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現実:文化 セントルイス万国博覧会 - 新たな時代の幕開けとしてとして開催されたセントルイス万博 -  そして「松楓殿」と高峰譲吉

 万国博覧会とは国威発揚と人類発展のために開催されるイベントである。


国際博覧会条約によれば、国際博覧会とは「複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段。又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩。若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」とされている。


 そのため、万国博覧会への最先端の技術の出展に対しては最大限の便宜が図られる。

有名な例としては、ほぼ全ての国で国際博覧会での公開は特許の取得の拒絶理由の例外として認められることがあげられる。

特に欧州特許庁においては、ほぼ唯一の例外規定となっている。

日本においては特許法第30条第1項の規定の適用が受けられ、新規性違反の拒絶理由を回避することができる。



○歴史

 様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は

1798年、フランス革命の時期のパリで初めて開催された。


1849年までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていった。

同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると

1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し

1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催された。


 初期の万博として、クリスタル・パレス(水晶宮)が造られたロンドン万国博覧会(第1回、1851年)やエッフェル塔が建設されたパリ万国博覧会(第4回、1889年)などが著名である。


1866年のメルボルン博覧会など、植民地内博覧会も各地で開催され、欧米列強に倣い20世紀初頭には日本も朝鮮・台湾といった獲得した植民地で博覧会を開催した。


 スペインのバルセロナでも1888年と1929年の2回開催されている。

メイン会場は前者はシウタデリャ公園(バルセロナ要塞跡地)、後者はモンジュイックの丘であった。


 アフリカ分割がなされた1880年代以降は、欧米各国が国力誇示と植民地気運を高めるため母国やその植民地で競って開催した植民地博覧会も国際博覧会の一種である。


1883年のアムステルダム国際植民地貿易博覧会、

1886年の植民地・インド博覧会、

1894年のリヨン国際植民地博覧会などをはじめ、

1924年のイギリス帝国博覧会、

1933年のパリ植民地博覧会など、第二次大戦後まで数十回開催された。




▼セントルイス万国博覧会:(1904年アメリカ合衆国ミズーリ州のセントルイス)

 セントルイス万国博覧会とは、アメリカによるナポレオン施政下当時のフランスからのルイジアナ買収100周年を記念して、1904年4月30日から12月1日までアメリカ合衆国ミズーリ州のセントルイスで開催された国際博覧会である。

60ヶ国が参加し、会期中1969万人が来場した。

はじめはルイジアナ獲得博覧会(the Louisiana Purchase Exposition)とも呼ばれた。

この時、セントルイスオリンピックが同時開催され20世紀に入って最初の大規模な万国博覧会であり、1893年のシカゴ万国博覧会に勝るとも劣らない規模を誇っていた。


パリ万博(1900)の4倍もの敷地514万平方メートル(1240エーカー)に1500以上の展示用建物が建てられた

空前の規模でアメリカの威信をかけたものであった。


 現在のフォレスト・パークは、ニューヨークのセントラルパークより広いが、

この公園一帯が万博会場だった。

「あまり巨大すぎて普通の体力では到底全部みることが不可能で失敗だったとされている」


 万博では建築物自体が展示品であり、参加国44カ国のうち21カ国が政府館を建設した。

欧州の国々は、フランスがヴェルサイユ宮殿の一部を模し、イタリアが古代ローマ時代の建物を建築したように

自国が最も輝いていた時代や文化を象徴するような政府館を建築した。


 会場内での建築物のスケールや多彩な屋外彫刻もさることながら、自動車、航空技術、無線通信機器などの先端科学技術のデモンストレーションで「アメリカの20世紀」到来を示唆する一方、ホットドッグやアイスクリームコーンも登場したというからまさに「アメリカらしさ」の表れた万博であった。



 米西戦争に勝利を収め、フィリピンをスペインから譲り受けたアメリカ合衆国は、ヨーロッパの列強に追いつけ追い越せをスローガンに掲げて、帝国主義の道を突っ走っていた。


 フィリピンの諸部族を会場で「陳列」する「フィリピン居住区リザーベーション」は、帝国としてのアメリカのイメージを入場者の脳裏に焼き付けた。


 そう西洋各国や初めて万博に参加した中国などがそれぞれの文化、芸術に関する華やかな展示を催す一方、米国は統治を始めたフィリピンより連行した多くの先住民族を「フィリピン村」の中に住まわせ「人種の展示」を行い、それは同時に帝国主義や人種差別など、負の20世紀史の始まりを象徴する出来事であったともいえます。



 アジアの国々は、インドがイスラム教、シャムが仏教寺院を模したように宗教色の強い政府館、南米諸国は宗主国スペインの影響が強い建築物、一方ベルギーやオーストリアは斬新な建築様式を用いるなど各国がどのような自国のイメージを参観者に示したかったのか如実に表していた。


 また館内の展示品も、ドイツが化学薬品、フランスが美術品、中国は3000年の歴史を誇る古美術、アルゼンチンやメキシコは熱帯の豊かな農産物などを陳列し、その国の特徴を参観者に認識させる効果を狙っていた。



○「日本館」:セントルイス万博に見る日本ブランドの萌芽

 セントルイス万博は日露戦争の開戦二カ月後に開幕。

日本は日露戦争(1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)の渦中にも関わらず国家の威信をかけて日本館を建設しこの時明治政府が作った

日本館には、寝殿造りの建物、日本庭園、金閣寺を模した喫茶館、台湾館、四阿、売店他が点在した。

美術工芸品では最高賞を受賞した真葛焼の宮川香山や二代目川島甚兵衛が制作した美術工芸織物が室内装飾として生かされた「若冲の間」や「網代の間」なども好評を博した。


 民間人のランカイ屋(博覧会プロデューサー)、櫛引弓人が作ったフェア・ジャパン内の芝居小屋で歌舞伎「土蜘蛛」を上演。

和服姿の娘たちは、政府の日本村やフェア・ジャパンでお茶の給仕や踊りを担当したが、当時の絵葉書は「Geisha girls」と説明、約20名の「Geisha girls」がセントルイス万博に参加。

アメリカにおける「日本=フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」のイメージは、万博が嚆矢「はしり」か。

 

 戦争中ながら、日本はさまざまな美術工芸品や工業製品を出展してアピールに努めた。

京都工芸繊維大の並木誠士教授(日本美術史)は「万博は文化面で世界に国力を認めてもらう格好の場所だった」と背景を説明。

不平等条約撤廃など欧米に肩を並べるための対外戦略として、強兵策と「車の両輪」だったと指摘する。


 またセントルイス万博は日本の文化産業の発展や輸出拡大などの明確な意図を持った出展方針のもとで、初めて民間の企業、個人や団体が積極的に参加した万博であった。

セントルイス万博への参加に際して政府は、海外で注目を浴びる美術工芸品や、日本庭園を備えたパビリオンで伝統的な「日本」イメージを演出し、一方で主要輸出品である生糸や、その他醤油、酒、素麺、菓子などを出品して、今後の輸出振興を図ることを目的とした。

アメリカ側は、観客の注目を集める日本の伝統的なイメージの演出を必要とし、日本は博覧会を輸出増進のための強力な広告装置として利用したのである。


 日本各地の醤油組合により、大がかりな醤油の広告、装飾陳列がなされました。

英語によるハンドブックでは、大豆から作られる日本の有名なソース、健康によく極めて安価、最も望ましい食料品と紹介され、後半ページでは数多くの醤油製造業者の広告が掲載されています。


 この他セントルイス万博で出品した遠州の落花生が世界一に輝き、真珠の養殖に成功したミキモトの真珠はセントルイス万博で最高の賞である名誉大賞牌を得た。


 なお、日本館の本館だったパビリオン「鳳凰殿』は博覧会終了後の翌年一九〇五年、米国在住でアメリカで成功していた博覧会の評議員でもあった高峰譲吉に譲渡された。

そもそも「鳳凰殿』は日本の国力を諸外国に示すぺく京都御所の紫宸殿や清涼殿を模し、その日本庭園内には通常は見られない千鳥波風のある寝殿風の政府館(設計は文部技師・久留正道)で京都高等工芸学校教授の牧野克次に天井、壁、襖絵等の絵を描かせ壁を覆う金箔の上には松と楓の絵が描かれた(これが後に「松楓殿」と名づけられるきっかけとなった)。


 ところが、閉幕をしても、いまだ日露戦争中の日本政府には、取り壊し費用を出す余裕がない。

そこで、宮大工による解体、輸送、現在地への移築のすべてを引き受けたのが、当時アメリカで大きな成功を収めていた高峰譲吉だったのである。


 事務所と一緒にセントルイスからセント・ジョセフ駅まで鉄道で輸送され、雪道を橇に載せてニューヨーク州・サリバン群のメリーワルドまで運ばれてニューヨークから百六十キロほど離れた高峰の所有地内に移築され、木々に囲まれた二階建て四百平方メートルの和風建築、夏の別荘「松楓殿」として使用された。


 その室内装飾インテリアデザインを京都高等工芸学校の初代助教授であった牧野克次が再び担当し、日米文化交流の社交場として生まれ変わった。

以後、ニューヨークに住む高峰の別荘として長年利用されたという。


 さらに、高峰は

1908年、「日本文化の精華をアメリカ人に示したい」とマンハッタンのリバーサイドドライブに計画した高峰本邸(地上6階地下1階建ての石造建築)の内部を日本風に改装。

4年の歳月をかけて1912年に完成(これもそれもすべて牧野が担当)した。

自邸で開くパーティでは、アメリカ人の夫人と二人、和服で客を出迎えたという。


*牧野克次(1864〜1942)は洋画家で、京都高等工芸学校の初代助教授。

1903年、浅井忠が開設した聖護院洋画研究所に参加。1905年以後アメリカで水彩画などを教える。

「松楓殿」や高峰本邸などを洋画家であったはずの牧野がどうしてできたのかについては、浅井や武田五一らの京都高等工芸の教授陣の支援があったことに加え、武田五一が平等院の修復調査を行った時に天井画の模写を行った澤部清五郎の協力や19世紀末にアメリカで美術商を営んでいた山中商会も物品の調達などで支援した。


高峰たかみね 譲吉じょうきちとは、

1854年、富山県高岡市生まれ。翌年金沢に移り、少年時代を過ごした。

若いころイギリスにも留学し、明治20年代に米国に渡り、

“アスピリン”とともに世界三大薬品とされる消化酵素“タカジアスターゼ”の発明・製造や“アドレナリン”の結晶抽出に成功、巨万の富を得た「近代バイオテクノロジーの父」と呼ばれる薬学者・化学者である。

理化学研究所の設置を提唱したほか、桜の寄贈など日米親善でも活躍した。1922年没。


 その発明は今なお世界中の人々に恩恵を与えているが、にもかかわらず、ほぼ同時期に同じ米国で活躍したとされるなんの成果も残していない稀代の詐欺師:野口英世の知名度と比べると、雲泥の差がある。



1865年(慶応元年)、加賀藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められ12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、

1868年(明治元年)、京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)に入学、

翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密せいみ学校に学ぶ。

工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。

1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。

1884年にアメリカ、ニューオリンズで開かれた『万国工業博覧会』に事務官として派遣され、

そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。(ビッチにあらず)

なお、彼女の父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなどをしていた。(ヒッチ家は、ニューオリンズでも指折りの資産家一族であった。)

また、博覧会取材のラフカディオ・ハーン・後の小泉八雲こいずみやくもにもこの頃出会う。

帰国後の1886年、専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。

1887年(明治20年)、高峰譲吉は渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者達と共に、日本初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社:日産肥料(後の日産化学)を設立。

*益田は元旗本。維新後は三井財閥の指導者として長期にわたって君臨し、茶人としても絶後の存在として敬慕されている人物であった。

なお、譲吉はニューオリンズで目出たくキャロラインと結婚したとき、

その足(二人)でニューヨークへ新婚旅行を兼ねて機械の購入に向かい、譲吉の帰国後、その年の暮れには「東京人造肥料会社」を正式に設立。

翌年譲吉は農商務省を退職し、新会社の「技術長兼製造部長」といった地位に就く。

1890年(明治23)年、「(麹による)酒精製造法」特許が前年(1889年)米国で成立したため、採用したいというシカゴのウイスキー・トラストより招かれて妻子と共に永住を決意。

「高峰式元麹改良法」は、ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていたのだ。

経営者であった渋沢栄一は苦言を呈し思い止まらせようしたが益田孝に説得され、最後は了承した。

1894年、「タカジアスターゼ」を発明する。

(デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出)

タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。

1900年、有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた高峰が最初に居住したで

アドレナリンの結晶抽出に成功。

アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。

1905年には、日米交流の為に“日本クラブ”を創設し、

1907年には、日本聶贋の米財界有力者を誘ってジャパンソサエティを創り、日米財界の架け廣となった。

1911年(明治44年)、ベークランド博士の親友であった高峰譲吉博士の斡旋で、三共合資会社 (現 第一三共株式会社)が日本特許の専用実施権を受け、品川工場で試作を開始したのが日本のプラスチック工業の草分け。

1913年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任。

1919年、東洋アルミナムを設立。

アルミ精錬に必要な電源確保のため黒部川に発電所を建設することになり、その資材輸送手段として鉄道建設も計画し黒部鉄道を設立、1921年鉄道免許状が下付された。

また宇奈月温泉の礎となった黒部温泉株式会社や、黒部水力株式会社を立ち上げている。

1922年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去。

人種差別主義者(英: racist レイシスト)大国アメリカ合衆国では日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった。

また黒部鉄道の開業が同年11月5日だったため、目にすることは叶わなかった。

1932年(昭和7年)に三共株式会社からベークライト部門が独立したのが日本ベークライト株式会社である。



 彼は、無形固定資産の意義をいち早く理解して、発明薬品の商標登録をせっせと行い、多大なロイヤリティをライセンス先から得ているが、自らの発明薬品について学会発表をし、研究論文を書き、研究者として名をあげることよりも、発明薬品のロイヤリティ収入で事業家として成功することを優先したのでこの選択が研究者としての評価を低めることとなり、後世までの名声という点では、野口英世と明暗を分けたのだ。


 だが高峰は奥行きの深い、幅の広い人物で、日露戦争中には民間外交の先頭に立って活動し、日本を宣伝する文章を新聞に寄稿したり、米国各地での戦時公債を募る演説会では壇上に立ったりした。

さらに、アメリカで桜といえばワシントン・ポトマック河畔が有名だが、この寄贈にも尽力し、日米友好の礎を築いた人物である。


 また、アメリカに居ながらにして三共製薬や理研の創設者となったが、かつて三共製薬の子会社であった「三共内燃機」がオートバイ、ハーレーダビッドソンのライセンス生産をしたことがある……のちの「陸王」だ。


 この他、渡米してきた失意の豊田佐吉(世界のTOYOTAの社祖)を高峰博士が激励し復活させていた。

『私利私欲を戒め、経済と道徳の融和を重んじる』

という報徳思想を生活信条とした父の影響を受けて国家社会への奉仕を志し、また専売特許条例の公布を知った豊田佐吉は発明を目指す。

1906(明治39)年に豊田式織機株式会社を設立するも豊田式自動織機の事業化で挫折し経営陣と対立。

1910 (明治43)年ついに会社を去らねばならず失意のうちに移住まで視野に入れて渡米した豊田佐吉を高峰博士は

「発明家たるものは、その発明が実用化されて社会的に有用な成果が得られるまでは決して発明品から離れてはならない、それが発明家の責任である」と叱咤激励。

豊田佐吉に自分が使っていた自動車を贈り、「ヘンリー・フォードなるものが自動車というものを作った。豊田さんもやってみないか?」と、もちかけたという逸話もある。

「高峰博士……!! 発明がしたいです………」

 その後アメリカの織布工場を見学し、その結果アメリカの機械は欠点も多く、決して自分の発明した自動織機が決して劣っていない事を確信した佐吉は、「コレなら僕でもできそうだ」と、思ったとか思わなかったとか。

 こうして佐吉は「世界一の織機を実現してみせる」との決意を胸に自信を取り戻して日本へと帰り、「発明品は自ら製作に従事して十分に試験を重ねなければ完成しない」という信念を持って自らの夢を実現させたのです。

「発明王におれはなる」

1918年(大正7年)に海外進出を渋る親族を説得する際に語った「障子を開けてみよ、外は広いぞ」の格言は有名

こうして上海での工場建設にこぎ着けたという。


 そもそも松楓殿自体を高峰が寄付したのではないかという節がある。

彼の郷土である金沢の材木産地から、建材を仕入れた跡があるのだ。

ちなみに、1909年には、世界一周旅行途上の久邇宮邦彦殿下ご夫妻が立ち寄られている。

現存する菊の御紋章のついた家具は、その際日本から取り寄せたものという。


 しかし高峰が没した翌年妻がさっさと売却し(哀れ)、以降売買が繰り返され、最終的に繊維商社タキヒヨーの所有となった。


 そもそもキャロラインの母は高峰がアメリカに設立したジアスターゼ製造会社の初代社長に就任、以降キャロラインの両親が高峰の事業の重役を務め、譲吉没後、キャロラインは地所を処分し、1926年にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若いチャールズ・ビーチと再婚、農場を次々と購入し大牧場主となった(なおその所有地はキャロライン没後1956年に今度は夫により売却)。


 長男・譲吉II:ジューキチ・ジュニア(Jokichi Jr., 1888-1930)は父の会社で働き、1915年に引退した父親に代わり代表となり父親の没後、全事業を引き継いだが、41歳でニューヨークのルーズベルト・ホテルの14階から転落死した。


 母キャロラインは高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と断定したが(以前にも放火され会社が全焼している)、公式発表では飲酒による事故死とされたが果たして……


 のちに母親の再婚相手となるチャールズ・ビーチと同居していた次男・エーベン・孝は、キャロラインとの離婚を望んでいた父の譲吉が日本にいることが多いため孤独な母のために若い友人ツバメをよく紹介しており、ピーチもその一人だった。


 兄没後事業を引き継ぎ、さらに発展させたが、日本生まれだったためアメリカの市民権が得られず第二次大戦勃発で財産没収の可能性があったがペニシリン製造などでアメリカ軍を支援した為特例で許された。

1916年にEthel Johnsonと結婚するも1925年には離婚。

1928年にショーガールのOdette Jeanと駆け落ちし結婚する。

1943年に今度はイギリス女性Catherine MacMahonと結婚。

エーベン没後これまた妻が事業を売却し、財産は散逸した。

皮肉なことに、彼の死は、マッカラン・ウォルター法が成立した後、最終的にアメリカ市民になった数週間後に起こった。



   - 閑話休題 -



 築百年を超える建物は、土台、床等は腐ってボロボロの状態で、修復が急務であった。

この土地と建物を二〇〇七年、名古屋市の繊維商社タキヒヨーの名誉顧問で滝学園(愛知県江南市)理事長の滝富夫さん(79)=ニューヨーク在住=が購入し老朽化していた土台や床、屋根などを修繕したのだ。


 松楓殿について

「桃山時代風の造りで、洋風建築の要素を織り込みつつ、二十世紀初頭の雰囲気も出している。

 類似の建物は残っておらず、歴史資料として重要だ。テーブル、椅子など室内の調度品も一級品。

 日本に移せたら、国重要文化財に指定されてもおかしくない」と話し「百年以上たった建物で、歴史の一部分。できるだけ早く移したい。

 日本に置くことで、高峰の偉大さに対する認識も新たになれば」と熱望していた。


 また「フィリピン村」に倣うかのように設置された「アイヌ村」で、日本から連れてこられた7人の成人男女と2人の女児が「陳列」されていたことは、セントルイス万博の白人至上主義的な性格を裏付けています。




 そもそも日本に国際博覧会の存在が伝わったのは1853年であると考えられており、別段オランダ風説書を通じてニューヨーク万国博覧会の開催と、前々年の1851年に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた。


 国際博覧会との直接的な接触が生まれたのは1862年のロンドン万国博覧会からで、公式参加ではないものの、駐日イギリス公使のオールコックが収集した日本の品々が出品されたほか、開幕式には訪英中の文久遣欧使節団が出席し注目を集めた。


 日本が初めて参加したのは幕末の1867年、幕府および薩摩藩と佐賀藩の三者が参加したパリ万国博覧会(第2回)であり、維新後の新政府は1873年のウィーン万国博覧会から公式参加を行った。


 その前年予行演習として東京の湯島聖堂で日本初の博覧会が開催され、それが東京国立博物館の始まりとなった。


 明治・大正頃の国際博覧会では日本の芸妓が接待役を務め、

この時紹介された浮世絵はモネらフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。

これらが「ジャポニスム」と呼ばれたものである。

日本の展示館は1893年のシカゴ万国博覧会(第1回)では平等院風のもの

(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)や1900年のパリ万国博覧会(第5回)では法隆寺風のものなど伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。


 また大橋翠石が出品した猛虎の図の絵画は毛並みのリアルさなど東洋的芸術が評価され優勝金牌を受賞した。

実は1900年のパリ万国博覧会で日本の出品物は酷評されてしまい、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』(雑誌)を発行するなど日本の芸術や産業にも大きなインパクトを与えた。




○「人間動物園」:人類学展示という名の……

 この他アメリカ軍の捕囚のインディアンの族長ジェロニモらが人間動物園として展示されるなどした。

まさに人間動物園アメリカである。

またドイツからはマルガレーテ・シュタイフのテディベアが出品され、グランプリを受賞した。


 セントルイス万国博覧会の人類学展示は以下の目的のもと企画された。

身体的定義において、世界でもっとも知られていない、民族(ethnic types)、人種あるいは亜人種を展示すること

行動や精神的定義において、世界でもっとも知られていない文化の型(culutural types)を展示すること

人類の身体的、精神的特徴についての研究における、主要な方法や装置を展示すること

人類進化の階梯や過程における典型的な証拠を示すこと

統合と訓練によって加速される、野蛮や未開状態から文明に至る実際の人間の進化を示すこと

このような視点のもと、実際に諸民族の伝統的居住空間を展示会場に作り、そこで人々を生活させ、民芸品の作製や伝統芸能をみせる展示をした。



 1904年に開催されたセントルイス万博において、合衆国は米比戦争における最終的な被害と、フィリピン人にもたらされた屈辱を連続して示すなど、フィリピンを中心的に展示した。


 熱狂的な「進化的発展のパレード」と呼ばれた展示の前に立てば、訪問者たちはラドヤード・キップリングの詩「白人の責務」を正当化する「文明的なるもの」の対になる「原始的なるもの」がどういったものかを知らしめされた。

もっとも風呂にすらまともに入らずタコや生魚どころか魚すら食べれないのが野蛮なゲルマン系民族だが


 ニューギニアとアフリカからのピグミー(このアフリカ人は、後にブロンクス動物園の霊長類部門で展示された)は、

アパッチ戦士ジェロニモなどのインディアンの横で練り歩かされ、ジェロニモはサインを販売することもした。


 しかし中心的な展示は、後進性を示すために完全に復元されたフィリピン人の伝統的住居だった。

その狙いは、米比戦争の直後にアメリカの統治による「文明化」の影響と、フィリピン諸島に存在する天然資源の経済的なポテンシャルの両方を強調することだった。


 伝えられるところによれば、それは博覧会で表示された中で最も大きい特定のアボリジニの展示品だった。

1人の訪問者が論評したように、人間動物園展示は「世界が進歩する間に奇妙な有り様を示す民族、およびアメリカの力で文明的な労働者にされた野蛮人の物語」だったのだ。


 かつて「アーリア民族」の優位性を説いたナチスは文化統制としてドイツ国内の公立美術館から徴発した作品に「退廃芸術」の烙印(らくいん)を押し、(さら)しものとして1937年ミュンヘンで退廃芸術展を開いたが、米国は帝国主義政策に基づき、社会進化論と人種差別主義を背景にした悪名高い「人間の展示」を大規模に展開した。

フィリピン統治の正当化を意図したのだ。


 ナチスですらユダヤ人を展示などしなかったのに一体どちらが邪悪であるのかよく見て取れる対比である。




▼セントルイス万博は、食の分野で世界初のお目見えが多かった博覧会:


○アイスティー:紅茶に氷を入れただけのチート

 インド紅茶展示館が開設されるも季節は真夏。

しかも、その炎天下で暑さのため誰も「ホット・インディアンティー」を飲もうとせず、熱い紅茶になど当然ながら売れるわけはない。

 そこで、紅茶のカップに氷を浮かべて売り出すと、さっぱりとした喉越しのよい飲み物に変身!

これを機にアメリカではたちまち爆発的な大人気、こうしてアメリカの人々の間には夏冬問わず「アイスティー」が飲まれるようになりアイスティーが普及していきました。



○アイスクリームに「コーン」のはじまり:

 バナー・バター製造所のオーナー、ジョージ・バングが、会場でアイスクリームをつくって売っていたがアイスクリームを入れる紙筒ボウルを使い果たし途方にくれていると、隣では、出店していたワッフルが売られていた。

そこで、隣のワッフル屋に円すいの形をしたワッフルを焼いてもらい、代わりとして巻いたワッフルを用いアイスクリームを入れて売ってみたところそれが大人気となった。

あるいは件のワッフル屋アーネスト・A・ハムウィが最初にワッフルをつくった人物として挙げられることもある。万博でワッフル屋台を出していたが、隣のアイスクリーム屋台でお客に出す皿がなくなったのを見ると、『ワッフル』を巻いてアイスクリ―ムをのせることを思いつき提供したのだ。

どちらにせよ、これがアイスクリームの『コーン』が誕生した瞬間といわれている。



○「ドクターペッパー」:知的飲料炭酸飲料

1885年にアリゾナ州ケーヴ・クリークで初めて販売されたとされており、出展したセントルイス万国博覧会によってアメリカ国内に広まった。



○「ハンバーガー」:ハンバーガーステーキ(ハンバーグ)を挟んだサンドイッチ

 会場内でハンバーガーステーキを挟んだサンドイッチが

「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、20世紀の初頭には専用の丸いバンと組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる。



○「綿菓子」:アメリカ合衆国では12月7日を「綿菓子の日」(National Cotton Candy Day)としている。

 万博会場の爆発的ヒット商品が電動式の機械で作る「綿菓子」だった。

ピンク色の「綿菓子」が箱入りで会場の入口広間(grand entrance)を占め、観客に大々的に紹介されたらしい。



○ポン菓子:ポン菓子ポンがし、ドン菓子ドンがし、パフライス

 それ以前から米のポン菓子を「パフライス」として売り出していたが、万博で真鍮製の大砲でパフライスを作る派手なデモンストレーションを行って注目を集め、大衆に広く認知されたちまち大人気となり広まって行く。



 またホットドッグ(Hot dogs in buns)やピーナッツバターもそうだと言われているらしいが、これらも世界初デビューではなくもっと前から存在しており、つまりはアメリカの一般大衆への普及に役立ったに過ぎないのである。

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