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現実:歴史-【反骨の相・必ず謀反する・絶対反乱を起こす】楊貴妃の養子 - 安禄山 - 玄宗皇帝に対する「安禄山の乱(安史の乱)」(755~763年)

 - 武人にも、権力者にも見えなかった。それは酷く無様な、肉の塊であった


   それは 豚というにはあまりにも大きすぎた


  大きく 分厚く 重く そして大雑把過ぎた それは 正に肉塊だった -


安 禄山「私は胡人なので、礼は母を先、父を後にします」


彼は6種の言語を理解したといわれ、幽州節度使張守珪の部下となって戦功を立て、

巧みに玄宗とその寵妃楊貴妃に取入り、

范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の

幽州・平盧・河東と三つの節度使を兼任し、

18万近くの兵を配下に持ち唐全体の3分の1にあたる兵力を擁するまでになったが、

リアルオーク安禄山は大変な肥満体で、

体重は約197kgとも209kgともいわれ、

腹が膝の下まで垂れ下がっていたという。

太りすぎて従者に両脇を支えてられてやっと歩けたが、

玄宗の前ではソグド人の舞を風の如く軽やかに舞ったと言われる。ごっつあんです!

*節度使:各地方の防衛をするために置かれた役職で地方の軍と財政を統括した。




▼概要:

安史あんしらん、ないし安禄山あんろくざんらん(755年〜763年)】は、

唐の節度使・安禄山と、その部下の史思明、及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。

*史思明:安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、

 安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。


さて歴史に名高き玄宗皇帝の寵姫 よう 貴妃きひだが、

彼女は范楊・平盧節度使・安禄山の請願により、

安禄山を養子にしたり、玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、

安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

この安禄山と楊貴妃との赤ちゃんプレイが「安史の乱」に繋がるのだった。


玄宗皇帝が彼女を寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、

傾国の美女と呼ばれる。


また世界三大美人の一人でもあり

古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人ともされる。


玄宗が楊貴妃を好んだ背景には、ある種のトラウマがあつたと推測される。

3代皇帝高宗の皇后だった中国史上唯一の女帝・武則天(則天武后)をはじめ、

玄宗の周辺には野心家の女傑:悪役令嬢が多かった。

そんな女性にほとほと嫌気がさしていたのだろう。


なお楊貴妃の又従兄弟で、宰相となっていた楊国忠は、

安禄山の台頭に危機感を抱き、

国の要職に就いていた安禄山の勢力を悉く地方へと追いやった。

また楊国忠は常々、「安禄山は謀反を起こす」と事あるごとに言い触らし、

安禄山を反逆者に仕立て上げようとした。


この楊貴妃の一族・楊国忠(楊貴妃の従兄)が前宰相 李林甫の死後宰相となり

ついに政権を握ると一気に反目し合い対立が深刻化し、

755年(天宝14)とうとう安禄山は【安史の乱】を起し都の長安を占拠。

大燕皇帝を自称し唐朝に大打撃を与え、唐は滅亡寸前まで行ったが、

眼病と疽を併発して狂暴となり次子の安慶緒に殺された。

反乱は史思明の一族に受け継がれ唐朝衰退のもとをつくる。

763年ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、反乱軍を鎮圧し収束された。

唐はその後も1世紀に渡って存続するが、

安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。


また死後、当時の一般的評価では楊貴妃を国を傾けた「尤物」と評しているが、

現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、

土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、

玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。

結局のところ、楊貴妃を溺愛し政治を顧みなくなり、

管絃・宴遊にうつつをぬかすありさまであった玄宗が権勢を与えた

楊貴妃の縁戚が引き起こしたのである。

なお大陸では親族が利益を受けるのは当然のことだそうだ。



あん 禄山ろくざんは、(705年(神龍元年) - 757年1月29日(聖武2年1月5日))

 唐代の軍人で異民族出身の将軍であり、後の大燕国皇帝。

 本姓は康で、康国サマルカンド出身のソグド人と突厥系の混血。

 「禄山」はソグド語の「ロクシャン 明るい・光の意味)」の音訳。


 西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。

 父は()人康(こう)氏(イラン系ソグド人)で早く死別した為

 康姓であることしか知られないが、恐らく営州などのソグド人有力者であったとみられ、

 母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であったという。

 母が幼年の彼を連れて突厥の有力者であるソグド系武将 安延偃(あんえんえん)に再嫁した。


 開元年間初期(開元元年 713年〜716年頃)、

 安延偃の部族が敗れた為、一族とともに親類を頼り唐側に亡命したので、

 当時契丹との境域にあたる遼河西岸一帯を統括していた

 営州都督府の主邑・柳城(遼寧省朝陽県)の出身とされる。

 この時、義理の従兄 安思順と兄弟の契りを結び、養父の姓をとって安禄山と名乗るようになった。


 貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、

 往来するものに多額の賄賂を贈り誉めあげるように求めた為玄宗から信任され、

 さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、

 范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。


 だが唐の玄宗に対し「安禄山の乱(安史の乱)」(755~763年)を起こし、

 大燕皇帝に即位したが、最後は自身の廃嫡した次男の安慶緒に殺害された。


 しかし河北地域では数十年後まで人気は衰えず、

 反乱を引き継いだ史思明(ししめい)とともに、二聖とあがめられるほどであったという。



よう 貴妃きひ(719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))

 蜀出身。蜀州司戸の楊玄琰の四女。

 兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。

 6月1日に生まれたと伝えられる。

 幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。


 「馬嵬駅の悲劇」

 反乱軍の勢いは凄まじく長安に次ぐ第二の都市・洛陽を落とし都・長安にも迫る勢い。

 勢いに乗る反乱軍に恐れをなし玄宗皇帝ら一行は長安を脱出し、

 その途上、楊貴妃は愛する夫の命により処刑されてしまった。


 皇帝に付き従ってきた兵士たちは、我慢の限界に達していた。

 反乱を招いた楊国忠は、その場で惨殺され、共に逃げてきた楊氏一族も、皆殺しにされた。

 更に兵士たちは玄宗皇帝に詰め寄り、楊貴妃の死をも要求した。

 ここに来て、玄宗皇帝も兵士たちの要求に抗し難く、

 遂に楊貴妃の処刑を命じ、楊貴妃は絞殺された。

 756年、楊貴妃38歳の時だった。



▼年表:

732年(開元20年)、

 羊泥棒を行い、捕えられて殺されそうになった時に反論したことがきっかけで

 安禄山は幽州節度使・張守珪に取り立てられた。

 勇猛さと地理を熟知していたことにより、

 同郷の史思明とともに数騎で出ていき、必ず数十人を捕らえてきた。

 その後も勝利を重ね、そのため偏将に任じられた。

 この頃、張守珪の養子となる。


733年(開元21年)、

 安禄山は唐の都である長安に奏上文を届けにいく。

 この時、安禄山に会った宰相の張九齢はなぜか、

 【「幽州で反乱が起きるとするならば、この胡人が起こすだろう」】と語ったと伝えられる。


735年(開元23年)、

 楊貴妃は、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。


736年(開元24年)、

 平盧討撃使、左驍衛将軍に昇進していた安禄山は、張守珪の命令で奚・契丹の反乱者を討伐した。

 しかし、勇に任せて進軍したために敗北してしまう。

 張守珪は軍法により死刑にしようとしたが、

 安禄山が「大夫は奚と契丹を滅ぼしたくないのか。なぜ、自分を殺すのだ」と訴えた。

 そのため、長安に彼を送り、朝廷に判断を任せることにした。

 張九齢は、軍法と司馬穰苴や孫武の典拠、さらに【反骨の相がある】として安禄山の死刑を主張したが、

 玄宗は受け入れず、許された。


737年(開元25年)、

 玄宗の皇妃 武恵妃が死去。


740年(開元28年)、

 安禄山は平盧兵馬使に昇進する。

 王宮を往来するものに多額の賄賂を贈り、誉めあげるように求めた。

 その甲斐あって玄宗は彼を信用した。


 この頃、楊貴妃は玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女冠となった

 (このときの道号は太真という)。

 これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。

 その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。

 楊玉環は容貌が美しく唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、

 音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため、

 玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。

 『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、

 物腰が柔らかであったと伝えられる。


741年(開元29年)、

 安禄山は営州都督、平盧軍使に昇進する。

 この時も、採訪使として張利貞が監督に来るたびに賄賂を渡していたと伝えられる。


745年(天宝4載)、

 楊貴妃はまさにこのとき貴妃に冊立される。

 父の楊玄琰は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、

 また、叔父の楊玄珪は、光禄卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に封じられる。

 さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。

 楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、

 楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、

 四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであったと伝えられる。


746年(天宝5載)、

 楊貴妃は嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。

 しかし、玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。

 この時、高力士はとりなして、楊家に贈り物を届けてきたため、

 楊貴妃は太華公主の家を通じて、夜間に後宮に戻ってきた。

 玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。

 それから、さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。


 その後、范楊・平盧節度使・安禄山の請願により安禄山を養子にして、

 玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。


747年(天宝6年)、

 安禄山は御史大夫を兼任し、妻の康氏と段氏が国夫人に封じられた。

 しばしば多くの献上物を通過点にあたる州県が運搬に疲弊するほど長安に贈ったため、

 玄宗は祝宴において玉座の東隣に安禄山を特別に座らせるほどの寵愛ぶりであった。

 また、楊貴妃の養子になることを請い、それが実現すると入朝して玄宗より先に楊貴妃に拝礼した。

 玄宗はこれを大いに喜び、楊貴妃の兄弟姉妹(楊銛、楊錡、楊貴妃の3人の姉)に義兄弟となるように命じた。

 皇太子の李亨が余りの寵愛はかえって驕りを生むだろうと玄宗に忠告したが、聴かれることはなかった。


748年(天宝7載)、

 楊貴妃の兄の楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。

 楊貴妃の3人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられた。


 玄宗が遊幸する時は、楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には、

 玄宗の腹心の宦官:高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、

 他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。

 権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。


 この頃、安禄山は范陽の北に雄武城を築き、

 同羅(鉄勒の一部)、契丹、奚の騎馬民族出身の曳落河(胡語で勇士の意味)を集め、

 軍馬や家畜を集めていた。

 また、胡人の商人を各地に派遣して、毎年、大量の品や衣を納付させていた。

 商人たちに引見した時には、生け贄の儀式を行い、女巫に舞わせ、自分を神になぞらえさせていた。

 これを知った隴右、朔方、河西、河東節度使の王忠嗣が、

 何度も【「安禄山は必ず謀反するでしょう」】と上奏するが玄宗の勘気に触れ、同年 王忠嗣は失脚した。


750年(天宝9載)、

 安禄山は東平郡王に任じられ、同年に河北道采処置使も兼ねることとなった。

 安禄山が入朝すると、玄宗は楊国忠や楊貴妃の兄弟姉妹に途上で迎えさせた。

 奚の捕虜8千人と私鋳した銭を献上したからだ。

 また酋長の首も献上したが、これは奚・契丹の酋長を宴会に呼び、

 その際毒酒で酔わせ毒殺し、その配下の兵数千人を穴埋めとしたのだが

 そのようなことが四回もあったと伝えられる。


 また楊貴妃が玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返された。

 (『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。

 しかし、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。

 玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。

 『楊太真外伝』によると、その以降、さらに愛情は深まったとされる。


751年(天宝10載)、

 安禄山は誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。

 安禄山は入朝した時、楊貴妃の赤子を演じた。

 大きなおむつをして大きな揺り籠に入って女官に輿に担がせて出てきて

 楊貴妃は「安禄山を湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになる。

 しかしその後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。

 ……それ以前の問題である。


 安禄山は河東節度使までもを兼任することになり、

 長男の安慶宗は郡主と婚姻し太僕卿に任じられ、

 その弟の安慶緒は鴻臚卿に任じられた。

 これにより、范陽、平盧、河東の3つの節度使を兼ねることとなったので、

 部下の劉駱谷を長安にとどめて情報を収集させ、毎月、献上品を都にとどけた。


 同年、安禄山は兵5、6万を率いて契丹と交戦したが、

 長雨によって弓矢が濡れて兵士が困窮しているところに、契丹と奚に挟み討たれ、

 武将の何思徳は捕らえられてほぼ全滅させられた。

 安禄山はその髪飾りを射られ、旗下の20数名と逃亡して穴に落下したが、

 次男の安慶緒に救われて平盧城まで逃走している。

 またこの頃から、宰相の楊国忠が、【安禄山が必ず反乱を起こす】という上奏を、何度もおこなっている。


752年(天宝11載)、

 実は政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営していたのは、宰相 李林甫であった。

 だが李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、

 政敵を策略により次々と失脚させている。


 そしてその李林甫の死後、

 楊貴妃の親族 楊国忠は唐の大権を握り、

 塞外の胡出身の安禄山は実権を掌握したのである。

 こうして両者は権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った。


 この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。

 また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、

 楊一族は多くの恨みを買うこととなった。


753年(天宝12年)、

 阿布思がウイグルに攻撃され逃亡したので、安禄山はその配下の九姓鉄勒を降伏させその軍を手にいれた。

 皇太子の李亨が再度【安禄山の危険性を伝える】が、玄宗は聞き入れなかった。

 また、安禄山の従兄弟である安思順も安禄山と不仲であり、【必ず謀反する】と訴えていたと伝えられる。

 玄宗は宦官の輔璆琳に調査させたが、彼は賄賂をもらって安禄山の忠誠を盛んに伝えた。

 なお楊国忠は「安禄山を召しても来ないでしょう」と玄宗に告げたが、

 安禄山は玄宗の招集に応じて上京している。


754年正月(天宝13載)、

 安禄山は華清宮にて謁見。

 その際玄宗に楊国忠から迫害されていることを訴えると、

 左僕射・隴右群牧等都使に就任し、吉温を副官として武部侍郎・御史中丞に就任させる。


754年3月(天宝13載)、

 范陽に向かって、日々3、4百里の速度で帰還し帰り着いた。

 その後宰相となるように運動するが、楊国忠に阻まれ、吉温も汚職の罪で左遷させられる。

 この時、安禄山は【反乱を決意した】と伝えられる。

 なお安禄山の反状を訴えるものは、玄宗の怒りを買い、縛り上げられて安禄山の元に搬送された。


 楊貴妃の父の楊玄琰に、太尉、斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、

 楊玄珪は、工部尚書に任命される。

 楊一族は、唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。


755年(天宝14載)「安史の乱」唐の玄宗年間、

 安禄山は玄宗の寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であり、

 激しく対立した楊貴妃の一族である寵臣で宰相の楊国忠が安禄山を玄宗に讒言したことが契機となり、

 自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、自らの地位を失う恐怖からとうとう挙兵。

 叛乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。

 

 当時、三節度使を兼任した安禄山の総兵力は

 唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた為

 親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。

 同羅・契丹などの兵も合わせても約18万、

 これを20万と称して洛陽へ進軍、

 一方首都長安を防衛する左右羽林軍は6万足らずと安禄山の兵力は羽林に勝った為だ。


 玄宗は初めはこのことを信じなかったが本当に謀反だと知ると、

 安禄山の長男である安慶宗と妻の康氏を処刑し武将に迎撃を命じるも

 この時、安禄山の軍隊はたちまち長安に迫り、軍事力では長安を守れないと判断した玄宗は、

 親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、

 楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、

 玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。


756年(至徳元載)、

 安禄山は洛陽にて建都し、大燕聖武皇帝を名乗って建国した。


 一方玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決め、

 楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。


 しかし亡命の途上、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、

 陳玄礼と随従の兵士達は、自分たちをこんな境遇に追いこんだ怒りと恨みで

 乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた故、

 安禄山の政敵である楊氏一族にはけ口を向け楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。

 楊国忠が兵士たちの手で殺害されると、

 玄宗は「賊の本」として楊貴妃を殺害するという陳玄礼ら兵士たちのさらなる要求に対して、

「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、

 高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意し、

 楊貴妃に死を賜うほかはなかったという。


 混乱のなか、皇太子 李亨は玄宗の同意を得ないまま皇位継承を宣言したが、

 玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。

 こうして李亨は自ら皇帝に即位し、至徳と改元した。

 譲位して太上皇となった玄宗はこの後、戦乱が収まって長安に戻ったのちも

 なかば軟禁状態で余生を送る。


757年(至徳2年)正月、

 一方決起以来、目が悪くなっていた安禄山は、この頃に失明(糖尿病性網膜症とも言われる)し、

 悪性のできものもできていたので、その影響から周りの人間に対し粗暴になっていた。


 皇帝を称して以来、重んじていた厳荘もまた宦官の李猪児とともに鞭打たれていた。

 この時、安禄山は太子に任じていた安慶緒を廃して、

 妾の段氏の生んだ三男の安慶恩に後を継がせようとしていた。


 これを知った厳荘が安慶緒と宦官の李豬児と共謀し、李猪児が安禄山の腹を刺して暗殺した。

 箝口令がひかれ、安禄山は重病であるとされ、

 安慶緒が後を嗣ぎ、安禄山は太上皇とされた後、喪をなされた。

 安禄山が皇帝を名乗って1年、55歳であった。


 しかし、暗愚で筋が通った考えを持たない人望のない安慶緒に、

 家臣の忠誠を繋ぎとめる事はもはや不可能であった。

 安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。


757年(至徳2年)10月、

 唐の粛宗に派遣された郭子儀らと回鶻の連合軍に安慶緒は長安と都城・洛陽を奪われ、

 黄河を渡り鄴城(現在の河南省安陽市)に逃亡した。


 このように郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名、代宗)と第3子の越王李係らの活躍により、

 長安や洛陽を奪還すると粛宗は長安に帰還した。


757年(至徳2年)12月、

 玄宗も長安に帰還した。

 しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。


758年(乾元元年)、

 粛宗は第五琦を塩鉄使として塩の専売制を導入、財政の健全化と国家体制の強化を計画したが、

 朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官たちに掌握されており、

 自らの政治力を発揮することはできなかった。

 このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。


758年(乾元元年)5月、

 ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。

 粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ、

 葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗えいぶいえんビルグカガンに冊立する。

 

759年3月、

 その後即位した安慶緒に対し、安禄山の部下で挙兵以来の盟友の史思明が范陽で独立した。

 さらに史思明は安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。

 このように史思明が安慶緒を弑逆し皇帝を称すと、史思明の長男の史朝義は懐王に封じられた。


 この乱はの安氏の安禄山からその子の安慶緒によって続けられ、

 さらに、安慶緒を殺した史氏の史思明から子の史朝義に引き継がれたために

 安禄山の安氏と、安氏に代わって叛乱勢力を主導した史思明の史氏との2字を取って、

 この叛乱は安史の乱と呼ばれることになるのだった。


761年2月、

 しかし 子の史朝義も父が安禄山同様に末子の史朝清を後継ぎにしようとすると

 父帝 史思明との不和により安慶緒同様に長男の史朝義が父帝を弑し、

 さらに弟の史朝清とその生母の辛氏らも殺害し4代大燕皇帝に即位し、顕聖と改元した。


762年(宝応元年)4月、

 玄宗が死去。

 だが玄宗が死去したその直後の13日後に、

 安史の乱の終結を見ることもできないまま粛宗もまた52歳で死去したため代宗が即位する。

 粛宗が宦官に擁立された事実は、以後の唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだと言われている。


762年(宝応元年)8月、

 唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するために

 ウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、

 同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、

 ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。


 唐の使節劉 清潭はそれに遭遇したので、

 唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられずウイグル軍は南下を進めた。

 劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。


 だが僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグ・カガンの皇后であったことから、

 僕固懐恩が娘婿であるブグを説得した。

 こうして説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。


762年(宝応元年)10月、

 唐軍が回鶻ウイグル勢力の支援を得て反撃に出ると唐・ウイグル連合軍は、

 史朝義の拠点である洛陽の奪回に成功。

 陥落した洛陽から史朝義は敗走し、范陽に逃れんとし

 北方の莫州(現在の河北省任邱付近)へと逃れた。


763年正月、

 すると民心を失ったと判断した田承嗣・李懐仙などが離反してしまい、

 洛陽を追われた史朝義は自害し、燕は滅亡した。

 こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。


763年10月、

 なお、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。



この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。

また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。

安禄山の旧領は安禄山の旧臣であった3人:

李懐仙を幽州に、田承嗣を魏博に、張忠志(後に李宝臣)を成徳にと、

降臣をそのまま節度使として任命したことで、

この後その地は「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。

これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。



以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。

唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)、契丹が台頭する。


反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが都はすっかり変わり果てていたのです。

唐の詩人杜甫とほに「春望しゅんぼう」という非常に有名な詩があります。


  国破れて 山河あり

  城春にして 草木深し

  時に感じては 花にも涙をそそぎ

  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす

  烽火 三月に連なり

  家書 万金にあた

  白頭 けば更に短く

  すべて しんえざらんと欲す


杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉されます。

戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩です。

「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、

戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。

白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。そんな意味です。



▼評価:

『新唐書』では、「安禄山は、夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸を借りて、天下を乱した。

 臣下でありながら、君に反した結果、子に殺されてしまった。

 事はよく巡るもので、天道のしかるものである」と評価され、『旧唐書』、『資治通鑑』でも、

 随所にその狡猾さ、残忍さ、忘恩を罵る言葉で満ちている。

 彼の事績をつづった『安禄山事迹』でも、彼の才知を認める表現を含みながらも大きくは異ならない。


 しかし、彼の配下であった後に唐に降伏して魏博節度使となった田承嗣が、

 安禄山・安慶緒・史思明・史朝義を「四聖」として祀っている。

 また、長慶年間に幽州において、史思明とともに「二聖」として祀られていた事実も存在する。


 現代の研究家からは、古典的な評価を否定できないとしながらも、

 そのたくましさ、不幸な生い立ち、巧みな世渡りと機転、

 鮮やかな昇進ぶりなどを肯定的に評価されることも多い。


 反乱についても、民族闘争的な一面も指摘されている。

 また、商業を重視していた記録など、

 ソグド人や遊牧民族によくみられる文化や思想を持ち、漢民族と異なる点も注目されている。


▼日本における安禄山:

 安禄山は、大燕聖武皇帝だいえんせいぶこうてい、(聖武は安禄山が立てた元号)を名乗ったと日本に伝えられた。


 ほぼ同時期の日本では、官職名等を唐風に変更しようとする動きがあり、

 天皇の称号も皇帝に変えようとする動きがあった。


 しかし、聖武天皇の諡を皇帝にした場合、

 「聖武皇帝」となり、安禄山と同じものとなる。

 そこで、反乱軍の総帥と同じ諡にするのは如何なものかとの声が上がり、

 沙汰止みになったといわれる。


 なお、当の聖武天皇は

740年、

 藤原広嗣の乱の最中に、

 突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、

 平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。

 その後たびたび約10年間の間に目まぐるしく遷都を行って災いから脱却しようとした。

(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)


741年、

 国分寺建立の詔を


743年、

 東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出して

   新たに墾田永年私財法を制定し


752年 5月30日、

 東大寺大仏の開眼法要を行い


754年

 来日した唐僧・鑑真と合い


756年

 聖武天皇は崩御した。


一方

758年、

 安史の乱以後唐の財政は苦しくなった唐は塩と鉄の専売制を実施した。

 専売制によってかけられる税は莫大で塩にかかる税額の大きさは

 専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。

 しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。

 また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、

 品質の低下に繋がった。

 生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により

 塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、

 密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。

 黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。



- 閑話休題 -



 聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、

 当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、

 その政策の基調を作ったが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。

 ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、

 河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏建立を決意した。

 しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏建立を進める天皇と、

 国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、

 次第に仏教観を巡る対立が生まれ、

 最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が建立された

 (光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で建立した奉先寺の大仏であったとする)。



 『平家物語』の序文では、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异とともに奸臣の代表として列挙された。

 更に後世、西郷隆盛は島津久光に廃藩置県に際して安禄山に喩えられ、不忠者と批判されている。

 西郷もまた大柄の肥満体であった。

 なら島津久光自身は楊貴妃を寵愛し国を乱した愚かな玄宗ということに。



▼日本と唐の関係

【白村江の戦い】663年

 日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、

 唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。

 さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。


【遣唐使】

 しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、

 やがて遣唐使による平和的通交が再開された。

 遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。

 唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、

 大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。

 唐の文化の日本への影響は現在でもあちこちに残っており、天平文化や国風文化にその影響は色濃い。

 唐招提寺や高野山金剛峯寺など、唐出身者や、唐で学んだ人々が立てた寺院も残っている。

 日本人の間では官職・人名を唐名で呼ぶことも流行し、

 江戸時代に至るまで「織田右府」「豊太閤」「本多中書」「物徂徠」「水戸黄門」などの呼称が

 史料に頻出している。


【遣唐使の停止】894年、菅原道真の建議

 9世紀になると唐政府の衰えと民間交易の発展から日本が国家事業として遣唐使を送る意義を失っていった。

 894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止された。


 その後、明の時代(1368年 - 1644年)まで、

 長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。

 もはや千年以上前にあの国からこれ以上日本が学ぶ価値が無くなったのである。


 そして明治の時代、今度は逆に多くの大陸人達が日本に留学し

 そこで日本が翻訳した西洋の概念を学んだのだ。

 これは欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。

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