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現実: - OEDO - で ゴザル(前篇)江戸登場前後

★江戸の地勢:

▼江戸登場以前:

 平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』には、

まだ江戸と言う地名は登場せず、代わりに

・北の豊島郡としまぐんに「湯島郷」「日頭郷」、

・南の荏原郡えばらぐんに「桜田郷」

が存在したと記されている。


・「湯島郷」は現在の文京区湯島(湯島天満宮・寛永寺(不忍池))、

・「日頭郷」は現在の文京区小日向(小日向神社)、

・「桜田郷」は千代田区霞が関の旧称である桜田であったと推定される。


 武蔵国むさしのくにには8世紀半ばには、21の郡があったのだ。


◯豊島郡:

 豊島郡の郡名の由来は、沿岸に多くの島があることによる。

豊嶋郡とも砥島としまとも表記した。

武蔵国の中でも非常に古くから栄えていた郡の一つであり、多摩郡に次ぐ大郡であった。


 古代の郡域は、

おおよそ現在の白子川、新河岸川、隅田川、日本橋川、神田川に囲まれる領域と考えられている。

和名抄には日頭、占方、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の7郷があるが、

湯島を除けば現在の地名への比定は容易ではない。


・「湯島郷」- 豊島郡

 江戸時代以前の豊島郡「湯島郷」は、

海から見るとあたかも島のように見えたことからその名がついたとされる。

しかし、なぜ「湯」島なのか、諸説はあっても真偽は不明である。

なお今の不忍池が海とつながっていたらしい。


・「日頭郷」- 豊島郡

 豊島郡「日頭郷」だが、

平安時代の『和名類聚抄』所載の武蔵国豊島郡日頭郷むさしこくとしまぐんひのとごうを小日向と関連付ける説がある。

『江戸砂子』によれば、鶴高日向守善仁寺の所領で、

家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。



 古くは武蔵国豊嶋郡と荏原郡の境は、

当時直接東京湾まで至っていた平川(神田川、日本橋川の旧称)と言われ、

江戸とは元々は豊島郡の「湯島郷」もしくは「日頭郷」に属する小地名であったと考えられている。

なお国郡のその正確な境とは、時代によって変わるもよう。



◯荏原郡:

 荏原郡の郡名の由来は、

「荏」とは荏胡麻エゴマを意味し、「荏原」とは「荏胡麻が栽培されている原」の事、

と言う説もある。


・「桜田郷」- 荏原郡

 荏原郡「桜田郷」は、今の皇居(江戸城)南端にある桜田門橋一帯の地名であるが、

地名の由来は、谷間に水田があり「狭倉田」と呼ばれたことからとの説がある。

だが風土記には

「桜田郷 公穀463束三字田。桜田という号はその郷の丘及び野に桜の木が多いためである」

云々とある。


 和名類聚抄によれば武蔵国21郡の中の1つとしての荏原郡には

蒲田・田本・満田・荏原・覚志かがし御田みた・木田・桜田・駅家えきかの9郷があり、

現代区名で目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分を合わせた範囲に及んだ。


 しかしその後、江戸幕府が置かれたため、江戸御府内は武蔵国として認識されず、

市域外が荏原郡と認識され、市域外のみが武蔵国22郡の中の1つとなった。

この時代の豊嶋郡と荏原郡の境は古川といわれている。


 なお古代律令制の時代に、

南流し東京湾へ注ぐ太日川(渡良瀬川の下流、後の江戸川)の流域の右左両岸をカバーする地域が

下総国の葛飾郡と定められていた。

中世までは全域が下総国の郡で、その西は当時の利根川を境として武蔵国と接していたが、

江戸時代初期に、西寄りの部分が分割され武蔵国へ移され、

武蔵国22郡の中の1つ武蔵国葛飾郡が発足した。




▼江戸登場以後:

 江戸という地名が歴史上に登場するのは12世紀の末である。

吾妻鏡(あづまかがみ)』の1180年(治承4)8月26日の条に江戸太郎重長(えどたろうしげなが)の名が見え、

江戸氏が武士団の一つとして江戸の地を本拠としていたことがわかる。

広大な武蔵野一帯は古代以来、官営の牧が置かれ、また荘園(しょうえん)も存在したが、

それらの地域から武士団が発生し活躍したのである。


 秩父出身の通称:江戸太郎こと江戸重長(えどしげなが)は、

治承(じしょう)4年(1180年)に挙兵した源頼朝に重用され、

その勢力は現代の千代田区、台東区、文京区、港区、新宿区まで及んでいました。


 ここに江戸太郎は江戸城のもとになる江戸館を建てたのですが、

その名は『和名類聚抄』の段階では存在しなかった

「武蔵国豊島郡江戸郷」から出たともいう。

なので江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には、既に江戸という地名が存在したと言える。


 弘長元年10月3日(1261年)、

江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉(正嘉2年(1258年)〜)による荒廃で

経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を

鎌倉幕府の北条氏惣領・北条氏 得宗家に寄進してその被官となったのだが、

しかし1315年までには得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

そしてここを中心に鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)頃から町人の町が形成されていくのだが、

この際の寄進された記録において「江戸郷」という地名を見ることが出来るのだ。


 なお室町時代(1336年〜1573年)には、一帯は上杉氏の領有となっていた。

室町幕府から関東(かんとう)管領(かんりょう)を仰せつかった

上杉家の一族扇谷上杉家の有力な武将であった太田 資長(すけなが)(1431~1486年、出家後 道灌(どうかん)と名乗る)は、

父 太田 道真(みちざね)と共に川越城を築き、続いて武蔵国江戸氏の元拠点にも江戸城を築いた。


 この頃太田道灌の時代には、

・浅草と鎌倉を結ぶ『鎌倉街道』、

・江戸城と川越城を結ぶ『川越街道』、

・元々足柄路と呼ばれ、赤坂から今の国道246号を通り矢倉沢を結ぶ『矢倉沢往還』も

整備されていった。


 また、戦国時代の大永4年(1524年)年以降は後北条氏の領有に帰したが、

後北条氏滅亡の後の天正18年 (1590年)8月1日 (八朔)

徳川家康が入封してこの城を修築し関八州統治の本城とした。



 徳川家による江戸城建設以前は、

東の大手町・日比谷方面から江戸城西にある局沢つぼねざわ

・第6代将軍徳川家宣の代に完成した後の吹上御苑を経由して

正反対の裏手に位置する西の半蔵門から四谷見附へ通じる甲州街道の前身となる古道があり、

武蔵府中へ通じる重要な交通路となっていた。

なお、甲州街道は谷を避け台地の上だけを繋いだ通り道、いわば尾根道だったと言う。




●芝:

 東京の中心部に位置する芝エリア。

江戸時代、徳川家康により「東海道」が整備されて発展し交通の要衝となり、

御府内への入口「高輪大木戸」や、徳川家の菩提寺「増上寺」が置かれるなど、

徳川家・江戸幕府にとって江戸城南のこの地は重要な地域となった。


 だが明治維新後、幕府や武家の広大な土地は、

皇族・華族や財界人の邸宅や近代的な工場などへと変わっていく。

明治初期には国内初の鉄道も新橋(現・汐留)・横浜間に開通した。

明治から戦前期にかけては企業の創業、大学の創設、放送局の開局など、

産業・学問・文化の拠点ともなった。


 戦後は、東京を代表するビジネス街となり、日本の高度経済成長とともに発展。

一方で、歴史ある寺社や公園・庭園も多く残されており、

この地が歩んできた歴史を感じることもできる。


 現在の港区の前身となった3つの区(芝区・赤坂区・麻布区)のひとつ芝区しばく

戦国時代までに、武蔵国荏原郡の柴村・金杉村・上高輪村・下高輪村・桜田村・三田村・今里村

および荏原郡と豊島郡の入会地とされた白金村として成立する。

戦国時代までに武蔵国荏原郡柴村が成立するも、柴村は後に豊島郡の所属となるので、

江戸時代の初めまでは豊島郡柴村・荏原郡金杉村・荏原郡上高輪村であった。


 その地名は武蔵野の端で一面に芝が生い茂っていたことに由来する説がある。

他にも、木の小枝を並べて海苔を取っており、その小枝のことを柴ということに由来する説があり、

江戸初期には「柴村」を確認することができる。


 江戸時代、東海道の整備によって柴村は急速に発展し、柴町・芝町とも呼ばれるようになる。

またこの頃から、旧「柴」村の周辺地域も「芝」と呼ばれるようになる。


 西は「三田みた」と接する「しば」は、

広義にはかつての東京市芝区の範囲を指し、東京湾に臨む港区側一帯のことをいう。

現在、芝(地域)は東京都港区のおよそ東半分を範囲とし、

単純に述べると現在の港区の範囲のうち赤坂・麻布・青山・六本木を除くすべての町々が芝地域を指す。

故に麻布区及び赤坂区との合併後も住居表示導入以前は「芝○○町」と旧芝区内大半の町が芝を冠称していた。

また、東京旧市内で低地に比べ高台を多く占める旧区分を山手としているため、

旧芝区に属する芝地域は山手にあたる。




●芝浦:

 一方、現在の芝浦しばうら一帯は以前は江戸湾(東京湾)の浅瀬だった。

明治 - 昭和初期に東京市芝区の臨海部を埋立てて成立し、北を芝、西を三田と接する。

1486年(文明18年)の「廻国雑記」に「芝ノ浦」として、塩業と船運に関わる描写がされており、

中世から江戸湾の重要な湊であったことが分かる。


 「芝浦」とは芝の浦の意味であり、もともとは芝一帯の東京湾を指す言葉であった。

この地域一帯の地名に見られる「芝」とは、文字通り芝のことで芝が生い茂った地であり、

その沖の海岸部分であるため「芝浦」と呼ばれるようになったといわれている。

また、「芝」とは芝沖の海苔の養殖に使う木の枝「ひび」(竹篠)のことであり、

「ひび」の並んだ海であることから「芝浦」となった、とする説もある。



●三田:

東京都港区にある三田みたは、

戦国時代までに、荏原郡三田郷として成立する。

三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258年)3月1日の条にすでに記されている。


 この地に朝廷に献上する米を作る屯田みたが存在したからとも、

伊勢神宮または御田八幡神社へ奉納する神田みたがあったからともいわれる。


 伊勢大神宮へ奉納する神田があったことに由来する。

神田は「御戸代みとしろ」、「御田みた」ともいい、「神田かんだ」の地名の由来と同じで、

「三田」という地名は全国各地でも確認できる。


江戸時代は大名屋敷や御家人の屋敷が並んだ。

北西は麻布十番、東は芝、南は高輪と接する。


現在

・三田一丁目と三田五丁目の古川(渋谷川)沿いの低地には、住宅地・商店街が混在している。

・三田二丁目の高台には高級住宅地が広がり、

  三井倶楽部(旧三井邸)、オーストラリア大使館(旧蜂須賀侯爵邸跡地)があり、

  低地には慶應義塾大学(旧島原藩中屋敷)などがある。


・三田三丁目には主に商業地が広がる。

・三田四丁目は寺町となっており、三田台の上下にわたって寺院が数多く存在する。

・三田四丁目の周辺には旧三田台町の台地が広がり、

  江戸時代には歌川広重によって月の岬として描かれるなど、風光明媚な地として知られた。


 中世の郷村三田郷は、目黒川下流の北東岸一帯に広がり、現在の港区と目黒区にまたがっていた。

目黒区にある三田みたは目黒三田とも呼ばれ、

現在では港区三田とは遠く離れた別個の町であるが、

元来は同じ三田郷を起源とする荏原郡三田村の飛び地であり、同一の村に所属していた。



 竹芝埠頭たけしばふとう竹芝桟橋たけしばさんばし竹芝橋たけしばばし竹芝駅たけしばえきなどは、

更級日記に記されたこの地にあった竹芝寺故事からつけられたと言われている。

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