現実:歴史-天草・島原の乱のタタリ? - 島原大変肥後迷惑 - 〜 そして、深溝松平家の苦悩へ 〜
★天草・島原は呪われた地?
日本列島の地下には、プレートと呼ばれる岩盤が沈み込んでいます。
そのため、日本列島は常に大陸側に押さえつけられています。
プレートの沈み込みによる圧迫と、大陸からの押し返す力が作用しあった結果、
島原半島付近は半島全体が南にゆっくり移動し年々遠ざかっていることになるため、
島原半島は南に引っ張られるような力が働きます。
地表は固い岩盤で出来ている為、このように岩盤全体に広がる力が加わった場合必ずどこかがひび割れます。
島原半島が(見かけ上)南に引っ張られる事によって出来た割れ目・断層は南側が沈降しているため、
この断層を境にして海岸線が内陸側に入り込み、橘湾のきれいな円弧状の海岸線が形成されています。
これらの断層に囲まれた島原半島の中央部は今もなお沈み続けているため、
半島の中央部は本来であれば海の底に沈んでしまうはずですが、
雲仙火山があたかもそれを補うかのように溶岩や土砂を供給するため、
現在の島原半島は中央で分断されることなく、
むしろ中央に大きな雲仙火山を据えた、一続きの半島になっています。
ワンピース!?
▼島原大変肥後迷惑:
この字面だと島原で起こった騒動で、肥後の人にものすごい迷惑をかけたかのように見えますが、
もちろん違います。無論、かの天草・島原の乱の事でもありません。
では一体何がどうして、海を挟んだこの二つの藩にまたがるような迷惑とさえ呼ばれる
被害が起こってしまったのか?
これは1792年5月21日(寛政4年4月1日)
肥前国島原(現在の長崎県)は雲仙岳噴火活動によって火山性地震が発生した事により連鎖的に起こった災害である。
おりしも島原藩は、一世紀以上も前の前藩主松倉重政の悪政に対する
【寛永14年(1637年)の島原の乱】での領内の荒廃から、
ようやく復興を遂げた矢先に訪れた災難だった。
◯その前に島原の乱だが、触りだけ纏める(天草四郎は出ない)
『プロローグ』
・永禄8年(1565年)
この頃までは天草諸島と肥後国天草郡は一致していたが、
1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて起こされた幾度かの侵攻を受けて
島津氏の勢力下に加えられた。
元来、全域が肥後国天草郡だったが、
相良晴広により堂崎城 城主長島鎮真が追放(天文23年(1554年))されて以降
長島氏を庇護下においていた薩州家の薩州島津家第6代当主島津義虎が、
叔父の島津忠兼に天草の長島氏旧領・肥後国天草の長島へ攻略を命じ、
島津忠兼は派された天草の地に出兵す。
侵攻により堂崎城主・天草越前守を打ち破って長島・獅子島の両島を攻め取りこの地を薩摩国の領有とした。
以降3ヶ月に亘り長島領主として治世にあたったが天草越前守の旧臣らの中に忠兼を讒訴するものがあり、
それを信じた義虎によって義虎の居城・亀ヶ城へ呼び出され、登城してきたところを謀殺された。
その後、野田や長島で疫病や飢饉が大流行し、忠兼らの祟りではないかとの噂が立つ。
城跡にある若宮神社は今でも祟りを恐れ島津忠兼を祭っている。
・永禄9年(1566年)、
修道士ルイス・デ・アルメイダが中世に天草を治めた天草5人衆の一人、志岐氏当主の志岐鎮経(麟泉)
(天草下島の北部(現苓北町を含む)地域の領主・志岐城主)に招かれた事でキリスト教がもたらされ、
これにより志岐の地には教会が建てられ、天草がキリシタンの島と言われるのもとを作りました。
これによりトルレス・ヴィレラ・オルガンチノらの宣教師も相次いで来島した。
・永禄11年(1568年)と元亀元年(1570年)には、
この地で宗教会議も行われ信仰は広まり、信者は1万5000人、教会堂は30あまりにも達したという。
・天正9年(1581年)、
長島・獅子島などがとうとう薩摩国出水郡に編入された。
(以降、天草諸島のうち、長島・獅子島および近接する島々は、現在に至るまで鹿児島県の所属となって、
このときの国境が現在の県境ともなっている。)
・天正17年(1589年)、
志岐麟泉らは小西行長の宇土城普請にからんで反抗した為、
小西行長と援軍の加藤清正らに攻められ敗れ肥後志岐城は廃城。
『大変・島原』
松倉 勝家は、江戸時代前期の大名である。
肥前島原藩 初代藩主・松倉重政の嫡男で2代藩主であるが、
こいつが領国に悪政を敷き島原の乱を引き起こしたのだ。
どのような悪政かといえば、
父・重政と共に島原城とその城下町の新築・参勤交代の費用他、計画のみで頓挫したルソン遠征の準備など
種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、
それにより領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課した。
これには島原城を豪勢に改築(城を全面白色に塗色するなど)し、
他藩に自己の存在をアピールしようという意図があった
(外様大名故のコンプレックスがあったと小和田哲男が指摘している)と言われる。
さらに、領内に多かったキリシタンへの弾圧も残忍を極めた。
・寛永7年(1630年)、
父・重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。
・寛永11年(1634年)、
悪天候と旱魃から凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。
米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して
厳格に取り立てたことが多くの記録に残る。
・寛永14年 (1637年)-翌 15年、
肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆、島原・天草の乱が勃発した。
・寛永15年4月4日(1638年5月17日)、
乱の鎮定・乱の鎮圧後、島原藩主の松倉勝家は肥前唐津藩主の寺沢堅高と共に
領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたと、
江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責(責任を問われて)勝家は改易・所領を没収される。
・同年4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。
・同年7月19日に江戸の森家下屋敷で、大名としては異例の斬首刑に処される事となった。
なおこの時代、大名が名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処せられることは異例で
江戸時代を通じてこの一件のみである。
(また、町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて大岡忠相のみであり、
剣豪と称された人物として、大名の地位まで上り詰めた史上只一人と言える存在は柳生宗矩、
関ヶ原西軍の武将で旧領を回復できた唯一の大名は、西国無双・立花宗茂である。)
これは反乱を引き起こす原因を作った勝家の失政を幕府側が極めて重大な罪と見なしていたことを示している。
同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われるも、こちらは天草の領地を没収されるに留まった。
だが後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、結局寺沢家は断絶とあいなった。
天草が島原の乱と連動した根本的な理由は、
寺沢広高もまた天草の石高を過大に算定した事、天草の実情を無視した統治を行った事にある。
そして当初の上使・板倉重昌の嫡子である板倉重矩は父の戦死という悲運に見舞われた為、
父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際に、汚名返上と勝手に参戦し奮闘した。
これにより軍令違反と父親の戦死の不手際を問われ、同年12月までの謹慎処分を受けている。
また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。
『迷惑肥後』
・慶長6年(1601年) 、
関ヶ原の戦いで敗れた後、斬首された小西行長の領地である天草は唐津藩の飛び地となる。
関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたのだ。
このおり、領主 寺沢広高は現在の苓北町に富岡城を築いて城代を置き、
検地を行い天草の石高を合計約42,000石と算定したが、
しかしこれは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。
このため以後の徴税が過酷となり、またキリシタンの弾圧も行われ
さらに飢饉が続いたことも乱の要因となっていった。
こうして広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代になり、
先代から続く天草地方のキリシタン弾圧を更に厳しくしたこともあって、
寛永14年~15年(1637年~1638年)天草・島原の乱が勃発する事とあいなった。
江戸に参勤中であった寺沢堅高はすぐさま帰国して幕府軍とともに乱の鎮圧にあたったが、
乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した。
これは同じ乱の当事者であり当主が斬首された松倉家に比べれば軽い処分となり、
天草領4万石を収公されたに留まったのだが、
出仕も許されず、面目を喪って生き恥をさらす失意の日々を過ごしたためであるとされる。
・寛永18年(1641年)、
乱後、山崎家治が富岡藩4万2千石で入封し、
富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに当たった。
住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、
周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。
家治はその功績により讃岐丸亀藩5万3千石に加増移封され、天草は天領となった。
天領となった天草の代官に鈴木重成が任じられる。
・正保4年(1647年)、
天草・島原の乱からおよそ10年近く経つ頃、江戸の海禅寺で寺沢堅高がこの頃ようやく自殺した。
自殺の原因としては先の天草領没収による精神的動揺が考えられている。
嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった。
しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには
20年以上の月日が過ぎた、万治2年(1659年)まで掛かった。
その後の是正には、島原の乱の鎮圧から更に30年以上の年月が必要となるのだった。
天領の代官 鈴木重成は天草の復興に努める一方、
天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いき検地をやり直し、
再検地の結果に基づき石高を実収に見合うよう半減し、
石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えたが、
しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。
こうして再三の訴えも聞き入れられなかったため、重成は上表文を残して自刃した……
と伝承されてきたがこれは近代になってから作られた話で、公文には全く記載されておらず、
慰霊碑にも病死と記録があり石高も重成存命中に半減されている、ともある。
だがどちらにせよ、当時の一般的な税率は4公6民であり変わらず島民は重税に苦しんだ。
・承応2年(1653年)、
江戸の自邸で鈴木重成 死去。享年66。
翌年、重辰は養父に代わり天草の2代目代官になる。
また、キリシタン弾圧のための寺檀制度の確立と一向一揆を恐れて
浄土真宗寺院門徒の監視の為に曹洞宗の僧侶であった重成の兄により曹洞宗寺院が多数建立し、
逆に一向一揆を警戒する歴代代官は浄土真宗寺院の建立は認めず寺地を強制的に移転させたり、
門徒を強制的に曹洞宗に改宗させて弾圧した。
一方の幕府はといえば、天草・島原の乱で40万両余の費用と数千の武士を失い、
松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収したのだった。
以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。
・万治2年(1659年)、
鈴木重成の子の重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため幕府はようやくこれを認め、
養父が実現できなかった天草の石高半減に成功する。
・寛文4年(1664年)、
鈴木重辰が京都代官に就任し畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、
天草は温暖ではあるが離島が多く農業生産力が低い私領に適さないとして、
忠昌は天草を幕府直轄領に戻すことを提案した。
・寛文11年(1671年)、
戸田忠昌の提案は認められ、再び幕府直轄領となった。
そして時は流れて……
【島原大変肥後迷惑】が始まった。
・『1663~1664年の噴火』
12月より普賢岳の北北東の900mに位置する飯洞岩から溶岩が流出。
全長1kmにわたって森林を覆った。
翌年春には普賢岳南東山腹600mの低地、九十九島火口より出水があり、
安徳川原へ流れ込み氾濫が起きる。死者30余名
・『1792年の二回目の噴火』
前年の年末あたりの11月から有感地震が増え始め、震源が徐々に普賢岳のほうへ向かっていった。
翌年、1792年2月10日普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった。
・『島原大変』
その後、1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)
その東にある眉山が火山性地震により山体崩壊を起こして島原に流出。
・『肥後迷惑』
さらに有明海に流れ込んだ土砂は津波を発生させ、対岸の肥後国天草(現在の熊本県)にも被害が及んだ。
天草に30メートル級の大津波が押し寄せてきた伝承が残る。
その後も噴火は継続し、6月-7月になっても時折噴煙を吹きあげたという。
結果死者約15000人を出し、有史以来日本最大の火山災害といわれる。
生き残った人々は、地元の死者と共に、供養塔を各地に、思い思いに建て、死者を供養している。
●島原大変肥後迷惑の概要:
・1791年(寛政3年)末ごろから、雲仙岳西側で有感地震が多発。
震源が徐々に普賢岳に向かって行った。
・1792年2月10日(寛政4年1月18日)普賢岳で噴火が始まり、
溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。
溶岩は2か月掛けて2キロメートル、千本木と呼ばれた部落まで流れて止まった。
穴迫谷と呼ばれる山中の谷を埋めたと言う。
・1792年4月1日(寛政4年3月1日)から1週間ほど地震が群発し、
普賢岳から火が噴き、吹き上げられた石は雨のごとく地面に降り注ぎ、
また前に聳える眉岳・天狗岳(708メートル)に落石し、地割れが各所で起こった。
その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震が続いた。
4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。
群発地震が収まりかけたかに見えた5月21日の夜、
2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、
3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が島原城下を通り有明海へと一気に流れ込んだ。
これは日本三大崩れのうち大谷崩れ、稗田山崩れの崩壊土砂量を上回り、
この時の死者は約5,000人と言われている。
眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、
雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない。
山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの津波が発生し、
島原の対岸の肥後天草にも襲いかかった。
大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、
島原側が高さ6〜9メートル、肥後側が高さ4〜5メートルの津波であったと言われている。
夜のことでもあり人々は前山崩壊による津波とは気づかず、
朝になって前山が崩壊したと分かったと言われている。
肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。
津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている。
津波のエネルギーは崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1000程度に過ぎないとされるが、
ここからも陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。
肥後側の津波の遡上高は熊本市の河内、塩屋、近津付近で15〜20メートルに達し、
三角町大田尾で最高の22.5メートルに達した。
島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録がある。
島原大変肥後迷惑による死者・行方不明者は合計15,000人(うち約3分の1が肥後領側)におよび、
有史以来日本最大の火山災害となった。
島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。
都司嘉宣、日野貴之の研究によると合計15,000人としているが、熊本県側は5,158人としている。
この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、
九十九島と呼ばれている。
これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。
同じ長崎県の佐世保市から平戸市にかけて九十九島と呼ばれる群島があるが、
島原市の九十九島とは別のものである。
さて、天草・島原の乱の後、155年経った当時の天草は島原藩預かりであった。
・安永3年(1774年)に、
深溝松平家を藩主に頂いたのである。
そしてこの地変。
このとき天領だった島原藩主だったのは松平忠恕という人でした。
名字でわかる通り徳川家の縁戚なのですが、雲仙岳の噴火以外でも行く先々で災害に遭い、
その度に幕府に借金をして立て直そうとした、ものすごくいい人です。
が、とどめにこんなデカい噴火に見舞われてしまったために、心労で亡くなったといわれています。
島原では忠恕の息子がその意志を継いで藩を立て直したのですが、
孫の代にまた災害をくらい、厄除け祈願の直後に亡くなってしまったとか。
ついでにいうと、深溝松平家の人は島原に来て以降、ほぼ全員が散々苦労をした末、
40歳までに亡くなっています。
そして現代では平成3年(1991)の長崎県雲仙普賢岳の大噴火……
やはりこの地は呪われているのでしょうか?
いや、単に火山地帯だからでしょうね。
明治時代に設置された水準点を利用して九州各地の応力の方向と歪みの量を調べると、
別府から久住・阿蘇をへて島原にいたる地帯は、南北に伸張していることがわかる。
また、この地帯は別府-島原地溝帯と呼ばれ、東西に活断層が走り、火山が集中している。
1990年から92年にかけて噴火し、火砕流を噴出した雲仙普賢岳はこの地溝帯の中に噴出した火山である。
その山麓は多数の活断層によって切られており、
最近約100年間の測量のデータは、
島原地溝が 14mm/yearの速度で南北に引き延ばされながら、
2mm/yearの速度で沈降して いることを示している。
この水平伸張の運動が仮に100万年累積すれば雲仙火山は南北に分裂し14km離れることになり、
1000万年続けば140km離れてしまうことになる。




