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現実:食-ペプシコーラ

★ペプシコーラ:ペプシマァ~ン

▼概要:(ブラッドの飲料)

●ペプシコーラは、

アメリカの大手飲料メーカーである

『ペプシコ・インコーポレイテッド(PepsiCo, Inc,NYSE:PEP)(ペプシコ社)』

が製造・販売を担当しているソフトドリンクブランドである。

コカ・コーラやRCなどの、ライバル企業もある中、

ペプシコーラは独自の味を売りとして、大きな売り上げを果たしている。


◎ペプシコ社(PepsiCo, Inc、NASDAQ: PEP)は、

アメリカ合衆国ニューヨークに本社を置く『ペプシコーラ』で知られる食品・飲料会社である。

現在は同社の菓子ブランドであるフリトレーと合併しているが、以前は社名でもあった。

コーラの販売を主としていて、日本でもペプシコーラやダイエットペプシの名で、

様々な種類のコーラを販売しているが、

全世界200ヶ国余りで展開・活動する多国籍企業で世界第2位の食品・飲料企業である。


 ドリトスなどのスナックを中心とした食品部門と

ペプシコーラやトロピカーナなどの飲料部門で世界的に展開している。

現在はペプシコーラの会社というより世界最大のスナック菓子会社

(売上高ベース世界第1位はスイスのネスレ社)

1919年以来ニューヨーク証券取引所に上場してきたが、

2017年12月に上場先をNASDAQへと変更した。


 全般的に売上が伸び悩んでいる。

収益性は菓子部門に比べると飲料部門は低いが、非炭酸飲料は相対的に堅調。

実は従来の炭酸飲料の伸びは鈍化しているが、

中でもフレーバーつき炭酸水や職人気質のクラフトソーダ分野は伸びており、

ペプシコは消費者の需要の変化に敏感に対応している。


 フリトレーやピザハット、ケンタッキーフライドチキン、タコベルなどを傘下におさめ、

清涼飲料水以外の分野にも進出していたが、

現在はレストラン事業はペプシコ・インクよりスピンオフし、

トライコングローバルレストラン(現ヤム・ブランズ)となっている。



◎飲料部門

1894年以来のペプシコーラシリーズなどの同社の看板メニュー以外に、

・ゲータレード(Gatorade) ―スポーツ飲料で上位シェア

・トロピカーナ(Tropicana) ―1998年にペプシコが買収したチルドジュース

・マウンテンデュー(Mountain Dew) ―清涼飲料水

・セブンアップ(7up) ―フィリップモリスから買収

・リプトン(Lipton)

 ―ユニリーバ社と折半合弁会社ペプシ・リプトン・インターナショナル

 ―紅茶飲料

・アクアフィーナ(AQUAFINA)

 ―ボトル入りウォーター

 ―炭酸飲料離れした消費者はボトル入りウォーターに

 ―宅配網も強化するシェア1位のネスレが競合筆頭



またクラフトソーダ市場に続々と商品を投入

・キャレブズ・コーラ(Caleb’s Kola)

・マウンテンデュー・デューシャイン(Mountain Dew DEWshine)

・スタボーン・ソーダ(Stubborn Soda)



◎食品・スナック菓子部門

 世界最大のスナックメーカー『*フリトレー』が

ペプシコの菓子部門で、高い営業利益率があり北米で高いシェアがある。

1965年にペプシコーラ社とフリトレーが合併して現在のペプシコが誕生した。

*フリトレー(Frito-Lay)は

Frito社とRay社が合併してできたもので、それぞれの名を冠するスナックは今も同社の主力商品だ。


・レイズ(Lay’s)

 ―1932年生まれのアメリカで一番売れているポテトチップス

・ドリトス(Doritos)

 ―トルティーヤチップスで全米No.1

・チートス(Cheetos)

 ―1953年生まれのチーズスナック



◎シリアル部門

『クエーカー・フーズ(Quaker)』

 ―朝食シリアルやグラノーラバーなどを展開。

 ―百数十年の歴史あるブランド

 ―2001年にペプシコと合併




▼米国外での活動:売上の大半を海外で稼ぐペプシコ

軍需品に指定され早期に海外に販路を築いた軍産複合体コカコーラ社と比べると出遅れてはいるが、

ペプシコはそれでも半分以上を米国外で稼ぐグローバル企業である。


・ロシア:

その昔、ペプシコーラはソ連と契約した最初のアメリカ製品だったが、

2008年にロシア最大の果汁飲料メーカーであるレベディアンスキー(Lebedyansky)の買収、

2011年にはロシアの乳製品・果汁清涼飲料水で最大のシェアを持つウィム・ビル・ダン・フーズ

(Wimm-Bill-Dann Foods)を約50億ドルで買収したことでロシアのシェアトップとなり、

ロシアはペプシコにとって重要な市場となっている。

それだけにロシアの制裁の影響(ルーブル安)は大きかった。


・ドイツ:

ドイツでもコカ·コーラは大人気製品でしたが、

第二次世界大戦中にナチス・ドイツは「ヨーロッパ文明への脅威」を建前に

一般市民がアメリカ発のコカ・コーラを飲むことを好みませんでした。

そのため、コカ・コーラの原液の輸入をストップしたとも、

アメリカのコカ・コーラ社よりコーラの原液の供給停止を言い渡されたとも言われ、

そのため、コカ・コーラの代用品としてドイツのコカ・コーラボトラーが開発・生産を行ったのが

「ファンタ」という名前の果実フレーバー(無果汁)炭酸飲料だったのです。

その際、独コカ・コーラボトラーはペプシの商標を使った

(故にライセンス生産をしていた訳ではない)。


・スペイン:

フルーツ風味の炭酸飲料(フレーバー種類によっては非炭酸)ミリンダは、

元々スペインで販売されていたが、ペプシコが商標購入後、

世界各地でコカ・コーラ社のファンタと競合する商品としてブランドを展開している。

現在、日本市場や北米市場では販売されていないが

中国、東南アジア、中近東、南米などではメジャーブランドである。

名前はエスペラントで「不思議な・素晴らしい」を意味するミリンダ(mirinda)に由来する。

当初はファンタと同じく無果汁で販売されていたが、

地域によっては1976年ごろからオレンジ及びグレープに関しては果汁入りで販売されるようになった。


・日本:

ペプシコーラをサントリーが販売、トロピカーナをキリンビバレッジとの合弁会社で販売している。

そして何より国内シェア圧倒的トップのカルビーと2009年に提携し、

ペプシコのジャパンフリトレーと現金の代わりにカルビーにペプシコが20%出資した。

カルビーは北米でフリトレーの販売ルートでじゃがビーなどの売上増を目指している。


・中国:

ポテトチップスのLay’sを販売しているが、

その原材料のじゃがいもの安定的調達のために中国国内最大のジャガイモ農園を自社運営している。

中国の即席麺最大手の康師博にペプシコは飲料部門を売却し、

康師博飲品の株式の一部を取得し戦略的提携関係となった。


・メキシコ:

2019年までにメキシコで50億ドル投資

2014年に成立したメキシコの肥満税(炭酸飲料など加糖飲料に税金)は

ペプシコにとって重要な市場での打撃は大きい。


・インド:

2020年までにインドで55億ドルを投資

ペプシコは1990年にインド市場に参入した。

現地の消費者にあわせた研究開発の拡充、販売・流通網の拡大と生産能力の向上、

また政治的要因でこのような巨額の投資をしている。

1997年にペプシコは傘下におさめていた

ピザハット、ケンタッキーフライドチキン、タコベルなどのレストラン事業を

ヤム・ブランズ(YUM)としてスピンオフしている。

そして現在は、同社の好調の菓子部門フリトレーを分社化するようアクティビストから要求されている。

分社化したことによる広告宣伝費の効率的運用やコスト削減でシナジーを上回るという見方だ。




◎競合企業や関連会社


・ザ コカ・コーラ カンパニー(KO)

 ―The Coca-Cola Company

 ―コカコーラ戦争の好敵手


・ドクターペッパー・スナップル・グループ(DPS)

 ―Dr Pepper Snapple Group Inc.

 ―米3番手の炭酸飲料会社


・ネスレ

 ―Nestle

 ―スイスに本社をおく世界最大の食品・飲料会社


・モンデリーズ・インターナショナル(MDLZ)

 ―Mondelez International Inc

 ―クラフトフーズから分離した世界最大規模の菓子メーカー


・ユニリーバ(UL)

 ―Unilever

 ―リプトンでは合弁会社を設立し提携関係


・ナショナル・ビバレッジ(National Beverage)

 ―ラクロワ(LaCroix)フレーバーつき炭酸水

 ―ペプシコが参入しようとしている炭酸水では新興の競合も多い




●ペプシコーラの歴史:コカ・コーラとの確執の歴史

1894年に、

 アメリカ合衆国ノースカロライナ州の薬剤師ケイレブ・ブラッドハムが

 「消化不良の治療薬」として売り出した飲料に起源を発する。(コカコーラは頭痛薬)

 主にコーラナッツ、バニラビーンズ等を原料にしたもので彼は、

「この“elixir”(万能薬)は特に、“dyspepsia”(消化不良)に効く」

 との宣伝をした。

 よく見ると、後半に、“pepsia”と入っている。


1898年に、

 当初この飲み物は「"Brad's Drink"(ブラッドの飲料)」と呼ばれていたが、

 当初の処方では消化酵素のペプシンが含有されていたので、

 原料のコーラナッツのコーラと消化酵素のペプシンをとって

「ペプシコーラ」と名前を変更した、とある。

 それがペプシが社名の由来である。


1902年に、

 ブラッドハムはペプシコーラ・カンパニーを設立。


1908年には、

 全米200のボトラーと契約を結ぶことができた。


第一次世界大戦前には、

 全米25州にフランチャイズのボトリング工場を擁するまでに事業拡大した。

 ペプシコーラ社は第1次世界大戦までの間にはそれなりの成功を収めていたのだ。

 これは

 「ペプシコーラ社が当初からマーケティングに力をいれ、多額の資金を広告費として投入したからである」

 とペプシの元社長 R.エンリコは述べている。


第1次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)が勃発し、

 その終わり頃には砂糖の価格が 1ポンドあたり5セントから22セントにまで高騰した。

  価格がさらに上がるのを恐れたブラッドハムは砂糖を大量に買い込んだ。だが……


1920年には,

  なんと砂糖の価格は再び1ポンド当たり3セントにまで下落してしまった。


1922年に、

 ペプシコーラ社は大戦中の砂糖相場の乱高下の打撃を受けて破綻した。

 ブラッドハムはペプシコーラ社をコカ・コーラ社に会社売却を依頼したが、

 コカ・コーラ社を買収したばかりだったアーネスト・ウッドラフは、

 1ドルの価値もないと判断して拒否、申し出を断った。

 そのため、以後約15年に渡りオーナーが度々変わる不遇な時代をペプシは過ごした。


1923年に、

 コカ・コーラ社に見捨てられた最初のペプシコーラ社は破産し、ブラッドハムはただの薬屋に戻った。

 ペプシ社は、ノースカロライナの財閥であるクレーヴン・ホールディング社に3万ドルで売却された。

 それを3万5千ドルで買い取り、会社を再建したのは、

 ウォール・ストリートの株式仲買人ロイ・メガーゲルであった。


1923年〜1928年まで、

 会社は毎年赤字を出し、メガーゲルは毎年のように自分の資金で穴埋めをしなければならなかった。


1928年に、

「Peps You Up!」


1929年には、

「Here's Health!」と、キャッチフレーズだけは活気に溢れていたが、

 株式相場が大暴落するとメガーゲルの穴埋めも不可能となる。


1931年の初期に、

 ペプシコーラ社は2度目の倒産を経験することになってしまったのである。


1931年7月、

 ペプシの商標はドラッグストアとソーダ・ファウンテンの経営者で

 全米のキャンデーストアを牛耳るチャールズ・ガスによって買い取られる。

 実は、彼はコカ・コーラ社と利益の分配で対立していた。


  ガスはかつて全米のキャンデーストアで大量のコークを売っていたが、

 コカ・コーラ社に大口販売に対する値引きを求めたのである。

 しかしコカ・コーラ社はそれを断った。

 怒ったガスはコークに三行半を突きつけて、メガーゲルからペプシを買い取ったというわけである。


  この時メガーゲルは 6年間にわたり原液1ガロン当たり2.5セントの特許権料を受け取ることになっていた。

 故に彼はめでたく投資の一部を回収したことだろう。


  ガスはペプシの味が気に入らなかったのでまず調合を変えさせた。

 原液の配合をコカ・コーラに類似したものに変えさせたのだ。

 そして自分のキャンデーストアからコークを追放しペプシを販売した。

 当時コカ・コーラ社は模造品を見つけては告訴していたが,

 ガスはそうならないように

「ペプシをコークの代わりとして販売してはならない」

 と従業員に徹底した。

 しかしそうまでしなくても,ペプシの売り上げは芳しくなかった。


1933年、

 ガスは、これまたコカ・コーラ社にペプシを5万ドルで売却すると申しでる。

 しかしコカ・コーラ社は、3度目にして最後の申し出を断った。


  こうして薬剤師ケイレブ・ブラッドハムが

 「消化不良の治療薬」として売り出した飲料に起源を発するペプシコーラは

 砂糖相場の乱高下の打撃を受けて最初の破産をし、

 この際コカ・コーラ社に最初の会社売却の申し出をするも買収を拒否され、

 結局クレーヴン・ホールディング社を経由して

 投資家のロイ・メガーゲルが3万5千ドルでペプシを買収するものの、

 彼もブラッドハムと同じく成功からは遠く、

 経営は振るわず再度会社売却することになるが再びコカ・コーラ社は買収を拒否し、

 今度はコカ・コーラ社と利益の分配で対立していた

 全米の駄菓子屋キャンデーストアを牛耳るチャールズ・ガスによって買い取られるも

 ペプシの売り上げは芳しくなかったので、

 これまたコカ・コーラ社にペプシ社を5万ドルで売却すると申しでるも

 3度目にして最後の申し出も断ったのだ。


  アトランタの巨人コークにとってペプシなど,全く取るに足らない相手だったのである。

 当時もコークの模倣品を販売していた会社は数多くあり、

 そのほとんどはこのようにして倒産していった。


 〜 これらがその後も長らく続くコカ・コーラとの確執と因縁なのである。 〜


1934年、

 時は大恐慌時代真っ只中である。

 1930年代の大恐慌の時代にソフトドリンクは6オンスを5セントで売るのが普通であった。

 なのでチャールズ・ガスは12オンス入りの中古のビール瓶を安く買い込み、

 それを6オンス入りのコークと同じ5セントで売り出したのだ。


  つまりコーラの瓶より内容量の多いビール瓶に瓶詰めして

 コカ・コーラと同じ値段で売る低価格戦略で攻勢に打って出たのだ。

 そしてこれが当たりようやくペプシは経営が安定し、

 この時からペプシの売り上げは上向き始め,同年は9万ドルの利益を上げている。


  しかし、事態はなかなか一筋縄にはいかないもので、

 ガスが社員の給与を引き下げたのをきっかけに社員が暴徒化、

 ガスは辞任に追い込まれる。


1938年に、

 結局ウォルター・マックがペプシの新社長に就任した。

 彼はマーケティングの才能に長けた人物だったらしく、

  飛行機で空からの広告キャンペーンを繰り広げたり

「ペプシとピート」なる漫画を新聞や雑誌に連載したりといった作戦が効果を上げた。


1940年には、

 ラジオのCMソングが空前の大ヒットとなる。


  ペプシ・コーラがぴったりだ

  12オンスはたっぷりだ

  5セントで倍飲める

  ペプシ・コーラでいこうじゃないか

 

 当時ラジオのCMは5分以上も商品の売り込み口上が続くのが普通であったから、

 この1分足らずのCMは随分と短すぎた。

 それでもこのCMは大ヒットしレコードの売り上げは10万枚を突破。

 通常なら金を払ってCMを流してもらうところを、

 ラジオ局が無料で30万回も全米に放送する異常な事態となった。


 ……しかし第二次世界大戦(1939年〜1945年)で、アメリカはコークを選択することになる。


1948年には、

 ペプシコーラはニューヨークに本社を移した。

 こうしてペプシコーラはただの5センとの安コーラというイメージを払拭し、

 明るくさわやかなドリンクへペプシコーラのイメージを変えることができ、

 かくしてペプシは大成長を遂げた。

 第二次世界大戦下では軍需品として特別扱いされたコカ・コーラに引き離されてしまうものの、

 コカ・コーラから移籍してきたアル・スティールによって、

 自動販売機での販売を開始すると再び成長軌道に乗ったからだ。


1950年代初め、

 社長のアルフレッド・スティールがしゃれたデザインのボトルを採用し、

 ペプシコーラを軽い、低カロリーのソフトドリンクと位置づけ、

 妻で女優のジョアン・クロフォードと精力的な宣伝活動を展開する。


1954年には、

 海外部門を設立し、海外市場に進出した。


1958年、

 洒落たデザイン、スワールボトルを採用。

 スワール(乱流)とは、流体の流れ場の状態の一種で渦状の流れのことであり、

 よってスワールボトルとは渦状のデザインのボトルの事である。

 具体的には、スワールボトルというのは斜めにねじったような形の瓶で、

 瓶を横から見ると右上がりの線が入っています。

 今のロゴに描かれている円形はスワールボトルを連想させるものです。


1959年には、

 社長のドナルド・ケンドールにより

 かつて顧問弁護士であった当時のアメリカ副大統領リチャード・ニクソンの紹介で

 ソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ書記長にペプシコーラのサンプルを送り、

 試飲させることに成功。これぞニクソンショック(笑

 ペプシコーラはその年に開催された世界博覧会のヒット商品となる。

 

 ニクソンは第二次世界大戦開始により入隊し、終結に伴い少佐で海軍除隊後、

 ペプシコ社の弁護士になりペプシコーラの世界進出に協力。

「アメリカの産業を保護する」という大義名分のもとに

 各国の炭酸市場での販路拡大活動に活躍していた経歴があったのだ。


1963年、

 ベビーブームの時代に生まれた世代を”ペプシ・ジェネレーション”と名付け、

 過去にしばられず、未来へ向かう若者を「ペプシの象徴」とする大々的なキャンペーンを開始。


1965年に、

 ペプシコーラ社とフリトレーが合併して現在のペプシコが誕生した。

 フリトレー(Frito-Lay)はFrito社とRay社が合併してできたもので

 それぞれの名を冠するスナックは今も同社の主力商品だ。


1970年代に、

 ニクソンが大統領に就任。

 ペプシコーラはソビエト連邦政府と20年間の独占契約をした。

 これによりソ連と契約した最初のアメリカ製品となる。

 この後、ソビエト連邦ではペプシコーラは一般的に入手することが可能となり、

 他の共産圏諸国(東ドイツ、ルーマニアなど)でも販売された。


1973年には、

 ソビエト国内で生産される初めてのアメリカの消費者商品となった。

 企業イメージカラーは青なのに……


1975年に、

 “ペプシ・チャレンジ” キャンペーン開始。

 ブランド名を隠して行われたコカ・コーラとの味覚調査で

 ペプシコーラが消費者から高い評価を得たことから、

 消費者がペプシコーラとコカ・コーラを試飲し、

 どちらが好きかを選ぶ様子を”ペプシ・チャレンジ”として

 そのままコマーシャルとして放映し、大きな反響を呼ぶ。


 実はペプシコーラの宣伝でよく使われているのが、コカ・コーラと比較した比較広告である。

 その先駆けとなったのが、ペプシチャレンジであるが、

 このペプシチャレンジのキャンペーンは日本でも実施されたが、

 放送倫理などの問題があってか、「こちらのコーラを選びました」と、

 ペプシを選んだデータだけを強調するものになっている。

 この比較広告の方法は、アメリカでは大統領選挙などでも見られるポピュラーなものだが、

 日本人にはなじみが薄く受け入れられなかったのだ。


1977年、

 スーパーマーケット、コンビニエンスストアなど

 消費者が自らブランドを選択して購入できる市場において、初めてコカ・コーラを追い抜く。

 ピザハットを傘下に加える。


1981年、

 マーケティングに優れた役員を探していたアップルコンピュータのスティーブ・ジョブズが、

 当時ペプシコーラの事業担当社長をしていたスカリーに白羽の矢を立て、

 18ヶ月に渡って引き抜き工作を行った。

 なお、彼はジョブズよりも16才も年上だった。


  アメリカにおいてペプシコーラのマーケティングを担当し、

 後に社長となったのがこのジョン・スカリーであるが、

 彼の自伝の中では

『14歳の時テレビのブラウン管に関する発明をしたが、すでに特許が出ていた。

 それが後のソニーのトリニトロンであった』

 と語っている。


 この時スカリーを口説くために、彼が述べた言葉である、


「このまま一生砂糖水を売り続けたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいのか?」

 英語: Do you want to sell sugared water for the rest of your life,

    or do you want to come with me and change the world?

  —スティーブ・ジョブズ

 は、有名な一節である。

 

「もし私の仲間になれば、世界の半分をお前にやろう」とか「力が欲しいか」とかの類である。

 自身はリンゴ屋(隠語)のくせに生意気である、さすがは世界のジョブズ!

 なお、ジョブズはリンゴの食べ過ぎ(果糖の取りすぎ)で亡くなったとの説があるそうだが。


  彼はやがてペプシコーラ社長とアップルコンピュータの社長・CEOを歴任することになる。


1983年に、

 こうしてジョン・スカリーはスティーブ・ジョブズに口説かれて

 アップルコンピュータに入社することになった。

 こうしてペプシコーラの社長職を放り出し……ゴホン、投げ売って……いや、擲って

 苦境のアップルに華麗に転身したのだ。

 そしてアップルコンピュータは、スカリーとジョブズとのダイナミック・デュオと呼ばれた体制に移行した。


1985年4月23日、

 コカ・コーラ社がニュー・コークなる物を発表する。

「コカ・コーラは何故、90年に及ぶ歴史と伝統のコカ・コーラを捨て、

『ニュー・コーク』なるものを発表するに至ったのか。

 それはペプシがコークに勝ったからだ」と、

 ペプシコ社の社長であったロジャー・エンリコは断言し、

 ロジャーは当時どのようにコカコーラ社と競争していったかを執筆している。


  ロジャー・エンリコ、ジェシー・コーンブルース

『コーラ戦争に勝った!

  ―ペプシ社長が明かすマーケティングのすべて―』

(原題:THE OTHER GUY BLINKED: HOW PEPSI WON THE COLA WARS)


1985年5月24日、

 ジョン・スカリーはアップルコンピュータの取締役会で、

 面倒くさい彼女のように、自身とジョブズの一方を選ぶよう選択をせまり、

 ジョブズは5月31日にアップルでのすべての仕事を剥奪されアップルを去った。

 こうしてスカリーはジョブスを追い出した男として知られる事になる。


  なお、ハード担当責任者であったガセーがスカリーと対立して失脚し1990年アップルを去ると

 スカリーは自身が技術者でないにも関わらずCTO(最高技術責任者)に自分を任命した。

 しかし、個人用携帯情報端末 (*PDA) ニュートン(商業的には失敗した)や政治など、

 主力のマッキントッシュに力を注いでいないスカリーにアップルの取締役会は不信の目を向けるようになり、

 業績が大幅に悪化したこともあって1993年6月18日、

 ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にCEOをとっとと退任した。

(*PDAとは、ジョン・スカリー が開発の後期に作り出した言葉とされる。

 スカリーはPDAについて、

「基本的な概念は5年ほど前に考えた“ナレッジ・ナビゲーター”だ。

 いまのパソコンより使いやすくデジタル技術で通信も取り込めて、

 単なる“道具”以上に人間のいろいろな活動に役立つ。

 例えば、電子書籍やインテリジェント機能を持つ移動通信機器もその対象だ」

 と述べている。

 だが、ただしニュートンは、そもそもはPDAを目指していたのではなかった。

 プロジェクトが空転し、何度も再設計させられたニュートンのマーケット担当者が

 ジョン・スカリーを追いつめてPDA、つまり携帯専用という視点を吹き込んだ訳なのだが)


  だが、元Apple CEOのジョン・スカリーが今までの自分自身のキャリアを振り返り、

 Appleにとっての最大のミスは自分をCEOとして迎えたことだと無責任にもコメントしています。

 その理由は、自分は第一候補ではなくジョブズこそが第一候補であったこと、

 ジョブズ自身がCEOになりたがっていたことだと言い放ちます。

 ジョブズは当時25,6歳。

 その若さゆえに、取締役会は彼の就任を認めませんでした。

 結果スカリーに白羽の矢がたち、ジョブズとパートナーとして仕事をするという形がとられたのだと。

 だが、アップルのCEOになったことで取締役会が自分とジョブス氏を引き裂いたのだ、と語っている。

 ただし彼のジョブズ追放後の経営責任については、すっとぼけているもよう。


1986年、

 UPを傘下に加える(米国を除く)。

 ケンタッキー・フライドチキンを傘下に加え、世界最大のレストラン会社となる。


1997年に、

 傘下におさめていたピザハット、ケンタッキーフライドチキン、タコベルなどの

 レストラン事業をヤム・ブランズ(YUM)としてスピンオフしている。


1998年、

 ペプシコーラ生誕100周年。

 ブルーをベースにした世界統一のパッケージ「新ペプシコーラ」を発売。


1999年、

「コーラの美しさ(The Joy of Cola)」広告キャンペーンを開始。

 ペプシコとサントリー株式会社が

 ノースカロライナ及びニューヨークにおけるボトリングのネットワークをつなぐ

 合併会社を発足する契約を締結。


2000年、

「ペプシ・チャレンジ」が復活。

 最大のウェブナビゲーション企業Yahoo Inc.と組み、

 ティーン層及び若い成人を対象にマルチメディア・マーケティング・キャンペーンを実施。


2003年、

 ペプシコーラの商標が100周年を迎える。

 英国フットボール協会(サッカー)と4年間のスポンサーシップ契約を締結。

カナダアイスホッケー協会と4年間の独占スポンサーシップを締結し、公式飲料となる。

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