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現実:食-コカ・コーラ

アトランタの巨人、ザ コカ・コーラ カンパニー

★コカ・コーラ:

 コカ・コーラ (英語: Coca-Cola) は、

ザ コカ・コーラ カンパニーが製造販売するコーラの名称である。

別称、コーク (Coke)。


 コカ・コーラの名称の由来は、

当初、コカの葉(成分としてコカインを含む)とコーラの実(当時はほぼアフリカ産)を

原材料に使っていたことによる。

ただし、どちらも現在のコカ・コーラの主成分ではなく、

コーラの実も他のコーラ飲料と同様に、風味に殆ど影響を与えない微量である。


 アメリカ合衆国で発明された世界初のコーラ飲料は、ジョージア州アトランタ発祥。

1886年、薬剤師のジョン・S・ペンバートン博士により生み出され、

以降120年以上にわたり、国境や文化を越えて世界中の人々に愛されており、

その規模は200以上の国や地域に及びます。

現在も本社はアトランタにあり、同地にある「World of Coca-Cola 博物館」には、

多くの観光客が訪れ、博物館では世界各国のコカ・コーラの味を比較できる。

コーラは各社で味が違うが、同じコカ・コーラ社製品であっても、国によって味が違うようです。


 コカ・コーラの元となる原液は極秘レシピで、

ザ コカ・コーラ カンパニーで調製されたコーラの原液が世界各地のボトリング会社に流通し、

現地各社によってコーンシロップ・砂糖などで薄められ、さらに炭酸水で割られて、

瓶詰め・缶詰めされ販売されるが、原液にコーンシロップや砂糖、炭酸水を加える工程を

各国のボトラーが別の工場で各自で行っているので同じ原液を使っていても

国によって供給できる水(軟水、硬水など)、甘味成分などの原材料が微妙に違うため

味や風味に違いが出るようです。


 特にメキシコのコーラが美味しいと、アメリカでは評判らしいです。

それは、甘味料の違いだといわれています。

アメリカのコーラには「とうもろこし由来の果糖ブドウ糖液糖」が使われており、

メキシコのコーラには、「さとうきびからできる純粋な砂糖」が使われているとのこと。

この砂糖違いが味の違いを出しているようです。

ちなみに、日本のコーラは、砂糖とアメリカと同じ果糖ぶどう糖液糖を混ぜたものを使用しているそうです。

また、他の国のコーラも、砂糖やフレーバーの違い、炭酸の強弱などで微妙な味の違いが出ているようです。




▼『コークレッド』:

コカ・コーラ「ペプシコーラ……知らない子ですね。」

ペプシコーラ「赤い悪魔め!」



「コカ・コーラ」と聞くと多くの方が連想するものの一つに、

鮮やかな赤色があるのではないかと思います。

では、実際、いつ、どのような経緯で「コカ・コーラ」のシンボルカラーは赤色になったのでしょうか?


 ザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)の歴代製品や関連アイテムを保管する

アーカイブ庫の責任者、テッド・ライアンにこの質問をぶつけてみると、

「起源は『コカ・コーラ』の誕生時にまでさかのぼるんですよ」という答えが返ってきました。

コカ・コーラ社のコーポレートカラーは、

発売当時の「コカ・コーラ」を運搬していた"樽の色"に由来しています。

コカ・コーラ社では、この赤色を「コークレッド」と呼び、ブランドの資産として大切にしています。

「この赤い色を見れば誰もがすぐに"コカ・コーラ"だと認知して頂ける」

お客様の印象に残る、コカ・コーラブランドの色です。


 この赤色は、1888年に実業家のエイサ・キャンドラーが「コカ・コーラ」の調合法を買収して

コカ・コーラの事業も引き継いだ際、

シロップを運ぶ樽を全て赤く塗ってアメリカ中を沸かせた事が始まりといわれています。


 また、赤と白の色のコントラストがお気に入りだったロビンソンは、

「コカ・コーラ」ロゴにもこのツートーンカラーを用いました。

そして、「おいしくさわやかな」という意味のコピーを添えて、

最初の「コカ・コーラ」広告を完成させたのです。

つまり、この時点ですでに、赤色は「コカ・コーラ」にとって欠かせない色になっていたのです。

「それ以来、赤色は『コカ・コーラ』のシンボルカラーであり続けています」

とライアンは言います。


「コカ・コーラ」の赤い丸看板が登場した1948年には、

「コカ・コーラ」=赤色という認識は、一般消費者の間にも広まっていました。

「店先に真っ赤な丸看板が掲げられていたら、

『ここではキンキンに冷えたおいしい<コカ・コーラ>が飲めますよ』ということを、

 お店から保証されたようなものだったんです」とライアンは説明します。


 また、「コカ・コーラ」ロゴが真ん中に配された赤い丸型の看板が米国で初めて登場したのは、

今から約70年前の1947年のこと。

この看板は金属製が一般的で、ボタンのような丸みを帯びた形状をしており、

直径30センチメートルから1.2メートルまでの5サイズが存在しました。

また、基本的なデザインは赤地に白いロゴの入ったシンプルなものですが、

背景に「コカ・コーラ」ボトルやその6本パック、果物やロブスターの絵が描かれたものや、

小売店の要望に応じて独自の絵が印刷された特注ものも存在していました。


 こうして「コカ・コーラ」の販売店の多くは、店名を記した看板とともに、

この看板を建物の外壁に掲示していました。

その影響で、赤い丸型の看板は屋外広告の定番として、幅広く認知されるようになります

(街中や渋滞しがちな通り沿いで人々の目の高さに掲げられていた看板は、

かなりの広告効果を発揮したようです)。


ですが、1948年以降は屋外での使用にとどまらず、

装飾として店内の壁に掲げられることも多くなりました。

赤い丸型のデザインは看板だけでなく、

1960年代にかけてつくられた多くの広告印刷物にも使用されていましたが、

70年代以降になると、“フィッシュテール”と呼ばれるアーチ型のロゴが使われるようになっていったのです。




▼コカ・コーラ誕生の歴史:コカインを使った薬用酒『フレンチ・ワイン・コカ』

             渾名 『ドープ(dope=麻薬)』

 

  19世紀末期のアメリカでは、医者不足から代替医療、

 殊に自然療法や万能薬が広く庶民に多く受け入れられ、

 自然療法医や薬剤師は自らの治療法や薬剤の売り込みに躍起になっていた。


  19世紀末から20世紀初頭は、科学とオカルティズムの時代である。

 この時期(1875年)に、ブラヴァツキー夫人と呼ばれる女性が

 ニューヨークで設立した近世最大の神秘主義団体(オカルト団体)

(そのロンドン支部には後に魔術結社「黄金の夜明け団」を設立する

 ウィリアム・ウィン・ウェストコットやW.B.イェイツなども加入していた)

 『神智学協会』にトーマス・エジソンも入会していました。


  またその前時代に当たる19世紀前半には、

「終末論」(eschatology)から生まれた*千年王国思想を信仰した人々は、

 千年王国がこの世に現れるまでに現世をできるだけ改革しておくことが

 千年王国を待つ人間の義務だと考え、そのため千年王国思想を信じる様々な人々は、

 社会矛盾の克服を目指して奴隷制廃止や女性の地位向上などの社会改革思想を共有し活動を行った。

 この千年王国思想を持っていたのは、ユートピア的生活共同体を形成したグループや

 心霊主義者スピリチュアリストであった。

 ユートピア的生活共同体のメンバーが同時に心霊主義を信仰していたり、

 また、千年王国思想を持つキリスト教の宗派に属する人が心霊主義も信仰するということがあった。

 *千年王国思想とは、かいつまんで言うとイエス・キリストがもう一度復活し、

 それからの千年間人々が幸福に生きる世界が実現する(千年王国が到来する)という信仰で、

 これは新約聖書「ヨハネの黙示録」第20章に基づくものである。

 なお仏教における「仏の教えが廃れる乱世である末法の世」の末法思想は、

「この世の終わり」を意味する終末的思想と同意義と見る向きも多い。

 まあ、それは兎も角、


  この時代、アメリカでは様々な発明が博士や発明家によってなされていた。

 健康食品として販売(1894年)された代表的シリアル食品のケロッグの生みの親

 ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ博士や、

 ピーナツ博士で有名なジョージ・ワシントン・カーヴァー、

 ソリュブル・コーヒーを発明した加藤了博士、

 はたまた電球の普及が最大の目的で発電から家庭への送電・配電事業化に成功したエジソンなど。 


  なお、エジソンは電球だけでは電気事業の立ち上げには不十分であるので、

 それ以外にも電気の使い道の提案が必要であるとトースターを開発したとされるが、

 その際の売り込みで、今まで人々が取っていなかった朝食を取らせるように盛大にキャンペーンを行いました。

 エジソンは一日三食皆が食べるようになれば、電気トースターの売り上げが伸びると考えたからだ。

(さらに言えばトースターは発売当初、他の電化製品に比べて電力のコストがかかった)


 この為記者会見で、

 「どうやったら貴方みたいに頭がよくなるんですか?」

 と問われると、

「1日3食かかさず食べる事だ、1日3食が健康によい。

  アメリカ人が健康を保つために1日3食きちんと食べるべきだ!」

 と力説し1日3食を提唱。

 当時から著名人であったエジソンの言葉に皆があやかろうとしたわけです。

 こうして一日二食だった習慣から三食とる人が増え、

 そこから人々の食事は1日3食が当たり前になっていったそうです。


  もっとも朝食の重要性が大きく取り上げられるようになったのは、

 1944年に行われたシリアルを販売する会社(例のあの会社?)のキャンペーンが始まりだとも。

 「Eat a Good Breakfast—Do a Better Job(いい仕事をするには良い朝食をとろう)」

 と名付けられたキャンペーンでは、

 「栄養学の専門家は1日の食事のうち最も朝食が大切だと語っています」

 とラジオで広告を流すとともに、

 朝食の重要性をうたうプロモーションのためのパンフレットが食料品店に配られました。



  - 閑話休題 -


  その一方で、1867年に人工的な炭酸水の製造法が発明されると、

 当時は何らかの効能があると思われていた炭酸水を客の注文に応じて調合して飲ませる

 ソーダ・ファウンテンが薬局に併設されるようになった。

 こうして売り出された炭酸水には、当然薬効を謳うものも多く万能薬同様に売り込み競争が激しかった。


  そんな自然療法家の一人に、

 ジョージア州アトランタを拠点に活動するジョン・S・ペンバートン (John S. Pemberton) がいた。

 南北戦争で負傷したペンバートンは痛み止めのモルヒネ中毒になっており、

 中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。


  一方の英国のシャーロック・ホームズはと言うと、事件がなく退屈すると、

「何か事件が起こらないかな〜」

 などとつぶやき、危ない一人遊び(コカインやモルヒネを使う薬物依存)の癖があったため、

 薬物に手を出すのはワトソンが何年もかけて止めさせたそうだ。

 


1885年、

 この種の薬用酒には既に類似品が多く出回っていたのでペンバートンは、

 ワインにコカインとコーラのエキスを調合した

『フレンチ・ワイン・コカ』を精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として売り出した。


 『フレンチ・ワイン・コカ』は「ドープ(dope=麻薬)」

 と言う渾名で人気を博したが、やがてコカインの中毒が問題となるとともに、

 禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。


1886年5月8日、

 そこでワインに代えて炭酸水の風味付けのシロップとして売り出すことにして、

 ペンバートン博士の友人で、ビジネスに発売当時経理を担当として参加した

 印刷業者のフランク・M・ロビンソンによって「コカ・コーラ」と名づけられ発売される。

 なお、スペンサリアン体と呼ばれる優雅な書体を用いたロゴを考案したのも彼である。


  しかし日本コカ・コーラ株式会社は、

 禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきたという

 アメリカ側の説明を完全に否定しており、

 あくまで名称の由来は「語感がいいから」「リズミカルで覚えやすい」ので

 この名前がいいと考えてつけたものだという単純な理由だとしている。


  ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功したものの、

 健康を害したペンバートンは早々にその権利をたった1ドルで売却してしまう。

 さらに権利関係の複雑さから、数年間は人から人へと権利が移り、

 裁判で争いになることもしばしばだった。


1888年に、

 コカ・コーラの権利は結局、エイサ・キャンドラー(後にアトランタ市長)の手に落ち、

 キャンドラーはペンバートンの息子らと共にコカ・コーラ・カンパニー(以下、コカ・コーラ社)

 を設立する。


 Coca-Colaのロゴ・Delicious and Refreshing(おいしく、さわやか)のキャッチコピーと

 一杯5セントの大量販売、さらに原液のトレード・シークレットによる機密保護によって

 キャンドラーのコカ・コーラ社は多くの収益を得た。


 コカ・コーラ社は香料レシピを公開していないところから、

『それを知る人物は重役2名だけで1名が突然事故などに遭遇しても存続するために

 2人が同じ飛行機に搭乗しない』

 という都市伝説が喧伝されている。

 原材料に豚血液が含まれるなどと噂された時期は、

 ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したという。


 だが、この時代において特記すべきなのは、瓶詰めの販売方式を採用したことであろう。


1899年に

 弁護士のベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドは、

 キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰め権利を取得。


 2人はそれぞれボトリング会社(親ボトラー)を創立し、

 その会社がさらに全米各地のボトリング工場(現地ボトラー)とフランチャイズ契約することで

 コカ・コーラは広く全米に普及していったが、

 ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発した。


1903年以降、

 公式にはコカインの成分は含まれていない事になっている。

 なぜならアメリカ国内でのコカイン販売がようやく禁止されたからである。

 このためキャンドラーは原液の処方からコカインを取り除くことで事態に対処するが、

 一方で内国歳入庁との裁判闘争や類似品や商標の侵害に対する訴訟に明け暮れていた。


 しかし何よりもキャンドラーを悩ませたのは、

 ハービー・ワシントン・ワイリー率いるアメリカ食品医薬品局(FDA)との長きに渡る紛争なのは間違いない。


1909年に、

 FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、

 原液を押収した上で裁判に訴えたが、

 結局のところ(FDA側の証人の主張が余りに不適切に過ぎたため)コカ・コーラ社は裁判に勝ったものの、

 原液に含有しているカフェインの量を減らさざるを得なかった。


1913年に、

 品質管理と訴訟対応のためにボトラーをボトラー協会の下に組織化することになった。


1916年には、

 コーラの瓶の標準化を行った。

 ザ コカ・コーラ カンパニーで調製されたコーラの原液が世界各地のボトリング会社に流通し、

 現地各社によってコーンシロップ、砂糖などで薄められ、さらに炭酸水で割られて、

 瓶詰め・缶詰めされ販売される。


1919年に、

 FDAとの紛争に決着がつき、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下を乗り切った時、

 投資家のアーネスト・ウッドラフがキャンドラーにコカ・コーラ社の企業買収をもちかける。

 キャンドラーは多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、

 新たにウッドラフによってデラウェア州でコカ・コーラ社の商標と事業を引き継いだ

 会社が設立された(このため公式的には1919年設立になっている)。


1923年、

 アーネスト・ウッドラフによる買収から4年が経った頃、

 アーネストの息子のロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff) が

 父親の反対を押し切って社長の座に就く。


  以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、経営の采配を振ることになる。

 折りしも1920年代、禁酒法によりアルコールが販売禁止になり、

 ノンアルコール飲料の売れ行きが伸びた。

 その中で、ロバートは広告に力を入れると共に瓶入りコカ・コーラの拡販にも注力、

 品質管理を徹底した。


  また、コカ・コーラが海外へ進出したのもこの頃である。

 コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルはここでも採用された。


1930年に、

 特にドイツで現地法人の責任者となったマックス・カイトによって売り上げを伸ばし、

 ベルリンオリンピックでもコカ・コーラを提供する栄誉に与った。


  しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されると、

 何とか原料を遣り繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。

 これはファンタと名付けられて、後にコカ・コーラの世界的な商品となった。


 これはリンゴジャムとチーズの製造工程中に生じる副産物:

 リンゴの果肉と乳清ホエーから開発・製造されたもので、

 味は果汁入りオレンジジュース : コーラ : レモンジュース を

 0.375 : 0.375 : 0.25 位の割合で混合したものとされている。

 ビタミンCとカフェインも添加された上で粉末ジュース加工され、

 第二次世界大戦戦地のドイツ軍にレーションの一部としても支給。

(開発・生産を行った際にはペプシの商標を使った)

 現在のファンタの味と共通する部分はほとんどありませんでしたが、

 大変人気がありました。


1930年代に入ると、

 世界恐慌の打撃は軽微に済み、禁酒法の廃止も左程業績に響かなかったものの、

 ペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めた。


1939年に、

 第二次世界大戦が始まると、ロバートは以下の様に宣言し、戦争への協力姿勢を示した。

《我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、

 またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする。》


 加えてロビー活動を熱心に行い、その結果コカ・コーラは

「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ軍需品として認可。

 つまりコカ・コーラ社は軍需産業に鞍替えしたのである。


 砂糖の配給制も免除される特典も受けた。

 さらに、政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、

 そこで働くスタッフは技術顧問 (TO) として軍人同様の待遇が与えられた。

 当然のことながらアメリカ軍の指揮官にも、コカ・コーラは人気の的だった。


1943年6月29日に

 連合軍の最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワーは、

 ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長に以下の電報を送っている。

「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、

 洗浄機および栓を至急送られたし」

 マーシャルはこの電報を受けて、

 海外の駐留部隊に必要且つ便利な物品を充分な量入手させよと命令書を発している。


 連合国の一つ、ソビエト連邦の指揮官だった共産主義者( コミー )ゲオルギー・ジューコフも、

 コカ・コーラが大のお気に入りだった。


  指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だった。

 イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともありさらに、

 コカ・コーラの空き瓶は、電気絶縁体の代用、戦闘機のタイヤをパンクさせるための"爆弾"、

 非常食とするウミガメを捕るための武器、小便器として使われたりもした。

 瓶を詰めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したし、コカ・コーラで歯磨きをする兵士もいれば、

 恋人にコカ・コーラで膣を洗うのを薦める者もいたほどである。


 極めつけは、ある技術顧問がカンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手に

 コカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば? と冗談交じりに話したところ、

 バルジの戦いで神父が聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのを目にした

 というエピソードであろう。


  第二次世界大戦で、アメリカ軍の軍需品として世界に広まったコカ・コーラは、

 冷戦の最中には資本主義・アメリカ帝国の象徴として扱われることになった。

 特に海外進出の際に、現地でパートナーとした企業の多くが、

 有力者や大地主・財閥、時にはアメリカ資本の多国籍企業だったりしたことが、

 そのイメージに拍車をかけることになった。


 そのため、資本主義陣営=西側への反対が、

 しばしばコカ・コーラへの攻撃と結びつくことも多かった。

 特にヨーロッパでは、マーシャル・プランに反対する左翼が、コカ・コーラ排斥の先頭に立ち、

 時として民族資本の飲料メーカーや酒造メーカーがこれを後押しするという現象が目立った。


 東側の共産主義地域への進出でも、ペプシコに後れを取った。

 ソビエト社会主義共和国連邦への進出は1978年まで待たねばならず、輸出も困難であった。

 前述のジューコフは、コカ・コーラを密かに飲みたいと思っており、

 マーク・W・クラーク将軍を介して無色透明のコカ・コーラ(ホワイト・コーク)を

 特別注文して送らせている。

 アラブ・ボイコットの影響

 (イスラエルに真っ先に工場を建設したことがアラブ諸国の怒りを買ったことによる)で、

 中東でも進出が進まなかった。

 逆に中華人民共和国へは、1978年にアメリカ企業として初めて進出を果たし、3年間市場を独占した。


1970年代半ば以降、

 ペプシがコカ・コーラとの比較広告によって売り上げを伸ばし、

 各種の市場調査や味覚調査でもペプシに軍配があがるなど、

 コカ・コーラの先行きには不安が付きまとっていた。


1985年4月24日に

 ニュー・コークとして発売した。

 当時CEOだったロベルト・ゴイズエタとCOOだったドン・キーオは、

 カンザス計画と呼ばれる秘密計画を実行。

 発売100周年の1986年を前に一度だけ、

 コカ・コーラのその味を根本的に変えるという暴挙に出て改革した試み。

 当時臨終の淵にあったロバート・ウッドラフを説得して

 綿密な市場調査と広告戦略を駆使したとされるが、

 しかし、ニュー・コークは消費者の不評を買い、

 コカ・コーラ社には抗議の手紙や電話が殺到する事態に。


 わずか2カ月半後の7月10日には、

 元のコカ・コーラを『コカ・コーラ・クラシック』として再び販売せざるを得なくなっていった。


 『コカ・コーラ帝国の興亡』の著者、マーク・ベンダグラストは

 「ニュー・コーク」の失敗を以下のようにまとめている。


「ニュー・コークの大失敗の結果、元のコークは400万ドル以上にも相当する宣伝効果に浴し、

 その効果と比べればコカ・コーラ社の下手な広告は役立たずも同然だった。

 今や由緒あるコーラは復活し、再びアメリカ一の清涼飲料の地位を取り戻した。

 ゴイズエタとキーオは図らずも、このマーケティングの失敗を見事なビジネス上の手柄に変えたのだった。」

                     — マーク・ベンダグラスト『コカ・コーラ帝国の興亡』

 この間の1982年にコロンビア映画を買収したが、

 わずか7年後の1989年にはソニーにM&Aをかけられ売却している。


 コカ・コーラ社のレシピ(フォーミュラ)は非公開であり、

 フォーミュラについての文書は1919年から

 アトランタの某銀行の金庫に融資の担保として厳重に保管されていた。

 その後、1985年のカンザス計画によって1度だけフォーミュラが変更されたが、

 抗議により3か月で元に戻されて以降は変更されていないとされる

 (コカインとカフェイン量を除く)。


 このため、その成分や内容については真偽不明の情報がしばしば出回っており、

 後述のコークロアの元となった。

 このフォーミュラを基にしてオープンコーラという製品が作られたが、

 それでもコカ・コーラの味や香りを完全に再現することはできなかった。


2011年2月、

 アメリカのラジオ番組This American Lifeが、

 コカ・コーラ社の最高機密とされる香料「7x」の調合割合を発見したと公表した。

 同番組のプロデューサーが発見したザ コカ・コーラ カンパニーの地元紙

 The Atlanta Journal-Constitutionの1979年2月8日付けの記事には、

 コカ・コーラの発明者ジョン・ペンバートンが手書きしたレシピとされる写真が添えられていた。


  これに対しザ コカ・コーラ カンパニーは

 「アトランタの銀行の金庫に保管されている本物のレシピと、写真のレシピは異なる」とコメントし、

 このレシピの真実性を否定した。


2011年12月、

 創業125周年記念事業の一環として、アトランタに作ったコカ・コーラの博物館

「World of Coca-Cola」の一角に金庫的な保管施設を造り、

 アトランタの某銀行からフォーミュラを取り戻してこちらに移した。

 フォーミュラは公開されていないが、この施設は一般人でも見学することが可能になっている。


2018年8月、

 イギリスの大手コーヒーチェーンであるコスタ・コーヒーを、ウィットブレッドから買収した。



●日本での展開:

 日本コカ・コーラは、ザ コカ・コーラ カンパニーの100%子会社である

The Coca-Cola Export Corporationの100%子会社、つまり孫会社である。

企画・開発・マーケティングと、原液の製造・供給を行う。


 日本におけるグループ企業の一部には、(日本コカ・コーラではなく)

ザ・コカ・コーラ・カンパニーやThe Coca-Cola Export Corporationが出資している。

また、日本国内のボトラーへ(主に広域エリア担当のアンカーボトラー)へも間接出資を行っている。


 コカ・コーライーストジャパン(現・コカ・コーラボトラーズジャパン)の場合、

当社の完全子会社でアイルランドに本社のあるヨーロピアンリフレッシュメンツが筆頭株主、

日本コカ・コーラが第2位の大株主となっている。




●コーラ飲料史:1890年代の米国のコカ・コーラの広告では価格は5セントとある。

年月出来事

1886年5月-アメリカにてコカ・コーラ発明

1888年-ザ コカ・コーラ カンパニー創業

1898年-アメリカにてペプシコーラ開発

1902年-ペプシ・コーラ カンパニー創業

1905年-アメリカにてシェロ・コーラ開発

1914年-高村光太郎詩集『道程』収録の『狂者の詩』の中に「コカコオラ」が登場

1919年-明治屋によってコカ・コーラが初めて輸入販売、明治屋の広告雑誌『嗜好』にコカ・コーラの広告掲載

1929年-アメリカでミッション・コーラ発売

1934年-ローヤルクラウンカンパニーよりRCコーラ発売

1945年10月-GHQの指示でザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーションが

    日本6箇所にコカ・コーラ充填工場を設立(~1952年)

1952年-日米通商公社よりウィン・コーラ発売

    日本ミッションジュースよりミッション・コーラ発売

1953年-ミッション・コーラの日本国内での生産開始

1955年-コカ・コーラ社より缶入りコカ・コーラ発売開始

1956年11月-コーラ飲料の原液輸入を認可

1957年-東京飲料がコカ・コーラの一般向け販売を開始

    ペプシコーラ発売

1958年3月-日本コカ・コーラ設立

6月-明治屋よりMYコーラ発売

  12月-農林省が駐留軍以外へのコカ・コーラの外国人向け販売を許可

1960年8月-壽屋とローヤルクラウンカンパニーの販売契約締結

1961年-グリコよりグリコ・コーラ発売

    コクカよりニッポン・コーラ発売

    札幌麦酒よりサッポロ・コーラ発売

    福水社よりグット・コーラ発売

    日本麦酒よりリボン・コーラ発売

    壽屋よりRCコーラ発売

    清水食品よりSSKソフト・コーラ発売

10月-コーラ飲料の輸入全面自由化

1962年-「スカッと さわやか コカ・コーラ」のコピー登場

    静岡柑協連より富士コーラ発売

    小原よりコアップガラナ・コーラ発売(開発は全清飲)

    東洋醸造よりアルコール入り45ジェット・コーラ発売

    森永乳業よりスパーク・コーラ発売

    明治製菓より明治コーラ発売

    4月-東京飲料株式会社が東京コカ・コーラボトリング株式会社に社名変更

1963年4月-三共よりLCコーラ発売

    7月-武田薬品よりプラッシー・コーラ発売

1965年-国際飲料よりフレッシュ・コーラ発売

11月-コカ・コーラ社より250ml缶発売

1966年6月リンプルトップ登場

11月-ウィンコーラ倒産

1974年12月-長野コカ・コーラボトリングより1リットル瓶発売

1975年-コカ・コーラ社によるラッセルヨーヨープロモーション実施

1981年1月-森永製菓より森永クリーム・コーラ発売

1989年3月-ポッカよりローヤルクラウン・コーラ(RCコーラ)発売

1990年-上島珈琲よりジョルト・コーラ発売

1991年-5月アサヒビールよりシュウェップス・コーラ発売

1991年-12月サッポロビールよりゴールデン・コーラ発売

1992年-日本たばこ産業よりハードジョイト・コーラ発売

1992年3月-コカ・コーラ社よりカフェインフリーダイエットコーク発売

1993年3月-コカ・コーラ社よりタブ・クリア発売(日本では成功せず製造中止)

1996年-ポッカとローヤルクラウンカンパニーの販売契約解消

     RCコーラは日本市場から撤退

1997年-日本におけるペプシコーラの販売代理権がサントリーに移行しサントリーフーズが販売

1998年-中国で初の中国産コーラ非常可楽発売

2005年6月-コカ・コーラ社よりコカ・コーラ ゼロ発売

2006年-サントリーフーズよりペプシネックス発売

2010年5月-アサヒ飲料よりグリーンコーラ発売

2010年6月-キリンビバレッジよりキリンコーラ発売

2012年5月キリンビバレッジよりキリンメッツコーラ(特定保健用食品許可)発売

2012年6月-日本たばこ産業(ジェイティ飲料)より沖縄黒糖コーラ発売

2014年3月-日本たばこ産業(ジェイティ飲料)よりコーラショックプラス発売

2017年3月-コカ・コーラ社よりコカ・コーラプラス(特定保健用食品許可)


●コーラの種類:

アフリ・コーラ

インカ・コーラ

ヴァージン・コーラ

ウィルキンソン・コーラ

オーヴェルニャ・コーラ - ゲンチアナが入っており苦味がある。

オープンコーラ

カナダドライ・コーラ (SPUR Cola)

カリフォルニア・コーラ - 輸入:国分 (商社)

カンパ・コーラ

キュリオスティ・コーラ

キリンコーラ→キリンメッツコーラ

コカ・コーラ

ザムザム・コーラ

サムズ・アップ

シェロ・コーラ

シュウェップス・コーラ

ジョルト・コーラ

シンプル&クオリティー・コーラ

ゼロスリム・コーラ

ダイドーコーラ

チェリオ・コーラ

ディクシ・コーラ

バイカル

ペプシコーラ

ミスティオコーラ

ミラクルアルファ(ホワイトコーラ)

明治スカットコーラ

モナコーラ - 丸源飲料工業

ファイブスターライジングコーラ - 朝日商事

Lasコーラ - 富永貿易。神戸居留地 (飲料品)を参照

リバー・コーラ

リボン・コーラ - サッポロ飲料

レイディオ (RaDio)

ローヤルクラウン・コーラ(RCコーラ) - 販売:壽屋・ポッカ

黒松可楽

コーラショックプラス - ジェイティ飲料

maiwooまいうーコーラ - TV番組「元祖!でぶや」で企画したコーラ

PBコーラ - 大半が輸入品。理由は、アルミ缶の製造コストが外国産だと安い為。


 アルコール飲料

-196℃ゼロドライレモンコーラ - (2008年8月5日-サントリー)糖質ゼロのリキュール。

コーラショック - (2009年7月8日-麒麟麦酒)コーラ・フレーバーにウォッカをブレンドした高炭酸リキュール。

コーラショックゼロ - (2009年10月21日-麒麟麦酒)コーラショックの糖類をゼロにした製品。

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