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妖狐抄  作者: 北風とのう
泥の章
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-2

 女官たちが少女のからだをきれいに洗い、最高級の服を着せて宴席で待つ雷庚のもとに連れてきた。当時の女性にはあり得ない短くざくざくと切った髪だったが、少女の端正な顔は宮廷仕様の着物にも負けず、その仕草からにじみ出る品性は誰の目にも明らかだった。

 雷庚が言う。

「改めて礼を言う。俺の命を救ってくれた。そして切られた腕をつなげてくれた。さらに俺の家を訪ねて来てくれた。本当に感謝している。好きなだけこの家にいてくれ。いや、医者としてずっとこの家に仕えてくれるとありがたいんだが」

少女は黙ってうなずき、

「腕がどうなっているか気になって見に来ましたが、大丈夫そうなので安心しました。私のような者をこんなに歓待してくださって、本当に恐れ入ります。もう家族もいない身ですから、それではお言葉に甘えて医者として仕えさせていただけるとありがたいです」

と言った。

「おおっ。そうか。今日は良い日だなあ」

雷庚は極めて上機嫌だった。


* *


 翌日、少女は女官に自分の作務衣を返してくれるように頼み、着物を脱いで作務衣に着替える。きれいに洗われた生成りの作務衣を着ると、少女の端正な顔だちがスリムな体と相まって、凛とした雰囲気を醸し出した。

 その日の夕刻、少女は番屋を訪ねる。門番はすでに事情を聞かされていたので、少女の訪問に恐怖した。少女は

「殴られた傷を見せてください」と言う。しかし門番は

「いいえ、とんでもございません。事情を知らぬとはいえ、昨日は大変失礼しました。どうぞ平におゆるしを」と言って少女の前に土下座してひれ伏した。少女は

「お気になさらないでください。それより、この薬を傷口に塗りますから少し痛くても我慢してください」と言って、門番の殴られて痣になった顔に軟膏を塗った。

門番は始終身動きもできないほど恐怖に引きつり、少女が番屋から出ていってもずっとひれ伏したままだった。


* *


 少女は屋敷の病人、怪我人を診るだけでなく、噂を聞いて決死の覚悟で大将軍の家の門をたたく庶民をも治療した。ある時は真夜中に乞食女が「息子が腹痛で死にそうだ」と泣いて訴えてきた。たまたま起きてその声を聞いた少女はすぐにその乞食女の家まで行き、朝までかかって息子を救った。

 もともと世間体には無頓着で情に厚い雷庚は、そんな少女の行いを尊敬したが、家臣のほとんどは少女が庶民を診る事に目をそむけた。

「病気がうつる」

それが理由だ。


 女官たちの少女に対する態度も日に日に敵意を含んだものになっていった。雷庚が毎日少女と会って楽しそうに話し、ひたすら可愛がったからだ。

 雷庚は今年で四十八になる。年齢では既に老人の範疇に入る。片腕を失い、大将軍も半ば引退している身だが、それでもその妾の座、妻を亡くしてからは後妻の座を狙う者は数知れなかった。大将軍の妾になれば極楽な生活がおくれる。そんな理由だけではない。怪力の大男が大胆かつ緻密に軍隊を指揮して窮地を脱し逆転していく、そんな英雄話と、雷庚に直に接した時の子供のように素直な性格のギャップに、夢中になってしまう女性は多かった。しかし愛妻家で妾を全く持たなかった雷庚を、貴族の娘や女官たちは、遠巻きに見ている事しかできなかったのだ。だから全く不謹慎な話なのだが、雷庚の妻が他界した事をチャンスととらえる女性は多かった。


* *


 ある時、雷庚が少女に尋ねた。

「おまえ、名前を聞いてなかったな」

「何をいまさらおっしゃいますか」少女はあどけなく笑う。

「私の名前は路石ローシャンと申します」もっとも、これは最近、女官たちが私を呼んでいる名です」

「なんと、路石とは失礼だろう。けしからんな」

「いいえ。私のような見栄えのしない田舎ものには、ぴったりです。しかも、実は私はこの名前がとても気に入っているのです。路にある石のように自然に生き、知らぬ間に人様の役に立っているようにありたい。それが私の願いです」

 実際、少女は雷庚の屋敷にあっても一切の贅沢をせず、地味な作務衣を着てひたすら治療と勉強をして過ごしていた。女官たちは美女ぞろいだが贅沢好きで裏表があったので、その中で少女の清楚さ、誠実さは際立っていた。雷庚は少女への思いを募らせていく。なんとか少女から愛されたい。三倍もの時を生きている老人が、どうしたら少女から愛されるか。雷庚は日々、その事ばかりを考えるようになっていく。


* *


 智了崔ちりょうさいは宮廷の重臣で、武の雷庚に対する文の要である。彼の十歳になる息子が重病で危篤に陥った時、智了崔は雷庚に使いを出して路石を派遣してくれるように頼んだ。智了崔は宮廷の医療も統括しているので、皇医ではない者に息子の治療を頼む事など、どんな事情でも許されない事だった。しかし、皇医たちから見放され、日に日に腹が膨れて苦痛に叫ぶ息子を見て、ついには面目にもかまっていられなくなったのだ。


 智了崔の家には雷庚が自ら路石を連れて来た。

 路石は息子を見るとすぐに粉を解いて飲ませ、息子を深い眠りにつかせる。そして、

「腹を割いて膿を出さなければ助かりません」と言った。

「その時は部屋を密封し、私が出てくるまで誰も中に入れてはいけません。その約束が守れるのなら、息子さんは治るでしょう」

 そして、一昼夜その部屋にこもったあと、路石は出てきた。

 その後、息子は順調に回復してきたが、路石は毎日、智了崔の家に通って傷口の手当をした。その度に雷庚が自ら路石を連れて行ったのだが、一週間目に路石が言った。

「雷庚様、あなたのような方がいつも私と一緒に出掛けていては世間の笑いものになります。今日からは私が一人で行きますので、どうぞ家にいてください」

雷庚は「どう思われてもかまわない」と言って抵抗したが、最後には路石に説得され、自分の代わりに女官の胡姫こひめを付き添わせる。しかし、この人選が、半年後に殷の宮廷をゆさぶる大事件を引き起こす切掛けとなる。

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