現実:歴史-古代-四大河文明
▶世界四大文明:これ自体が既に古語と言う……
人類の文明史の歴史観のひとつ。歴史上、四つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。
四大河文明或いは 大河文化と呼び、農業や国家、文明がすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。
「四大文明」とは、メソアメリカ文明、アンデス文明などのアメリカ大陸の文明は含まれていないが、これらを含めて六大文明と解釈することもある。欧米では、「肥沃な三日月地帯」や前述の六大文明などといった人類の古代文明の発祥の地を「文明のゆりかご」などと呼ぶ。
▶歴史:灌漑文明
最初の偉大な文明は全て大河の流域で成長した。明白な理由としては人間と農耕が必要とする水資源の確保が容易であり、豊富な水と周期的な毎年の洪水により適度な塩分を含んだ土壌は農耕村落持続の必要分を越えた高い収穫を可能とした。
これは都市(都市cityは文明化civilizationという用語の起源である)の建築物の建設や、鉱業や交易といった非農耕業務者達を、共同体として彼らを参加させることで分業を可能とし発展していった。
初期の文明:四大河文明
○もっとも古い文明は中東においてBC3,500年-BC2,000年にティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアと名付けられた文明で、メソポタミアは川の間の土地を意味した。メソポタミアはギリシャ語で「複数の河の間」という意味。
▼メソポタミアはもっとも早期の大河文明であり、BC3,500年にはじまった。 文明は規則的な交易関係がティグリス川やユーフラテス川沿いの他の複数の都市や国家の間に築かれた後形成された。メソポタミアの諸都市は自治都市となった。この文明における都市のひとつであるウルクは史上初の文字社会だった。実際それら全てが農耕の成長にとって肥沃で乾いた土地を作るため、二つの河の流域を灌漑するために運河で結合された。この文明の農業における増産はメソポタミアの諸都市諸国家を通して人口成長をもたらした。
南部の下流域から、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起き現在に至る。
暦は太陰太陽暦を用い、1週間を7日(七曜)にしたのも彼らといわれる。暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、六十進記数法もメソポタミアで生まれた。記録媒体は粘土板が用いられ、楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。BC3,200年頃にウルクでウルク古拙文字と呼ばれる絵文字が生まれたほぼ同時期に東のエラムでは原エラム文字やエラム線文字が使われ、エジプト初期王朝時代ではヒエログリフとヒエラティックが使われていた。なお原エラム文字とインダス文字が非常によく似ていると指摘されている。これら相互の文化的影響は未解明である。
なお古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代第Ⅱ期末期の伝説的な王(BC2,600年頃?)『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュが有名。
○エジプトのナイル川渓谷はBC5,500年の早期に農業住居が見られるが、エジプトの文明としての成長はBC3,100年頃に始まった。
▼エジプトも地域の河川(ナイル川)から灌漑システムを構築したが、他の諸文明とは異なっていた。というのは、その灌漑システムは他よりも複雑だったからである。
具体的な灌漑の方法としては、古代から水路を造りナイル川が洪水を起こすと肥沃な浮遊土砂ごとこの洪水を堤防で囲んだ耕地に導入して、2か月程、1.5メートル程の深さに湛水させ、ナイル川の洪水が引くと排水して耕地とし、コムギなどを作物を作付けしていました。これはベイスン灌漑と呼ばれる。
定期的な貯水と排水を繰り返すことにより土壌の塩分を除き、1年周期で肥沃な土層が堆積されることもあり、永年にわたり耕地が衰えることなく豊かな地力を保つことができました。これが古来より「エジプトはナイルの賜物」と言われたゆえん。
後にシャダフ (Shaduf) あるいはシャドーフ (Shadoof) と呼ばれる古代エジプトの跳ねつるべが導入され、耕作面積の増大に寄与。
こうしてエジプト人は穀物を輪作し、新鮮な水から塩分が堆積することを防ぎ、土地の生産力を上げた。ナイル川は文明間の交通を容易にし、実際BC3,000年に一つの社会に統合されるまでは南北二つの王国が形成されていた。
ナイル川沿岸では毎年氾濫を起こす事から約6,000年もの間、1年周期で起こるナイル川の洪水を灌漑に利用する農法を行なってきた。肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれるからだ。故にナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。24時制の起源は、エジプトの天文学のシステム「デカンズ」
○三番目の文明はBC2,600年頃に現在のインドとパキスタンの一部であるインダス川で成長した。
▼インダス文明は、崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明であり、また最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明ともよばれている。
インダス文明の特徴は都市計画が充実していることにあり、今から約4,000年前のBC2,000年頃、その時分の建築素材は主に日干しレンガを積み重ねるのが主流だったのだが、既に2階建ての焼きレンガ造りの家屋を建て舗装した道を歩いていた。さらに沐浴のための公衆浴場をもち、排水溝を造り水洗便所や汚物を処理する下水道や貯水槽に段差を作る事で汚水を処理する浄化層をも作りそれらを用水路で川に流していた。また、これらを維持する水源である巨大な貯水池も都市内に完備し雨季のときに川からあふれた洪水の水をこの貯水池に貯め、乾季のときに使用ていた。
その高度な建築技術と完璧な下水道技術、高度な井戸の揚水技術は遺跡として残っていたが、エジプトやメソポタミア中国とは異なり、あまり知られていないのは今だ文字が解読されておらずその詳細には謎を残しているためである。
インダス文明が消えたのは、砂漠化説、河流変化説、気候変動説、アーリア人侵入説などがあげられる。
○第四の大河文明はこれらに遅れることBC1,700年頃に中国の黄河沿いに現れた黄河文明として知られるものである。
▼中国の黄河文明は古代の四大文明の一つに数えられ、また黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在して以降、現代まで中国大陸に歴史を記すことになる。なお、その対象は、あくまで中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。漢民族の歴史ではありえない。
BC300までに中国において、各地に割拠する諸公国が社会の基本単位だった。初期中国の部族は父系氏族に組織化された。男はリーダーや同系氏族の一員としての役割を持ち、一方女性は"資産"だと考えられていて、本質的に同盟を打ち立てる部族間で交換された。女性が婚姻を通じて新たな系族に入ると、彼女達は嫡子を生むまでなんの地位も持たなかった。少年が成長すると、彼らの母親達は地位を得て子供を通じて安全を確保した。女性たちは息子たちに宮廷で卓越した地位を占めさせるための手立てを講じることで高い地位を得ることができたけれども、多くの女性は家内の諸事だけに力を裂くことに落ち着いた。初期中国文明では 儀式の場所も重要だった。儀式の場所に参加した人々は政治権力を持っていた。寺院は特別な系族にささげられ、礼拝が祖先に対して捧げられ豊作と幸運が祈願された。贈物は陶器や玉の彫物のようなものを含んでいた。考古学上の証拠は黄河流域において暴力が日常的に発生したことを示している。暴力は政治的リーダーシップの変化をもたらしたものの、その混乱から文化的重要な変化など起こらなかった。
これらの文明は貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やメソポタミア文明、さらにインダス文明は互いに交易があったことも推測される。
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