流が武庫川水系として、
南の「武庫川」に向かって流れていたと考えられているのだ。
これは丹波層群の標高が南に傾斜している事から推察するに、
最終氷河期までの篠山川は盆地南方が勾配・傾斜の緩やかな事から排水が悪く、
武庫川への流れが当野付近の基盤岩(大陸地殻を構成する厚い基礎部分)で
上流からの堆積物により武庫川に堆積していき、
度々遮られる事で武庫川と篠山川の河川争奪が起こり、遂には武庫川への流れが堰き止められ、
その結果盆地西方を抜け、川代渓谷を経て加古川に合流するようになったのだと考えられているからだ。
この他、川代渓谷の標高が176mである事と、
篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることからも推測されている。
なお、この際の堆積土が丹波立杭焼の原料粘土のひとつ「弁天黒土」と呼ばれている。
●「川代渓谷」:篠山盆地西縁部
「篠山盆地西縁部」より流れ出た「篠山川」により築かれた渓谷で、
丹波竜発掘地に近くサクラの名所でもある。
一般に篠山川の浸食により盆地西方に川代渓谷が形成されたとあるが、
実は過去の川代渓谷は、篠山盆地側に堆積した礫層の石の並び方から判断して、
旧来の流れは現在とは逆方向方向、すなわち盆地に向かって川が流れていることが判明している。
当時は今の川代渓谷などは存在せず、旧来は盆地へと流れ込んでいた唯の小川だったものが、
武庫川への流れが堰き止められた為に篠山川が小川を逆流していき、
その小川が切れ込み口となり長い年月とともに山が削られていき、
遂には渓谷になったものと推定されている。
こうして川代渓谷の誕生とともに盆地内の排水は改善し、
それにより篠山川の流れは速くなり盆地を侵食していった。
つまりかつて篠山川の流れが遅かっため盆地に堆積されていた堆積土への侵食が始まったのだ。
なお武庫川の水が篠山川に奪われた結果、その分水界は盆地南部に移動する事となった。
▼篠山市の谷中分水界:
一般的に分水界は山の峰がその役割を果たし分水嶺となる事が多いが、
平地にある分水界を特に「谷中分水界」と呼ぶ。
篠山市は兵庫県の中央部に位置していることから、
・栗柄地区の「鼓峠 (つづみとうげ)」
・旧西紀町の「栗柄峠」
・篠山口駅前の「田松川」
と三ヶ所の分水嶺ならぬ分水界がある。
なかでも栗柄の地は、二つの分水界があることで知られ、
その一つが鼓峠の頂にある田圃であり、もう一つが栗柄不動の滝である。
●「鼓峠 (つづみとうげ)」:
・鼓峠の頂にある田圃:
田圃の水は、
東側へと流れ落ちる水は、下って「友渕川」を走り日本海へ
西側へと流れ落ちる水は、下って「宮田川」を走り瀬戸内海へと注いでいく。
田圃は真中あたりがくびれた鼓形で、両辺が川(皮)になっていることから
「鼓田」と呼ばれるようになり峠の名前となったものである。
田圃がそのまま分水界になっているという、全国的にも類のない珍しいところだ。
戦国時代末期の天正6年(1578年)、
大山の金山を攻め落とした明智光秀が、亀山に引き上げる途中にこの峠を通った。
そこに待ち受けていた草山城主細見将監・八百里城主畑牛之丞らが光秀軍を挟み撃ちにし、
散々に打ち破ったという古戦場である。
●「栗柄峠」:
篠山市北部にある多紀連山の栗柄は三方を山で囲まれた山間盆地。
さらに栗柄地区が平野部に分水界がある谷中分水界という非常に珍しい地形であるが、
上流にに「杉ヶ谷池」そして「栗柄ダム」がある。
日本海へ:北方からの杉ヶ谷川は杉ヶ谷池-栗柄ダムから発し、
宮田川に合流せずに、突如西へ折れ滝の尻川-竹田川-由良川を経て日本海へ注ぐ。
太平洋へ:鼓峠の分水界から分かれた宮田川は、
篠山川-加古川を経て瀬戸内海から太平洋へ注ぐ。
・「杉ヶ谷川」-「滝の尻川」:
篠山市の北部・丹波市境にある「杉ヶ谷池」を水源として「栗柄ダム」を経由し南西に流れ下る「杉ヶ谷川」は、
鼓峠から流下する「宮田川」と同じ谷内で150mほどしか離れていないのに集落の北の端を流れ、
宮田川に合流することなく栗柄峠の東側を過ぎた辺りで150mほどの山を穿ち急遽流路を西に替え、
倶利伽羅不動明王の観音堂・高王山観音堂の裏を流れて「倶利伽羅不動の滝」となる事で
「滝の尻川」となって春日町方面へ流下し「野瀬川」と合流し、
氷上郡に入り「竹田川」と名を変えて更に西流を続け、
丹波市中央部で北流に転じた竹田川は土師川に注ぎ、土師川は由良川に入って遠く日本海へと流れていく。
・「宮田川」:
鼓峠に発して栗柄集落内を流れる南の「宮田川」は、篠山川から加古川に合流して瀬戸内海に注ぎ込むが、
由良川水系「滝の尻川」は昔は「宮田川」に合流していたものと思われる。
そして宮田川と滝ノ尻川は最後は加古川、由良川となって瀬戸内海と日本海へ注ぐために、
ここは分水嶺にもなっている。
・「由良川」水系と「武庫川」水系の河川争奪:
元来の杉ヶ谷川とは、栗柄峠近くで流路を変えることなくそのまま南西流を続け宮田川となって篠山川と合流。
そしてさらに篠山川は武庫川となって瀬戸内海に注いでいたと考えられます。
この地形を「谷中分水界」といい、
水勢の弱い川(宮田川)の谷水を水勢の強い川(滝ノ尻川)が奪ったためにできたと考えられる。
栗柄峠はその滝(山を削ってきた地点)の横にあるため、
下流はクネクネ道の急坂、栗柄の集落側は平坦地という典型的な片峠になった。
これは宮田川-篠山川ともに加古川が武庫川から争奪した河川で、
約2万年前に起こった篠山湖(古篠山湖)の河床の上昇が要因だと思われます。
寄って、滝の尻川(竹田川)による杉ヶ谷川(宮田川)の争奪も、
加古川による宮田川・篠山川の争奪と同様に篠山湖の河床の上昇が要因と考えられていますから、
栗柄峠における河川争奪とはあるいは、
由良川水系と(宮田川を加古川に争奪される前の)武庫川水系の間で起こった事象である可能性も否定できないのです。
・「山岳仏教」:倶利迦羅不動明王と「竜の昇天伝説」
また、この場所は丹波大峰といわれる山岳仏教と強い結びつきがあり、
修行のための場として不動の滝がありました。
ここには、今も倶利迦羅不動明王が祀られています。
「栗柄」の地名は、この不動の『倶利迦羅』を語源としたと考えられます。
そして、この不動の滝には「竜の昇天伝説」が残されているのです。
-『むか-しむかしのことじゃった。
坂本の福徳貴寺に、たいへん立派なお坊さんが住んでおられた。
ある日のこと、栗柄の滝の宮に参りお経をあげておられると一人の少女がどこからともなく現れ、
「わたしは、このあたりに住んでいるものでございます。
今、お経の声を聞き、ここへ参りました。
どうか、ありがたい、ありがたいお経をお聞かせください」
と、頭を地につけてたのんだそうじゃ。
お坊さんは、はじめは不思議に思われたが、この少女はきっと何かの化け物にちがいないと気づかれ、
言うとおりに、
「それでは、いちばんありがたいお経を上げましょう」
と、読経をはじめられたのじゃった。
するとまもなく、思ったとおり少女の姿がばっと消え、とたんに一面まっくらやみになってしまったのじゃ。
しばらくして、滝のほうを見つめると、それはそれは、みごとな竜が、すうっと現れ、
「我が名は神龍……さあ願いを言え、どんな願いでもひとつだけ叶えてやろう……」
シーン…………………………………………………………………………………… ゴホン。
『わたしは、この滝に住む竜女である。今のお経の力で天に昇れる、ありがたや」
といって、三枚のうろこを残し、さっさと天に昇っていったということじゃ。』-
現在でも、丹波の盆地が霧の海に沈んだとき、いちばん先に霧が晴れるのは、この栗柄地区なのです。
●「田松川」と「武庫川」源流:
篠山川と武庫川を結ぶ田松川にも分水界が存在します。
古代に分水界が盆地南部に移動した為その分水界を境目に、
ここらの山から流れ落ちる水は、北へ流れる水は加古川水系加古川へ南へ流れる水は武庫川へと、
それぞれ別々の川となって注いでいたのですが、現在の分水界は川中分水界によって分かれ、
田松川第一水門と第二水門の間・川中の杭が目印でそこにあります。
そもそも篠山口駅前東方を流れる福知山線沿いの「田松川」とは、
海抜 195mとは言え平地を流れる河川であるが、
この川は明治8年(1875年)に水運で丹波と摂津の物資の運搬を可能にするために、
加古川水系と武庫川水系の両水系とを人工的に結ぶ為に南北に開削された人工物・運河である。
そのため篠山口駅東付近に両水系の分水界があるのです。
この計画と工事の指揮にあたった県の役人「田中光義」と「松島潜」の頭文字をとって、
「田松川」と名付けられたのであるが、会社は当初の意図に反し操業を始めると赤字経営より脱却できず、
わずか4年余りで廃業・解散に追い込まれ、この後はもっぱら灌漑用水として利用され今日にいたり、
こうして一本の川のなかに分水界が存在するという全国的に珍しい河川が生まれたのである。
なお、武庫川自身の起点はこの田松川と真南条川の合流地点になり、ここから海までが武庫川なのですが、
真南条川こそ事実上の武庫川の本流の最上流で、さらに上流では龍蔵寺川と名が変わる。
また、源流部では武庫川は小川ですが谷筋の田圃の間を流れながら周辺の山から流れ出る水を集めて次第に大きくなり、
山間を湾曲しながら三田盆地に入る。
広やかな三田盆地の田圃の間をゆっくり流れる間にも支流からの水を集め川幅を広げ、
三田盆地を抜けると急に山間部に入り武庫川渓谷となる。




