現実:歴史-「好太王碑(高句麗)」 - 北の高句麗と南の三韓 -
▼『空白の4世紀』:
266年から413年にかけて、中国の歴史文献においての倭国に関する記述がなく、
ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、
この期間は日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている。
これに対し朝鮮半島で漢字で書かれた最も古い歴史書というのは1145年、12世紀である。
なお元朝 (1271~1368) のパスパ文字をパクって
1446年朝鮮の世宗が作成したといわれているハングル(訓民正音:諺文)は
実は知識のない平民たち、女や子供が使う卑しい文字として死蔵された。
だが明治時代になり、福沢諭吉と弟子の井上角五郎、
彼らに理解を示した伊藤博文が朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には、
朝鮮語による新聞の発行が不可欠であるとハングルを復活させ韓国併合後、
朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていた。
もし日本が朝鮮を英国がインドを支配したように植民地支配しようと考えたなら
朝鮮人を教育するなどもってのほかだ。
朝鮮人を李朝は奴隷にしていたように
文盲のまま牛馬のごとく鞭打って使役すれば事足りたはずであった。
朝鮮に日本の血税を注ぎ込み帝国大学まで作り朝鮮人に高等教育を受けさせ、
朝鮮社会そのものを発展させる必要はなかっただろう。
さて、『この空白の4世紀』4世紀終わりから5世紀に掛けて、
倭・高句麗戦争が朝鮮半島で行われた。
正確には倭、百済、伽耶諸国の連合軍vs.高句麗、新羅連合軍の間での戦争である。
これは日本書紀、三国史記、好太王碑などに記録されている。
▼『好太王碑』:
この碑は高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えるために
子の長寿王が建てたもので、
現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。
碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとある。
1880年(明治13年・光緒6年)頃に清の集安の農民により発見され、
翌年関月山より拓本が作成された。
広開土王碑とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、
合わせて広開土王陵碑とも言われる。
1961年(昭和36年)洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。
好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。
高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が刻まれ、
碑文は純粋な漢文での記述となっているが、
碑文のうち約200字は風化等による欠損のため判読不能となっており、
欠損部分の解釈について様々な説がある。
なお、2010年(平成22年)現在、
この碑文は風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
なお、2012年7月吉林省集安市麻線県にある麻線河の川辺において、
広開土王碑と同じ時期と推定される高句麗の石碑が発見された。
▼日本と拓本「酒匂本」:
1884年(明治17年)1月、
情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料の中に、
好太王碑の拓本「酒匂本」が含まれていた。
その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、
これが倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、
漢文学者の川田剛・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、
1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。
碑文は三段から構成され、
一段目は、朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、
二段目は、好太王の業績、
三段目は、好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。
そのうち、倭に関する記述としては、後述の【辛卯年条】の他に、以下がある。
・396年、
高句麗王;好太王は兵を率いて百済の城々を占領した。
兵が首都を包囲するに到り、百済は降伏し高句麗への服従を誓った。
好太王は百済王子と貴族子弟を人質と成し、また多数の奴隷を連れて首都へ引き返した。
・399年、
百済が先年の誓いを破って倭と同盟を結んだので、好太王は平壌へ侵攻した。
其処で、使者としてやって来た新羅の王の謁見を受けた。
使者は、
「多くの倭人が国境を越え新羅に侵入し、
新羅を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」
と高句麗に臣従を誓ったので、好太王はその忠誠心を善として救援を許した。
・400年、
好太王は、新羅を助けるために5万の兵を送った。
新羅の首都を包囲していた倭軍は高句麗軍が着くと撤退を開始した。
高句麗軍は倭軍を追って任那加羅にある從拔城を攻めると、
城の兵民は高句麗に降伏したので攻め落とした。
倭軍は塩城を囲んだが、兵民の大半は倭への降伏を拒んだ。
倭と同盟を結ぶ任那加羅の安羅軍が逆をついて、新羅の王都 新羅城を攻め落とし占領した。
・404年、
倭の軍は突如 帯方郡(現在の黄海道地方)国境を超え侵攻した。
高句麗王は平壌から兵を率いて進み、打ち破って大敗させた。
碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、
干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)
の紀年との間に1年のずれがある。
また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。
奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、
他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。
・この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、
遠く離れた倭が何度も出てくることから、
倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している。
・その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を
「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、
日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、
朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、
中国側の史書『宋書』においても記録されている。
また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも
「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした。
【張庚『諸番職貢圖巻』-職貢図新羅題記】
2011年に発見された張庚による『諸番職貢圖巻』は『愛日吟廬書畫續録』に収められていた。
葛嗣枹による『愛日吟廬書畫續録』は四庫全書のうち
『続修四庫全書』子部・ 芸術類・1088册に収録されている。
・斯羅国(新羅)についての記述
新羅があるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記載されている。
韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで
「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした。
また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」
(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)
という記述について、
任那日本府(369年-562年)問題や
414年に建立された広開土王碑碑文における
記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。
【辛卯年条】
碑文のうち、欠損により判読できない記述のある二段目の部分
(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)
の解釈がしばしば議論の対象となっている。
中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、
[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れていない事から、
実際は[毎]ではないかとする意見もある。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■
(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)
・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、
日本学会の通説では以下のように解釈される。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅
・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、
倭をどう理解するかでも異論が多い。
(実は、かの日本武尊の名を得る逸話である小碓尊に命じた熊襲(再叛による)征討以前に、
父である景行天皇は、九州巡幸(熊襲平定 他)を行っている。)
日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂 三韓征伐を念頭に置いて理解しているため
倭を大和朝廷と理解することが一般的である。
*三韓征伐は、
神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。
神功皇后は、日本武尊の第2子 仲哀天皇の后で応神天皇の母である。
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、
朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。
新羅が降伏した後、
三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため
この名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。
ただし本来の三韓とは朝鮮半島南部に漢民族がつくった小国家の総称で
馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し
三韓の地を統一するような強大な国王はなく,部族乱立の状態であったとされている。
南朝鮮は韓民族が多くの小国家を作って分立していたのだ。
現在の大韓民国の国名である「韓」はここに由来します。
だから、何十年前かに名を「韓国」か「朝鮮」かで北朝鮮と韓国が対立した時代、
北が「韓というのは朝鮮半島南部だけを言うもので、朝鮮全体を表す名前ではない。
これを使うということは、分断を固定化するものだ。」
という理屈で、「韓国」の使用に反対したものでした。
故に朝鮮半島北部の高句麗を含まない、朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。
それら、半島南部西側の馬韓、最南端の弁韓国、東側の辰韓の三つの地域にわかれたものを、
総称して本来は三韓というのだ。そもそも高句麗に韓の字は入っていない。
なお4世紀に、馬韓の50余国は百済に、
弁韓の後継国である任那・加羅と辰韓の12余国は新羅に統一された。
つまり「三韓」とは3世紀当初は半島南部の馬韓・辰韓・弁韓で
4世紀以降のある時代にこれが百済・新羅となったが、
これに半島北部の高句麗が加わったということになります。
従って最初「三韓」は半島南部だけであったのが、
後に半島全体を指称するようになったと言えます。
「三韓」はこのように意味が変わったのですが、
それが何時でどのような経緯なのかを示す史料がありません。
ただ、918年建国した「高麗」が、936年新羅・後百済を併合して朝鮮半島を再統一し、
この「後三国」の統一のことを、史料では一般に「三韓の統一」と称しているので
自分が高句麗・百済・新羅の三国を受け継ぐ国だという認識があって
自国のことを「三韓」と称していたようです。
これによってか、いつの間にか前近代の中国・朝鮮・日本では、
高句麗・百済・新羅の三国を「三韓」と呼ぶことの方が一般的になったらしい。
よってやはり朝鮮半島南部だけに成立していた馬韓・弁韓・辰韓とは関係ない。
馬韓=(ほぼ後の百済。百済は馬韓を滅ぼし全領土を併合したから)、
馬韓の多数派は後の百済人、すなわち秦氏(倭人と同族、D2)と考えて良く、
百済が滅亡後は百済人は日本列島に亡命することになる。これを百済系渡来人と呼ぶ。
弁韓=(後の任那加羅と重なる場所)
弁韓は馬韓とは異なり、辰韓に近いが、
後に倭国支配の加羅(任那または伽耶)となり、その後新羅に滅ぼされる。
弁韓には倭(日本)が進出して任那が成立したとされてきたが、
倭の任那支配には疑問が多く,
近年ではこの地方は一般に加羅と呼ばれる。
辰韓=(馬韓が秦からの亡命 秦人を東の地を割いて与え住まわせ辰韓人と名づけた故、
秦韓とも書いた。
その後6国が12国分かれそのうちの斯蘆が後の新羅になった)
辰韓の支配階級は馬韓人や倭人である。
秦からの移民と呼ばれるのは、この馬韓人のことである。
新羅勢力(O2b、O3)が台頭するに従い、支配階級は日本列島に亡命する。
3世紀から4世紀の辺の加羅の時代が神功皇后の三韓征伐の時代であり、
新羅勢力の台頭に伴い、加羅から辰韓(新羅)辺りの支配階級だった秦氏を日本列島に招いた。
この秦氏を新羅系渡来人と従来呼んでいる。
7世紀末、統一新羅になった時点で、
滅びた百済、高句麗などの支配階級は皆、日本列島に亡命した。
百済の王族は百済王の姓を賜り、
高句麗の王族は高麗王(こま の こにきし)の姓を賜った。
彼らは皆、倭人と同族の秦氏(D2)であった。
実は百済、新羅および高句麗をあわせて〈後三韓〉と呼び、
その時代を〈朝鮮の歴史における三国時代〉という為、
混同して三韓を新羅・百済・高句麗に対応させる歴史意識が見られるが、
「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、
別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識である
と指摘している。
三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。
もともと高句麗と朝鮮は一切関係がない。広開土王は韓国人とは全く関係ない。
高句麗は満州人が建てた国。
2002年から中国の社会科学院が少数民族の調査を始め、
2004年になって『高句麗は中国の一地方政権である』という発表をした。
中国人曰く、
「奴らが漢城をどうして首爾に改名したか分かるか?
中国の属国だった事実を消し去るためだ。
”韓”は大きいという意味だ。彼らは大国のようになりたいんだよ。
棒子の歴史は中華の属国の歴史、絶えず中国に美女を送っていた。」
韓国人には事実を突き付けるのが一番残酷な事だから、これは無慈悲過ぎる。
ただし、韓国人に事実を突きつける行為は残酷なのかもしれんが、
朝鮮人に慈悲をかけるのは自殺行為。
慈悲をかけた瞬間、彼らの脳内では『権利』に変換されるメカニズム。
……日本人には理解できないシステムだが。
同時に中国人も遺伝子的にはすでにまったくもって漢族ではない、
にも関わらず、漢族、龍の末裔、中華民族を名乗っている。
多数は中原にも住んでいない。地域ごとに顔も言葉も違う、民族が違うのだ。
中華は時代ごとに虐殺が起こり過ぎ
中華の歴代王朝を「支那」って言えないから、最近じゃ「東部ユーラシア」って言ってる。
南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高句麗の三国を三韓と呼ぶ例があり、
『日本書紀』もそれに倣っていて、朝鮮半島でも統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで三国を三韓と見て、
自国を三韓と呼んだ。
現在のような三韓論を主張したのは韓百謙が最初であり、実学者たちによって定立された。
戦前には常識だった歴史上の出来事で、
戦後にGHQによって丸ごと削除されてしまったのが「三韓征伐と任那日本府」なのである。
*任那日本府は、古代朝鮮半島にあったとする日本の出先機関である。
多分に政治的(韓国の民族主義など)な問題である。
朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、
すべて『日本書紀』から引用している。
しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、
倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、
韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、
明白な矛盾でありダブルスタンダード。
また仲哀天皇を実在しない人物とする学説もある。
その根拠は実在性の低い父・日本武尊と妻・神功皇后を持っているためである。
彼らの実在を否定する立場から推測するところによると、
日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命一人にあてがって、
一大英雄伝説に仕立て上げたものである。
また神功皇后の話は三国時代から、
持統天皇による文武天皇擁立までの日朝関係の経緯を基に神話として記紀に挿入されたものである。
そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創作され、
記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、この学説の概要である。
- 閑話休題 -
しかし、韓国・北朝鮮の学会では異説が主流である。
・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による独自の特異な解釈
ウリナラファンタジー
韓国・北朝鮮の学会では、碑文で「破」と「攻」の文字が使われるのは
「高句麗の軍事行動にだけ」だと指摘しながら、
他の国である倭の軍事行動に例外として「破」が使われることはありえないと、
一貫して世界で一般的な解釈を否定している。
・1955年(昭和30年)、
韓国の歴史学者鄭寅普の解釈以降、それを土台とした様々な解釈がなされている。
鄭寅普は好太王の業績を称えるための碑文に、
好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由が無いとして、
それらの主語や目的語が相当数省略されているのではないかという認識から、
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。
百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。
(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。〉
と解釈した。
これを受け北朝鮮の歴史学者朴時亨が以下のような再解釈をした。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。
百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。〉
韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、
好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは
間違えていると主張し、以下のような妄想……解釈が韓国学会の定説となっている。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、
新羅を救って臣民とした。〉
▼大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻:
【辛卯年条】に関しては、
酒匂本を研究対象にした在日コリアンの韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙が、
1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。
また、江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈し、
九州が韓国の領土であったとも主張している。
李の提唱した仮説は大きな論議を呼んだが、歴史小説的イマジネーションに富む反面、
実証的な考古学の立場からは否定的に扱われる部分がある。歴史の捏造、まさに在日朝鮮人。
その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、
5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、
本来は
「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民」
〈百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、
やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。〉
と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、
倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、
あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、
とするものであった。
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、
かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに
再び破ることになるという疑問や、
倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、
日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)
とも矛盾が生じる。
高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、
という碑文の文章全体の構成から、
該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、
との反論が示された。
ほかにもこの説に対しては井上光貞、古田武彦、田中卓、上田正昭らからも反論が示された。
1974年(昭和49年)に上田が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった。
1985年には古田らによる現地調査が行われ「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けた。
さらに、決定的な証拠として
2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、
その内容は酒匂本と同一であるとされた。
さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、
1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、
これにより改竄・捏造説は完全に否定され、
その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。
東北大学名誉教授の関晃は
「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、
また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、
そのような人目を惹くようなことができるはずもない」
と述べ、改竄・捏造説を否定している。
なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)にも、
北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、同国の調査団が現地で調査を実施した結果、
改竄とは言えないという結論を出した。




