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現実:事業 5ソルの馬車   ~ バスの起源とその名の由来 ~ 乗合馬車の進歩

▼5ソルの馬車(フランス語: les carrosses à cinq sols):それは早すぎた偉業

・1662年(17世紀)

実際にフランス王国・パリで運行されていた乗合馬車の事である。


 この「5ソルの馬車」と呼ばれる乗合馬車( = 馬車の共有)というシステムは

かの「人間は考える葦である」で有名な学者

ブレーズ・パスカルが考案・着想・発明し、パリで実際に創業したものだった。

(その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。

 ……知ってるよね?)

簡単に言えば、パスカルの実現したこのシステムは今日のバスに当るものである。


 なお、哲学者である兄のブレーズ・パスカルと詩人で修道女の妹ジャクリーヌは、

異常に……もとい、非常に仲が良く、妹ジャクリーヌは

シスコンであるブレーズがこの世で一番愛していた者だったとか。

(なので父の死後、妹が修道院に入ってしまうのに強く反対したが、

 その後はたびたび修道院の妹を訪れ、心境を訴えるのだった。)

またパスカルの信じたジャンセニスムへの弾圧が強まり、

信奉者達は改宗への署名を強制的にさせられたため、

パスカルの妹・ジャクリーヌはそれを拒否しながら亡くなりました。

ほとんど憤死、いや殉教死のようなものだったと伝わります。

パスカルはもうしばらく頑張り続けましたが、虚弱な体調がますます悪化し、

妹の死のおよそ1年後の1662年8月19日、後を追うように39歳という若さでこの世を去りましたとさ。




   - 閑話休題 -



▼バスの起源:

 名称は運賃が5ソルだったことに由来するため、

5スーの馬車(les carrosses à cinq sous)と呼ばれることもある。

*ソル(スー)は当時の通貨で、1ソルが20分の1リーヴルに相当する。


 不特定多数の者が比較的安価な運賃で利用でき、一定の経路を時刻表に従って運行するなど、

現代の路線バスの起源となったチートな公共交通機関である。


 実は中世のパリではそれまで馬車と言えば、

当時所有できるのは王や富裕な貴族などの金持ちに限られ、

彼らが個人的に所有する形態しか存在しておらず、

アンリ4世の時代にその規制は緩和されたものの、

馬車の保有には多額の費用がかかるため、

(今日のタクシーにあたる辻馬車こそ1625年ロンドンに登場、ほどなくパリにも登場しているが)、

一般の市民には縁のないものだった。

 これをなんとか庶民にも利用させたいと考えたパスカルは、

1662年に8人乗りの馬車を用いて、一定の路線をあらかじめ定められた時刻表にしたがって走る

乗合馬車を運行した。


「5ソルの馬車」は登場時にはパリ市民に歓迎されたものの、

しかし、初期の熱狂が去ると区間ごとに5ソルかかるなど利用条件があまり良くなく

その煩わしさなどから人気を失い、経営難に陥った。

(パスカル自身は乗合馬車の創業6ヶ月後に、体調がいよいよ悪化し、死去。39年の生涯を閉じた。)

このため運賃を6ソルに値上げしたものの、さらに乗客の離反を招き、1677年に廃業してしまった。

辻馬車との競合、それに客をえり好みしたための経営難が原因だったという。

安易な異世界内政チートなど本来は有り得ない事だと言う良い例である。



・略歴:5ソルの馬車

・1620年には

 貸馬車業が登場したが、料金が高かったため利用できるのは裕福な者に限られていた。


・1662年1月、

 パスカルは友人のロアンネス公らの援助の元、

 国王ルイ14世から「5ソルの馬車」の営業許可を得た。


・同 3月18日、

 最初の路線がリュクサンブール - サン・タントワーヌ門(現バスティーユ広場付近)間で

 馬車7両を使用し開業した。4月から7月にかけてさらに4路線が開業した。


 計5つの路線のうち、4つはリュクサンブールを起点に市内各地を結んでいた。

 もう一路線はパリを一周する環状運転を行なっており、

 ツール・ド・パリ(Tour de Paris:パリ一周)と呼ばれていた。

 ツール・ド・パリの経路はいくつかの区間に分割されており、

 各区間ごとに運賃5ソルが必要だった。


 各路線とも7分半間隔で運行されており、

 起点ではたとえ乗客がいなくても所定の時刻になれば発車した。

 

 馬車は2頭立て、天蓋付きの4輪馬車を使用しており、乗客の定員は8名だった。

 営業許可時の条件により、「兵士、近習、召使い、その他の労働者」の利用は禁止されていた。




▼バスという名前の由来:

 その後、パリに乗合馬車が復活するのは、なんと1828年のことである。


 それは、ある時は医者。またある時は軍人、

そしてまたある時は実業家であるスタニスラ・ボードリーが、

自身の経営する製粉工場から発生する蒸気を利用した公衆浴場の利用客の送迎のために、

フランス・ナントの中心部と浴場の間に定期的に馬車を往復させるサービスでした。

しかしその馬車を、市民が公衆浴場とは関係のない場所への移動手段に使っているのを知ったため、

そこで彼は工場と浴場を閉鎖し、乗合馬車の経営に専念することにした。


 1826年8月10日、

ナント市の許可を得て、

ボイエルデューのオペラに因んで「白婦人( La Dame Blanche)」と名付けられた会社を設立した。

創業時の馬車は2両で、定員は各々16名だった。

「5ソルの馬車」からおよそ150年後のことです。


 この当時、馬車乗り場の目印にされていたのは、

「オムネ」という店名の帽子屋がラテン語で書いた

「すべての人のためのオムネ」と言う看板でした。

これがきっかけとなり、馬車のことを「オムニビュス(オムニブス)」と呼ぶようになり、

「バス」の語源となりました。

しかし "Omnes Omnibus" という看板が存在したという同時代の記録はなく、

ナント市公文書館によれば

そもそも乗合馬車の路線沿いにオムネなる帽子店が実在したかも確認されていない。


 1828年、ボードリーはパリに進出した。

4月にはパリ・オムニビュス総合会社(l’Entreprise générale des omnibus de Paris)を設立して、

バスティーユ広場とカルーゼル広場、マドレーヌ広場の間で乗合馬車を運行した。

乗合馬車は急速に普及し、8ヶ月後には従業員200人、馬車89両、馬800頭を擁するまでになった。

瞬く間にロンドンやニューヨークなどにも普及し始めました。

これが公共交通機関としての乗合馬車の再発明である。


 なお同じ年、息子のエドモン・ボードリーがボルドーとリヨンで同様の事業を始めた。

しかしボードリーの成功を見て他の業者も次々と乗合馬車に参入し、激しい競争が勃発した。

加えて天候不良による飼料の高騰もあり、ボードリーの会社は1830年2月に倒産に追い込まれ、

ボードリーは絶望のあまり自殺した。

安易な異世界内政チートの末路としての良い例である。


 なお、その後イギリスでは蒸気バスが誕生しました。

蒸気機関車である「ロケット号」に魅了された発明家のゴールズワージー・ガーニーにより、

1831年に6輪、18人乗りという大型の蒸気バスが誕生したのです。

最初の蒸気バスの走行ルートは、チェルトナムからグロスターまででした。


 1836年になると乗合馬車業界の浅ましい反発により、

チェルトナムからグロスター間を走る蒸気バスは

撤退させられてしまいますが、同じ年にロンドンでも蒸気バスの営業が始まりました。

ウォルターハンコックが、みずから製作した大型の22人乗りバスを就役させたのだ。

このハンコックの蒸気バスは、30人を乗せて時速33.6kmをテストで記録している。

いっぽう、バスと並行して蒸気トラック(スチームワゴン)も普及していった。


 1855年頃にパリの乗合馬車事業が1つの会社に統一されると、

屋根の上にも席を設けて定員を増やした馬車が現れている。

このころには屋上席への乗り降りには梯子を必要としていた。

1878年にパリで車両の後方に乗降用のデッキを設け、

ここに屋上席への螺旋階段を取りつけた車両が導入された。


 1881年にはマルセイユで馬車製造業者のリペール(Ripert)によって、

「リペールの車(Car Ripert)」と呼ばれる形式の馬車が発明された。

これは馬車軌道の車両にならって前後二つの乗降用デッキを有し、

小型の車輪を車体の内側に取りつけていた。

屋上席はなく、比較的需要の小さい系統で用いられた。


 さらに19世紀末になると乗合自動車が開発され、

次第に馬車はバスに置き換えられていきました。


 20世紀初めには実用的な交通機関としての乗合馬車は消滅し、

バスが実用的な交通機関として用いられるようになりました。

1902年、LGOC社が電気モーター動力車を導入し始めます。

LGOC社の創業者は、1855年から馬車バスを運行していたトーマス・ティリングです。

トーマス・ティリングは、馬車バスを運行する中で、

馬ではなく自動車を利用したバスの運行を思い付き、1904年に実行に移しました。

しばらくは、自動車バスと馬車バスが並行して利用されていましたが、

1914年には馬車バスは廃止され、自動車バスがメインになりましたとさ。


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