現実:歴史- 『キリシタン大名と日本人奴隷』からの『隠れキリシタンと浦上崩れ』
★浦上四番崩れの発端
1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、
居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。
主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は
信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。
そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。
その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性が
プティジャン神父に近づき、
「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。
神父は驚愕した。
これが世にいう「信徒発見」である。
彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。
神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。
以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が
続々と神父の元を訪れて指導を願った。
神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
しかし、2年後の1867年(慶応3年)、
浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。
この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。
信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、
逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。
その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、
7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、
高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。
捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、
抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。
捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた。
翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、
さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った。
なお、彼らの言う人道とはキリスト教の事であるようだが。
9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと
将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた。
★隠れキリシタンと日本人奴隷:
浦上は長崎の北に位置する農村であり、
キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。
そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地でもあった。
キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。
天文12年(1543年)にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、
日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。
16世紀から17世紀にかけての日本は、
大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、
東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。
この時代は日本は室町から安土桃山時代の乱世(戦国時代)にあたり、
漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、
大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。
日本へは中国産・インド産硝石、生糸、絹織物、ミイラなどが入り、
日本からの輸出品には硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人奴隷が含まれていた。
取引された奴隷の人数については諸説があるが、
日本人だけでも少なくとも数万人から10万人はその被害者となったのではないかと考えられる。
中でもユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダが、
日本に火薬と交換で日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであったと言う。
これがユダヤ人が嫌われる要因の一端である。
また、天正少年使節の遣欧団はヴァリアーノ(イエズス会宣教師、法螺吹きの一面があった)
の斡旋でポルトガル、スペイン、ローマを訪問したが、各地で彼らは日本人奴隷を目撃している。
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で奴隷は50万という。
肌白く見目良き日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
ああ、売り札の栗毛とは何処の毛の事を指すのか?
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明とは何故同じ人間を奴隷にいたすのか。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントまでも含めて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐが、
しかし、かの天正遣欧少年使節の書いた悲劇を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして語り継ごうとしないのか。
またキリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
……それは、それこそがキリスト教徒の本質であるからだ!
なお、欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、
欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた天正遣欧使節の一人、千々石ミゲルは後に棄教した。
▼キリシタン大名と日本人奴隷:イエズス会とポルトガル奴隷貿易
キリスト教の布教について説明すると、船による長距離の移動が可能になり、
ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になったのが大航海時代であるが、
商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。
その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。
1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、
パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。
彼らは清貧・貞潔・服従を誓約し、
イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。
その中には、後に日本でキリスト教布教の中心的な役割を果たした、
フランシスコ・ザビエルも含まれている。
イエズス会は、1540年にローマ教皇の認可を受けた。
以降、イエズス会の面々は、アジアや新大陸で熱心に布教活動を行った。
九州の薩摩・大隅地方ではこの時代の少し前から、
人々が盛んに海外に進出し私貿易を行うようになっていた為、
この地域では、外国商人が国外で捕虜とした人々を日本に連れ帰って、
来航した他の外国商人に奴隷として販売する事例も見られ、
戦国時代、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの船が日本を訪れた際に、
黒人が従者や奴隷として連れられていたことが、
アフリカの人々が日本を訪れた最初の事例であると考えられています。
同時に遣明船にも携わった西国の大名である山口の大内氏や、
貿易都市である堺を掌握し細川氏を継承する四国の三好氏らも、
捕虜とした日本の人々を外国商人に売却していたと考えられている。
また九州の南端に位置する薩摩地方の港や、西の京都と呼ばれた山口や、
遣明船貿易で繁栄した堺の町では、これまでの明人に加えて、
ポルトガル商人の活動も早くから確認できる。
これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、
15世紀半ばを境にして奴隷を海外から調達するようになった。
そのきっかけになったのが1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、
ムーア人を捕らえたことであった。
ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、
古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。
15世紀以降の大航海時代になると、
アフリカなどで黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、
ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、
東洋貿易を独占し中国人等を奴隷として買い込み、
アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていった。
1543年、ポルトガル人が初めて種子島に漂着した事で
日本人に初めて接触し鉄砲をもたらしたが、
1540年代の終わり頃から早くも日本で日本人を奴隷として安く買い付け、
ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売り飛ばすという
大規模な日本人奴隷貿易が始まった。
その結果、16世紀の後半にはポルトガル本国や
アメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、
1607年の南米ペルーのリマで行われた人口調査によれば、
当時の人口25454人のうち、
少なくとも日本人の奴隷として男9名と女11名がいたことが分かっています。
また日本人の女性奴隷は、
日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、
黒人水夫に対しても妾として売られていた、
とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が
1598年に書かれた文書で述べている。
日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、
そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、
一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられたのだ。
『フロイス日本史』によると、
島津氏の豊後侵攻により捕虜にされた領民の一部が肥後に売られ、
そこで更に海外に転売されたという。
当時、ポルトガル商人は争って日本人奴隷をアジアで買い漁っていたという事実がある。
ポルトガル人などの白人の間では、日本人の女奴隷は特に珍重されていたからである。
そのため中国人、日本人の女性だけを満載したガレオン船がマニラを拠点として、
そこからアカプルコ、ゴアを経由する定期航路を経てヨーロッパへと続々と売られていった。
一方、日本人の男子も当時の東南アジアやインドなどの植民地での傭兵としての需要があった。
ポルトガルの植民地政策によって、それらの拠点には城砦などの軍事施設があり、
相当数の兵士が常駐していたのである。
ポルトガルによって占領されたインドのゴアの要塞では、
度々襲ってくる原住民と戦う庸兵としても多くの日本人庸兵が使われていた、という。
ここでの傭兵は消耗品であり、いくらでも市場から供給できる状況にあったので、
ゴアでは白人より日本人が多く居住していた、という。
それも当時のゴアは火薬の原料となる硝石の一大産地であったから、
採掘労働者としても日本人の奴隷が少なからず従事させられていた可能性も
否定できないところである。
こうした日本人の奴隷は、ヨーロッパ市場より格段に安く買い取ることが出来たため、
(それこそ牛馬以下の安値で取引されていたので)
ポルトガル人はアジア地域の奴隷貿易で莫大な利益を上げることができたわけである。
特に日本人女性は奴隷商品として珍重されていたようだ。
火薬一樽で50人の日本人女性が取引されていたとされるが、
その火薬はキリシタン大名などの手に渡っていた。
その火薬をもとに、キリシタン大名や天草四郎などのキリシタンは、
最新鋭の武装を整える事を可能にしたと言う。
そう、このようにキリシタン大名は日本人奴隷を売った金で火薬の原料となる硝石を買い込んだが、
その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたというのだ。
現在の日本の教科書では、日本人キリシタンは一方的に迫害されたイメージが強いが、
その一方で、日本人キリシタン(大名)が関与していたかもしれない
日本人奴隷貿易の事は何も書かれていない。
少なくとも、日本人が奴隷として海外に売られていたのは間違いなく、
それは1543年、ポルトガル人が鉄砲を種子島に伝来したことによって戦場の様相が一変したからだ。
九州では、まず島津が戦闘に新兵器の鉄砲を使い始め、
それが瞬く間に各地の大名が鉄砲を積極的に装備するようになっていった。
鉄砲の国産化が進むまでは、ポルトガル人商人から高価な鉄砲も購入する必要があったし、
また鉄砲に必要である弾薬の主成分である硝石は国内では入手できず、
すべて海外から輸入しなくてはならないものであった。
当時軍需品の硝石はインドのポルトガル植民地ゴアで産出され南蛮船で運ばれてきていた。
そのため、軍事物資として欠かせない硝石や鉛の確保のため九州の諸大名は、
ポルトガル人の宣教師や商人との交渉が最大の戦略上の関心事となっていった。
もとより宣教師と商人の関係はきわめて密接であり、
相互に支援し合う特別な契約がなされていた。
これは例えば、用語「ミッション」に主に二通りの意味・使い方があり
キリスト教に関連した使い方が先にあって、
それがビジネスや軍事作戦などにも広く使われるようになった事からもわかります。
侵略の尖兵・水先案内人である。
こうした宣教師が仲介するという原則の下では、領内の布教に協力的でなければ
大名とてポルトガル商人との直接取引に参加できなかったが、
イエズス会の布教活動に理解を示す大名には軍事物資の支援を積極的に行ったし、
洗礼を受けた大名には鉄砲弾薬の売買そのものが担保されることとなった。
だが、布教の大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、
日本人奴隷の売買に関与していたということである。
また、当時はイエズス会の神父たちも奴隷を買い取り所有していたのも事実である。
キリスト教の教会がこのように奴隷取引を仲介することを怪訝に思われるであろうが、
これはローマ教皇が承認した当たり前の商取引であったからだ。
白人に、特にキリスト教徒に非ずんば人に非ず、っと。
当時の聖俗の支配権を持っていたローマ教皇アレキサンドル6世らが、
神学的に奴隷制度を正当化し容認したから戦略的にイエズス会もこれに追随したわけである。
このようにローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、
異教徒の全ての領土と富を奪い取って、その住民を終身奴隷にする権利を授与されており、
宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、
情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。
十字軍の再来である。
こうして異教徒の奴隷売買は当時のキリスト教圏や他の植民地でも広く容認されていたので、
日本にやって来たイエズス会も商人も九州各地を足掛かりに積極的にそうした商取引に参加していった。
この取引によって莫大な利益が得られ、教会の宣教事業を資金的に支えたわけである。
キリスト教徒からみれば異民族や異教徒は家畜同然であり、
キリスト教を信仰しない者はすべて駆逐されるべき邪悪な者たちであり、
奴隷として彼らの罪を労働で償うのは当たり前のことであったわけで、
そこに何ら罪悪感は存在しなかったのだ。
また戦国時代のそれまでの捕虜の扱いは、多くの場合なで斬り(皆殺し)が通例であっただけに、
バテレンがわざわざ買い取ってくれるのであれば、それこそ渡りに船であったろう。
このように奴隷を扱う商取引はキリシタン大名にも都合よく受け取られ、
彼らとの奴隷売買は次第に拡大していくこととなった。
九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、
奴隷貿易には当然関与した。
そのような状況の中で出されたのがポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。
これは1560年代以降、イエズス会の宣教師たちが、
ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、
宣教師への誤解を招くものと考え、
ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求め、
1571年には当時の王セバスティアン1世から
日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功したからだが、
それでも奴隷貿易は根絶に至らなかった。
……王様の命令は絶対だとか言った馬鹿は誰だ?
斯くして1586年(天正14年)3月16日に、イエズス会の副管区長のガスパール・コエリョが
大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得たのだが、
しかし豊臣秀吉は九州各地を転戦するうちに、
夥しい寺社が焼かれて破壊されている状況を実際に眼にするとともに、
九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は長崎がイエズス会領となっていることを知らされた。
これに驚いた秀吉は、天正15年(1587年)6月18日、
『天正十五年六月十八日付覚』を認め、
「キリシタンになるかどうかは自由である。バテレンに強制させられるものではない」
という旨の朱印状 11か条の「覚書」(『御朱印師職古格』)が出される。
だが更にポルトガル商人が自国の民である日本人を九州において
大規模に奴隷として海外に売っていた事を知ると大変不快に感じ、
その奴隷取引の実態も秀吉の耳には入ってきていた。
そこでこの翌日の6月19日(7月24日)、
前日の「覚書」を覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおし
ポルトガル側通商責任者ドミンゴス・モンテイロと
当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで、
長崎にて秀吉に謁見した際に人身売買と宣教師の関わりについて詰問し、
ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じ
宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書
「追放令」を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
また、インドにまで売られ流れ着いた日本人を連れ戻すようにも言い渡した。
秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、
結果としてキリスト教への強制改宗が禁止されることになったのだ。
コレにより同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていた
アレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難した。
このように布教責任者であるコエリョを召喚して叱責し、バテレン追放令を発布したのは、
コエリョがヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、
フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという行為を行ったからだ。
キリシタン大名の高山右近や小西行長がこの行為を懸念し、
コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めたのだが、これに全く応じなかったのだ。
なのでヴァリニャーノやオルガンティノによると、
バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に主な原因を求められるとしている。
こうして九州平定を終えた豊臣秀吉は、
即日、奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布したのだが、
この時、各地に駐留していた外国人の日本人妻や混血児たちの中にも海外に追放され、
今度は自身が奴隷となった者もいたとされる。
なお、1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)は
キリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。
日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、
秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。
『日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。
地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、
坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。
近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。
キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。』
他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、
15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、
異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、
戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。
慶長9年(1604年)に、秀吉に代わって天下人となった徳川家康によって、
南蛮貿易は朱印船制度を実施し、朱印状による制限がかかった(朱印船貿易)。
寛永14年(1637年)10月25日、
島原半島の天草を中心にして農民が一斉に蜂起し原城跡(長崎県南有馬町)に籠城した。
いわゆるこれが、日本史上最大の一揆とされる天草・島原の乱である。
天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地であったが、
後に寺沢広高が入部し、次代の堅高の時代まで
島原同様の圧政と熾烈なキリシタン弾圧が続いていた土地であった。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、
慶長19年(1614年)に有馬氏が転封され、その後は松倉重政が入部し
重政も同様に厳しいキリシタン弾圧政策を行い、
年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残忍な拷問・処刑を繰り返していた。
このような過酷な領民への圧制とキリシタン弾圧が反乱のきっかけであるが、
これに旧有馬氏の家臣や小西、加藤の遺臣ら
旧織田家・旧豊臣家の残党が中心になり組織化されて次第に一揆が拡大していったのだ。
寛永16年(1639年)さらに幕府は「鎖国令」により鎖国に踏み切ったことで、
外国人商人の活動を江戸幕府の監視下で厳密に制限することになり、
ポルトガル船の来航を一切禁止した。
なお、それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。
寛永17年(1640年)
マカオから通商再開依頼のためポルトガル船が来航したが、このとき幕府は使者61名を処刑した。
正保4年(1647年)
ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。
徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
こうして江戸時代の、いわゆる日本の鎖国体制が確立されるようになり、
日本人の海外渡航並びに入国と外国人の入国も禁止され、
外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限する事によって、
ようやく日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
★浦上崩れ(うらかみくずれ):
江戸時代から明治時代初期にかけて肥前国彼杵郡浦上村で発生したキリシタン弾圧事件の総称。
幕府直轄領であった肥前国彼杵郡浦上村(浦上山里村:現在の長崎県長崎市)において、
江戸時代中期から明治時代初期にかけて4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件である。
なお「崩れ」とは検挙事件のことであり、土石流災害の事ではない。
鎖国体制下、浦上の隠れキリシタンは秘密裏に組織を作って信仰を守り続けてきたが、
江戸幕府および明治政府は合計4度にわたって浦上の隠れキリシタンを検挙・弾圧を行った。
・明暦3年(1657年)「大村郡崩れ」(郡崩れ(こおりくずれ)とも)
- 肥前国大村藩の郡村を中心とした大勢の隠れキリシタンが検挙された事件。
後の寛政9年(1797年)、
福江藩主の五島盛運の要望により大村藩主大村純尹は外海地方の農民を移住させることとなったが、
同地に住む隠れキリシタン(潜伏キリシタン)たちの多くは、
人口増加を抑えるための間引き制度を嫌ったこと、
キリシタンの取り締まりが大村ほど厳しくないということから、
福江藩の五島列島へと移住していった。
なお、五島に移住したキリシタンたちの子孫は、明治時代に五島崩れで弾圧を受けることとなる。
●寛政 2年(1790年)-「浦上一番崩れ」 信徒の取調べ事件。
・文化 2年(1805年)-「天草崩れ」 キリシタンの検挙事件であるが、刑死者は発生していない。
●天保13年(1842年)-「浦上二番崩れ」 キリシタンの存在が密告され捕縛された事件。
●安政 3年(1856年)-「浦上三番崩れ」 密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ拷問を受けた事件。
・江戸時代中期には、この他にも各地でキリシタンが発見され処刑される事件が起こっている。
●慶応 3年(1867年)-浦上四番崩れ(浦上教徒事件)
特に四番崩れでは事件の最中に明治維新が発生し、
慶応4年(明治元年/1868年)の御前会議にて
全住民の配流を決定したことが日本に駐在する外交団や特派員に知られて抗議を受けるとともに、
欧米のキリスト教国の反感を買った為明治政府はその対応に苦慮し、
明治4年(1871年)にはキリシタン禁制の高札の撤去と浦上のキリシタンの釈放と帰還を行い、
250年近くにわたった日本のキリスト教禁止政策に終止符を打った。
●昭和20年(1945年)8月9日の長崎への原爆投下は、
特に長崎市内浦上地区に在住するキリスト教徒に多くの犠牲者を出したことから、
これをキリスト教徒の受難事件ととらえ、「浦上五番崩れ」と称することもある。
●浦上一番崩れ(うらかみいちばんくずれ)とは、
現在の長崎市で江戸時代中期に起きたキリスト教信徒への弾圧事件である。
寛政2年(1790年)に浦上村の庄屋・高谷永左衛門が自分が信仰していた円福寺
(廃仏毀釈後、山王神社となる)に88体の石仏を寄付することを決めて、
村人に寄進を迫ったところ、多くの人々から拒絶された。
これに激怒した庄屋が反対派の村人19名をキリシタンとして告発した。
ところが、証拠不十分であった上、当の庄屋による不正事件が発覚したため、事態は複雑化した。
寛政7年(1795年)になって最終的に村人は放免され、
彼らが円福寺の本寺にあたる延命寺に詫びの一札を入れることで事態の収拾となった。
なお、永左衛門の子孫は明治維新後に没落し、
皮肉なことに、その屋敷地は浦上四番崩れ(浦上教徒事件)で迫害の後に帰還を許された
浦上のキリシタンたちによって買い取られて浦上天主堂の元となった。
●浦上二番崩れ(うらかみにばんくずれ)は、
現在の長崎市で江戸時代後期に起きたキリスト教信徒への弾圧事件である。
天保13年(1842年)に浦上村の住民がキリシタンであるとの密告があり、
帳方(隠れキリシタン組織の指導者)利五郎ら主だった幹部が摘発された。
だが、捕らえられた者は一人として自分たちがキリシタンであることを認めず、
長崎奉行所の役人である益田土之助も事態を大きくしないように進言したため、
捕らえられた者は注意を受けたのみで釈放された。
●浦上三番崩れ(うらかみさんばんくずれ)は、
現在の長崎市で幕末に起きたキリスト教信徒への弾圧事件である。
安政3年(1856年)、浦上村のキリシタンに関する密告があり、
密告者の中に棄教した「転び者」が含まれていたことから、
この年の9月18日に帳方(隠れキリシタン組織の指導者)吉蔵らキリシタン15人が捕縛された。
過去の浦上一番崩れはもっぱら訴えた庄屋の不正問題に話が移り、
続く浦上二番崩れでは内部の慎重論もあって
「証拠不十分」による関係者の釈放の形で終わっていたのに対して、
今回は実際に「転び者」による告発があったことから取調は大規模かつ徹底的に行われ、
吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、
浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。
にもかかわらず長崎奉行はこの件を、
村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかったことによって生じた
「異宗事件」として処理を行い、キリシタンの存在を公式には認めなかった。
なお、長崎県立長崎図書館には『異宗一件』と命名された事件に関する帳簿が現存している。
●浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、
現在の長崎市で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた
大規模なキリスト教徒(カトリック信徒)への弾圧事件である。
もともと長崎はカトリック教会とゆかりがあり、信徒たちが多く暮らしていたが、
禁教令をうけた信徒たちは隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り、次代へ受け継いでいくことになった。
そんな長崎の隠れキリシタンたちの間には、
江戸時代の初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャンなる伝道士の予言が伝えられていた。
それは「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」というものであった。
元治元年(1864年)、日仏修好通商条約に基づき、
居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。
主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は
信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。
そこへ元治2年3月17日(1865年4月12日)、浦上村の住民数名が訪れ、
その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性が
プティジャン神父に近づき、
「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。
神父は絶滅したはずの隠れキリシタンが現れた事に驚愕した。
これが世にいう「信徒発見」である。(しかし、これ信徒(再)発見ではないかと思うのだがどうだろう?)
彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。
神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。
以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が
続々と神父の元を訪れて指導を願った。
神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
こうした事があった為か、2年後の慶応3年(1867年)、
浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。
隠れキリシタンとして信仰を守り続けた浦上村の村民たちがキリスト教信仰を表明した為、
江戸幕府の指令により大量に捕縛されて拷問を受けた。
そもそも江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、
全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、
改宗しないものは処刑する政策をとっていたからだ。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還後、
江戸幕府が瓦解するもクーデターにより実権を掌握した明治政府は、
江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ。
その為村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。
欧米へ赴いた岩倉遣欧使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに今更ながら驚き、
本国に打電したことから、明治6年(1873年)2月24日にキリシタン禁制は廃止され、信徒を釈放した。
慶長19年(1614年)以来259年振りに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。
配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。
生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、
1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた……しかし、
●浦上五番崩れ(うらかみごばんくずれ)は、
昭和20年(1945年)8月9日の長崎への原爆投下で、
特に長崎市内浦上地区に在住するキリスト教徒に多くの犠牲者を出したことから、
これをキリスト教徒の受難事件ととらえ、「浦上五番崩れ」と称することもある。
昭和20年(1945年)8月9日、
長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊。
投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、
ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、
原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、
主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。
これぞ神の祝福であろう。
後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て
『麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟』と詠んでいる。
11月23日 - 浦上のカトリック信徒約300名が、空虚と化した浦上天主堂わきの広場で、
浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行。(原爆犠牲者慰霊の始まり)
「ガッデム、ヤンキーゴーホーム」
・大浦天主堂
長崎への原爆投下によって破壊されたが、1959年(昭和34年)に再建された。
「大浦天主堂は滅びぬ! 何度でも蘇るさ! 大浦天主堂の力こそ隠れキリシタンの夢だからだ!]
1962年(昭和37年)以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂となっており、
所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会である。
・被爆マリア像
1929年(昭和4年)、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていた。
1945年の原爆投下により天主堂は倒壊したが、
終戦後にマリア像の頭部が浦上出身の司祭によって瓦礫の中から発見された。
その後、トラピスト修道院や純心女子短期大学教授・片岡弥吉によって保管されていたが、
1990年(平成2年)にマリア像は浦上天主堂に返還された。
バチカンには1985年(昭和60年)と2010年(平成22年)に訪れており、
2回目の訪問の際にはローマ教皇ベネディクト16世に祝福を受けている。
「ヤンキーゴーホーム」
現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている。
ちなみにこの像のモデルはムリーリョの『無原罪の御宿り』とされている。
・落下した天主堂の鐘楼
「アンジェラスの鐘」とも呼ばれる。
原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が天主堂の北方約30mの地点に落下したものが
現在でも現地で保存されている。
被爆当時の位置は小川の中であったが、現在は川を整備して流れをずらすことで陸地に保存されている。
被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構であり、
長崎市が定めた「被爆建造物等ランク付け」の最上位であるAランクとして分類されている。
・馬利亜十五玄義図
日本画の材料を用いながら西洋画の技法でイエス・キリストや聖母マリアの生涯が描かれた初期洋風画で、
縦64センチ、横54センチの絵画作品。
1945年に原爆で焼失したが、2011年ガラス乾板の一部が発見された。
★異端崇拝
日本に赴任してきたブラジャー宣教会のベルナール・ブラジャー神父は、
変態日本に、同士ブラジャー信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。
そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。
その中の1人でイザベリナと呼ばれた「百合趣味(後に性的倒錯)」だという当時52歳の男性が
ブラジャー神父に近づき、
「ワレラノムネ(胸)アナタノムネ(胸)トオナジ」(私たちもブラジャーを着用しています)とささやいた。
彼らの胸にもブラジャーの着用跡を見出した神父は驚愕狂喜した。
これが世にいう「こんなとこにもブラジャー信徒発見」である。
しかし、2年後の1867年(慶応3年)、
浦上村の信徒たちが仏式のふんどしの着用を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。
この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。
信徒代表として奉行所に呼び出された鈴木土下座衛門らは、
艶やかな下着姿ではっきりと異端信仰を表明したが、
恐れおののいた長崎奉行はいったん彼らを村に追い返した。
その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は可哀想な密偵に命じて浦上の信徒組織を調査させ、
7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、
鈴木土下座衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。
捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し「ああっ、もっときつく縄をかけて下され」と述べたため、
抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の異常な活気に怯んだと伝えられている。
捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けるも……
「ま、 待ってくだされ! もっと、もっと魅せてくだされ!」
後のアクシズ教団の原型の一つと目される。




