-5
殷の宮廷では、皇帝は臣下の妻には会わない事になっている。だから雷庚の妻になった路石を副皇医にする事はできない。基本的に皇医、副皇医は皇帝のための医師なのだから。しかし皇帝は路石に興味を持った。町には、死に至る怪我や病気を路石が治したという噂が無数にある。宮廷のためにも、なんとしてでも路石に働いてもらいたかった。そこで皇帝は自分を診る副皇医としてではなく、医局の特別な研究者の地位で彼女を招聘した。これなら家臣の妻でも差支えない。雷庚もこれでは断れないし、路石が自由に研究できる場があるのであれば、それもいいのかもしれないと思った。
路石は宮廷の医療に関する知識が学べる事を非常に喜んだが、一つだけ条件を言った。これからも怪我人、病人であれば身分にかかわらず、誰でも治療するという事だ。皇帝は了承し、こうして路石の新しい生活が始まった。
路石は週に一日、雷庚が出廷する時は必ず一緒に宮廷に行き、皇医や他の研究者と話をして過ごし、また家臣や宮廷で働く者の怪我や病気を治療した。
皇医は八十才を過ぎる老人だったが、路石の外科の技術に強い興味を示し、よく路石の話を聞き、その代わり自分の知るあらゆる医の知識を教えた。もともと研究者気質の路石は宮廷の研究者たちとも打ち解け、可愛がられた。
もちろん、雷庚の家を訪ねる怪我や急病人の治療も続けた。いや、ますますそれに精を出し、ほとんど寝る暇もないほど一晩中診療する事も多かった。いつも雷庚と路石が一緒に宮廷に通うのが有名になり、雷庚の新しい妻で医者の路石は貧乏人でも診てくれるという噂が広まったからだ。
雷庚と路石が二人で屋敷を出ると、そこに居合わせた者は歓声を上げた。復活した伝説の英雄とその妻の人気は大変なものだった。
* *
殷の皇帝は三十二才になる長身で美形の男で、やや神経質な感じを漂わせていた。ほどほどに道理をわきまえた統治をしていたが、なにぶん、生まれた時から皇帝の座を約束されていたのでわがままだった。そして女好きだった。
皇帝は何とか路石を自分のものにしたいと思うようになっていく。度々見かける路石の、他の女官とは全く違う短髪、細い首筋、薄い作務衣から浮き出る華奢な身体つきに深く魅入られてしまっていた。
殷の皇帝である。望めば何でも手に入る。『ただし、家臣の妻を除いて』
路石は宮廷ではいつも医局の者と一緒にいるか誰かを診療しているし、そうでない時は雷庚と一緒にいる。お茶に誘うのは禁則だし、誘っても路石は絶対に来ないだろう。理屈で考えて、路石を手に入れる方法は一つしかなかった。
離婚させる事だ。しかし雷庚は死んでもその命令には従わないだろうし、第一自分が媒酌をした夫婦を離婚させてその妻を奪ったとしたら、殷の歴史に後々まで好色の愚帝と刻まれてしまうだろう。雷庚はそこまで考えて自分に媒酌を頼んだのか。きっとそうだろう。
何とか路石を抱きたい。日に日にその思いは強くなった。そして、一つのアイディアが皇帝の中で育ち始める。雷庚を暗殺する事だ。
『皇帝による大将軍の暗殺』。しかも目的がその妻。
悪魔も身震いするような背徳の響きだ。
しかし、さすがの皇帝の権力をもってしても、それを行うのは容易ではない。暗殺とは秘密裏に行うものだが、皇帝が何かをすればすぐに噂は広まる。家臣の誰かを動かすにも大義名分が必要。万一情報が漏れたら、殷の歴史に……。
* *
しかし、事態は思わぬ方面から皇帝に見方した。「帝とは天が味方をしているから帝なのである」と本人は思っただろう。しかしこの場合、殷に巣食う悪魔がこの背徳のストーリーを読みたくなったと考えた方がよさそうだ。
皇医が亡くなった。八十四歳。殷の医療の基礎を作り、生涯を研究に捧げた人格者だった。それが切掛けとなって、家臣たちの人間関係、力関係に変化がおきる。多くの家臣が路石に近づき、大事に接するようになったのだ。さらにその夫である雷庚をたてるようになる。理由は簡単だ。自分や家族が病気になった時に路石に診て欲しいからだ。
そこに家臣の一人が皇帝に耳打ちしてくる。
「陛下、臣民は熱狂的に雷庚を崇拝しています。「既得の地位にしがみ付かず、公に実力を示して大将軍の地位を手に入れ直した」と言われています。このままでは実力主義を求める声が高まって、公・侯・伯の三等制度に基づく殷の国政が危機にさらされるでしょう。もしも反乱がおこったらどうなるでしょうか。雷庚は反乱を指揮して皇帝の座に就く事もできるかもしれません。反対に群衆を説得して反乱を納めても、皇帝陛下に匹敵する権力を手に入れる事になります」
……それだ! と、皇帝は思った。雷庚が自分を裏切るなんてありえないし、彼が権力を持ったところで殷の皇帝が自分である事に変わりはない。そんな事はどうだっていい。ただ、これで路石を手に入れる事ができる。皇帝はすでに狂気を宿し、一つの目的しか考えられなくなっていた。
「おまえの言うとおりだ。余は雷庚を信じているし、やつが民から尊敬されているのはまことに結構なことだ。しかし殷の秩序は守られなければならない。余は苦渋の決断をするのにやぶさかではない。しかし、余は自分では動けない」
「では、私にお任せください。後の事はどうぞよろしく」