現実: 拡がる - OEDO - の範囲
ヤマトの最東方に位置するフロンティアの地から、武士の王国、そして日本の中心地へと、関東地方は変遷した。
▼拡がる江戸:花のお江戸は八百八町
よく「大江戸八百八町」という言葉を聞きますが、これは江戸の実際の町数ではありません。
江戸という都市空間に多数の町が存在していたことを示す、一種の慣用表現として使われています。
天正18年(1590年)16世紀末に、
徳川家康が入府した江戸は、まだまだ広大な武蔵野の一寒村にすぎませんでした。
1457年に建てられた中世以来の江戸城と戦乱で荒廃した城下、港町の集落と周辺の村々がある程度で、
(それでも十分と言う説もある)
家康と大勢の家臣団が居住するには狭すぎるものだった。(三河の田舎者だがな)
入り江が深く入りこみ、低湿地がひろがる江戸。
現在からはちょっと想像しがたい光景がひろがっていたようです。
家康は最初に城の拡充に着手し、建築資材や蔵米などを江戸湾から舟で城に直接運ぶための水路を開き、
城の工事で開削した堀の揚土で日比谷の入江を埋め立て、城の周囲には家臣団の屋敷を配置し、
そして、城の常盤橋門外から東の浅草方面へ向かう街道に沿って本町の町割りを行いました。
本町とは「江戸の根本の町」という意味で、道幅を約12mとし、
通りの南北両側に幅・奥行きとも約120mずつの町地を造成して、これらの町に商人を居住させ、
金座や町年寄などの屋敷もこの本町に沿って配置された。
慶長8年(1603年)に、征夷大将軍となって幕府を開くと家康は、
江戸を全国の政治・経済・文化の中心地にするための本格的都市計画事業を開始しました。
この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」が賦課され、
おもに西日本の大名に対しては、千石夫といって所領千石につき人夫10人の労役供出が命じられました。
このとき神田山を掘り崩して砂洲や干潟等の低湿地を埋め立て、
浜町から新橋にかけての町々となる広大な市街地を造成しました。
この工事では城郭拡充用の水路を東に延長して日本橋川を開き、日本橋が架けられたのです。
1604年には、この日本橋に五街道の起点が設定された。
また江戸城拡充工事によって、
廓内や旧城門前にあった宝田村・千代田村や、平河天神・山王社、神田明神・日輪寺
といった寺院・神社を周辺に移転させているなど、
長期間にわたって大がかりな工事が行われ、将軍様のお膝元として整えられて行きました。
丘陵地を切り崩し、入り江を埋め立てることによって宅地が造成され、
多くの町が生まれたのです。
この時期には測量技術の発達を背景に、
中世までには考えられなかったような大規模な干拓や灌漑が実施できるようになり、
大規模な土木事業が次々と実施されました。
家康は江戸湾に注ぐ利根川・渡良瀬川水系を毛野川水系に纏め、
現在の利根川水系の原型を形造る利根川東遷事業を進めたのです。
この事業によって江戸付近の雨期の河川氾濫を治め、旧利根川・旧渡良瀬川の下流 - 河口地帯を干拓して
江戸の町の基盤が作られました。
こうして家康は江戸幕府を樹立し、江戸は水路を周囲に巡らす世界屈指の大都市となったのです。
その後は椿海の干拓、三富新田開拓などの新田開発が進み、
荒川や利根川下流の低湿地や武蔵野の大半が耕地化され、関東地方の農業生産力は激増しました。
また幕府は畿内からの先進技術や人材の導入に努め、
当初は大坂からの移入に頼っていた、上方からの所謂『下りモノ』の物産(酒、木綿、醤油など)の多くも、
江戸時代中期頃には関東の地場生産品で賄えるようになり(江戸地廻り経済圏の確立)、
17世紀の後半から18世紀にかけて「上方」の「町人」を中心にして盛り上がったのが、
江戸時代前期の「元禄文化」になり、
中後期には「江戸」を中心として発展した「町人文化」、天明文化や化政文化の華が開いた。
こうして1640年頃までに、江戸は天下の城下町としての初期整備を終えましたが、
これは軍事都市的な性格を帯びたものだった。
当時の江戸市街のイメージは国立歴史民俗博物館所蔵の『江戸図屏風』などで伺い知ることができます。
だが、この江戸の都市構造が根本的に改造されるのは江戸三大火の筆頭、
明暦3年(1657年)17世紀中頃の「明暦の大火」だった。
皮肉にも、本来は外敵から身を護るはずの外堀以内のほぼ全域、
天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、
死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。
この大火で焼失した江戸城天守は、その後再建されることがなかった。
こうしてこの大火は江戸市街のほぼ60%を焼き尽したが、
明暦の大火を契機に幕府は、江戸の町を防災都市へと構造的に転換させる江戸の都市改造が行われ、
御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それにともなって
道路の拡幅、防火の土手、市中から隅田川東岸に渡る両国橋の架橋、築地地域の埋め立て、
両国や江戸橋の広小路設置、大名・旗本の屋敷の移転再配置、寺社の周辺部への移転などが行われた。
この結果、江戸の市街地は大きく拡大して、18世紀以後の100万都市に向かって発展することになり、
寛永17年 (1640年)ごろに約40万であった人口は、
元禄 6年 (1693年)には約80万、
享保 6年 (1721年)には、とうとう約110万に達し、
延享年間(1744~1748年)には、ついに江戸の総町数が実に八百八町の倍以上の1678町となります。
さて、拡大する江戸の町ですが、では一体どこからどこまでが江戸とされたのでしょう?
▼- OEDO - の範囲 :
歴史的に、
・江戸時代前期の御府内(江戸の市域 = 朱引、もしくは大江戸)において、
江戸城の近辺とその西側の高台の山の手台地を幕臣などの居住地帯として開発していました。
・江戸時代中期以降は、江戸の人口増加によって土地が不足し、
下町の本所などにも武家屋敷が造成されるようになり、
町人との住み分けは曖昧になっていきました。
その一方で、山の手と呼ばれる赤坂や麹町や麻布にも町人町が広がっており、
一口に江戸市街、特に山の手といっても、複雑な形相を示していることが特徴となる。
山の手の代表的な地域は、麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷であり、
地理的には武蔵野台地の東端にあたる。
・これは明治時代に制定された旧東京市内東京15区の、
麹町区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区に相当する。
実際のところ江戸の範囲と言っても解釈はまちまちで、
当時も決まった境界があるわけではなかったようです。
町奉行支配場(1)・寺社勧化場(2)・江戸払御構場所(3)・札懸場(4)など、
異なる行政系統により独自に設定解釈されていました。
所謂縦割り行政と言うやつである。
このように、江戸の範囲について解釈がまちまちであったところ、
幕府は統一的見解を示すよう求められました。
文政元年(1818)8月に、
ついに目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されたのでした。
その内容を要約すると、以下のとおりです。
「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、
目付の方には書留等がない。
前例等を取り調べても、
解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。
このときの答申にもとづき、
同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、
幕府の正式見解が示されたのです。
その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
朱引の範囲(大江戸)は「四里四方」といわれ、
・東…中川限り(平井、亀戸周辺)、
・西…神田上水限り(代々木、角筈周辺)、
・南…南品川町を含む目黒川辺(品川周辺)、
・北…荒川・石神井川下流限り(千住・板橋周辺)
までである。
これは、寺社勧化場(2)と札懸場(4)の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
◯現在の行政区画でいえば次のようになる。
・千代田区・中央区・港区・文京区・台東区
・江東区・墨田区・荒川区・北区の一部・豊島区・渋谷区・新宿区・品川区の一部
・板橋区の一部・練馬区の一部・目黒区の一部
であり、現在の行政区画では次の範囲に相当する。
●ほぼ全域
千代田区、中央区、港区、文京区、台東区
●境界域
・江東区 (亀戸まで)
・墨田区 (木下、墨田村まで)
・荒川区 (千住まで)
・北区 (滝野川村まで)
・豊島区、板橋区 (板橋村まで)
・渋谷区 (代々木村まで)
・新宿区 (角筈村、戸塚村まで)
・品川区 (南品川宿まで)
以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。
そして一般に「大江戸」として認識されているのがこの朱引の範囲であり、
現在の山手線の周辺と隅田川東岸の下町地域(墨田区および江東区)を合わせた地域にほぼ一致する。
またこの朱引図(旧江戸朱引内図)には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれていたが、
これは墨引と呼ばれ、この墨引で示された範囲が、町奉行支配場(1)を示していた。
なお、朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、
ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。
つまり墨引は目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、
朱引よりも更に内側の、江戸城を中心としたより小さな環状域なのである。
こうして文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き御府内の範囲が確定した。
これにより御府内の朱引内とも称するようになり、この範囲外は朱引外と称しました。
*江戸の朱引とは、江戸幕府が江戸の範囲を示すために使った用語であり、
地図上に朱線で囲った地域として示されたことに由来する。
一般に「大江戸」として認識されているのが、この朱引の範囲であり、
現在の山手線の周辺と隅田川東岸の下町地域(墨田区および江東区)を合わせた地域にほぼ一致する。
「朱引」は1818年に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
*江戸の墨引(≒明治期の朱引)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。
江戸城の東、現在の丸の内・東京駅付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。
*大江戸とは、
江戸時代、江戸城築城以来大きく拡大していった江戸の町の広がりと繁栄を示す雅語である。
この語が定着したのは18世紀の後半とされ、その範囲は朱引として定められた。
「大江戸」という表現がみられる最も古い記録としては、
明和8年(1771年)の『本朝水滸伝』(建部綾足)、
寛政元年(1789年)の『通気粋語伝』などが知られる。
・まとめ:
江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている。
江戸時代初期(17世紀初頭)における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、
江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。
だが明暦の大火以後、その市街地は拡大し、通称「八百八町」と呼ばれるようになる。
1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった。
今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である。
当初「二里四方」といわれた江戸の町だが、
この時期には「四里四方」と言われる大江戸にまでに拡大していたという。
もっとも、江戸の原型が出来上がったのは延宝年間(1673–81年)であり、
この頃に、北は千住から南は品川まで町屋が続く「大江戸」の原型も出現したとも言われている。
さて、この範囲内が江戸の市街地で、江戸っ子が居たのかというとさにあらず。
これはあくまでの行政上の範囲で、江戸の市街地はもっと狭くて旧東京15区の範囲内。
その先は純農村でした。(今でも東京には村がある)
意味合い的には江戸市内の範囲というよりは首都圏と言った意味合いに近いのではないでしょうか。
朱引き墨引きの範囲に入っているからと言っても池袋の生まれ、
新宿の生まれで江戸っ子とはならないのです。
山手環状線は江戸の都市構造を壊す原動力となったのに対し、
大江戸線は大江戸の都市構造にかなり忠実な「環状線」といえよう。
別な言い方を すると
山手線は「東京環状線」であり、
大江戸線は 「大江戸環状線」なのである。
江戸から東京に名前が変わったその後も江戸の拡大は止まらない。
その後、都市圏の拡大により埼玉県及び茨城県を含めた区域を「東京圏」と呼ぶようになる。
東京湾沿岸部はドンドンと埋め立てられ、
埼玉は東京のベッドタウンと称し、
千葉にあるのに東京ディズニーランドを自称する。




