現実:歴史-地名由来 「放出(はなてん)」 - 草薙剣盗難事件 -
出ます! 出します! 出させます! 出玉絶賛大放出……ではなくて
▼放出とは、
大阪市東部、大阪府大阪市鶴見区南部の一地区と城東区にまたがる地域の地名である。
(放出東は鶴見区、放出西は城東区である。)
1889年(明治22年)まで摂津国あるいは大阪府東成郡放出村として存在していた。
南側に第二寝屋川、
北側に寝屋川があり、
寝屋川と旧大和川本流の長瀬川などが合流する地でもある。
(放出は旧大和川右岸に位置する。
実は江戸時代以前、長瀬川という名称ではなく大和川であり、
戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あった(現在の川幅は5m程)が
高度成長期になると農業用水路として、
後には工業排水用の水路として細い流れを残すのみとなったのだ。
昭和初期には寝屋川も改修され市街化が進んだ。
この付近は古代より水害対策のために何度も大規模な改修工事が行われていたのだ)
一帯は、古くは諸河川が流入する湖沼で、湖水の放出口があったのが地名のおこりともいうが、
次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発された
(現在の長瀬川沿いの地名の多くには旧来は名称の後ろに「新田」がついていたものが多い。
なお旧河道の新田は既存の村々には編入されたが、
明治維新以後には新たに移住するものがあり新たな村が設置された。
このため現在に至るまで長瀬川沿いには周囲とは異なる地名が付けられている場所が多い。
加えて、新田開発した商人の名に由来する菱屋西のような名称までもある)
が、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。
このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、
河内木綿と呼ばれるまでになった。
また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、
現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。
明治以降は外国製の安価な木綿に押されて木綿栽培は衰退したが、
天井川であったために周囲の土地よりも高く水はけが良い点を活かし、旧河道には鉄道が敷設された
(大和路線八尾駅~柏原駅、近鉄大阪線長瀬駅~久宝寺口駅)。
さらに同じ理由から宅地開発や学校の建設も行われた。
1928年には東大阪市の近鉄大阪線長瀬駅北側に帝国キネマ長瀬撮影所が開設され、
「東洋のハリウッド」と称されるも、1930年9月30日に火災で全焼した。
▼地名の由来:
難読地名、そして珍地名として知られ、
古くは放手と書き「はなちで」とも称したこの地には、
八剣 (やつるぎ) 大明神として知られる延喜式内社の阿遅速雄 (あちはやお) 神社があり、
疫病よけの神として参詣者が多い。
中世荘園の飛び地であったことに由来するとも言われるが、
放出の地名の由来にはこの他異説がある。
1. ひとつの説としては、
実は大阪の歴史は水辺の歴史である。
古代の大阪は内陸部が湖(河内湖)となっていて、(それ以前は内海(河内湾)であった)
海岸線が現在の平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、
その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていた。
それが古墳時代になると内海は砂礫で埋まりだし、潟となって河内湾は淡水化し、
やがて河内湖へと姿を変える。
このように旧淀川や旧大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し形成された大阪平野は、
逆説的に水害を受けやすい地形であった。
日本書記には、大規模な治水・利水事業をはじめ、
南北東西の道路を伸ばす土木工事が行われた記事が多く見られ、
人々が暮らしやすい土地を求め、地形を改良していたことがうかがえる。
付替以前の大和川は大阪平野を北流し、淀川(旧淀川)に注いでいた。
昔から水の集まりやすい土地であり、
その時代、放出の地付近で湖水が旧淀川への放出口となっていたことから、
水の「はなちてん」がなまって「はなちで」を経て「はなてん」になったといわれる。
2. もう一つの説としては、
大阪府大阪市の地名「放出」について、
地区内の阿遅速雄神社にある石碑がその伝承を伝えている。
三種の神器の一つ・草薙剣を、剣が安置されていた熱田神宮から盗み出し、
逃げようとした新羅の僧・道行の乗った船が難破してこの地に漂着し、
道行が神罰を怖れて草薙剣を「放り出した」
(はなつて→はなて→はなてん)という伝説に由来するともいわれている。
(草薙剣盗難事件)
*天叢雲剣は草薙剣とも言われ、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)。
三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
▼草薙剣盗難事件は、
飛鳥時代の天智天皇7年(668年)に発生した、草薙剣(天叢雲剣)の盗難事件。
○『日本書紀』
事件は、『日本書紀』(養老4年(720年)成立)において簡潔に記載されている。
・さて事件が起こったのは、天智天皇7年(668年)のこと。
是歳条によると、道行という沙門(僧侶)が草薙剣を盗み出し、
朝鮮半島の新羅に向かって逃げたのだそうです。
しかしその途中で暴風雨に遭ったため、道行は道に迷って帰って来たのだと言います。
同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない。
草薙剣のその後については、事件18年後の朱鳥元年(686年)6月10日条に記述がある。
同条によると、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、
剣を尾張国の熱田社(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り届けたという記述があります。
ということは、取り返された草薙剣はしばらく天皇のもとにあったということになります。
草薙剣は、現在は熱田神宮正殿の本宮にあると言われていますが、
古くは「土用殿」と呼ばれる小ぶりの宝庫に納められていました。
おそらくは長く、この土用殿にあったのだと思われます。
○鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝
和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、
元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする。
○『古語拾遺』
大同2年(807年)の成立になる『古語拾遺』では、
簡潔ながら、外賊が草薙剣を盗み逃げたが境を出ることが出来なかったと事件について触れている。
○熱田神宮のホームページ
ホームページに載っている歴史では、
朱鳥元年(686年)に「草薙神剣が神宮還座」と記されていて、このときに剣が戻ったとしています。
○熱田神宮の伝承
道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門を通ったという。
古来、清雪門は不開門として閉ざされたままとなっているが、
これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に
歓喜した様を伝える酔笑人神事を行う。
さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸すれど、永く皇居を鎮め守らん」
という神剣の神託に由来して、
神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事も行なっている。
「尾張国熱田神宮縁起」という鎌倉時代初期に成立した文献には、
この事件に関するもう少し詳しい説話が記述されています。
○文献「尾張国熱田神宮縁起」
熱田神宮側の文献として、鎌倉時代初期頃の成立になる『尾張国熱田太神宮縁記』では、
道行を新羅僧として説話を記載する
(素性を新羅僧とするのは、一説に『日本書紀』の記述の拡大解釈)。
それによると道行は新羅の僧で、熱田社から神剣(草薙剣)を盗み出し
袈裟に包んで故国に渡ろうとするのですが、
伊勢国において神剣は独りでに抜け出して熱田神宮に還ってしまいます。
なので道行は再び盗み出し摂津国(大阪府・兵庫県)から船に乗り出港したが、
船は海難のため難破し、難波に漂着した。難難難でしょう。
このとき
「我は神剣だが、妖僧に欺かれ七条の袈裟に包まれたが抜け出て社に還った。
今度は九条の袈裟に包まれたので、還ることができない」
という神託がありました。
七条・九条というのは袈裟の布の幅のことです。
道行は畏れて、神剣草薙剣を投げ捨て逃げようとしたが、
神剣がどうにも道行の身体から離れず、
ついに自首して死罪に処せられたという。
そして朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神剣の祟りと見なされ、
神剣は熱田社に移されたとしている。
・愛知県知多市の「薬王山法海寺」の縁起には、
この道行は実は元は新羅の皇子であり、捕まって幽閉されたあと改心し、
この地で修行を重ね霊感を得て天皇のために祈り、
病気を平癒させたために勅願寺を賜ったという後日談が記されています。
また、道行が捕まり草薙剣が無事に確保されたあと18年間も留め置かれ、
どうしてすぐに熱田神宮に還されなかったのかは、良くわかりません。
このことから道行が盗み出したのは熱田神宮ではなく朝廷からという説もありますが、
真実は不明です。
▼神剣「天叢雲剣=草薙剣」流転の理由:
そもそも天叢雲剣は日本神話において、
スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、
大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。
「くさ」は「臭し」の語幹、「なぎ」は古く蛇を表す語で、蛇から出た剣の意とする説もある。
剣名の意は「獰猛な蛇」で、大蛇より出た剣名には適切だが、
草を薙ぐ話はのちにつくられた命名起源の俗解にすぎない。
神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、
本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。
また八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については古事記・日本書紀で複数の異伝があるが、
スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した。
続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた。
それが崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、
本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。
神話や伝説に従えば、そもそも天皇の宮にあった草薙剣が伊勢神宮から日本武尊の手に、
そして熱田神宮へと移って行ったのには理由がありました。
これは宮中では天照大神と
倭大国魂神の二柱の神を祀っていたところ、
崇神天皇が二神の神威の強さを畏れて、
天照大神の宿る草薙剣を天皇の宮の外で祀るようにしたということです。
(ですから草薙剣盗難事件のどさくさ紛れにより再び朝廷に18年も留め置いたのは
良くなかったということでしょうか。)
平安時代の熱田神宮に伝わっていた記文(由緒)によれば、
景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトにアマテラスが神懸りして、
「この剣は、そなた〔ヤマトタケル〕が前世でスサノオであったとき、
出雲国で八岐大蛇の尾よりとりだして、私に献上した剣です」と伝えたと言う。
(神剣を授けるにあたりヤマトヒメはヤマトタケルに言葉をかけるが、複数の異伝がある。)
東征に向かう甥の日本武尊に神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託し
共に東国の征討を果たした。
神の剣「天叢雲剣=草薙剣」は、
この剣を使って敵が放火した草をなぎ払って難を免れたため,この名に改められたのです。
だが日本武尊はこの剣を尾張の美夜受比売のもとに留めた為、
伊吹山の神に殺される。
日本武尊が亡くなったあと、剣は神宮に戻されることなく、
尾張国の 妻の宮簀媛によって創建された「熱田神宮」の祭神として奉納された。
これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。
なお熱田神宮は景行天皇43年の創建とされていますから、
西暦に換算すると紀元113年。
つまりそれ以来、1900年以上も草薙剣は熱田神宮のご神体として、
社殿の奥深くに祀られていることになります。
以来、草薙剣の実物を触ることはおろか、見たことのある人もほとんどいないと言われています。
またこの剣を天叢雲剣と同一視して皇室の神剣としたのは、
漢の宝剣・斬蛇剣と同じ伝承をもっていたためであり、
天智天皇7年(668)この剣の盗難があり、このときは取り戻されたが、
天武天皇15年(686)卜によって天皇の病が草薙剣の祟りとわかると、
熱田社に返されている。
この祟りは、草薙剣が皇室の神剣でなかった証であろう。
おそらく、熱田社の神剣が盗難後宮中にあったとき、
これを皇室の神剣とする処置がとられたのであろう。
日本武尊物語で、この剣を日本武尊が尾張の美夜受比売のもとにとどめておいたのは、
なぜ皇室の神剣が尾張の熱田社に祭られているのかに答える縁起譚であったとも考えられる。
また事件に関わる草薙剣(天叢雲剣)は、三種の神器の1つであり、
古来より熱田神宮の神体とされているが、
熱田神宮側では、日本武尊東征時の神宮創建から現在まで草薙剣は神宮に祀られているとし、
この事件も一時的に剣が神宮を離れたものとしている。
しかしながら、『日本書紀』の内容には疑問点が指摘されており、
その経緯を巡って他にも諸説が出されている。
・一説として、
盗難後18年間も宮中に留めおかれたのは不自然であることから、
道行が盗み出した場所は熱田神宮でなく朝廷であるとして、
朱鳥元年が初めての熱田神宮への草薙剣下賜とする説がある。
この説では、
『日本書紀』に盗み出した場所が明記されていないこと、
朱鳥元年記事が熱田社に「還し置く」でなく「送り置く」と記すことが指摘される。
熱田神宮では草薙剣が正殿(本殿)とは別の社殿に祀られていたことが知られ、
この様も草薙剣が創建後に入ってきたことを表すとされる。
下賜の背景には、壬申の乱における尾張氏の協力が考えられている。
・別説として、
盗難記事と朱鳥元年記事につながりを見ない説もある。
この説では、草薙剣は盗難後すぐに熱田社に還されたが、
天武天皇即位儀式のために一時的に宮中に移されていたと見て、
それが熱田社に還されたと推測する。
・そのほか、
元々熱田社に伝わる草薙剣を天武天皇が尾張氏に貢上させ、
漢の斬蛇剣になぞらえて皇位継承の神器としたとする説もある。
その中で、その後に天武天皇に対して剣の祟りがあったため、
熱田社から朝廷への移動を貢上ではなく盗難説話にすり替えたと推測する。
・なお現在では、
草薙剣の本体は熱田神宮に、分身は宮中にあることとなっている。
これに関して、『古語拾遺』では分身の作製を上古の崇神天皇(第10代)の時のこととするが、
上記の一連の事件の存在により、分身による皇位継承を持統天皇(天武天皇次代)即位時からとする説がある。




