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現実:食 - ラーメン・餃子の普及 「移住者」から「引揚者と復員者」へと そして 「元帝国臣民」から「在日華僑や帰化人」に

カップラーメンを世界で初めて作った人が日本人って本当ですか?

いいえ、あの人民族は台湾人(日本の敗戦により、台湾人は外国人となった)で

(百福は1948年に大阪に移住してのち第3夫人仁子と結婚して)

1966年(昭和41年)になってようやく日本国籍を取得(帰化)したのです。

なお、台湾に置き去りにした本妻や日本に連れてきて逃げられた妾とは正式に離婚していない模様……重婚。

大阪の『華僑向け信用組合』「大阪華銀」を大豆相場で破産させた人らしいともいえるが。


 日清の由来として日本と中国の清朝との関係は無いと言うが……

ある説によると、多くの台湾人は

「自分は台湾人だがシナから渡ってきて台湾原住民と混血した漢人(清王朝)の末裔だ」

と言うそうだが、まあそれとは関係なく

実は当時、日清製粉社長正田英三郎氏の長女が一般家庭からの初の皇太子妃となったのだが、

婚約して結婚することによりミッチー・ブームが大盛り上がりになると、

日清製粉が「日清食品」という商標を確保していない事を知り、

勝手にあやかって日清食品に改名したというのが真相なようです。

社名「中交総社」が「日清食品」の社名に変更されたのは1958年。


 その際、日清製粉には「ならチキンラーメンの名前をミッチーラーメンにしてやろうか?」

と、恫喝して「日清食品」の社名を認めさせた模様。

脱税にパクリ・重婚・恫喝と、ろくなことしてないような……



★ラーメン・餃子の日本での普及:その担い手は「移住者」から「引揚者と復員者」へと……

 日本国内で初めて中華麺・餃子を食べた人物は江戸時代の徳川光圀とされており、

亡命していた朱舜水が伝えたという。

日本国外では「インスタントラーメン」が「ラーメン」であると認識している所が多く、

本来のラーメンが存在する国は少ない。

まともな食文化が育ってなさそうな話である。


 なお、、大清国第12代にして最後の皇帝・後に満州国執政となった宣統帝溥儀は

亡くなる直前に好物だった「チキンラーメンを食べたい」と言っていたそうな。




▼ラーメンの源流:

 今日のラーメンの普及には、大きく2つの源流が存在する。


・1つ目は『日本風の中華料理屋のメニュー』で、

 幕末以降の中華街(南京街)などでの中国からの「移住者」

(中華料理『五十番』を経営する王貞治の父:王仕福 等

 ただし父親は中華民国籍を持っているが浙江省の出身であり、地域としての台湾とは縁もゆかりもない。

*「在日台湾人」という呼称はあくまで便宜上のもので、

 中華民国籍者の中には中華民国統治時代の中国大陸から日本へ渡って来た華僑(およびその子孫)

 も少なからず存在しているので、彼らについては地域としての台湾とは全く関係がないのだ。)

 の営む中華料理屋や戦前の来々軒に始まり

 戦後は中国や旧満洲国からの「引揚者」などが開店したものである。


・2つ目は戦後の混乱期、屋台での販売とその流れを汲む固定店舗を開設した『戦後生まれのラーメン屋』である。

 これは中国大陸でラーメンの調理法を覚えてきた人が多かったのに加え、

 安い材料で美味しく栄養あるラーメンは物資が乏しい戦後にはうってつけだった。

 さらに屋台自体は、古くは江戸時代の固定式屋台の夜鳴き蕎麦屋からの風習にのっとり、

 調理器具を積んで夜間の商売に適していた。



○中華料理屋とラーメン屋:移住者のもたらしたラーメン

・『日本風の中華料理屋のメニュー』

 戦前の幕末~明治時代に開国された港に出現した中国人街(南京街)に中華料理店が開店し、

大正時代頃から日本各地に広まってはいたのだが、

(ただし、あの南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であるとはとても断言できない)

とは言え、ラーメン自体は餃子や焼売などを出す中華料理店は存在したのだが、

まだ一般の庶民には縁遠い存在でもあった。


 1910年(明治43年)には、

横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町(現・横浜中華街)から中国人コックをスカウトして、

東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店

(当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」

「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ、マンチウ」という看板が見える)、

日本人の味覚に合わせて改良を加えた結果、味は醤油スープで、

トッピングがシナチク、チャーシュー、刻みネギというラーメンが完成したのだ。

来々軒の支那そばに今日のラーメンの原型がみられる。

1杯6銭(2007年現在で約300円相当)という値段も手頃で

連日行列ができる人気は1976年(昭和51年)に暖簾を下ろすまで続いたという。

開店当時は手延べ式の麺で昭和に入り手打ちとなったそうな。


 そして1923年、札幌で”竹家食堂”が創業。

当時は味噌ではなく醤油味だったようだ。

中国人コックが居て、いつも「ラー」(”はい”の意味)と返事をしていたことから、

そのコックが作る麺を”ラー・メン”と名づけたそうだが、神戸市で竹家として今も続いている。

1925年、喜多方ラーメンの元祖である”源来軒”が創業。

1937年には九州で”南京千両”が屋台として開店、今も屋台で続いているらしい。

この頃から戦中・戦後すぐにかけ京都、高山、和歌山、尾道でラーメン店が次々と開業。

いずれも有名な御当地ラーメン処である。



・『戦後生まれのラーメン屋』

1954年(昭和29年)、長崎ちゃんぽんの白濁スープを豚骨スープにして濃厚にした

白濁とんこつラーメンの「元祖長浜屋」が開業し、

同時期、東京・荻窪では東京ラーメンの「丸長」や「春木屋」が開店した。

1955年(昭和30年)、札幌の”味の三平”で、大宮守人氏が味噌ラーメンを発明。

これが今の札幌ラーメンの元祖となる。

同1955年、東京の大勝軒の中野店店長をしていた山岸一雄氏がつけ麺を発明。

その後、東池袋大勝軒で”もりそば”と言う名で大ヒット。

1974年(昭和49年)、横浜家系ラーメンの元祖である”吉村家”が創業。



●引揚者と復員者:

 日本で一般の日本人に食べられるようになったのは第二次世界大戦後で、

中国大陸からの関東軍や満州開拓団などの引揚者によるラーメン屋台が多く出現し

広く普及するに至ったのが始まりとされる。


 日本では戦後の同時期に各地から普及したため、発祥地を特定するのは困難とされるが、

現在では宇都宮を餃子の発祥であるとする説が有力となっている。

実は大陸に派遣された師団本部(第14師団)が宇都宮にあり、

帰還兵が大陸の食文化を伝えたと考えられているからだ。

これは焼き餃子は主に満州族(第二次世界大戦後の中華人民共和国では満族と呼ぶ)の調理法で、

現在の日本では最も幅広く浸透しているが、

第二次世界大戦後に満州からの引き上げ邦人が広めたためである。


 以降、ラーメン・餃子は大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、

また餃子専門店、或いはスーパーやデパートの食品・惣菜コーナーなどで広く扱われ、

家庭の手軽な惣菜として定着している。



引揚者ひきあげしゃとは、

第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦によって、

台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地や、

日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、

また内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で、

日本軍の敗北(降伏)に伴って日本本土に引き揚げ、すなわち帰国した海外在住日本人を指す。


・復員者(復員兵)

「引揚者」の呼称は非戦闘員に対して用いられ、

これに対し外地・外国に出征し、その後帰還した日本軍の軍人は「復員兵」「復員者」と呼ばれた。



また戦後にシベリア抑留を経験した者の中でロシア料理店を開いた者達も多い。



▼『南京そば』から『支那そば』へ、そして『中華そば』から『ラーメン』へ:

 日本では明治から昭和初期までは

「南京」は南京町(中華街)や南京豆同様に「中国の」という意味合いで「南京そば」、

「支那」は当時の中国の意味で「支那そば」であったが、

戦後になり、1946年に中華民国(当時の中国の国名)の名称として

支那という単語の使用自粛が外務省事務次官通達により要請されたことから、

「中華そば」という名称が生まれ、支那そばに代わって中華そばと一般的に呼称されるようになった。


・「南京そば」と呼ばれたのは明治時代、つまり140年以上前で、

 広東人の食文化に影響されて横浜あたりから広がった、いわば日本のラーメンのルーツである。

 1871年(明治4年)の日清修好条約調印後がより顕著であり、

 更に明治時代末期から大正時代初期にかけて、

 日清戦争1894年(明治27年)〜 1895年(明治28年)の影響で中国人が大量に日本にやってきた。


 特に広東省や福建省からの移住者が多く、それら移住者相手に中華料理店が出来てきた。

 そして横浜に支那町(中華街)が建設された。

 広東人が柳麺の店を開いたが、当初は塩味だったようだ。

 塩味の澄んだスープに麺、刻みネギが入ったシンプルなものであったとか。

 支那そば以前はこの名で呼ばれていたようだ。

 その後、日本人に合わせ、醤油味としたそうな。


・「支那そば」は、戦前のラーメンが日本に広まり始めた頃、

 日本蕎麦と区別する意味で”支那”を付けて呼ばれたようだ。


 これは、明治末期になると段々と「支那そば」と呼ばれるだしたようだが、

 1923(大正12)年の関東大震災後に支那そばの屋台が立ち並ぶまでに普及したので

 そこで「南京そば」から「支那そば」へ呼び方が変わったと見られる。

 曖昧だが最近の定義は、中華そばのもっとダシを取ってコクを出したもので、

 魚ダシや椎茸などを強く感じるものを指す事が多い。シンプルなものが多い。


 また”支那”の語源であるが、古来から中国一帯の土地を指す名が”チーナ”であった。

 国名は”元”、”清”、”明”など変化していったが、この名は変わらなかった。

 その名がインドに伝わり、漢訳仏典の形で逆輸入される時に”支那”となったようだ。

 英語の”china”も語源は一緒。”チーナ”は”磁器”を示すようだ。


・「中華そば」は、戦後、”支那”という言葉を使うべきでないという事※になり、

 代わりに「中華そば」と呼ぶようになったようだ。

 曖昧だが最近の定義は、トリガラとトンコツのしょうゆ味で、黒~茶色。

 若干細麺、スープはコクを重視するよりも、さっぱりすっきりと食べさせるもの。

 シンプルなものが多い。

※戦後のマスコミを牛耳った共産系の現地工作員:自称文化人達が

「支那は辺境の地という意味の差別語だから一切使っちゃいけない」と言ったことが発端となり

”中国”、”中華”が急遽使われた……次は”中国”、”中華”が差別語だな。


・さらに当初は多数派だった「中華そば」に代わって、「ラーメン」という呼称が多数派となったのは、

 1958年に発売された初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が普及したためといわれている。

 以降はラーメンと呼称されることが一般的になったが、「中華そば」も引き続き使われている。

*ラーメンの語源は、手延べ麺を表す「拉麺ラーミエン」というのが有力な説。

 麺は「手延べラーメン系列」(手で延ばしたので「拉麺」)以外に、

 道具や油を用いて細くひも状に延ばす「そうめん系列」、

 日本のそばやうどんなどの「切り麺系列」(麺の生地を包丁で切ったので「切麺」)、

 ハルサメやビーフンなど小さな穴から押し出し、すぐに熱湯でゆでる「押し出し麺系列」、

 ベトナムのフォーなどコメ粉の膜から作る「河粉系列」

 この5つに分類できるという。


 なお、中国および中華圏では、「麺」(麵・面)は小麦粉を指し、

「麺食」と言えば、粉食全般を指す。

 これには、餃子ぎょうざや中華まんなど饅頭や点心も含んでいる。


 この他、小麦粉を面状に伸ばしたものをも指し、

 薄くのばした包む皮を「麺皮(面皮)」と呼び、

(パンは「麺包」(ミェンパオ)である)

 薄くのばした小麦粉の生地を更に細く長く線状にしたものを「麵条(面条)」と呼ぶ。

 故に拉麺は、麺条の一種である。

 後漢の『説文解字』には「麺」の本字である「ミェン」は麦の粉とある。


 中国語では、蕎麦、ビーフンなど小麦粉以外を使った物は本来「麺」として扱われず、

 米粉をこねて細長く加工したライスヌードルや、澱粉を使う春雨などは「粉」(フェン)と呼ばれ、

 区別される。

 一方で中華人民共和国以外の中華圏においては、

 小麦の麺ではないもの、細く引きのばした手延べ麺ではないものでも、

「拉麺」の文字が料理名メニューとし使用されている場合がある。


 また中国の拉麺は、醤油ベースのスープに麺を入れて野菜や肉を載せたサッパリした品が多いが、

 これは日本で言ううどんに相当する。

 事実、それが日本に伝わりうどんとなっている。

 一方で日本のラーメンはうどんを源流として派生した応用品である。

 よって、中国では日本の拉麺を「日式拉麺」と呼んでいる。

 伝統的な中国拉麺とは区別する必要があるのだ。


 また台湾では、日本のラーメンに「拉麺」の文字を宛てて、逆に中国本場の拉麺を「中国拉麺」と呼ぶ。

 なお、韓国にも「拉麺」と称する料理が存在するが、コレはインスタントラーメンを指し、

 生麺を用いるのは一般的ではない……自称「小中華」とは一体なんだったのか?



 このように当初ラーメンは南京そば、支那そばなどと呼ばれていたが

時代とともに南京そば→支那そば→中華そば、と日本での呼び名は変わっていき、

ラーメンという呼び方を広めたのは、

1958年(昭和33年)に日清食品が発売した世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」

であるともいわれている。

(チキンラーメンの発売により、それまでの「支那そば」「中華そば」にかわり、

「ラーメン」という呼び名が全国的に広まった。)



○「鶏糸麺」大和通商の陳栄泰・「長寿麺」東明商行の張国文:

「元帝国臣民」から「在日華僑や帰化人」に移行した人々……


 安藤が最初にインスタントラーメンを「発明」したかどうかについては、異論が存在する。

実はなんとチキンラーメン発売の数か月前に既に、

「お湯を注いで数分でスープも含め料理できる即席麺」として、

大和通商が「鶏糸麺」を、東明商行が「長寿麺」を発売していると言う。

(1956年 - 第一次南極観測隊に東明商行の即席麺が持ち込まれる)


 そもそも、彼らの故郷 台湾には「鶏糸麺」と言う素麺を油で揚げた料理があり

台湾からの留学生達はコレを国元から送ってもらい、具の無いラーメンとして食していた。

湯で戻して食べる麺は乾麺など以前からありました。


 更にチキンラーメン発売前に呉百福は配給制だった日本占領下のGHQ福祉機関に

戦勝国の人間として出入りできたので、

小麦粉などの物資を買いあさり、闇市などに流し暴利を貪っていました。

同じ台湾人である華僑となった陳栄泰や張国文達ともこのような商取引などで縁を結び、

後の日清の幹部は東明商行の「張国文」が開発した長寿麺の製造工場を見学しているし、

安藤百福自身は、鶏糸麺の作り方を大和通商の「陳栄泰」から教わっていた。


 第一百福は、大和通商が東京で販売していた「ヤマトの鶏糸麺」を「チキンラーメン」として

関西で代理販売していた前科がある。

しかも大和通商の「鶏糸麺」の特許を百福が義母安藤須磨の名前で特許を出していた。


 その後特許裁判となるも、

日清食品は1961年に東明商行が出願していた「味付け乾麺の製法」特許の権利を

「即席麺は華僑が日本で建てた金字塔だ。粗悪品が出回るのを防ぐために特許を一本化する必要がある」

と称しうまくだまくらかして僅か2300万円で買い取り、

もともと日清が出願していた「即席ラーメン製造法」と合わせて特許登録したとさ。


 なお、その後も特許訴訟で苦しんでいた安藤百福は、食糧庁の和解勧告まで受けてしまい

他社と和解するも、地域の製造業者が彼に対し疑心暗鬼に陥っていたので

1964年(昭和39年)に

「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として発展はできるがそれでは森として大きな産業は育たない」

と称して勝手に「日本ラーメン工業協会」を設立し、

他のメーカー各社に瞬間油熱乾燥法など即席麺関連の製法特許を公開して

会長として君臨して黙らせている。

こうしてインスタントラーメン業界に君臨したため

インスタントラーメンの発明者を自称できていたのである。

周囲は彼の主張を黙認せざるを得なかった。


 また、1958年以前にも即席麺は開発および販売されている。

村田製麺所(現・都一 )が1953年に、

松田産業(現・おやつカンパニー )が1955年に即席麺をそれぞれ開発している。

しかし、これらの商品はいずれも天日乾燥のような昔ながらの乾燥製法で製造されており、

古くから存在する「乾麺」との差が曖昧である。

それ故に、これらが「インスタントラーメン」に含まれるか否かは意見が分かれている。


 しかも、世界初のカップラーメンも

日清食品の安藤百福(呉百福)が考案した昭和46年( 1971年)発売の「カップヌードル」だと言われているが、

しかし、カップヌードルの発売よりも10年も前の昭和36年(1961年)に、

明星食品がカップラーメンの原型ともいえる「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」を試験発売している。



 即席ラーメンの生みの親達は、

「鶏糸麺」を開発した大和通商の陳栄泰も

「長寿麺」を開発した東明商行の張国文も

「チキンラーメン」を開発した日清食品の呉百福 同様

在日台湾人であるが、当時は大多数の在日台湾籍者が中国国籍を取得し、

「元帝国臣民」から「在日華僑」へと変わったていたのだが、

コレは特別配給や乗車無料などの特権があり現実的な選択と言えるが、

一部の台湾人は自身達が戦争に勝ってもいないのに「戦勝国民」を自認し、

日本の警察による逮捕や裁判を受けない特権を享有すると主張した。

コレにより呉百福 同様、密輸入や闇市で暴利を貪っていたとさ!


 この他、台湾籍・元シベリア抑留が47年 7月にソ連から日本の舞鶴に上陸した後に、

日本に滞在することが認められていたため、

現在にいたるまで「中華民国国籍」の特別永住者として日本に居住している者も多い。




▼日本の餃子:

  日本の餃子は、日本で独自に進化("日本化")した餃子であり、焼き餃子が主流である。

だが中国では水餃子が主流であり、用いる具材、調理法も中国で主流のものと異なる。


 日本の餃子は薄目の皮を使い、豚ひき肉、キャベツ、ニンニク、ニラを入れるのがポピュラーである。

中国の東北部を除く西の餃子ではキャベツではなく白菜を使い、ニンニクを入れることはない、

という点で異なっている。

中国東北部(満州)では豚が育ちにくく羊肉が主になる。

日本に餃子が伝わった当時は満州の製法で豚肉ではなく羊肉を使用していた。

豚肉がメインで使用されるようになってからも、

風味の良いニンニクが餃子とも相性がよく好まれたため、

今日も多くがそのまま具材として使用され続けている。


 しかも日本では、出来上がった餃子を「焼き目」の側を上にして皿に盛る、という独自性がある

(中国では、餃子の「上下」は、あくまで皮と皮をくっつけた側が「上」と考える。

 故に中国人が日本の餃子を見ると「ひっくり返っている」と見える)。


 日本国内で初めて餃子を食べた人物は、やはり江戸時代の徳川光圀とされており、

これもまた亡命していた朱舜水が伝えたという。

明治時代までにも餃子を出す中華料理店は存在し、料理書でも作り方は紹介されている。

しかし、呼び方はチャオツなど原語の音をそのまま使い、

「メリケン粉に包んだもの」や「焼いた豚饅頭」などという解説を付けなければならないほど、

庶民には縁遠い存在であった。


 第二次世界大戦以前の中華料理(当時は支那料理と呼んだ)の本の記載では、

「餃子」の読みは「ギョウザ」ではなく、日本語の料理名を付けていることもある。

例えば、

1927年の『家庭でできるおいしい支那料理』は「餃子」(チャオツ、メリケン粉に包んだもの)、

1935年の『支那料理』は「水餃子」(スイキョウズ、肉の包み茹で)、

1940年の『お鍋一つで出来る支那料理と支那菓子の作方』は「餃子」(チャオツ)としている。



 これら餃子だが、日本で一般の日本人が食べられるようになったのは第二次世界大戦後であり、

コレは関東軍や満州開拓団などの引揚者によって広く普及するに至った。

焼き餃子は主に満州族(第二次世界大戦後の中華人民共和国では満族と呼ぶ)の調理法で、

現在の日本では最も幅広く浸透している。


 しかし、米飯が主食の日本では水(茹で)餃子ではなく、

おかずとして薄目の皮を使用した日本独特の焼き餃子が主流となった。

一説には、引揚者が茹で餃子を作ろうとしたものの、

鍋がなく代わりに鉄板を使ったのが始まりとされる。

以降、大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、

また餃子専門店、スーパーやデパートの惣菜コーナーなどで広く扱われ、

家庭の手軽な惣菜として定着している。


 日本では戦後の同時期に各地から普及したため、「元祖餃子」を謳う店舗は幾つか存在する。

発祥地を特定するのは困難とされるが、現在では宇都宮を餃子の発祥であるとする説が有力となっている。

大陸に派遣された師団本部(第14師団)が宇都宮にあり、帰還兵が大陸の食文化を伝えたと考えられている。



 また朝鮮半島では餃子に極めて類似した料理としてマンドゥが存在するが、

これは高麗の国教は仏教だったが、モンゴルの支配により食肉の禁止が緩和され、

肉を含むモンゴル料理とともにマンドゥが持ち込まれた。


 もう一つの説は、それ以前の時代に中東からシルクロードを経由して朝鮮半島に来たというものである。

ダンプリングや麺など多くの小麦から作られる食品はメソポタミアに発し、そこから周囲へと徐々に伝播した。

また、それがシルクロードに沿って東へ広がるうちに、

マンドゥのような多くの派生的な種類が中央アジアと東アジアに残されたとされる。


 この他、ポーランドやスロバキアなどの中欧諸国、

ウクライナ、リトアニア、ベラルーシ、グルジア、ロシア、モルドバなどといった

旧ソビエト連邦構成国の東欧諸国、

ないしイタリアなどの南欧にも中国やチベット・満州などとよく似た餃子の文化がある。

特にヨーロッパ系の餃子は中国の餃子に比べても皮が厚めの傾向がある。


どちらにせよ餃子の起源も遊牧民族由来であるもよう。




★食文化

・中華料理

 引揚者達がもたらしたとされる食文化には

 シナそば(ラーメン)店・ラーメン屋台・餃子屋(主に焼き餃子)がある。


 引揚者の中で突出して多かったのが中国と旧満洲国から戻ってきた人々。

 ともに100万人以上と言われるが、中国から引き揚げた人の大半が軍人だったのに対し、

 満洲は民間人が多数を占めた。日本を引き払って満洲に移住した人たちが出直しを図る中、

 飲食店に目をつけ、闇市で商売をしたり、屋台を引いたり、店を出そうとする人が一定数いたのだ。


 それまで中華料理屋といえば、本格的な高級中華料理店、

 しかも広東・四川・北京・上海のものが主流であり、

 中国東北部地方の料理はあまり知られていなかった。


 その後異なる発祥地の満州引揚者によってもたらされた餃子は、日本独自に変化した。

 台湾、朝鮮、満洲、関東州、サハリン、千島列島、南洋諸島などの地域に移住し、

 敗戦後、日本に帰還した引揚者は約660万人もいたという。

 彼らは地元に戻ったり、都市に住むなどして、日本各地で新しい生活を始めた。

 そこには当然、引き揚げ前に暮らした土地の食文化が持ち込まれたのだった。


 関東地方ではタンメンが定着、北海道空知地方では含多湯ガタタンが定着した

 (いずれも全国区化は果たしていない)。


 福岡県では朝鮮半島からの引揚者によって 辛子明太子が定着した(現在は全国区)。


 安くておいしくてスタミナのつく戦後の新メニューとして登場した焼き餃子は、

 戦前に定番だった、焼売シュウマイを押しのけるように人気を高めて行く。



・ロシア料理

 帝政ロシアが崩壊した1917年、ロシア革命から逃げてきた帝政ロシア=白系ロシア人によるロシア料理店により

 ピロシキ・ボルシチなどのロシア料理ももたらされた。

 また、いったんは中国やアメリカに亡命したロシア人が、近代化が進む日本にビジネスチャンスがある、

 と来日したケースも多かったようです。


 第二次世界大戦後には、日本人によるロシア料理店も増加しました。

 その担い手となったのは、戦前に中国東北部に移民していた人びと。

 現地で習い覚えたロシア料理を、帰国後に日本で再現したのです。

 なお、日本のピロシキに春雨が入っているのは中国東北部の影響。

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