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現実:制度 五人組からの隣組

異世界内政チート

【向こう三軒両隣】

自分の家の向かい側にある三軒の家と、左右二軒の隣家。

この日頃親しく交際している近隣は、隣組の単位ともなった。


★五人組制度:この類似の制度は律令制下の五保の制にさかのぼる。

 江戸幕府の領主の命令により町村に組織させた庶民の隣保組織・隣保制度。

近隣の五家が1組に編成された連帯責任の組織。

互いに連帯責任を科し、初め火災・盗賊・キリシタン宗門・浮浪人の取り締まりを主眼としたが、

のちには法令遵守・治安維持、また貢租の完納・相互扶助などに当たらせ、

これらのための相互監察や相互扶助を目的とするようになった。

また逃散 (ちょうさん) 防止などのためにも利用した。

構成員は、町人では地主・家持(いえもち)家主(いえぬし)

農民は水吞みまでをも含むが基本は、

・村では本百姓(ほんびゃくしょう)

・町では(地主)、家主(いえぬし)をそれぞれ近隣の5戸ずつ

を原則として組み合わせて構成した。


 武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。

五人与(くみ)」と書き、五人組合ともいい、地方によっては十人組もあった。

その長を五人組頭、または判頭(はんがしら)と称した。


 古代の中国の軍隊も5人を最小単位として編成し、

五人組の頭・五人一組の隣組の長として伍長の語が用いられた。

伍は五人単位の組織全般に用いられ、

古代中国の周の時代には地方支配の末端の役職に伍長があったのだ。



●五保制:古代律令制における末端行政単位。

 制度の起源は、古代律令制下の五保制(ごほ/ごほう せい)と言われる。

保(ほ/ほう)は、古代から中世の日本に存在した地域行政の単位で、

時代・地域によって異なる意味で用いられた。

五戸を単位(五戸をまとめて保という)としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称した。

保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負った。



●五人組・十人組:

 直接の原型としては戦国時代、下級武士団の軍事編成である五人組・十人組にある。

その先駆的な例としての創置は1597年(慶長2年))3月7日付

豊臣秀吉が京都の治安対策として治安維持のため、

大名の家臣団や、都市・農村の住民に下級武士のに五人組、農民に十人組を組織させた。

(侍五人組・下人十人組)

慶長期以降、大名領などに十人組が存在し,のち五人組に改組される事例がみられる。


・五人組:

 慶長8年(1603年)徳川幕府が京都に十人組を作ったのが初めで、

被支配者間の連帯責任・相互監察の制度として漸次整備された。


 全国的に五人組が制度化されるのは寛永期で、

これは幕藩権力による人民の支配体制確立と関係がある。

五人組の役割は,町方・村方における治安維持・法度の遵守・年貢完納・キリシタン禁制などを

連帯責任で遂行するところにある。


 庶民の組織としては当初城下町町人で編成されたが、

江戸時代になると正保年間 (1644~48年) 頃から次第に農村を主体とした恒常的な制度となった。


 編成の基準は村方・町方とも近隣5戸1組を原則とし、

その機能は一般にキリシタン・牢人・犯罪人などの治安取締り、

とりわけ農村では年貢納入の連帯責任制などであった。


 また農村では各種の組の機能と合体して互扶助組織としての機能も果した。

宗門改帳とは別に最寄り5戸を基準として、

1村の全住民を登録した五人組帳が村ごとに作成されて領主に提出されたのだ。


 組内に年貢不納の者や欠落(かけおち)をする者が出ると、組として弁済の責任を負わされ、

また五人組内に犯罪者がいるときは、密告を強制され、知りながらそれを怠ると処罰された。


 また日常生活で相互に監視しあうことを強いられ、質地などの土地移動でも連帯責任を負わされた。

その反面、五人組の百姓は、仲間として日常生活での相互援助も行ったが、

どちらかといえば農民の支配や監視のための組織という性格が強かった。



・十人組:

 近世、十軒を一組として五人組と同じく治安維持、貢納の連帯責任をおわせた相互扶助・相互検索制度。

安土桃山時代から江戸初期にかけて、近隣10戸を単位とした自治組織。

徳川幕府も慶長8年(1603年)に京都の町に連帯責任を負う相互検索制度をつくった。

こうして慶長期以降、大名領などにも十人組が存在したが、のち五人組に改組される事例がみられる。


 十人組は、十人(十軒)をひとつの単位とした共同組織だが、

その目的に応じて種々の十人組が存在した。

大坂において、両替仲間の取り締まりにあたった一〇名の両替商人・十人両替などがある。



●隣組:とんとん とんからりと

 町内会の下位組織。

組、班または隣保班とも称される。


 隣組となりぐみは、概ね第二次世界大戦下の日本において各集落に結成された官主導の銃後組織で

第二次大戦下の日独伊三国同盟が成立した昭和15年(1940年)9月 新体制運動に際し、

第2次近衛文麿内閣が内務省訓令に基づいて制度化し、全国に設置された国民統制組織の末端機構、

つまり国民統制のためにつくられた地域住民組織なのである。


 大政翼賛会の末端組織町内会の内部に形成され、

戦争総動員体制を具体化したものの一つとして連帯責任制のもと戦時生活の物質的・精神的統制を、

地方官庁・町内会・部落会を通じて行おうとしたのである。


 近世の五人組などの制度を継承して約十戸内外・五~十軒の近隣数軒を一単位として

部落会・町内会の下級組織として設けられ、

互助・自警・(食糧)配給・供出・動員など行政機構の最末端組織として自治業務を行ない、

その役割を果たしたが、昭和22年(1947年)ポツダム政令により廃止した。


 政府の通達・物資配給・公債消化・勤労作業・防空訓練などが

この組織を通じて連帯責任で実施された、

東側世界(大韓民国含む)の密告制度も真っ青の恐怖の全体主義の連帯制度である。



 なお、戦時体制において導入された制度の一つである「隣組」を宣伝啓発する内容の歌があり、

隣組の利点などが歌詞で歌われている。

国民歌謡の「隣組」は岡本一平作詞、飯田信夫作曲で、

バリトン歌手・徳山たまき(たまき)の愛らしい歌い方や軽快なテンポが特徴。

制度を広めるため、40年6月に初めてラジオで流され、

大政翼賛会が結成された同10月にはレコードが発売された。


 洋楽文化史研究会代表幹事の戸ノ下達也さんによると、

日常生活を描いた歌詞が親近感を呼び、国民的な支持を得たという。


 敗戦を機に隣組制度は廃止されたが、メロディーが陽気であるため戦後も歌われ、

『お笑い三人組』(NHK総合テレビ)の主題歌にも使用され、

替え歌はザ・ドリフターズのお笑い番組「ドリフ大爆笑」のテーマ曲となって浸透。

近年もアルコール飲料のCMソングとして替え歌が使われていた模様。



・詳細:

 もともと江戸時代・近世における五人組・十人組という村落内の相互扶助的な面もある

行政下部組織が存在していて、この慣習を利用したものである。

つまりこの五人組・十人組などの制度を継承し、

国民総動員体制の最末端組織として再編成されたものである。


 江戸時代の隣保組織である五人組は明治維新後もさまざまな形で残存していたが、

昭和になると都市では消滅し、農村でもあまり機能しなくなっていた。


 だが日中戦争の拡大に伴い地域的日常活動の必要性が認識されるにいたり、

以後政府は国民精神総動員運動を開始し、そのための組織化を図っていた為、

五人組などの旧慣を生かす形で 十世帯内外の小規模で小回りのきく隣組が組織されることになった。


 そのため,東京市においては、

1935年岡田啓介内閣の選挙粛正運動の下部組織として隣保組織の整備が指示されたのを手始めに、

1938年5月には〈交隣相助,共同防衛〉を目的に隣組制度が制定された。


 全国的には前年に決定し、1940年(昭和15年)9月11日に内務省が訓令した

「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)によって制度化され、

部落会,町内会の下部組織として組織された最末端の地域組織として

結成することが義務づけられていた。


 他の、日中戦争やヨーロッパで始まった第二次世界大戦に対応して行われることになった

「国家総動員法」・「国民精神総動員運動」・「選挙粛正運動」と並ぶものである。


 こうして5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、

戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。

また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。


 また第二次世界大戦中は、「隣組」と「町内会」はほぼ同様に使用されており、

したがって隣組とは町内会自体のことをさす向きも生まれた。


 こうして隣組は、上意下達的な情報の伝達、

食糧その他生活必需品の配給・防空防火・資源回収・国民貯蓄・体位向上・厚生、

そのほか戦時体制下に伴うさまざまの国民統制の末端を担っていた。


 とくに隣組には「常会」の制度が設けられ、

10戸前後の小集団単位ごとに話し合いなどによる相互の融和と援助が強調されていた。

「和の精神」「和合原理」のイデオロギー強化の側面ともいえる。


 常会の小集団単位のまとまりを介して、町内会活動の実質化が図られていた。

この点、同じ都市地域でも、もともと町内としてのまとまりをもつ下町では、

常会―隣組―町内会のシステムは、町内に比較的スムーズに浸透する形で機能した。


 反対に町内としてのまとまりを欠く山手、郊外では、地域実態とは違和感をもって受け止められた。

逆説的ではあるが、常会などの小集団単位のまとまり、

和の精神は、むしろ山手、郊外地域にイデオロギー的にも強調される意味があったともいえる。


 1939年以降、木炭・マッチ・米穀などの生活必需物資が配給制となったが、

これらの配給業務や軍人遺家族援護,防空,消火の訓練と実施などの相互扶助的な日常活動が

町内会,隣組などを通じて行われるようになると、

これらの機構は内務官僚の指導のもとにきわめて強固な国民支配組織として機能するようになり、

1942年8月には大政翼賛会の下部組織として位置づけられた。


 しかし、戦後の1947年(昭和22)5月、

「部落会町内会等整備要綱」は連合国軍最高司令官総司令部により

マッカーサー指令に基づくポツダム法(ポツダム政令)に基づいて廃止・禁止されたが、

その後も町内会等は現在に至るまで多くが残存し、回覧板など隣組の活動形式を色濃く残している。

例えば京都市街、埼玉県秩父地方、さいたま市岩槻区など一部の地域では

現在でも「隣組」が残っている。

なお地域により、隣保、組、班、最寄などの呼び方がある。


 町内会―隣組のシステムは、第二次世界大戦後においても、時代思想的側面は大きく変わったが、

システム自体としては依然として機能し続けているのだ。


 調査研究面でも、地域組織の有力な型としてデータ的蓄積が図られているが、

最近では町内会―隣組の地域組織としての国際比較研究もみられるようになっている。

とくに戦時中に日本の隣組制度の範型が移植された旧占領国フィリピンなど

類似組織との比較検討がテーマをなしている。



●総括:

 五人組はもとは戦国時代の農民の自衛組織として成立したが、

豊臣(とよとみ)秀吉がこれを全国に行政組織とし、

1597年(慶長2)に(おきて)を定め、侍には五人組、百姓・町人は十人組をつくらせ、制裁規定も定めた。

江戸幕府はこの制度を踏襲し、17世紀中ごろまでに多くの法令を出し、制度として整備した。


 五人組の組織を明示した五人組帳が全国に整備されるのは、1655年(明暦1)のことであった。

江戸時代の農民の統制の制度としては、

キリスト教禁止を理由とする宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)制度(寺請(てらうけ)制度)があるが、

この五人組の制度は、それと並んで、農民生活をその内部から監視する制度として、

それ以上に有効な制度であった。


 明治初年に五人組を再編して設定された伍長組、

戦時体制下に設けられた隣保班(隣組)も近隣組として機能していることが多い。


 そう、近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、

第二次世界大戦中の太平洋戦争直前に設置された隣組(町内会などの下級団体)の制度に

その性格は受け継がれ、この五人組、十人組を原型とするものであった。

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