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妖狐抄  作者: 北風とのう
風の章
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-2

 長い眠りから覚めた王子とそれを目覚めさせた東方の医師の事は国中の話題になっていたが、村の人々はこの二人が散歩をしているのを遠巻きに見ているだけだった。王族に話しかけたりしたら、すぐに兵が来て殺されてもおかしくはないからだ。


 ところで、この時代はちょうど新しい染色の方法が次々と発明された時で、民は競って華やかな色の、それも多くの色を使った服を買い求め、着た。

王族ともなると、細かい模様で豪勢な多色の布を何枚も重ねて着ていた。ナジーブもそういう服を着せられていたのだが、イシスはなぜか色のついた服を着るのを嫌がり、いつも生成りの、つまり何も染めていない綿の服を着ていた。王族の者はイシスの服をバカにしていたが、ナジーブはそれが大好きだった。細身で色白のイシスが、シンプルな生成りの服を着ていると、とても爽やかに感じられたからだ。


* *


 一年が経つころ、王が亡くなる。激しい雨の中、馬車で山道を急いでいた。崖の上に差し掛かった時にぬかるんだ道に大きく馬車が傾き、車軸が折れて馬車ごと崖の下に落ちてしまったのだ。王宮に遺体が運ばれてきた時にはすでに冷たくなっていて、イシスにも何もできなかった。


 すぐに次の王を決めなければならなかった。もちろん、王位継承権はトゥシャーにあるのだが、この時、家臣のほとんどがナジーブを王に推したので王宮は不穏な雰囲気に包まれる。生まれ持つ品格と聡明さに加え、イシスの教育によって磨きがかかった思慮深さ、人の心の綾を理解してその醜さをも包み込む器の大きさに、皆が陶酔していたからだ。

 しかし王家と家臣が集う場でナジーブは言う。

「王位継承権に従ってトゥシャーが王になる事に何の異存もない。ただ、一つだけ私の願いを聞いてほしい。辺境の地でかまわないので家を建てて欲しい。私はこの王宮を出て、イシスと結婚してそこに住みたい」

トゥシャーにしてみれば、人望の厚いナジーブが王宮から出て行ってくれるなら、こんなにありがたい事はない。これで王宮がもめる事もないだろう。しかし身元の知れないイシスとの結婚は王族の家系がけがれるので認めるわけはいかない。そこでイシスとの結婚以外はすべて認めるといい、気前よく領土の一割を割譲し、屋敷も建ててやる事にした。


 翌朝早く、ナジーブはイシスを誘って王宮の北側にある小高い丘に登った。頂上は見晴らしがよく、正面に王宮、その右側に家並、左側にはゆったりと流れる河が見える。ナジーブはイシスの横に立って景色を眺めながら言う。

「私は生まれてからずっと王宮の一室で寝かされていた。こうして王宮の外に出て、広い世界を見られるのはイシス、君のおかげだ。ここにいると風が気持ちいいな。王宮の中では決して流れる事のない風だ。こうして君の隣で風を感じていると、十七年の辛く空虚な時間さえも、もうどうでもいい事に思えてくる。

イシス。これからの時間を私と一緒に、ずっと一緒に過ごしてくれないか。

トゥシャーからは結婚を許可してもらえなかった。本当に申し訳ない。しかし自分は心からイシスを愛している。イシスが一緒にいてくれるなら、生涯誰とも結婚しないし、愛人も作らない。だから新しい家で一緒に暮らしてくれないか」


イシスはうなずいてナジーブと接吻をした。


* *


 ナジーブとイシスが新しい家に移り住むと、王宮の使用人の何人かが王宮での報酬を捨ててついてきた。

いつも土埃が舞う痩せた土地だったが、二人の幸せな生活が始まる。


 しかしこの時、時代の歯車は大きく回り始めていたのである。


 当時、インド北東部のガンジス川流域を統一してとどまる所を知らない快進撃を続けていたコーサラ国が、中部インドにも侵攻をはじめ、大軍でカシに攻め込んでくるという情報が入ってきた。コーサラの大軍なら騎兵が五千。歩兵が一万はいるだろう。象を操る部隊が城壁を壊すとも聞く。

ナジーブとイシスは王宮に行き、新国王のトゥシャーや臣下と対策を考えた。どう考えても小国のカシが勝てる相手ではない。領土を明け渡して降伏し捕虜となるか、王族どうしの付き合いのある近隣の大国に逃げてかくまってもらうしかない。


 そしてすぐに、次の情報が入ってきた。

コーサラの先発隊、二百騎がすでにカシの領内に入り、明後日には王宮に迫るというのだ。

季節は冬。日中の気温は二十五度程度。天候も安定し、騎馬隊には一気に攻めやすい条件が整っている。


 トゥシャーは逃亡を決意し、騎馬隊の大部分、八十騎を連れて隣のバードゥダラー王国に向けて出発。家臣の約半分がそれに従った。しかし皇太后は自分が愛する国を明け渡す事に最後まで反対し、たとえ自分一人になっても王宮に残ると言った。家臣の残りの半分も、「先発隊とは戦って一矢報いたい」。それがカシの誇りだと言って残る事を選ぶ。


 ナジーブも大国と戦っても勝ち目はないと思っていたが、母である皇太后を守り、残る家臣をまとめる者がいないと困ると思い、トゥシャーに代わって王宮に立てこもり指揮をとる事にした。

王宮の兵は騎馬隊二十騎と兵卒が三十人。とてもまともに戦える兵力ではない。


 王宮の背後、北側には山並みが続き、東には大きな川。西には民家が立ち並んでいる。しかし王宮の南、正門前にはカシの昔日の栄華をとどめる、立派な広場があり、そこで毎朝開かれる市から得られる税がこの国の生計を支えていた。広場のさらに南には広大な森が広がっている。

 勢いにのるコーサラ軍なら、こんな小国相手に山や川から攻めてくるような事はしないだろう。正々堂々と正面から騎馬隊で攻めてくるに違いない。兵を森に隠しておき、一気に広場になだれこみ、そこに陣取って降伏を勧めてくるのではないだろうか。

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