現実: - OEDO - で ゴザル(後篇)そして江戸幕府へ
★江戸の地勢:
▼そして江戸幕府へ:
●武蔵野台地の境界線:麹町台地(山手台地)- 本丸台地
家康は江戸の中核となる江戸城を、武蔵野台地のうちの現在の東京都区部にあたる東部、
それも武蔵野台地が海に向かって終わる部分である
上野台地・本郷台地・麹町台地・麻布台地・品川台地などに囲まれる土地である
現在の麹町台地(山手台地)の一画・本丸台地に築きました。
なお、家康入城時の江戸城は太田道灌の城の規模のままであったという。
ただ家康入城後に天下普請で改修された江戸城は、
武蔵野台地東端に築かれた江戸城を中心に、
その東の下町低地に江戸八百八町の市街地がつくられ
江戸城をかこむ台地上に江戸時代大名の上下屋敷がつくられているが、
家康入城時の江戸城は日比谷入江に面した湊 町であり、城塞都市ではなかった。
・武蔵野台地の東西の境界線(扇状地の端ハケ):
武蔵野台地は西部の多摩地域と東部である東京23区とで境界を成している。
多摩地域は台地や丘陵地帯が比較的多く山岳部もあり、
東部は特にハケによる坂があるがおおむね平地であり、
これらは吉祥寺付近を通る南北線を境として
東部と西部で地形や地質がやや異なっているのだ。
標高50メートル地帯が多摩川の扇状地の端であり、
これは武蔵野台地西側に降った雨が伏流水となって地中を進み、
再び地上に地下水として湧き出す場所であり、
この標高50メートル付近に列する
善福寺池・三宝寺池・井の頭池などを形成する湧水帯がそれである。
なお標高70メートル付近の方は、
黒目川の水源・石神井川の水源・仙川の水源・野川の水源の恋ヶ窪や真姿の池・谷保天神や矢川緑地など
さらに浅い伏流水の湧き出し現れる箇所であり、
特に降雨が多い時に地中で満水となった地下水が湧き出していた場所だと考えられます。
この70m崖線からの湧水量は、時代とともに減ってしまったようですが、
3万〜1万数千年前の旧石器時代の時点では大量の水が涌き、
当時の人々のくらしを支えていたと考えられます。
これら扇状地形の特色は、雨水が地下へ浸透して巨大な水脈を形成し、
標高の低まる地帯で帯状の湧水群をもたらすことであり、
井の頭池などは、北西-南東方向に延びる細長い形の池で北西端は二つに分かれ、
南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。
このように武蔵野台地は湧水によって水利が得やすく、
また逆に沖積低地のような洪水も避けることができるため、
古来から人口は多かったと思われ、
多摩川の崖線には古墳時代の古墳や遺跡が多数残されている。
故にかつて武蔵野台地の中央、立川面には武蔵国の国府や国衙、国分寺が置かれ、
武蔵国の中心ともなっていた。
これは、武蔵国でもこの一帯が水に恵まれていたためであると考えられているからである。
但し、関東平野西部に発達する武蔵野台地の主部を構成する武蔵野段丘の開発は、
高位面である為に水の便が悪かったため、
江戸時代まで入会地として利用される程度の状態だったと言う。
・「山の手」と「下町」の境界線(洪積台地と沖積低地):
また東京区部は、赤羽、上野、皇居、品川(御殿山)を結ぶ、
ほぼ南北方向の急崖によって洪積台地と沖積低地に分かれている。
江戸はおおまかに言えば「江戸城から西」の地域が洪積台地になる。
「江戸城」の外濠の内側部分とほぼ一致する千代田区とは、
武蔵野台地の東端部である麹町台地の更に東端部・本丸台地にあり、
本丸エリアの東側がまさに武蔵野台地の縁になっていて、
崖・石垣(洪積面)と東京低地(沖積面)とで境をなしているのだ。
東京の地形は、
西の多摩から東に向かって山地、洪積台地、沖積低地とだんだん低くなっているのである。
そのうえ、洪積台地を石神井川や神田川や目黒川や呑川が開析していき、
低地と台地との錯綜した地形をつくり、坂道の多い山手の地形をつくりだしている。
東京が坂だらけな訳である。
なお「江戸城」の外濠の西部は武蔵野台地の東端に当たる。
これら麹町台や駿河台といった台地が東京の山手にあたり、
江戸城の西側の高台は特に山手台地(本郷台,淀橋台)として区分される。
・都心部区域の台地の数々:
武蔵野台地の東端にあたる淀橋台に地の利を見出したのが太田道灌であった。
道灌が築城した江戸城(皇居)は、
平川と目黒川の間を広くカバーする淀橋台の最東端に置かれ、
道灌につづいて江戸に入った徳川家康もまた台地を囲む圏谷を掘割に利用するなど、
地形を巧みに利用している。
これらの台地先端は、東側の沖積低地や東京湾岸から見ると、
独立した山のように形容された。
江戸期までに「飛鳥山」「道灌山」「忍ケ岡(上野山の古名)」
「愛宕山」「紅葉山(現・皇居吹上御所付近)」「城南五山」などと呼ばれ、
実際に武蔵野台地は上野駅の西側で15m以上の標高差を見せる崖となって終わる。
「待乳山」は縄文海進時の波食台が海退後の氾濫原に残った本郷台地の一部である。
河川によって武蔵野台地の東部は開析が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、
多数の舌状台地が武蔵野台地から削りだされている。
これらの台地にはそれぞれ名前がつけられており、
久が原台、田園調布台、目黒台、淀橋台、豊島台、本郷台、成増台、荏原台、赤羽台
といった呼称が行われるが、より細かい区分を行うこともある。
都心部区域については、
江戸には上野台地、本郷台地、小石川・目白台地、牛込台地、四谷・麹町台地、
赤坂・麻布台地、芝・白金台地の7台地を数えている。
まるで『ローマの七丘』だ。
本丸台地はそれぞれの突端の延長線が交わっていたこれら7つの各台地に囲まれていたのです。
●桜田:「本丸台地(千代田区)」
桜田 (千代田区)だが、
実は「江戸城」の外濠の内側部分とほぼ一致する「本丸台地」であり、
西は武蔵野台地の東端に当たる麹町台や駿河台といった台地で、
東は沖積平野である武蔵野台地が北から回りこんだ本郷台地から、
さらに南方に(現在の山手線沿いに)延びる
かつて江戸に存在した半島である(円覚寺の所領であった)江戸前島に囲まれていた。
ここへ北から平川(後の神田川)が東に向かって流れ込み低湿地となっていた。
また、日本橋川が三崎橋付近から分かれて流れていた。
1590年(天正18年)徳川家康が江戸に入部したおりは低湿地では人家もまばらであった。
現在の千代田区の東隣りの日比谷は「日比谷の入江」と呼ばれる江戸湾の海岸線であったからだ。
半農半漁の民がここを開拓した故に漁村や港の方が栄えていた。
なお「江戸湊」も当地区にあった。
・江戸湊:
江戸時代に入るまで、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には
浅瀬の海「日比谷入江」が広がって、
現在の銀座のあたりは砂が堆積し「江戸前島」と言う半島となっていました。
室町時代に太田道灌が「江戸城」を築城した頃には、
既にここ「日比谷入江」は「江戸湊」として栄えたと言います。
家康が江戸に入府する以前からも、
入江に河川が流れこむこの地一帯にはいくつかの湊があったのです。
例えば浅草にあった「石浜湊」は古代に形作られた湊です。
もともとこの辺りまで海が広がっており、隅田川の河口に成立した湊でした。
河口付近に広がっていた台地が現在の待乳山で待乳山は本来「真土」を意味します
(台地の河川浸食の跡-待乳山)。
この台地が船着き場として機能し、石浜湊は鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)に発展を見せます。
他にも、「品川湊」などは目黒川河口に形成された湊ですが、
河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、
古来から好まれた形状の港でした。
ですが入江が無く遠浅で北に向かって航行可能なのは2つの細い水路だけだった事や、
大型船で川の流れに逆らって進まなければならなかったことから、
小回りの利かない大型船は沖に停泊して、そこから小船に移し替えて荷役を行いました。
ここが中世には、伊勢との航路が確立して伊勢商人が活躍しました。
また中世の品川は、川を境として南北に分かれて町場が形成されていたが、
北品川には清徳寺、南品川には海晏寺がありました。
これは鎌倉時代末期の1275年には品川宿が形成されていき、
室町時代には有徳人の寄進などにより妙国寺(現 天妙国寺)など多くの寺院が建てられた為で、
高層建築が立ち並び都市化が進んだ東国の玄関港としての威容を誇っていたのだ。
こうした「都市的な場」には、多くの宗教者や連歌師が訪れ、
日蓮宗が積極的に活動した事が知られている。
そして12世紀頃に江戸館が現在の江戸城のあたりに作られると、
平川が注ぎ込む日比谷入江に「江戸湊」が形成されます。
その後室町時代(1336年 - 1573年)、
太田道灌が康正2年(1456年)から長禄元年(1457年)にかけて江戸城を築城しますが、
道灌が江戸城を築城すると江戸湊は更に賑わい、
日常品を中心とした交易が盛んにおこなわれました。
・日比谷入江:
日比谷入江は、現在の東京都千代田区東部に江戸時代初頭まであった入り江である。
入り江は江戸湾(東京湾)北西奥に、新橋付近を湾口として北に伸び、
北端は現在の大手町にまで達した。
なお、そのやや南に現在の丸の内1丁目から皇居外苑に入る和田倉門があったが、
この「和田」とは「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来する。
日比谷入江は江戸時代初頭には軍港として利用された
(商港の江戸湊は江戸前島の反対側の東海岸に建てられた)が、
1620年代になると建設残土などを使った天下普請による埋め立てが進行し、
大名屋敷となった。
これに伴い、漁民は京橋と芝口に移住した。
現在も江戸前島と比べて地形が低くなっており、かつての位置を判別でき、
日比谷濠や馬場先濠は日比谷入江の名残と言える。
また、白鳥濠付近には汐見坂があり、日比谷入江を指す。
・平川:
古くは、武蔵国豊嶋郡と荏原郡の境は平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ、
直接東京湾まで至っていた。
徳川家康の関東入国までは平川(現神田川)の河口であった(平川橋などにその名が残る)。
平川はのちに東回りに流路を変え日本橋川や外濠川となっていく。
神田川の前身である平川は、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、
豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったが、
江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。
なぜなら潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、
また沿岸の井戸も鹹水が混じてっいたからだ。
故に平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われたのだ。
・外濠川:
現在銀座インズがある場所には、元々外濠川という川が流れていた。
「外濠」とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のモノの総称であり、
かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)とも継っていたが、
今では外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。
「外濠川」はかつて呉服橋交差点付近で日本橋川から分流、千代田区と中央区の区界を南下し、
土橋交差点付近で汐留川に合流していたが、戦後埋め立てられ水面を失った。
現在、首都高速八重洲線の地下車道が走っている区間にほぼ相当する。
ちょうど中央区と千代田区との境界にあるが、これは川の中央部分を区境としていたからだ。
川なので当然住所は無かったが、埋め立てられた現在でも未だ住所は無い。
これは戦後、川を埋め立てて道路を造る際にも境界が画定せず、住所が割り振られなかったからだ。
そう、現在の「銀座西」というのはあくまで便宜上の住所で、正確な住所は未だ定まっていないのだ。
こうした事情から、銀座は4丁目と5丁目を除き、1番地が存在しない。
つまり元来「外濠」は千代田区と中央区、「汐留川」は中央区と港区の境界線になっていたのだが、
こうした経緯により、東京高速道路及びその高架下(西銀座デパート等)が、
「皇居外濠」・「京橋川」・「汐留川」を埋め立てて作られた後でも
東京高速道路及びその高架下は区界の上に存在する為、その行政上の所属は未確定のままなのである。
既得権益の奪い合い・睨み合いって怖いね。
なお、徳川家康が江戸幕府を開いた頃は外濠川近辺は江戸前島と呼ばれる砂州であり、
それより江戸城寄りには日比谷入江とよばれる入江が存在していた。
江戸前島は銀座付近にあった半島で、中央通り付近を尾根筋とし、汐留付近を先端としていた。
江戸時代初めの日比谷入江の埋め立てにより、日本橋台地と呼ばれる微高地になっている。
●神田:
現在、神田を冠称する町名が多く見られるのは千代田区発足時の町名変更の名残である。
1947年に神田区が麹町区と合併し千代田区が発足する際、
神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされたのだ。
神田とは、元は現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、
江戸城城下町整備後には
常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通りの北側地域を指すようになった。
神田明神の社伝によれば、天平2年(730年)武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、
大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、
神田の鎮めのために創建され神田ノ宮と称したのだ。
1590年の徳川家康の入府前の江戸 前島村の北側、
今の神田付近と推定されている平川の河口部分の神田山の尾根の先にあたりは、
江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)とよばれていましたが、
家康の入府後、日比谷入江が埋め立てられると大手前と呼ばれました。
なお、江戸城(皇居)の正面門が分からないという者はいないと思うが、
一応説明すると大手門とは城の正門の事である。
かつて江戸城北の本郷台地の南端に当たる「駿河台」は
元来、本郷・湯島台と地続きで、「神田山」と呼ばれる丘陵でした。
しかし江戸に幕府を開いた徳川家康が新たな町づくりの為に、この神田山を切り崩し、
江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てたのでした。
そして江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が
1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより
湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。
神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは、聖橋とお茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。
ですが、埋め立てによって(現・飯田橋付近から一ツ橋を通り海に流入していたと言われている)
平川の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発しました。
そこで、隅田川に通じ、江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が分流として開削されたのです。
こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、独立した台地となったのでした。
なお、関東の独立を掲げた武将で代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、
大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、
江戸惣鎮守として奉られた。
・神田明神:
神田明神は、
社伝によれば、天平2年(730年)、
武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、
神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に
平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、
将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。
嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、
延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。
江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、
さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座し、江戸総鎮守として尊崇された。
神田祭は江戸三大祭りの一つである。
山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。
当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した。
「神田囃子」は東京都の無形民俗文化財に指定されている。
江戸時代初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782年)には権現造の社殿が造営されたが、
1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。
その後、1934年に当時では珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、
1945年(昭和20年)の東京大空襲では、
境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。
江戸時代には「神田明神」と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあった。




