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現実:事件  ロサンゼルスの戦い  - アメリカ本土空襲作戦? -  ああっ憧れのアメリカ本土侵攻

サタンが街にやってくる〜♫

▼ロサンゼルスの戦い(ロサンゼルスのたたかい、英語:Battle of Los Angeles)は、

第二次世界大戦中の1942年2月25日に、

アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市で起きたアメリカ陸軍による軍事作戦。


日本海軍の艦載機による空襲が行われたと誤認したアメリカ陸軍が

対空砲火を中心とした「迎撃戦」を展開、

その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸のみならずアメリカ全土をパニック状態に陥れた。

しかし実際に日本海軍がそうした空襲を行った記録はなく、騒動の真相は未だ不明のままである。



▼日本軍上陸に対する恐怖

 宗主国であったイギリス以外の外国の軍隊から本土を攻撃された経験を持たないアメリカ国民を

初めてえも言われぬ恐怖に陥れたのが1941年12月日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃だ。


 日本陸海軍によって行われたマレー作戦と、

それに続く1941年12月の日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃以降、

日本軍はアジアおよび太平洋戦線において、

アメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていた。

このように快進撃を続ける日本軍がすぐにでもアメリカ西海岸の都市に侵攻してくるのではないか……

アメリカ人がこれまでに味わったことのない不安が社会を覆いはじめた。


 真珠湾攻撃当時ラジオ局のKGMBは日本軍攻撃開始前まで通常の番組を放送していたが、

まず8時4分に通常の番組を中断してアナウンサーのウェブリー・エドワーズが

全軍人・軍属に基地に召集する軍の短い声明を読み上げた。

その後は通常番組に戻ったが、

数分ごとに、消防士、医師、救助隊員などを召集するアナウンスで中断され、

ついに8時40分にエドワーズが

「この放送を中断して、この重要なニュースをお知らせします。どうかしっかりお聞き下さい。

 島は攻撃を受けています。くりかえします。島は敵軍の攻撃を受けています。」と伝えた。

しかしこの放送を聞いても真に迫った演習と考える市民もおり、

中には3年前に『宇宙戦争』のラジオ放送で起こったパニックと同じと疑った市民もいた。

仕方なくエドワーズは9時に再度

「これは演習ではありません。訓練でもリハーサルでもない、日本軍が島を攻撃しているのです。

 これはreal McCoy(真実)なのです。」と震える声で自分を信じてもらいたいと訴えていた。



 この様な状況下で1941年12月の開戦以降から翌年春にかけて、

太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の乙型潜水艦9隻が

アメリカ西海岸沿岸で潜水艦による通商破壊作戦に従事し、

アメリカやカナダの輸送船に通商破壊戦を実施し魚雷攻撃や砲撃を加え、

アメリカ西海岸沿岸を航行中のエミディオ号をはじめアメリカのタンカーや貨物船を

10隻以上撃沈、擱座、制御不能などの多数の損害を与えた。

中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、

日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈する他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、

開戦以来日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で頻繁に行われていた。


 さらに日本海軍はアメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心とした

アメリカ本土攻撃を計画し、1941年12月のクリスマス・イヴに予定・計画された

北太平洋で作戦活動に従事していた日本海軍の艦艇10隻程度によるサンフランシスコへの

複数の潜水艦による一斉砲撃作戦こそ、

日本海軍司令部が

「クリスマスくらい静かに過ごさせてやれ」

との意見で中止されたものの(なお中止の理由には諸説ある)、

1942年2月23日午後7時(現地時間)に「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)により

カリフォルニア州サンタバーバラ郡のエルウッド石油製油所

(リッチフィールド油田施設)への砲撃作戦を行った。


 この日本海軍船艇の砲撃による被害は少なかったものの、

これはアメリカにとっては1812年戦争以降初めて本土に受けた攻撃であり、

警戒を呼び起こすことになった。


 実は日本海軍艦艇による開戦当初の怒涛の進撃とアメリカ軍を含む連合国軍の度重なる敗退、

度重なるアメリカ本土への攻撃を受けて、

 開戦直後から当時のアメリカ政府上層部は実は既に、

「日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土砲撃やアメリカ本土空襲と、

 それに続くアメリカ本土への上陸侵攻計画が行われるのは、

 1941年12月から1942年の秋の間、1942年の初頭にかけて行われる可能性が非常に高い」

と分析していたのだ。


 実際に開戦直後にフランクリン・ルーズベルト大統領は、

日本陸軍部隊によるアメリカ本土への上陸を危惧し、

陸軍上層部に上陸時での阻止を打診したものの、

それに対して陸軍上層部は

「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、

日本軍を上陸後ロッキー山脈で、

もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた

(なお、実際に開戦後数週間の間、

 アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。


 またサンフランシスコやロングビーチ、

サンディエゴ等のアメリカ西海岸沿岸の主要な港湾においては、

日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、

陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行った他、

その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作り、

さらには防毒マスクの市民への配布や夜間の灯火管制、

映画館やナイトクラブの夜間の営業停止、警察や市民による沿岸警備などを行っていた。


 さらに西海岸一帯においては、

黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する人種差別を背景にした

日系人の強制収容までが行われていた

(同様の措置は白人であるドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人に対しては行われなかった)。

アメリカが批難してきたナチスドイツのように日系アメリカ人は強制収容所に入れられたのだ。

これがナチスが行ったホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」のアメリカ版、

悪名高き日系人強制収容所である。

これはアメリカにおける最大の人権侵害の一つだと考えられている。

(アメリカのドナルド・トランプ次期大統領の政策顧問を務める作家のカール・ヒグビー氏が

 イスラム教徒の入国を管理するには「第二次世界大戦中に日系人を強制収容した歴史が前例になる」

 と述べ、批判を浴びた。)


 大都市部のロサンゼルスやサンフランシスコへの砲撃こそ行われなかったものの、

そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、

開戦から3ヶ月を経た1942年2月24日未明に日本海軍艦艇により

カリフォルニア州サンタバーバラ近郊の海岸沿いにあったエルウッド石油製油所を

日本海軍の乙型潜水艦「伊号第一七潜水艦」が砲撃し施設を破壊し、

帰途にタンカー1隻と輸送船1隻を撃沈した。

アメリカ軍は何も反撃をできなかっただけでなく、石油施設に被害を受けてしまうのだった。


 翌日には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、

日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃をおこなった「ロサンゼルスの戦い」が発生した。


 これは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に

衝撃を持って受け止められ、陸海軍ともにアメリカ本土に対する再度の攻撃に対して

警戒態勢を布いていた。

しかしその後、日本海軍艦艇によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、

24日の午後10時22分には、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなった。


 だが警戒解除のわずか3時間後の25日の午前1時44分に、

ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に

日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知した。

この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに

陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入った。


 その後南下する飛来数は「25機」と報告され、

さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、

時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず

多くの市民からも目視されたため、

陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始した。


 ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、

陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、

飛行物体には命中しなかった。

さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗してしまう。

その後も飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、

しばらくして飛行物体の一群は南西方面へと移動し、

その後人々の視界からもレーダーからも消えてしまった。


 通常兵器がまったく通用しないこの“群れ”はいったい何だったのか。

日米双方の記録からもこの日に日本軍がロサンゼルスを攻撃した事実は一切なく、

飛来した飛行物体が何であったのかは今になっても謎のままである。


 だがロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、

それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、

即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継された。

さらに、多くの市民によって

「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、

「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、

 交差したり追いかけっこをしたりしていた」

などの詳細な目撃談も報告されたほか、

サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影された。

また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、

ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあった。


 これはまるで1938年10月30日にハロウィン特別番組として、

オーソン・ウェルズが、H.G.ウェルズのSF小説『宇宙戦争』をラジオ番組化した

アメリカのラジオ番組『マーキュリー放送劇場(英語: The Mercury Theatre on the Air)』

で放送された番組の再来である。

(放送が行われた当時はナチス・ドイツの台頭により、開戦への緊張感が高まっている時代であった。)

*ただし、このパニックについては、疑いも持たれている。

全国の警察に膨大な量の問い合わせの電話があったことは事実であるが、

それ以上の行動が起こったという証拠はほとんどない。

実際のパニックはごく僅かなもので、当時新興メディアであったラジオに対して

警戒心をあらわにしていた新聞がことさらにバッシングを行ったことが

都市伝説化したものだとする説も有力である。


   - 閑話休題 -



 上記の様に、飛行物体が飛行する様を多くの軍民が観察したのみならず、

飛行物体に対して陸軍が対空砲火による攻撃を行い、

その一部始終を多くの市民やマスコミが観察し、

さらには多数の飛行物体の写真が撮影されていたものの、

事件の起きた25日の午後にはこの事件に関してアメリカ海軍フランクリン・ノックス海軍長官が、

「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、攻撃も確認されていない。

 日本軍の航空機が進入した事実は無かった。」

と発表したが、一般市民は

「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、

過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。


 なおヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し

「ロサンゼルス市上空で、

 1時間にわたって15機の航空機が9000フィートから18000フィートの高度を

 上昇と下降を繰り返していたことを確認している」

と反論した上に、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、

ルーズベルト大統領に向けた報告書内で、

「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、

 日本軍が(アメリカ西海岸地域の)対空砲の位置を暴くとともに、

 灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」

との自らの意見を述べるなど、陸海軍間で対立が見られた。


 国防総省はこの事件の記録があることを長年否定し続けたが、

情報公開法によりこの情報が初めて日の目を見た。


 第二次世界大戦後明らかになった日本海軍の記録では、

この日に日本海軍の潜水艦とその艦載機によるロサンゼルス市一帯への空襲は記録されていなかった。

また「15機が飛来」や「25機が飛来」と報告されていたものの、

当時アメリカ西海岸沿岸に展開していた航空母艦はなく、

さらに同地域で活動していた日本海軍の潜水艦は10隻程度で、

その艦載機を全部足しても15機に足らなかった。

他にも、「日本軍が飛ばした爆弾付き気球(風船爆弾)ではないか」

という報道もなされたものの、当時まだ風船爆弾は実用化されていなかった。


 さらに、当日に陸軍第205防空部隊が

気象観測気球をサンタモニカで上げていたことが判明したことや、

その後も各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に本土上陸も危惧される中、

陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に

人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり、

最終的に

「24日の日本海軍の潜水艦によるサンタバーバラ砲撃と

 その後の警戒態勢を受けて過敏になっていた陸軍部隊が、

 この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応した事がこの『戦い』の発端である」

と結論付けられこの事件は幕を閉じることとなった。


 しかし、陸軍のレーダー上で

サンタモニカよりはるかに離れた地点から上昇と下降を繰り返しながら飛来する飛行物体が

観察されたうえに、目視においても多数の兵士や民間人が赤く光る飛行物体を確認し、

撮影もされていることからこの結論を疑問視した。


 マーシャル陸軍参謀総長による報告書のように日本軍機の飛来を主張する者や、

「日本軍の脅威を強調するために、

 軍需関連企業の意を受けた保守派団体などが航空機を飛ばし故意に騒ぎを起こした」

という説を唱えるものがいたほか、

戦後には、日本政府が正式にこの当時航空機が西海岸上空を飛行していなかったことを認めると、

「未確認飛行物体(UFO)が飛来した」と主張する者さえいた。

*1942年2月26日付 情報公開法 マーシャル陸軍参謀総長の覚書

『ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件を大統領へ伝える機密文書(陸軍総司令部よりの情報)

 未確認の航空機は、合衆国陸軍または海軍のものではない。

 おそらくロサンゼルス上空を飛行したものとみられ、

 第37沿岸砲兵旅団(対空砲兵中隊)の複数の小隊が、

 午前3時12分から4時15分までの間砲撃した。これらの部隊は1430発の弾薬を使用した。

 関係した未確認航空機は15機に及ぶらしく、

 公式の報告書によれば「非常に遅い速度から時速200マイル(約322Km/h)に至るさまざまな速度で、

 9000-18000フィート(約2743m-5486m)に及ぶ高度で飛行した。

 爆弾はまったく落とされなかった。

 わが軍の戦闘犠牲者はなし。

 これらの未確認航空機は1機も撃墜されなかった。

 当時活動中のアメリカの陸・海軍航空機はなかった。』


 なお、事件が起きた1942年においては、

アメリカにおいていわゆる「UFO」の概念は一般市民のみならず軍内部においても認識されていなかった

(「地球外生命体の乗り物」という意味でUFOの語が広く用いられるようになったのは

実は戦後の1947年以降のことである)ため、

事件当時には「UFOの飛来ではないか」という意見は大戦後に至るまで

軍民・マスコミのいずれからも起きることはなかった。


 いずれにしても、実際の被害の大きさよりも

アメリカ軍民に衝撃と混乱を与えることが目標とされた

2月24日のサンタバーバラへの日本海軍艦艇による砲撃の成功が、

このような形でのアメリカ軍の混乱と、同士討ちによる被害を招いたともいえる。


 結局飛行物体からの攻撃行為はなかったものの、

ロサンゼルス市内には陸軍が迎撃のために発射した対空砲火の破片が多数散乱し、

破片により地上では住宅や自動車が被害を受けただけでなく、3人が破片にあたり死亡した。

さらに突然の「日本軍機襲来」と対空砲火に驚いた市民3人が、心臓麻痺で死亡した。




★クリスマス特番:この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

 12月24日未明に後の戦略ミサイル原潜の構想に繋がったとも言われる日本海軍艦艇:

伊四百(伊-400)型潜水艦から発進したイーグル号、ジャガー号、ベアー号の

3機のゲットマシンによりニューメキシコ州ロスアラモスにある

マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設された

ロスアラモス国立研究所に対する攻撃が行われた。

早乙女研究所と光子力研究所からの鉄砲玉である。


 これによりアメリカ軍は何も反撃をできなかっただけでなく、核開発施設を失ってしまう。

これは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に

衝撃を持って受け止められ、

陸海軍ともにアメリカ本土に対する再度の攻撃に対して警戒態勢を布いていた。


 しかしその後、日本海軍艦艇によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、

24日の午後10時22分には、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなった。

しかし警戒解除のわずか3時間後の25日の午前1時44分に、

ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に

日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知した。

この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに

陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入った。


 その後南下する飛来数は「25機」と報告され、

さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、

時速約320キロでシャンシャンと鈴の音を響かせ移動する

赤く鼻の光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、

陸軍第37沿岸砲兵旅団はこの現実を打ち壊そうと対空射撃を開始した。


 ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで照らされながら飛来する謎の飛行物体に対して、

陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間にムキになって約1430発の高射砲を発射したものの、

飛行物体には一切命中しなかった。

さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗してしまう。

その後も彼ら飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、

プレゼントを子供たちに配り終わると

「メリー・クリスマス!」と言う言葉を残し、その後目視からもレーダーからも消えてしまった。


 ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の仮称「日本軍機の空襲」と、

それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、

即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継された。

さらに、多くの市民によって

「どこからともなく現れた小型のソリが空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、

「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の空飛ぶソリが高速で飛び回り、

 交差したり追いかけっこをしたりしていた」

などの詳細な目撃談も報告されたほか、

スポットライトに照らされたミニスカサンタのローアングル写真も多数撮影された。

また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、

煙突への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあった。


 これらは当日陸軍第205防空部隊が気象観測気球をサンタモニカで上げていたことが判明したことや、

その後も各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に本土上陸も危惧される中、

陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に

わざわざ人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり最終的に

「24日のサンタに砲撃……ゴホン。日本海軍の潜水艦部隊に対する砲撃とその後の警戒態勢を受けて

 過敏になっていた陸軍部隊が、この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応した事が

 この『戦い』の発端である」と結論付けられこの事件は幕を閉じることとなった。


 しかし、陸軍のレーダー上で明らかにサンタらしき機影が

上昇と下降を繰り返しながら飛来する姿が観察されたうえに、

目視においても多数の兵士や民間人がお鼻が赤く光るトナカイとソリを確認し、

サンタの姿も撮影もされていることからこの結論を疑問視した。


 なお、事件が起きた1942年においては、

アメリカにおいてもいわゆる「ミニスカサンタ」の概念は一般市民のみならず

マニアにおいても認識されていなかった

(「あれは良いものだ」という認識が世間に広まるようになったのは戦後の1980年代以降のことである)

ため、事件当時には

「それはバニーガールではないのか?」という意見が

大戦後数十年に至るまで軍民、マスコミのいずれからも見られることとなった。


 いずれにしても、実際の被害の大きさよりも、

アメリカ軍民に畏怖と衝撃を与えることが目標とされた12月24日の成功が、

このような形でアメリカ軍NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)恒例の

「サンタ追跡」を実施させたのです。

こうして今年もアメリカ軍とカナダ軍が、普段の索敵・追跡能力をフルに発揮して、

世界中を駆け抜ける赤い彗星を「ノーラッド・トラックス・サンタ」(NORAD Tracks Santa)として、

毎年サンタクロースを追跡しているのです。


日本海軍司令部「クリスマスくらい静かに働かせてやれ」


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