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現実:歴史-先史時代(中石器時代、新石器時代)

現実:歴史-先史時代の人類史から


▶完新世突入期の環境変動:幼年期の終わり


 最後の氷期と言われるヴュルム氷期が終わり、更新世(約200万年前〜約1万年前)から完新世(約1万年前〜現在)へと時代は移り変わった。ただし、最終氷期終了に伴う温暖期(亜間氷期)の後にも一時的に気候が寒冷化する新ドリアス期(亜氷期)と呼ばれる期間があった。(なお、この後も冷害な例外はいくらでもくりかえされるのであった)


 氷期の終わりとは即ち地球全体が温暖化することであり、氷河がモレーン(堆石)を残して後退した。

また、地球各地が湿潤化して森林地帯が増加するも、それとは逆に草原地帯は減少していき、やがてマンモスやトナカイなどの大型哺乳類の生息環境が縮小し、結果彼らを絶滅させた。

 同時期この頃には数十万年前から存在していたネアンデルタール人まで姿を消し、人類の直接の祖先であるヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)が活躍するようになった。なお、これらに人類の関与は明確には確認できず、全ては闇の中である。


 一方、海水面上昇により黄海ができスンダランドは海中に没した。それにより現在のインドネシアやフィリピンなどに相当する地域がユーラシア大陸から分離して島となった。

 またベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアもまた温暖化の海進により水没し、北米大陸すらユーラシア大陸から分離した。



▽中石器時代:約20,000-9,000年前の時期

この時期は約1万年前に当たる更新世の終わり頃に始まり、地域によって様々な農耕の導入を終わりの契機とする。


 近東など一部地域では、更新世の終わり頃には既に農耕が始まっており、中石器時代の定義は短い期間のあやふやなものになる。また氷河の影響を受ける地域では「亜旧石器時代」という用語が適する。逆に第四期氷河時代終焉によって自然環境が好転する恩恵を受けた地域は、はっきりした中石器時代を迎えた。北欧では、広がる湿地帯から食糧をたくさん得ることが出来た。同様に、マグレモーゼ文化やアジール文化なども豊富な資源を背景に人類が発展を見せた。ヨーロッパ北部ではこのような時代は6,000年前まで続いた。

 この時代の遺跡は少なく点在状態にあり、古代のごみ捨て場である貝塚程度しかめぼしいものが見つからない場合もしばしばである。しかし貝塚はその当時の生活様式に関する情報を与える。食糧は貝殻類に限らず動物や鳥類の骨など、また既に犬を飼う習慣を持っていた事、時に人骨や石器類も発見される。

 多くの地域で、中石器時代を特色づけるものは小さな燧石を用いた道具類であり、細石器やマイクロビュラン、漁具、石製手斧などがある。また、場所によってはカヌーや弓なども木製具も発見されている。このような技術はアフリカのアジール文化で起り、北部アフリカのイベロ-マウリシオ文化やレバントのケバラン文化を通じてヨーロッパに伝わった。この他にも独立した発見も無視されてはいない。

 中石器時代の文化は主にホモ・サピエンスが担ったが、ネアンデルタール人のような種族もまた共存しており、彼らも痕跡を残した。



▽新石器時代 紀元前8500年頃-冶金術の成立によって金属による道具が広まったときに終了。

「新石器時代」は、原始的な技術や社会構造が発達し、石器時代にピリオドを打つ時代である。


 人類は環境適応能力の高さを発揮し、生活領域を拡大し、狩猟社会だけでは利用できなかった生活資源を活用し始めた。約9,000年前に始まる。この時代には村落の形成や農耕、動物の家畜化、道具類の発展、巨石建造物、そして戦争の痕跡が確認できる。この用語「新石器時代」は、通常では旧世界を指し、アメリカ大陸やオセアニアなどで結果的に金属加工技術を発生させなかった文化段階をも指して使われる。



▶文明の発生、農耕の起源:ただし大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではない。


 人類の祖先(ヒト亜科)は他の霊長類と分岐して以降の数百万年もの長い間も、採集、狩猟、漁労などによって生計を立ててきたとされる(狩猟採集社会)。が、それらとともに新たに農耕や牧畜が始められた理由として食料難が一つの説としてあげられている。


 先史時代前半から農耕の発祥までの人類はジャングルを追われて以降、出アフリカにより常に滅亡の可能性に晒されていた。食糧は火を使い加工こそできたものの、植物性食物とわずかな動物性食物に頼るのみで、常に飢餓の危険にさらされながら、より住みやすい土地を求めて移動を繰り返していた。そのため、集団の信仰や習俗には多産を祈念し推奨する要素が多く生じ、またジェンダーの観念も生殖に重きが置かれていた。この停滞状態を脱し、人口が増加に転じた主たる理由は、農耕や牧畜など食糧生産手段の変革があったからだ。


 文明が発生の前提として農耕による食糧生産の開始と、余剰農作物の生産がなければならないが、農耕の起源については諸説ある。

 最初期の農耕は23,000年前のイスラエルのガリラヤ湖岸での麦類の原始的な農耕の痕跡の発見や、11,000年前のオリエントがレバント(シリア周辺、肥沃な三日月地帯の西半分)のテル・アブ・フレイラ遺跡で最古級の農耕のライムギ、また10,000年ほど前の中国の長江流域で稲作を中心とした農耕の跡が発見されている。イモ類ではパプアニューギニアにて9,000年前の農業用灌漑施設の跡「クックの初期農耕遺跡」が発見されている。 それ以前は採集によって野生の穀物や豆類を集めており、たとえばムギ類はアナトリア高原の南、ハブール川流域で野生種が利用されていた。これらは、20,000年前に最も寒くなった最後の寒冷期の終わり温暖期の始まりである10,000年前に当たる。


 こうして農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。

 さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となっていく。



農耕の開始:


 この農耕が始まった時期は氷河期(最終氷期)の終結に伴う気候の変動が続いた時期(急激な温暖化と、それによって溶解した氷河からの冷水が海水温を下げたことによる一時的な寒冷化への揺り戻しが発生した)と重なっており、これによって従来通りの狩猟採集で食料の確保をすることが困難になったこともきっかけとされる。地球上では氷河期の方が、むしろ生命の豊かな時代だったのだ。氷河期には大気中の水蒸気が凍って地上に蓄えられ、少しずつ融けて常時適度に地面に水分が供給されるので、森が豊かに広がり、動物が大いに繁殖した。また氷河期は空気が乾燥してむしろ雪が少なかったので、地表の草を動物が食べ易かったのだ。


 農耕は大量の水が要り、ついでその管理も必要となってくるため、河川周辺など、定期的に水の供給が得られる場所が農地として選定されることが多い。

 そしてこの農耕の開始と同時期には牧畜も開始されていた。これらの始まりの時期より主に磨製石器が作られたことから、この時代は新石器時代と呼ばれている。また、一連の変革により食料の生産が可能となり、生活システム・社会構造を変化させ文明の発達が始まったことから、農耕革命、あるいは新石器革命とも呼ばれる。

 世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。



▽人類が農耕を開始した理由:打製石器から磨製石器、そして金属器へ

 もともと慢性的な飢餓状態であった狩猟採集生活から脱するため、気候変動により不安定化した狩猟採集生活から穀類採取へと転換した、また人口増加により狩猟採集生活で維持できなくなった為それまで食料と認識されていなかった穀類採取を行うようになったという説など諸説ある。また、逆説的に定住生活を始めたことにより必然的に農耕・牧畜を始めるに至ったという説もある。


 先史時代「新石器革命」(農耕革命)の概念によると、紀元前1万年から紀元前8000年頃にシュメールで農耕が始まり、紀元前9500年から紀元前7000年頃にはインドやペルーでもこれと独立に行われ始めたという。さらに紀元前6000年頃にはエジプト、紀元前5000年頃には中国、そして紀元前2700年頃にはメソアメリカで農耕は広まった。

 中東の肥沃な三日月地帯が重視されがちだが、複数の作物や家畜を育成する農耕システムは考古学的分析からアメリカ州や東アジア・東南アジアでもほぼ同時期か若干早く発生していた。シュメールでは紀元前5500年頃には組織化された灌漑や専従労働も始まっていた。

 紀元前5,300年頃にはメソポタミアにおいて本格的な灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4,000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3,200年ごろには楔形文字が発明された。


 農耕・牧畜の開始により、それまでの狩猟・採集による獲得経済から安定した食料の生産を可能とする生産経済へと移行した(食料生産革命)。生産性の向上により人口が急増し、更なる生産力の向上に繋がり農耕・牧畜社会は拡大していった。一方、定住生活により集団・組織化が起き、やがて定着集落(村落)が形成された。また、一箇所に留まることが可能となったことで余暇も生まれ、時間を掛けて様々な物を製作できるようになり、石器もより手入れを必要とする磨製石器が主流となっていった。余剰生産・労働力により社会にゆとりが生まれ、交易を行う行商や専門技術を担う職人が出てくるようになった。定住農耕社会は分業を促進させていくと共に階級が生じ、社会構造が複雑化することで文明となり、やがて国家や市場が誕生するに至っている。


 ユーラシア大陸では、メソポタミアのユーフラテス川やチグリス川、エジプトのナイル川、インド亜大陸のインダス川、中国の黄河や長江のように文明の揺りかごは川や谷が担ったが他方、オーストラリアのアボリジニや南アフリカのサン人にような遊牧的な民族は、農耕を自文化に取り入れた時期は比較的近年になってからのことである。


 農耕はその作業において分業を促進し、そこから複雑な社会構造とも言える文明を作り、国家や市場を形成した。技術は自然を利用する術を授け、交通や通信手段を発達させた。

 同時にこの時期からそれまで使用してきた岩石を用いた石器は青銅器や鉄器にだんだんと取って代わられいき、これら新しい道具は農作業のみならず戦争にも使われるようになった。ユーラシア大陸では銅や青銅の道具が発達し、紀元前3000年頃に地中海沿岸東部で発明された製鉄技術は中東を経由して中国まで伝わり、農具や武器へ利用された。

 一方のアメリカ大陸では金属器の発展は遅く、紀元前900年頃のチャビン文化勃興を待たねばならなかった。モチェ文化では金属は武具やナイフ・器などに用いられ、金属資源に乏しいインカ文明でも、チムー王国に征服された頃までには金属片をつけた鋤が実用化されていた。しかしその一方で、ペルーでは考古学的調査の進捗は限定的であり、古来の記録媒体であったキープはスペインのインカ帝国征服によってほとんどが焼却されてしまい、資料に乏しい。ほとんどの都市遺産は未だ発掘されていない。



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