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妖狐抄  作者: 北風とのう
月の章
15/19

-3

 赤ら顔の男は刀を上段に構え、千古ちふるをにらみつける。しかし武士たちを追って走って来た狩衣かりぎぬを着た者(公家)が前に出てそれを制し、千古のすぐそばにきて言った。

「千古殿。これが欲しくはないか」

公家は手に持った小さな巾着袋から綺麗な真珠を取り出して千古に見せる。

「それに絹十反と米十石も進呈しよう。その代わり、一つ頼みがあるのだ」

「私は富には興味がありませんし、人さまを治療する事しかできない者です」

「いや、そなたに頼みたいのは、まさに医師としての事なのだ。そなたが助けた成子姫の様子を見てきて欲しいのだ」

「しかし私は……」

「そなたなら名栗の屋敷にも入れるだろう。様子を見てくるだけでいい」

「それで、その様子をあなた様にお伝えするのでしょうか?」

「いや、姫の様子を我々に報告もしなくていい。ただ姫に会ってくれるだけでいいのだ」

「……」


 そこまで千古が話しかけた時、突然、村の方から男が駆けてきて、大慌てで言った。

「おい。得足が生き返った」

驚く一同。

「まずいな。それは……。おいっ、火丸ひまろ。その女を見張っておけ」

そう言って、刀を抜いた一人の男を残して、全員が慌てて駆けて行く。


しかし火丸が千古の方を振り返ると、千古はいなかった。見通しのよい琵琶湖畔の草原で、どこにも隠れる所などないのに。


 武士たちは小野に帰ったが、得足は台車に寝かされた冷たい死体のままだった。墓穴を掘ろうとしていた農民たちは武士たちの話を聞いて驚く。

「えっ?得足が生き返った?」

武士たちは訳が分からず、得足が生き返ったと伝えに来た男に詰め寄る。しかしその男は、わずか十分前に自分が何を言ったのか、どういう行動をとったのか、全く覚えていなかった。


* *


 名栗王の長女である成子姫は、幼少時から美少女として知られていた。漆黒の真っ直ぐな髪。白い肌。意志の強そうなくっきりとした目。殿上人の間でも噂になり、天皇のみめになるとの噂が絶えなかった。

 名栗王は先々代の天皇の孫にあたる人物で、四十にならんとするが、やはり整った顔立ちのなかなかの美男子。学者たちを庇護し、自らも大変な博学であり、平安京の土木全般を司っていた。


 成子姫はあの事件依頼、ずっと臥せっていた。ほとんど食事もとらず、口も聞けず、夜も眠れず、部屋の隅にうずくまって震えている事もあった。最初は「あれだけの怖い思いをしたのだから、しばらくはその事を思い出してしまうのだろう」と女官たちも思っていたのだが、一月経っても元気にならないので、御祈祷師の所に行き、占をたててもらう。

 御師が言うには、

「姫様を助けて野盗を眠らせた女は狐が化けたものだ。助けてくれたのはいいが、野盗の死体を持って行ってしまったので、野盗の怨霊がそれを探して今でも姫様にとりついている。その女を探して姫様に会わせなさい。そうすればその狐が野盗の怨霊と戦い、追い払うだろう」


 そこで女官たちは名栗王にその話をした。名栗王は合理主義者で霊や占いなどは全く信じていなかったので、女官たちの行動にあきれたが、姫を助けた里中の医師を呼んで来て姫に会わせてみる事には賛成する。姫があの事件の時に唯一すがった人物だから、一緒にいれば落ち着くかもしれないと考えたからだ。


 千古は「旅の者」と言っていたので、京にはいないだろう、と名栗王は思っていたのだが、配下の道路や橋の修繕をする者たちを使って探させたところ、京のあちこちでその女医師に重病や瀕死の怪我から助けられたという者がいる事がわかった。これはなかなかの名医だ。

 そして間もなく、千古が見つかった。


 千古は名栗王の屋敷までは来たものの、姫には会う事が出来ないと言う。女官たちは先日の死体の持ち去りの事があったとはいえ、姫の命の恩人に対して最大限のもてなしをしようとした。しかし千古はそれを固辞し、どうしても姫に会おうとはしない。

 そこで名栗王も、自ら千古に会ってお礼を言い、姫の診療を頼んでみる事にした。

「千古殿。過日は我が愛する娘、成子を救っていただいて本当に感謝しています。検非違使もどうしようもなかった状況で自らの命も顧みずに、よくぞ姫を救ってくださいました。どうぞ好きなだけこの館に留まってください。そして、一つお願いがあります。実は姫の容態がすぐれないのです。あの事件の後、夜も寝られず、食事もほとんどとらず、ずっと何かに怯えています。部屋のすみにうずくまって震えている事もあります。千古殿は京のあちこちでも病人やけが人を治療され、その名は私の耳にも届いております。どうか成子を診てやってください。会っていただくだけでもいいのです。あの子もきっとあなたにお礼をいいたいと思いますよ」

「お館様、私も姫様の事は大変心配しております。おそらくあの時の事を思い出して苦しんでおられるのでしょう。毎日、毎晩、気を落ち着かせるようにして、どなたかが姫様の話を聞いて差し上げれば、姫様はじょじょに回復されるでしょう。しかしそれには一年かかるか、あるいはそれ以上かかるかもしれません」

「では、成子を診てやってくれないか」

「……いいえ。それはできないのです」

名栗王も少しいらついてきた。

「どうしてだ。京を離れるのか」

「どうしても成子様には会えない事情があるのです」小さな声でそう言うと、千古は涙を流した。

「どうした。その会えない事情というのを言ってくれないか。成子の苦しみを取るためなら何だってする」

千古はしばらく下を向いて黙っていたが、やがて口を開いた。

「ではお館様、お人払いをしてください。お館様と千古の二人だけになったら、事情をお話しします」


 それを聞いて女官たち、それと名栗王の付き人は怪訝な顔をした。身元の知れない者が名栗王と直に話す事自体、すでにあり得ない事だ。まして二人だけになどできるわけがない。しかし名栗王は言った。

「わかった。離れに行こう」


 そして二人は庭を横切った所にある小屋に行った。しかし部屋に入ると、千古は言う。

「女官の方が、隣の部屋にいらっしゃいますね」

「いや、彼女はかまわない。成子の乳母だ」

「そうですか。ではその方もこの部屋にお呼びいただけませんか。顔を合わせてお話ししましょう」

名栗王は、なぜそこまでするか不思議に思ったが、千古の言うとおりにした。そして千古は話し始める。要旨は以下のとおり。

「盗賊は死を覚悟しており、ゆえに強盗ではなく姫の誘拐もしくは殺害が目的と思われた。その男を落ち着かせるために、家族と故郷の事を聞くと、和邇の小野に家族がねむる墓があると言ったので」

「小野か」と名栗王は声をあげた。しかし「いや、続けてくれ」と言って千古にその先を続けさせた。

「男に刀を手放させるために、ある約束をした。それは男の遺体を家族の近くに埋葬する事。男は刀を離し検非違使に殺された。遺体を引き取り、小野に行って村の者に埋葬を依頼した。しかし小野からの帰り道、数名の武士に囲まれた。彼らは私が男から姫を取り返した事を知っていた。そして『真珠をくれるから姫を診療しろ』と、私なら『館に入れるだろうから、会うだけでも姫に会ってくれ』と頼まれた。私はそんな物をもらうような事はできない、と言いなんとかその場を逃げてきた。私は医者だから病の者は救いたいし、姫がどうなっているか非常に心配だが、武士からの話を聞いた以上、彼らの言うとおりに姫に会うと姫や館の方に迷惑がかかる。だから姫に会う事はできない」

名栗王はしばらく考えていたが、やがて口をひらいた。

「事情を語ってくれてありがとう。そして武士たちに言われたとおりにせず、真珠を受け取らずに成子に迷惑がかかる事を避けようとしてくれた。千古殿ほど人の事を考え、意志の強い方は、この平安京の中にもそうはいないだろうな。この事は他の誰かに言ったのか」

「いいえ。誰にも言っていません。誰かに言えば、それが小野の者たちに伝わるかもしれません」

「そうだな……。では私も少し事情を話そう。実は成子は陛下に召されるという噂がある。そうなれば名栗の勢力がます。それを快く思わない者がいるのだ」

「お館様は姫様が天子様に召された方がよいと思われるのでしょうか」

「そうだな……。今の陛下は道理をわきまえた方だ。後宮に上がれば苦労もするだろうが、藤原兄弟の誰かにくれてやるよりはずっとましだ。……しかし、一つだけ腑に落ちないところがある。小野の者は千古殿に『姫に会ってくれるだけでいい』、と言ったのだな」

「はい。そうです。ただ会うだけでいいと。その様子を小野に帰って報告をする必要も無いと、おっしゃいました」

「彼らの狙いは姫の誘拐か暗殺。千古殿に頼んで様子を聞いてから何かの策を練るのなら分かるが、千古殿が姫に会うだけでいい、というのはどういうわけだ」

「さて。私もその事がずっと気になり、それ故にますます姫様にお会いする事はできないと思うようになりました」

「う~ん。何が考えられるか……。千古殿の言うとおり、この事は誰にも相談できないしな……。どこで小野の者たちに話が伝わるかもしれない」

「……」

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