泥の章
殷の大将軍、雷庚は敵軍との激しい合戦の中で両方の腕を切り落とされ、高い崖の淵に追い詰められてしまった。太い腕からはドクドクと血が流れ落ちたが、雷庚は仁王立ちになって熊のような声を上げて敵兵を威嚇する。真夏の昼時。盤龍城(ばんりゅうじょう、中国中部)の強い日差しの下、雷庚と敵兵はにらみ合った。
しかし雷庚の頭は既に眼前の敵を離れ、家族に思いを馳せていた。長年連れ添った妻は半年前に病気で死んだ。息子は独り立ちし、娘も嫁いだ。ここらで人生を終わらせるのも悪くは無い。崖の下は湖。雷庚は敵兵をにらんだまま、後ろ向きに倒れて崖から落ちていった。
* *
雷庚は不思議な感覚に目覚める。寝かされたまま、体中きつく縛られてまったく動けない。感覚はふわふわと夢を見ているようだった。質素な民家の中。生成りの作務衣を着た小柄な少女が、雷庚の方にかかんで何かをしている。
それから何度か目が覚めたり眠ったりしたが、少女はずっと同じ姿勢で一心不乱になにかをしている。話しかけようと思ったが、どうしても声が出なかった。
昼と夜が何度か過ぎ、雷庚は状況を整理し始めた。自分は合戦で両腕を失い、覚悟を決めて崖から湖に飛び込んだ。しかしなんとか生きているようだ。相変わらず身体は寝台に縛られたままだった。少女はもう雷庚の方にかがんでいなかったが、粥を食べさせたり、身体を拭いたりして熱心に看病した。雷庚はまだ夢見心地だったが、意識を集中して少女に話しかける。
「何をしている。お前は誰だ」
「湖であなたが倒れているのを見つけました。左腕も落ちていましたので、なんとかつなげてみました。私はここに住む者で、亡き父の医を継ぐ者です。まだ身体を動かしてはだめですよ。骨がつながるまでまだ当分かかりますから」
* *
二か月が経ち、雷庚は起きて驚いた。切られたはずの左腕がつながっている。
指も動くし、感覚もある。長年、国軍の将軍をやっているので手足を切られた部下は何十人も見ているが、それがつながったという話は聞いた事がない。宮廷の皇医でもそんな事は聞いた事がないだろう。
「お前は何者だ」雷庚はあらためて少女を見た。年のころは十五か十六。髪を短く切っている。華奢な身体に透き通るような白い肌。端正な顔立ちからは不思議な美しさが感じられた。少女は雷庚の質問には答えずに
「あと一月は手をなるべく動かさないでください。重い物を持ったりしないように。それからこれを毎日煎じて飲んでください。その約束が守れるなら、もう帰ってもいいですよ」そう言って、薬草の束を差し出した。
「俺は雷庚という。殷の大将軍をやっている。この命、助けてもらっただけでなく、腕をつなげてもらって感謝のしようもない」
「右腕がつなげられなかったのが残念です」
「おまえ、家族はいないのか。おれと一緒に亳(ハク。殷の首都)に来い。悪いようにはしない」
「お誘いありがとうございます。しかし先日母が亡くなったばかりですので、一周忌まではこの地に留まって母の供養をするつもりでございます」
「そうか。ではそれが終わったら必ず来い。亳に来れば俺の家は誰に聞いても分かる」
* *
雷庚は少女の家を出た。回りを険しい山に囲まれた谷間。人が通る道も無い。こんなところに人が住んで何をやっているのだろう、と不思議に思ったが、それよりも自分がいない間の軍の事、屋敷の事が気になって、少しでも早く帰る方法を考えなければならなかった。
山を越えると自分が落ちた湖が見えた。ここでまた疑問が増える。雷庚は「熊」ともあだ名される巨漢である。少女はどうやって倒れた自分をあの家まで運んだのだろうか。
* *
雷庚が帰ってきた事は亳中の話題になった。雷庚は自ら戦えば剛腕の戦士。戦略にもたけ、裏表のない性格で軍部での人望は絶大である。殷を支える最重要人物の一人だったからだ。皇帝も幼少時から雷庚の事をたよりにしていたので、二ヶ月ぶりに帰ってきた時の喜びはひとしおだった。しかし人々が驚いたのは何と言っても、切り落とされたその左腕がつながっていた事だった。大勢の部下たちが、両腕を切り落とされて仁王立ちになる雷庚を見ていたのだから。
雷庚が少女の事を話すと、「そんな医者がいるならすぐにでも連れてこい」という話になる。しかし雷庚は少女の意志を尊重し、使いを出したりせずに彼女の意志で亳に来る事を待つことにし、その居場所を誰にも話す事はなかった。
秋が深まる頃になると、雷庚は日に日に少女の事が気にかかるようになる。看病されていた時は不自由な体で自分の事を考えるのだけで精一杯だったが、あのような深山で、かよわい少女が一人で暮らしていけるのか、野盗に襲われたらどうするのか、心配が募るばかりだった。しかしそれでも雷庚は自分から迎えを出そうとはしなかった。彼女はこのまま亳に来ないかもしれない。それでも、少女がひっそりと生活している様子が頭に浮かぶと、威圧的な軍の使者を少女のところに派遣する気にはなれなかった。
* *
翌年の夏が過ぎ、秋の気配が感じられ始めた頃に、雷庚の家を全身泥まみれになった少女が訪ねてくる。旅の途中で何があったのか、憔悴しきってやっとたどり着いたという感じだった。
門番は当然、少女を屋敷に入れず、番屋に連れて行って尋問した。
「おまえ、何者だ。大将軍様の屋敷におまえのような者が入れるわけがないだろう」
「私は一年前、雷庚様の腕を治療した者です。腕がその後どうなっているかを診に来ました」と少女は細い声で答える。門番は「おまえ女か?」と言って突然、少女の作務衣の胸元をつかんでぐっと開いた。泥だらけの作務衣とは対照的な、透き通る白い肌。細いからだに不思議ななまめかしさを感じた門番は、尋問は夜に自宅で行う事にし、少女を番屋の椅子に縛って逃げられないようにしておいた。
しかしたまたまそこに雷庚がやってくる。大将軍が番屋に来る事など通常はあり得ないのだが、門の前に誰もいないので、通りかかった雷庚が不思議に思って番屋をのぞきに来たのだ。
「おい。その女は誰だ。何をしている」
「あ、はい。乞食女が、自分が大将軍様の腕を治療したなどとばかな事を申すので尋問しようとしたところです」
「俺の腕を治療したと言う者を、お前は縛るのか」
「あ、いいえ」
「俺の腕を治療したと言う者に、お前は何をしているのか」
みるみる雷庚の顔が赤くなり、左腕で門番の顔を思いっきり殴った。
どす。と重い音がして門番は三歩も後ずさりし、茫然としている。さらに雷庚はもう一発、門番の顔を殴り、今度は門番は壁まで飛んで気を失った。そして雷庚はすぐに少女の縄を解いて、
「遠い所、よく来てくれた。ずっと待っていたぞ」と言った。