現実:歴史-これは中国ですか? いいえ 諸夏・振旦・支那です! 「中国」の名付け親 - 梁 啓超 -
【諸夏】とは
古く中国で、四方の夷狄 (いてき) に対して、中国本土、またそこの諸侯の国々をいう語。
【震旦/振旦/真旦】(しんたん)《古くは「しんだん」とも》
真丹とも書く。中国の古称、異称。
古代インド人が中国を秦の土地 (チーナスターナ) と呼んだことに基づく。
これは秦の名が音変化してインドに伝わり,
〈秦国の土地〉の意でサンスクリット語チーナスターナCīnasthānaとなり,
それが仏典翻訳の際中国に逆輸入され漢訳されたもの。
振旦,真丹,支那などすべて同じ音の転字だが,
震は東方を旦は坦(地)をさすのでこの字が多く使われたという。
日本では正倉院文書から見え,天竺と対になってよく用いられた。
【支那】とは、
中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、
あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。
なのになぜか現代の中華人民共和国において、
この呼称が悪意的、侮蔑的呼称であるとされることもある。
逆に言えば中華人民共和国(中国)の「中華」は、
あからさまに中華思想に基づくものであると見てとれ、
知識人などには強い反発を持つ者も少なくなく批判の対象となった。
中華の語が 使われ出したのは魏晋時代以降らしい。
それまでは夏華、諸夏という語と中国という言葉があったらしい。
「中夏」は中国と同義になっており、
漢民族の古称とされる「華夏」「諸夏」などの語もかかわり、
「中」と「夏」が結びつき「中華」なる語は形成された表現と考えられる。
中国において 「大」を付けるのは単に王国規模を超える大国に冠するものであり、
故に「大」がつく「大漢」(漢代中国の 自称)
「大秦」(西方の大国ローマ)
*漢に匹敵する存在を他地 域・歴史上に求めれば前王朝の秦しかなく、故にローマを「秦」と称した。
「大夏」(漢代バクト リア周辺地方を示した言葉。今のアフガニスタン北部からウズベキスタン東南部を示す。)
*漢に準ずる存在を他地 域・歴史上に求めたゆえに古代夏王朝からとり、領域を越えた大国だった。
ただし大韓民国、テメーはダメだ。
当初「支那」は同様に歴然として辱めた意がなかった。
中華民国成立以前の日本公文書においてもいくつか支那の使用例は存在する。
しかし、この時期の中国人がアヘン戦争の敗北や改革の遅れなどにより
「惰弱・因循姑息・驕慢不遜・無能・不潔」といった印象を持たれており、
同時期に普及した「支那」の語がそれに結びつけられるようになったと指摘が存在し、
日清戦争後には日本人の「支那」という言葉には軽蔑が交じっていたとも指摘されている。
故にじきに「中国」という呼称も「ちょうせんじん」同様、悪意的・侮蔑的呼称であるとされるのであろう。
……つまりだいたい中国人自身のせい。
日本人が「支那」と呼んでいた事について、蒋介石中華民国総統は、
対日戦の最中の対日言論集の中で
「彼ら(日本人)は中国を支那と呼んでいる。この支那とはどういう意味であろうか。
これは死にかかった人間の意である」
と自虐的に述べており、
中華民国指導者層には「支那」には侮蔑の意があると受け取っている者もいた。
やーい中国人。(いかに呼称を変えようが、その本質はまるで変わらない)
そもそも清の末期(19世紀末 - 1911年(明治44年))の中で、
漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、
自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、
自称の一つとして用いられた一時期がある。
また、中華民国建国の父とされる孫文ですら1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立している。
王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称のひとつとして
古来の「支那」という呼称を選び取り、
満洲族による清朝支配体制からの脱却を目指す革命家などの手で一時期広く使用された。
たとえばもっとも早期から反清蜂起を繰り返してきた共和主義革命家孫文の前半生を紹介した
宮崎滔天の『三十三年之夢』に孫文自身がよせた前書きでは、
中国の呼称として、いくつかの名称と並んで支那の呼称が使用されている。
日本の東京に留学していた宋教仁は機関誌の題目を「二十世紀之支那」としていた。
また孫文(孫中山)の協力者であった日本人の梅屋庄吉が辛亥革命成功後に
「支那共和国公認期成同盟会」を結成している。
この時の額は広州にある孫中山記念館で保存されている。
1902年には、日本に亡命していた中国人共和主義者たちが、
上野精養軒で「支那亡国二百四十二年記念会」を企画した。
1911年の新国家の国号候補にもあがっている(最終的には「中華民国」が採用された)
……おろカブ。
紀元2世紀前後には、インドで中国を指して「チーナ・スターナ "China staana"」と呼んでいた。
この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している。
そもそもインド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫して China と呼ぶ。
ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。
これはインドから仏教が隋に伝来した当時、
経典の中にある梵語「チーナ・スターナ "China staana"」を当時の訳経僧が
「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来したことによる。
この時の当て字として、
「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等があるのだ。
そのため「支那」は、この地域の当時の公用語からすれば外来語であり、
当初は外国人からの呼称であったと言える。
辛亥革命以前の共和主義運動の中では、
漢人民族主義や、清朝の領土のうち漢人の土地の部分
(中国本部、チャイナ・プロパー)のみを領土とする国家を追求する主張もみられたが、
1911年(明治44年)以降、実際に共和政権が樹立されるにあたっては、
モンゴル、チベット、東トルキスタン、満洲などを含む、
清朝の遺領をそのまま枠組みとする領域が領土として主張され、
また「中国」という多民族国家がこの領域を単位として古来から一貫して存在してきたという
故意に誤った歴史認識が採用されることになった。
清朝を打倒して成立した中華民国は、「シナ」だけでなく、
その周辺のモンゴル、チベット、東トルキスタン等もその領土として主張したため、
厳密に言えば、支那と中国は、領域も住人も、その範囲には著しい相違がある。
中国では、シナとその周辺の諸地域、諸民族が古くから一体の「中国」を形成してきた、
という歴史認識を恣意的に採用したため、
シナの部分だけを指す、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な国号を別途に設けることはしなかった。
その結果、「中国」の一部分である漢民族の土地だけに対し、
ことさら「王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称」
を別途つけることは行われなかった。
これは中華思想において周辺世界は
中華世界の辺境に過ぎず異民族「四夷」が跋扈する「化外の地」とみなしており、
代々征服されておきながら対等の国家ではありえなかった。
そのため、歴代皇帝が統治する王朝名は存在するが、
その中華秩序による国家体制概念を指し示す国家名を必要としなかった。
そのため、中国においては「支那」と置換可能な呼称も概念も作られることなく現在に至っている。
日本において、「支那」の言葉が入ったのは、隋と同様に漢訳仏典を通じてであった。
江戸後期には「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。
特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、
地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、
この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、
従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた。
日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し
「唐、漢、唐土」の文字を用いて「とう、から、もろこし」等と読んできたが、
明治以前の文献調查では日本と中国対置すると呼んだ例が複数存在する
中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。
漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。
ただし「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり学術的に確定しているわけではなかった。
中華人民共和国、中華民国由来の略称:中国なる語は100年ほど前まで存在しなかったのだ。
(中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原中原と呼ばれる地域:中原は
古代でいわゆる「中国」や「中州」「中土」と同義で
中つ国という意味ではあったがこれはあくまで古代中国で中華に対して四方に居住していた
周辺民族・異民族に対する総称(蔑称)である東夷 · 北狄 · 西戎 · 南蛮の
夷蛮戎狄に対応するものでしかなく、それを言うなら
日本という名前がつく前に日本も豊葦原中国という名であった。
なお、中国地方とは古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したものである。)
現在、略称で「中」とする場合は、
中国本土を支配する中国共産党の毛沢東政権による中華人民共和国を意味するが、
「華」とする場合は、台湾に逃れた中華民国政府を意味する慣習がある。
そのため、日本政府が中国大陸を代表する中国政府として
中華人民共和国ではなく台湾の中華民国を承認していた時期に、
日本では二国間に対し前者を「日中」、後者を「日華」と表記していた。
なお中華人民共和国との国交がなかった時期には、
日本では未承認国家ということで「中共」(中国共産党の意)といった略称が普通に使われていた。
また中華民国政府のことを「中国国府政府」(中国国民党政権の意)といった表現もあったが、
いずれにしても「支那」が使われることはなくなった。
田中克彦は、オットー・メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』の日本語翻訳版を出版しているが、
この中で敢えて「シナ」を用いている。
田中によれば「国家と民族は厳密に区別すべき」として
「言語は国家ではなく民族と結びつくものであり、
中国といえば多民族国家としての略称であって、
国民を表す中国人とシナは別々に使うべきである」
と主張している。
中国人は遊牧民と農耕民が交わった「東夷・西戎・南蛮・北狄」の子孫に過ぎない。
流石に中国人は天から降ってきたわけでも地から湧いたわけ」でもはなく、
血筋としては、洛陽盆地に集まった、さまざまな種族の混血です。
中国の古い文献では、洛陽盆地を中心とする「中華」をとりまいて、
「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」、
略して「四夷」がいたとあります。
「夷狄」とか「蛮夷」も同じ意味です。
このうちの「夷」というのは低いという意味で、
昔は山東半島までが「東夷」だった。
ここが中国になったあと、日本が「東夷」と呼ばれる。
黄河文明の担い手であった漢民族は、自らを「華」「夏」「華夏」などと称し、
周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。
古代中国において、異民族の支配を含め、
中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」「中華」と呼んだ。
また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を
「四夷」あるいは「夷狄」(いてき)夷狄戎蛮や戎狄、蛮夷と総称した。
中華(華の中)に対し、夷狄は外世界(華の外)を指す言葉で、未開・野蛮を意味する。
したがって19世紀になるまで中華と非中華である夷狄との間に対等な外交や貿易は存在せず、
朝貢と呼ばれる従属関係のみが結ばれた。
中華を名乗る側(必ずしも漢民族ではない)も
領土拡大に目的に周辺地域への侵略行為を繰り返してきたが
古代文明の進化の差異や朝廷に帰順しない周辺民族から絶えずに攻撃や略奪を受けたことから、
これらの呼称に蔑んだ意味を込めた。
夷狄と蔑視された非中華の国や民族も独自の文化を築いており、
必ずしも中華文明とに優劣があったとは言えない。
あくまでも中華側の価値観で見た区別または差別である。
歴史上多くの他民族(夷狄)が進出して王朝を築いたため、
実際には中華文明自体が非中華(夷狄)の影響を受けている。
歴史的にも稲作、仏教、鉄器、鐙、胡服から始まる服装など、
様々な四夷文化(非中華)が持ち込まれており、
文化や宗教価値観(道教含む)などを含めて多くの面で影響を受けているのも事実である。
つまり、中国が拡大すると、「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」が外側に拡大する。
「戎」というのは遊牧民で、
「狄」というのは狩猟民で、
「蛮」というのが焼畑農耕民で、
これに対して漢族を「中華」というのは、
崋山という山が黄河の湾曲部にあったから。
つまり、中国人というのは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことです。
だから、出身を問わず、都市に住んで、税金を払って、軍隊への奉仕をしたら、その人は中国人。
なお、周代以前の「夷」は現在の江蘇省や山東省付近に住んでいた民族を指していた。
そのころの「夷」の意味合いとして『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。
「『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、
その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。
そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、
君子の国や不死の国[2]があるとさえいわれる。」
このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、
むしろ好意的な印象を受ける。
しかし周代以降、現在の江蘇省や山東省付近に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、
東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、
「東夷」という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、
すなわち濊,貊,倭,韓といった諸民族を指す用語となってしまった。
しかし、中国東北部の東夷においても
「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。
これは他の三方の蛮夷(北狄,西戎,南蛮)と異なるところである」
と記し、
また「東夷諸国は夷狄の邦といえども、俎豆の礼がある。
中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」
と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。
また、中国は、黄河の渓谷から地方へ広がる商業都市のネットワークで発展したので
都市がまず中国であり、「農村から中国が始まる」と毛沢東は言ったけれど、
都市に住んでいる人間が本当の中国人で、都市の外にいる人たちは二等扱いです。
中国は今でも都市籍と農村籍に分かれていて、
これは毛沢東が決めたのですが、それは昔からの伝統だったということに。
木村光彦(青山学院大学教授)は、
福澤諭吉の『学問のすゝめ』の支那表記は、
現代日本語版では中国と言い換えらているが、
福澤諭吉が『学問のすゝめ』を書いた当時は、
中国という国家は存在しないため、支那と書くのは当然であり、
中国と言い換えるのは「徳川家康が東京に幕府を開いた」と奇妙な事を言ってるに等しく、
歴史上の用語を抹殺するかのような風潮には疑問を感じるとして、
中華民国成立以後を CHINA と表記している。
その上で「この言葉は支那と同根であるが、なぜか誰も文句を言わない。
それどころか、かの国自身、英語表記として使用しているのが可笑しい」と述べている。
そしてロシアでは CHINA を「キタイ」といい、かつての漢族の北狄・契丹に由来するが、
習近平は気にならないのだろうかと述べている。
つまり日本人はなめられえているのである。
南北朝時代から日本人にとって数百年間「中国」という言葉は
日本の本州西部に位置する山陰地方・山陽地方有する中国地方だったと指摘し、
1912年に登場した中華民国、
現在で「中国」と聞いて大陸にある地域や国家、中華人民共和国を想起するようになったのは
戦後からだと指摘している。
また英語の「チャイナ」など、
多くの言語では「シナ」と同じ語源を持つ呼称が用いられていることを理由に、
あえて「支那」を使う人もいる。
小谷野敦も自身の著書で、インドシナ(印度・支那)を含む東南アジアで
中国に対してシナ系の呼称を用いることを挙げ、
王朝時代を含む中国の歴史・文化に対して「シナ」と呼んでいる
岡田英弘は、
19世紀以前の隣の大陸(中国という国がないため、大陸という地理的概念で説明するしかない)を
「中国と呼ぶのはおかしい」として、シナを使用する理由を以下のように述べている。
中華民国は1912年、中華人民共和国は1949年にできたのであって、
それ以前に中国という国はありません。
「中国」と呼ぶから、大昔から今につながる不変・悠久の歴史を思い浮かべてしまう。
しかし、実際には、「中国」はその領土も、そこに生きる人々も、王朝も、
時代ごとに大きく違っている。
滅亡と断絶、大量虐殺、人間の大移動と入れ替わりが、あの国の歴史なのです。
ここでは正しい歴史は記述できないので、
19世紀以前の隣の大陸や文明には「シナ」という言葉を使うようにしています。
これは英語の「CHINA」と同じく、秦の始皇帝の「秦」が語源で、
新井白石が、イタリアの宣教師シドッティが語った内容に基づいて、
古い漢訳仏典から「支那」の文字を探し出したものです。
同様に、19世紀までは「中国人」もいなかったので、原則として「漢人」と表記しています。
「シナ蔑称説は、意図的に作り上げられた神話・妄説に過ぎ」ず、
むしろ「中国あるいは中華と言う表現こそ、シナ人の他民族に対する侵略行為を正当化する用語である」
「シナは、清が滅んで中国大陸が混乱した時、孫文がつくった言葉だ。
孫文は台湾でも大陸でも国父として尊敬されている。
なぜ日本人が使うと差別になるのか、さっぱりわからない」
「『シナ』は差別語ではない『秦』を語源とする。『チャイナ』と同じ中国を歴史的に見る名称である」
「支那といっても抗議される由縁はないはずだが、
あえて相手の嫌がる呼称を使うこともない。それが大人の対応だ」というが、
なお当の中国人さまや韓国・北朝鮮などでは、
日本や日本人に対して侮蔑的な意味を込めて差別用語でもある「倭(小柄な人びと)=小日本」を用いる。
まず誰が大人になるべきなのか?
フリー・チベット!!
梁啓超は1901年(明治34年)に『中国史叙論』において
「我国には色々とおかしなところが多々あるが、もっともおかしいことがある。
吾人がもっとも慙愧にたえないのは、
それは数億の人間が数千年にわたって国を建ていながら
我国には今日まで国名がないことである」
とし、唐や漢は王朝名、
支那は外国人の使用する呼称、
中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら
「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」
と述べている。
実は中国という言葉は昔からあったのではなく、はっきりした語源がある。
これは梁啓超が清朝の迫害を逃れて亡命した横浜で、
1902年に創刊した『新民叢報』で「祖国に国名がないことを恥じる」として、
すべての王朝と国民の総称としてつくった造語である。
「天下国家」という言葉は漢語だが、
ここで実在するのは天下であり、国家はそれを支配する皇帝の私的な家だった。
近代的な意味でのnationは中国にも日本にもなかったが、
日本は明治以降の近代化で西洋に学び、立憲君主国をつくった。
梁はそれを学び、祖国に逆輸出したのだ。
梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが改革に失敗して日本に亡命した。
その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一 二月)に寄せた
「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、
その第二号では「日中国十八省」など「中国」という 表現が使われている。
第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。
しかし一九〇五年、東京で革命期成同盟を結成した孫文や黄興らは、
その機関誌「民報」に中国のことを「支那」と書いたとされるぐらいだから、
梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。
辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。
国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。
「中国」が公式に使われ始めたのは、
孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと思われる。
初期の国民党とは違う組織であるこ とを意識して「中国」が頭につけられたのだ。
次は一九二一年の「中国共産党」である。
日本では「日本共産党」が誕生したように、
モスクワからの指令で各国に設 立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。
「中国」が国名になったことでもわかるように、彼の影響力は絶大だった。
清末の混乱を逃れて日本に留学した人々は、
20世紀最初の10年で10万人近く、進士(科挙の合格者)3000人をはるかに上回った。
科挙が廃止され、知識人の勉強する場は日本しかなかったからだ。(朝鮮は?)
そしてそこで日本が翻訳した西洋の概念を学んだのだ。
これは欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。
明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。
このように現代の中国語を支える日本語の力……少なくとも外来語の1割が日本からの“輸入”であるし、
社会科学や自然科学などの学術用語の約7割が、英語やドイツ語などから翻訳した和製漢語である。
西洋の文物・概念を漢語によって翻訳した和製漢語を数多く作った偉大なる明治人の脅威の「造語力」!
その留学生の中心が梁で、彼の出版する雑誌は中国に密輸入され、
孫文や毛沢東などの政治指導者に圧倒的な影響を与えた。
国民党も共産党も、梁の政治理念を実現する党だったといってもよい。
その理念は、バラバラになった中国を一つにまとめて立憲政治を実現する国家主義だった。
もしも中国が日本から、日本が作った語彙を輸入しなかったらならば、毛沢東も毛沢東思想を書けなかった。
軍事や政治の用語は日露戦争後に陸軍士官学校に留学する中国人が急増し、彼らから大陸に伝わった。
後に国民党政府を樹立した蒋介石もその一人である。
当時はまだ標準的な中国語は確立されていなかったので、
各地の将校達は日本語で連絡しあって革命運動を展開し、清朝打倒を果たした。
さらに中共政府が建前としている共産主義にしても、中国人は日本語に訳されたマルクス主義文献から学んだ。
日本語の助けがなかったら、西洋の近代的な軍事技術や政治思想の導入は大きく遅れ、
近代中国の歴史はまったく異なっていただろう。
中華人民共和国 共産党一党独裁政権 高級幹部指導社会主義市場経済−
というこれらの中国語は中華以外すべて日本製(語)なのをご存知、ないのですか!?
中国が近代になってから取り入れた外来語は殆んどが日本製だとか。
本来、漢字だけで成立する中国語が外来語を取り入れる場合、
「電視機」=テレビや「電氷箱」=冷蔵庫などの意訳型と、
「可口可楽」=コカ・コーラなど音訳型の2つに大別される。
だが当時の日本では、 西洋の新語を訳すとき、 大部分は意訳をしていた。
その意訳の場合、ちゃんと中国の造語法のルールを守って新しい語彙を作った。 具体的には、
○形容詞+名詞(人権 金庫 特権 哲学)
○副詞+動詞(独占 交流 高圧 特許 否定 肯定)
○同義語を重ねる(解放 説明 方法 共同 主義 階級)
○動詞+客語(投票 休戦 作戦 投資 投機 抗議)
○上述の語による複合語(社会主義 自由主義 治外法権)
である。
このように明治時代の日本人が、欧米の学問を漢字で翻訳してくれたから、
当時の中国は世界を理解できた。
平仮名や片仮名に翻訳されていたら今ごろ、中国はどうなっていたでしょうね。
(中国語には約1万語の外来語があり、
その大半が「仏陀」や「菩薩」「葡萄」「琵琶」など
インドやイランなど、西域から入った言葉といわれている。)
もっともその後の文化大革命で影響を受けた知識人達は……
▼梁 啓超は
清末~民国初期の啓蒙思想家,
清末民初の政治家、
ブルジョア改良主義者、
啓蒙的ジャーナリスト、
歴史学者。
広東省新会県の人。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。
さらに中国之新民他きわめて多数のペンネームをもつ。
建築家・建築史家の梁思成は長男、考古学者の梁思永は次男にあたる。
名門の出で光緒 15 (1889) 年の挙人。
わずか17歳で郷試に合格して挙人となったが,翌1890年(光緒16)春の会試に失敗した。
その秋,同郷の康有為の門に入り,従来の漢学(古文学)とは異なった今文学を学び,
あわせて欧米の近代思想や仏教学にも接したことは,彼の思想に決定的な影響を与えた。
それ以後,康有為の変法維新運動の有力な協力者となり,
1890年年,康有為の最初の政治活動である〈公車上書〉を推進した。
康有為の師事のもと変法自彊運動に参加し、
1896年 上海で『時務報』を主宰し「変法通議」を発表、
『時務報』を発刊して中国の近代化をうながす啓蒙活動を行った。
『西政叢書』を編集しヨーロッパ学芸の紹介に努め、
翌1897年に長沙の時務学堂で講義し変法自強運動を積極的に鼓吹した。
1898年 北京に行き、百日維新である戊戌の変法に参加。
湖南変法運動を指導、
ともに光緒帝の政治改革をたすけることになる。
師の康有為とともに変法自強運動をしたので「康梁」とよぶ。
光緒帝が康有為ら変法自強派を登用し革新政治を企てたため、
光緒 24年(1898年)中央に登用されたので康有為を助けて変法を推進したのだ。
康有為が建白書を提出し、運動が始まった1898年の干支が戊戌であったので、
「戊戌の変法」とも言われ戊戌維新とも言われた。
1886年以来、西太后は引退し光緒帝の親政となっていたが、
西太后の権威と影響力は強く宮中では保守派が占められていた。
宮中で孤立していた光緒帝は中央官庁の官僚以外にも地方官僚、
一般人が意見書を提出することを許し、
それを厳封のまま皇帝の手元に届くようにした。
康有為ら改革派官僚は光緒帝のもとで清朝政府に登用され、
戊戌の変法が始まると指導者の一人として活躍し改革が進むかと思われたが、
結局、西太后らの保守派の反撃によって失敗し、戊戌の政変といわれる政治的動揺が起こった。
実権を西太后が握っていたため戊戌の政変で敗れ弾圧され、
西太后らのクーデターで失敗し、光緒帝は幽閉され病死、
梁啓超は康有為とともに日本に亡命 (戊戌の変法)することになる 。
戊戌の変法で取り上げられた改革はほとんど陽の目を見なかったが、
唯一実現したのが西洋式の大学の創設を目指した京師大学堂である。
1898年に創設された京師大学堂は、
後に北京大学と改称され、蔡元培学長の下で文学革命や、五・四運動の中心となり、
中国近代化を牽引する役割を果たしていく。
日本では『清議報』『新民叢報』を発行して西欧近代思想を紹介し,
『新民説』で中国人の自覚を主張し,青年知識人に大きな影響を与えた。
日本政府の非協力によって、日本での活動をあきらめ、アメリカに渡った。
1903年にはアメリカで中国人排斥運動が起きると華僑と協力して抵抗し、
本国にアメリカ製品ボイコットを呼びかけた。
孫文などの革命派が台頭すると孫文に接近したこともあるが,
梁啓超は基本的には清朝の立憲君主制的改革を唱え,
革命派機関誌『民報』と論戦を展開し中国内地の立憲運動を指導していたため、
清朝のもとでの立憲政治を主張して対立した。
辛亥革命後,帰国して民主党を実質的に指導するも
共和・統一・民主の3党はかつて戊戌変法を裏切った袁世凱を支持し
国民党に対抗するために大同団結して進歩党を結成した。
(*新政に対する抵抗の根源が西太后にあることに悩んだ光緒帝は康有為らとはかって、
天津の新軍を統率する実力者であった袁世凱の力を借りて
西太后を西山の離宮に押し込めるクーデタを計画した。
しかし袁世凱の寝返りによって失敗し、光緒帝は幽閉されてしまった。
康有為と梁啓超はひそかに国外に逃れたが、譚嗣同は捕らえられて処刑され、
改革運動は弾圧されて終わった。)
その後も中華民国政府の司法総長や財務総長をを歴任、さらに段祺瑞内閣の財政総長も。
日本の山東出兵に反対し、
袁世凱のもとで政治顧問となったが袁世凱の帝政復活を批判した
このように梁啓超は政治家としても活躍したが、その本領はジャーナリストとしてであり、
1919年のヴェルサイユ会談でも中国の要求が受け入れられなかったことをいち早く国民に伝えた。
彼は啓蒙思想家として大きな寄与をしたが,
後半生は,軍閥,官僚との結合を強め,革命運動に反対する保守的存在となった。
『清代学術概論』のほか,おもな論文は『飲冰室合集』『飲冰室文集』に収録されている。




