現実: 旧- EDO - 城の軌跡
▼旧江戸城のロンダリング:旧江戸城は江戸氏の居館跡
旧江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、
翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。
これは、江戸の地に関東管領上杉氏の一族
扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長
(のちの太田道灌)が入り、麹町台地の東端である江戸氏の居館跡に
平山城である江戸城を築いたからだ。
なお江戸の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。
太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、
文明18年(1486年)に謀殺されるまで
江戸城を中心に南関東一円で活躍した。
道灌時代の江戸城については、
正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や
万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。
それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、
周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる
(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。
『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば
道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。
『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている。
また江戸城の守護として日枝神社をはじめ、
築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営した。
今も江戸城には道灌濠の名が残り、築城当時の面影をわずかに残す。
道灌の時代、掛け変えれる前の平川(神田川下流部)は、
まだ日比谷入江へと注いでいた。
半島である江戸前島(現在の日本橋から銀座にかけての地域)を挟んで、
西に埋め立てられる前の日比谷入江、
(西側の入江は日比谷濠や外濠が形成された以外は埋め立てられ、
東側の海岸線を利用して楓川や三十間堀川が掘削され、
次第に内陸部となっていった。現在は東京駅などが所在する。)
東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)
があり、浅草湊や品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。
この当時既に江戸や品川は、利根川(現在の古利根川・中川)や
荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて
鎌倉・小田原・西国方面に出る際の中継地点となっていたからだ。
また道灌の時代、
長く続いた先の大戦応仁の乱により荒廃した京都を離れ、
権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、
平川の村を中心に城下町が形成された。
実は道灌は、父 太田道真と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称された、
山内上杉家の家宰 長尾景仲をも祖父に持ち
(景仲の孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる)、
智将のルーツを持っていると言える。
なお、はとこ(またいとこ)で「長尾景春の乱」の長尾景春は
管領家重臣でありながら叛乱を起こした人物として
南総里見八犬伝に登場している。
ちなみに吉祥寺は、当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、
江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた
(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。
平河山を号する法恩寺や浄土寺もその縁起から、
かつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。
さて、公方・管領をそれぞれの頂点として関東の諸勢力が二つに分かれて相争う
享徳3年12月27日(1455年)〜 文明14年(1483年)の30年近くに及んだ
応仁の乱と並ぶ室町時代最大の関東の大乱「享徳の乱」を終わらせた
道灌の才能を憂慮した山内上杉家11代当主関東管領 上杉顕定は、
扇谷上杉家当主 上杉定正に対して道灌への猜疑心を煽る一方、
敵対していた古河公方足利成氏との和解に踏み切って秘かに定正との戦いの準備を進めていた。
なぜなら文明8年(1476年)に、
有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥った(長尾景春の乱)が、
景春の反乱自体は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたのだが、
道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになったからだ。
つまり関東管領である顕定と山内上杉家の権威が落ち込み、
対して道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まったのだ。
そのため山内家と扇谷家はこの時、両上杉家と呼ばれるようになっていた。
元々、扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、
相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。
扇谷家は4代鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して
持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、
享徳3年(1453年)以来の
持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支えている。
だがかつては世間から「鵬躙之遊」(大きな鳥と小さな鳥)と呼ばれて嘲笑され、
定正を嘆かせる程の小さな鳥であった扇谷上杉家が、
大きな鳥である山内上杉管領家と並ぶ実力を有するに至ったのである。
こうして道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。
それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。
だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と顕定は不仲になる。
また、乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、
定正の猜疑を生んだ。
そして時は文明18年7月26日(1486年8月25日)、
扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。
死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。
なお『上杉定正消息』の中で扇谷定正は、
あくまで、道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、
また道灌が山内顕定に謀反を企てたために討ち果たした、と述べている。
こうして父 道灌が主君である上杉定正に謀殺されると、
和議の人質を名目として古河公方成氏に預けられていた嫡男 太田資康が
江戸城に戻って家督を継ぐのだが、定正の追っ手に攻められて甲斐国に逃れ
(室町時代後期の文明18年(1486年)の冬の「江戸城の乱」)た為、
江戸城は上杉氏の所有するところとなり、
扇谷上杉氏の当主となった上杉朝良が隠居城として用いた。
これは長享元年(1487年)〜永正2年(1505年)の「長享の乱」の敗北の結果、
朝良の江戸隠居を条件に和睦したため、
隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになったからだ。
*長享の乱
道灌謀殺により道灌の子・太田資康を初め多くの家臣が扇谷家を離反して
上杉顕定の許に奔り、定正は苦境に立つ。
山内家と扇谷家の緊張が高まり、
長享2年(1488年)の顕定の攻撃によって戦端が開かれた。
なお上杉定正は荒川渡河中に落馬して死亡。
その後、甥で養子の上杉 朝良が跡を継ぐ。
だが朝良は実権を取り戻して江戸城で政務を行い、
後を継いだこれまた甥にあたる朝興も江戸城を河越城と並ぶ
扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。
永正7年(1510年)顕定が越後国で同国守護代・長尾為景に討たれ、
養子の顕実が関東管領を継いだが、内乱が起き山内家の衰退に繋がった。
また、永正15年(1518年)に朝良が病死すると、
扇谷上杉家もまた内紛状態に陥ってその衰退に拍車をかけて行く事になる。
ついで大永4年(1524年)、
江戸城は扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。
なぜなら朝興は高輪原の戦いで後北条氏に敗れ敗退し、
さらに江戸城まで奪われて河越城に逃亡したからだ。
そして遂に江戸城奪回を果たすことなく、
天文6年(1537年)4月27日、朝興は河越城で病死した。享年50。
なお、河越城も長禄元年(1457年)、
扇谷上杉氏の上杉持朝に命じられ家宰の太田道真・道灌父子が築城したものである。
また、既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって
東京湾(江戸湾)の西半分が完全に支配下に置かれた為、
これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方・里見氏)に
後北条氏との対決を決意させたと言われている。
後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。
支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南及び
墨田区・川崎市・多摩地区の各々一部まで含まれている。
これはやはり江戸城の南に品川湊があり、
更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があった
とされていることから、
関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て
品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために
重要な役割を果たしたと考えられているからだ。
また戦国時代の陸路には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成されていた。
更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や
小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、
万里集九・宗祇・宗牧など多くの文化人が
東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている。
一般に言われる話では、
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。
秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、
同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(静岡)から江戸に入った。
そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、
茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、
とされる。
城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、
しかも海水がさしこむ茅原であった。
西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。
城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという。
さて、従来の通説では、徳川家康入城当時(前)の江戸は、
このようなあたかも全域が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、
実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と
東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。
また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、
徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。
なお、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に
自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(「富岡文書」)の存在を指摘し、
秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている。
このように近年になって、
太田道灌及びその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、
徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、
こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方が
登場するようになった。
その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、
家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある。
とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に
徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、
中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって
家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている。




